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一章
07. 幼馴染と小料理屋で②
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月落渉の好みのタイプは、身体のとある一部分に過剰にスポットライトが当たっていると言っても過言ではない。
しっかりとした骨格、きちんと質量のある身体、それが恋という感情が芽生える絶対的大前提だ。
中学生時代の体育の授業中、バレーボールをしていた女子生徒が着地に失敗し転倒、手首を骨折するという事故が起きた。
それを間近で目撃したのをきっかけにして、月落の中で華奢な体型は不安を抱かせる対象となってしまった。
小学校時代は同じような体つきであっても、成長するにつれて男子は壊れにくい身体へと変化していくのに、女子には儚さが現れるようになる。
その頃は自分の身体が大きく頑丈になり始めた時期だったということもあり、その対比はより一層月落の心を侵食した。
体格の違いを事あるごとに実感するたびに、胸に巣食う不安はそこはかとない恐怖へと変化していく。
小さな肩、薄い胴体、細い手足、全体的な筋肉の無さ、存在の脆弱さ。
それは高校生になり、誰かと付き合うというのが現実として起こるようになった段階で、月落の恋愛観に多大なる影響を与えた。
好意を示してきた同学年の女子生徒と手を繋いでみても年上のお姉さんを抱き締めてみても、全くときめかない。
むしろ、力加減を間違えれば折れるんじゃないか、壊れるんじゃないかという恐れの方が大きかった。
その内に異性とは距離を取るようになり、もしかしたら誰とも深い関係になれないのではないか、と正直とても悩んだ。
大学生になった頃にはようやく女性の華奢な身体つきに対してある程度の耐性は出来たのだが、恋愛に関しては相変わらずの日々を送っていた。
そこに、転機が訪れる。
告白してきた男子学生が緊張のあまり止まらない脚の震えで倒れそうになったのを抱き留めた時に、妙にしっくりと来たのだ。
腕の中で感じる男性特有の重みが安心感を連れてきて、求めていたものはこれだと感動すら湧いたのを憶えている。
それならばと、告白してきた重量のある女性と試してみたこともある。
だが、駄目だった。
至るところ全てがとろんと柔らかい自慢の肌の感触に、最後の最後で躊躇してしまい相手ともども苦い思いをしたので、それから後は月落のセクシュアリティは同性に矢印が傾いている状況だ。
男性で見目麗しく、善良で、月落を取り巻く環境に舌なめずりしない人物。
条件は天然記念物級。
そんな稀有な存在を探し求めていた親友が、どうやら理想に出会ったらしいと箱江の勘が反応した。
嬉しさにビールを飲み干すと、隣で月落が日本酒を注文するのに合わせて自分も同じものを頼んだ。
大学時代のサークル飲みで『ザルを通り越してワク』と揶揄されていた自分たちは、いくら飲んでも酔ったことがない。
誰かと飲むと大概世話役をさせられて面倒な立場だが、二人で飲む場面ではそんなことは一切起こらない上にペースも同じなのでとても気楽だ。
「顔よし体型よし、大学の准教授なら職業もよしだな。年は?」
「40」
「へぇ……それはまたニュータイプだわ。渉が10も上に手出すなんて」
「まだ出してない」
「まだ、な。家柄は?」
「調べてない。うちは親族ともども家柄とか重要視してないから。というより先生のあの優雅さはどう考えても上流階級属性だから、調べるまでもない」
「聞いてる限りハイスペックの塊なんだけど、お前よくそんなドンピシャなの見つけたな。出会いの経緯は?」
「ていうか、何で俺はこんなに質問攻めされてるんだ?」
「そりゃ恋愛から数年遠ざかってた親友の胸に小さな恋の蕾が芽生えたともなれば、興味津々にもなるだろうよ。しかも、今回はお前から狙いに行ってるっぽいし?あ、小梅さーん。モツ煮ください」
「はいはい、お待ちください。肉豆腐もお出ししましょうねぇ」
瑠璃色の冷酒セットを用意する女将の提案に、上機嫌にうんうんと頷きながら箱江は方々に箸を進めていく。
料理の美味しさもさることながら、店の趣、女将の気遣いが静かに流れる川のように心地良いこの場所は、経営者層を常連客として多く抱え、その者たちの守秘徹底により存在を隠匿されている店だ。
月落も箱江も成人の祝いとして父親に連れてこられてから通い始めて10年ほどになるが、紹介してほしいと多方面から頼まれたことは両手の数では足りないほど。
是が非でも繋がりたいと熱望される人脈が個室に入ることもなく平然と食事している空間など、都内に数多ある料理屋の中でも僅かだろう。
「で、出会いは何なの?いきなり何の縁もなかった大学職員になったのも、大方その准教授のせいだろ?」
「日本に帰国して身の振り方を考えてた時に、たまたま夜の報道番組観てたら今働いてる大学が特集されてて。何人かの教員の授業風景が映った時に先生がちらっと映ったのが気になって、大学のホームページ検索した。そしたらTA募集が掲載されてるの見つけて、即行で応募した」
「さすが行動力の鬼。てか、テレビに映ったその一瞬で自分のタイプを発見する眼力が凄すぎて、俺でもちょっと引くわ」
「賞賛の言葉をありがとう」
「うん、褒めてない。全然褒めてないけど、まぁいいや。それでめでたくTAに採用されて今一緒に楽しくキャッキャしながら働いてると?」
「キャッキャはしてないけど、こんなに楽しく仕事して給料貰えるなんて、もしや人生のバグかなと思うくらいには満喫してる」
「羨ましいねぇ」
「お前も楽しんでるだろ?和菓子作りは、趣味兼生きがい兼仕事だって言ってたし」
「うん、超楽しい。けど、創作には必ず産みの苦しみが伴うもんなのよ。創造の前には破壊が必須だったりして、何回もぶっ壊したりするし。まぁ、作りたいイメージ通りに完成した時には言い尽くしがたい喜びも訪れるから、これが癖になってやみつきになっちゃうんだけどな」
きらきらと輝く眼差しは、箱江の父が作業しているのを一緒に見ていた子供時代のものと少しも変わらない。
『好き』という情熱は、その発露に正しき道を与えられれば歪むことなく純粋さを保ったまま、それを目にした人や手にした人にも伝染し誰もを幸せにする。
箱江もそうだが月落の親族もそうで、鳴成もきっとそうで、自分の周りには仕事をただの労働ではなく日々を彩る背景に出来た人々が沢山いるんだと気づく。
TAとして働き始める前は少し迷子気味だったけれど、自分も同じ世界を味わえてとても幸運だなと思う。
渡米する前に働いていた外資コンサルでは、正直言って仕事はただの労働だった。
やり甲斐はあったけれど、楽しさはなかった。
相性は良かったけれど、天職ではなかった。
提灯に釣鐘。
未来の選択肢はある程度決められてはいるけれど、情熱を傾けられる道を後悔なく歩めるような気がして、暗闇に一筋の光が差す。
「その准教授のとこでいつまで働くんだ?この先ずっとってわけにはいかないだろ?」
「来年の春に契約更新があるから、とりあえずそれは通過したいと思ってる。だから一番早くて再来年の春までかな」
「お前が回り道してるから、おじさんもおばさんも今頃やきもきしてるんじゃないか?。超優秀な同族経営のTOGグループの中でも、お前は群を抜いてるだろうし」
「や、父は父で若い頃に一回逃亡してるから何とも言ってこない。スペインで画家やってた先祖とか、『人生一旦小休止』って書き置き残して大間のまぐろ漁を数年間手伝ってた叔父さんもいるから、こうなるのはあんまり珍しいことじゃないって言われた。結局戻ってくるから好きにしろって」
「ぐふっ……」
飲んでいた日本酒を吹き出しそうになった箱江に、おしぼりを渡してやる。
「あーそうだ。月落さん家、優秀なのにいい意味でぶっ飛んだ変わり者集団だった。ちなみにその叔父さん、今は何してんの?」
「ホテル部門の総責任者。まぐろ漁やってた時に組合と繋がり作ったらしくて、全国各地で新鮮な魚介類の入手ルートを確保して戻ってきたって。それをホテルのレストラン事業で活用して成功して最高責任者に就任。今は新しく開業したシンガポールのホテルにつきっきりで、今年はほとんど日本の地を踏んでないって聞いた」
「血だな。どんなに回り道しても、結局は経営者の道に進む血が流れてんだな。で、それはお前にも流れてると」
「それは否定しない。いずれは実家の商売を継ぐって先生にも言ってあるし」
「実家の商売っていう言葉の響きほど、気楽な規模じゃないけどな」
そこで、しばらく沈黙を守っていた月落のスマホに新しいメッセージが表示された。
急いで画面を開く。
『返信が遅れてすみません。検索して出てきたあまりにも可憐なケーキの数々に興奮して、全商品を買い占めそうな母を説得するのに時間が掛かってしまいました。意気込む家族の形相を見たら、きみも可愛いなんて言ったことを後悔すると思います』
思わず放ってしまったささいな言葉にも律儀に返事をくれるのがとても鳴成らしくて、頬が緩むのを止められない。
『手土産大臣を自称する伯母が季節のフルーツケーキは絶対に外れがないと言っていました。何を買うかお決めになってないなら、月落のおすすめだとお伝えください』
『必ず買いに行くそうです。良い情報をありがとうございました。では、また明日』
『はい、また明日』
終わるのが惜しいけれど、引き際で余韻を残さないのが大人の鉄則だ。
今日家であったことをきっと明日話してくれるだろうと楽しみにして、月落は画面を閉じた。
横から感じる、矢印のようにぐさぐさと突き刺さる視線はあえて無視して。
「正真正銘の片思いだわ、こりゃ」
「まだ違うって」
「なら、このまま何も発展させずに終われんの?」
「それはない」
「即答じゃん。まぁ、ゆっくり行けよ。運命なら、無理やり手繰り寄せなくても自然と距離は縮まるもんだし」
「うん。そうする」
「てかさ、一目惚れっぽく出会って理想ドンピシャの外見してるのに、それが一番じゃないって言ってたよな?結局、その准教授のどこが一番気に入ってんの?」
月落はしばし思案した後で、ゆっくり嚙み砕いて一言一言を音に乗せた。
「何て言うか、上手く言えないんだけど……もっと知りたいと思わせる何か、かな。話しても話しても足りなくて、時間も内容も何もかも足りなくて、焦りに似た衝動が沸騰するみたいに湧き上がって抑えきれなくさせられて。純粋に、もっと色々知りたい。もっともっと話がしたい。こんなこと人生で初めての経験だから、もどかしくて苦しいのに……甘くて逃げられない。その矛盾が、実はすごく気に入ってる、って言ったらきっと訝し気な目で見られるんだよな。分かってる」
その長い告白を聞いて、チャラい見た目の親友は、掛けていたブルーグレーの眼鏡を外して眉間を揉んだ。
やれやれという風に、首を横に振る動作も加えて。
「渉、お前、それはね、完全に恋の虜だわ。自分で気づいてないだけで、底の底まで落ちてるぞ。諦めてさっさと認めろ」
「え、そうか?」
恋の崖の上、あと一歩後ずされば落下する。
その先は、果てのない、碧くて深い海。
しっかりとした骨格、きちんと質量のある身体、それが恋という感情が芽生える絶対的大前提だ。
中学生時代の体育の授業中、バレーボールをしていた女子生徒が着地に失敗し転倒、手首を骨折するという事故が起きた。
それを間近で目撃したのをきっかけにして、月落の中で華奢な体型は不安を抱かせる対象となってしまった。
小学校時代は同じような体つきであっても、成長するにつれて男子は壊れにくい身体へと変化していくのに、女子には儚さが現れるようになる。
その頃は自分の身体が大きく頑丈になり始めた時期だったということもあり、その対比はより一層月落の心を侵食した。
体格の違いを事あるごとに実感するたびに、胸に巣食う不安はそこはかとない恐怖へと変化していく。
小さな肩、薄い胴体、細い手足、全体的な筋肉の無さ、存在の脆弱さ。
それは高校生になり、誰かと付き合うというのが現実として起こるようになった段階で、月落の恋愛観に多大なる影響を与えた。
好意を示してきた同学年の女子生徒と手を繋いでみても年上のお姉さんを抱き締めてみても、全くときめかない。
むしろ、力加減を間違えれば折れるんじゃないか、壊れるんじゃないかという恐れの方が大きかった。
その内に異性とは距離を取るようになり、もしかしたら誰とも深い関係になれないのではないか、と正直とても悩んだ。
大学生になった頃にはようやく女性の華奢な身体つきに対してある程度の耐性は出来たのだが、恋愛に関しては相変わらずの日々を送っていた。
そこに、転機が訪れる。
告白してきた男子学生が緊張のあまり止まらない脚の震えで倒れそうになったのを抱き留めた時に、妙にしっくりと来たのだ。
腕の中で感じる男性特有の重みが安心感を連れてきて、求めていたものはこれだと感動すら湧いたのを憶えている。
それならばと、告白してきた重量のある女性と試してみたこともある。
だが、駄目だった。
至るところ全てがとろんと柔らかい自慢の肌の感触に、最後の最後で躊躇してしまい相手ともども苦い思いをしたので、それから後は月落のセクシュアリティは同性に矢印が傾いている状況だ。
男性で見目麗しく、善良で、月落を取り巻く環境に舌なめずりしない人物。
条件は天然記念物級。
そんな稀有な存在を探し求めていた親友が、どうやら理想に出会ったらしいと箱江の勘が反応した。
嬉しさにビールを飲み干すと、隣で月落が日本酒を注文するのに合わせて自分も同じものを頼んだ。
大学時代のサークル飲みで『ザルを通り越してワク』と揶揄されていた自分たちは、いくら飲んでも酔ったことがない。
誰かと飲むと大概世話役をさせられて面倒な立場だが、二人で飲む場面ではそんなことは一切起こらない上にペースも同じなのでとても気楽だ。
「顔よし体型よし、大学の准教授なら職業もよしだな。年は?」
「40」
「へぇ……それはまたニュータイプだわ。渉が10も上に手出すなんて」
「まだ出してない」
「まだ、な。家柄は?」
「調べてない。うちは親族ともども家柄とか重要視してないから。というより先生のあの優雅さはどう考えても上流階級属性だから、調べるまでもない」
「聞いてる限りハイスペックの塊なんだけど、お前よくそんなドンピシャなの見つけたな。出会いの経緯は?」
「ていうか、何で俺はこんなに質問攻めされてるんだ?」
「そりゃ恋愛から数年遠ざかってた親友の胸に小さな恋の蕾が芽生えたともなれば、興味津々にもなるだろうよ。しかも、今回はお前から狙いに行ってるっぽいし?あ、小梅さーん。モツ煮ください」
「はいはい、お待ちください。肉豆腐もお出ししましょうねぇ」
瑠璃色の冷酒セットを用意する女将の提案に、上機嫌にうんうんと頷きながら箱江は方々に箸を進めていく。
料理の美味しさもさることながら、店の趣、女将の気遣いが静かに流れる川のように心地良いこの場所は、経営者層を常連客として多く抱え、その者たちの守秘徹底により存在を隠匿されている店だ。
月落も箱江も成人の祝いとして父親に連れてこられてから通い始めて10年ほどになるが、紹介してほしいと多方面から頼まれたことは両手の数では足りないほど。
是が非でも繋がりたいと熱望される人脈が個室に入ることもなく平然と食事している空間など、都内に数多ある料理屋の中でも僅かだろう。
「で、出会いは何なの?いきなり何の縁もなかった大学職員になったのも、大方その准教授のせいだろ?」
「日本に帰国して身の振り方を考えてた時に、たまたま夜の報道番組観てたら今働いてる大学が特集されてて。何人かの教員の授業風景が映った時に先生がちらっと映ったのが気になって、大学のホームページ検索した。そしたらTA募集が掲載されてるの見つけて、即行で応募した」
「さすが行動力の鬼。てか、テレビに映ったその一瞬で自分のタイプを発見する眼力が凄すぎて、俺でもちょっと引くわ」
「賞賛の言葉をありがとう」
「うん、褒めてない。全然褒めてないけど、まぁいいや。それでめでたくTAに採用されて今一緒に楽しくキャッキャしながら働いてると?」
「キャッキャはしてないけど、こんなに楽しく仕事して給料貰えるなんて、もしや人生のバグかなと思うくらいには満喫してる」
「羨ましいねぇ」
「お前も楽しんでるだろ?和菓子作りは、趣味兼生きがい兼仕事だって言ってたし」
「うん、超楽しい。けど、創作には必ず産みの苦しみが伴うもんなのよ。創造の前には破壊が必須だったりして、何回もぶっ壊したりするし。まぁ、作りたいイメージ通りに完成した時には言い尽くしがたい喜びも訪れるから、これが癖になってやみつきになっちゃうんだけどな」
きらきらと輝く眼差しは、箱江の父が作業しているのを一緒に見ていた子供時代のものと少しも変わらない。
『好き』という情熱は、その発露に正しき道を与えられれば歪むことなく純粋さを保ったまま、それを目にした人や手にした人にも伝染し誰もを幸せにする。
箱江もそうだが月落の親族もそうで、鳴成もきっとそうで、自分の周りには仕事をただの労働ではなく日々を彩る背景に出来た人々が沢山いるんだと気づく。
TAとして働き始める前は少し迷子気味だったけれど、自分も同じ世界を味わえてとても幸運だなと思う。
渡米する前に働いていた外資コンサルでは、正直言って仕事はただの労働だった。
やり甲斐はあったけれど、楽しさはなかった。
相性は良かったけれど、天職ではなかった。
提灯に釣鐘。
未来の選択肢はある程度決められてはいるけれど、情熱を傾けられる道を後悔なく歩めるような気がして、暗闇に一筋の光が差す。
「その准教授のとこでいつまで働くんだ?この先ずっとってわけにはいかないだろ?」
「来年の春に契約更新があるから、とりあえずそれは通過したいと思ってる。だから一番早くて再来年の春までかな」
「お前が回り道してるから、おじさんもおばさんも今頃やきもきしてるんじゃないか?。超優秀な同族経営のTOGグループの中でも、お前は群を抜いてるだろうし」
「や、父は父で若い頃に一回逃亡してるから何とも言ってこない。スペインで画家やってた先祖とか、『人生一旦小休止』って書き置き残して大間のまぐろ漁を数年間手伝ってた叔父さんもいるから、こうなるのはあんまり珍しいことじゃないって言われた。結局戻ってくるから好きにしろって」
「ぐふっ……」
飲んでいた日本酒を吹き出しそうになった箱江に、おしぼりを渡してやる。
「あーそうだ。月落さん家、優秀なのにいい意味でぶっ飛んだ変わり者集団だった。ちなみにその叔父さん、今は何してんの?」
「ホテル部門の総責任者。まぐろ漁やってた時に組合と繋がり作ったらしくて、全国各地で新鮮な魚介類の入手ルートを確保して戻ってきたって。それをホテルのレストラン事業で活用して成功して最高責任者に就任。今は新しく開業したシンガポールのホテルにつきっきりで、今年はほとんど日本の地を踏んでないって聞いた」
「血だな。どんなに回り道しても、結局は経営者の道に進む血が流れてんだな。で、それはお前にも流れてると」
「それは否定しない。いずれは実家の商売を継ぐって先生にも言ってあるし」
「実家の商売っていう言葉の響きほど、気楽な規模じゃないけどな」
そこで、しばらく沈黙を守っていた月落のスマホに新しいメッセージが表示された。
急いで画面を開く。
『返信が遅れてすみません。検索して出てきたあまりにも可憐なケーキの数々に興奮して、全商品を買い占めそうな母を説得するのに時間が掛かってしまいました。意気込む家族の形相を見たら、きみも可愛いなんて言ったことを後悔すると思います』
思わず放ってしまったささいな言葉にも律儀に返事をくれるのがとても鳴成らしくて、頬が緩むのを止められない。
『手土産大臣を自称する伯母が季節のフルーツケーキは絶対に外れがないと言っていました。何を買うかお決めになってないなら、月落のおすすめだとお伝えください』
『必ず買いに行くそうです。良い情報をありがとうございました。では、また明日』
『はい、また明日』
終わるのが惜しいけれど、引き際で余韻を残さないのが大人の鉄則だ。
今日家であったことをきっと明日話してくれるだろうと楽しみにして、月落は画面を閉じた。
横から感じる、矢印のようにぐさぐさと突き刺さる視線はあえて無視して。
「正真正銘の片思いだわ、こりゃ」
「まだ違うって」
「なら、このまま何も発展させずに終われんの?」
「それはない」
「即答じゃん。まぁ、ゆっくり行けよ。運命なら、無理やり手繰り寄せなくても自然と距離は縮まるもんだし」
「うん。そうする」
「てかさ、一目惚れっぽく出会って理想ドンピシャの外見してるのに、それが一番じゃないって言ってたよな?結局、その准教授のどこが一番気に入ってんの?」
月落はしばし思案した後で、ゆっくり嚙み砕いて一言一言を音に乗せた。
「何て言うか、上手く言えないんだけど……もっと知りたいと思わせる何か、かな。話しても話しても足りなくて、時間も内容も何もかも足りなくて、焦りに似た衝動が沸騰するみたいに湧き上がって抑えきれなくさせられて。純粋に、もっと色々知りたい。もっともっと話がしたい。こんなこと人生で初めての経験だから、もどかしくて苦しいのに……甘くて逃げられない。その矛盾が、実はすごく気に入ってる、って言ったらきっと訝し気な目で見られるんだよな。分かってる」
その長い告白を聞いて、チャラい見た目の親友は、掛けていたブルーグレーの眼鏡を外して眉間を揉んだ。
やれやれという風に、首を横に振る動作も加えて。
「渉、お前、それはね、完全に恋の虜だわ。自分で気づいてないだけで、底の底まで落ちてるぞ。諦めてさっさと認めろ」
「え、そうか?」
恋の崖の上、あと一歩後ずされば落下する。
その先は、果てのない、碧くて深い海。
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