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一章
08. 金曜日、初めての夕食を
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11月初めの金曜日、鳴成秋史准教授の研究室は終日フル稼働となる。
1限の必修英語を終えると80名分の採点作業に追われ、昼をそこそこに済ますと今度は4限に学部間共通で行う英語読解力・表現力開発講座が待っている。
この講座では主に英米の新旧さまざまな書物を教科書として使って読むことに重点を置き、多彩な言い回しや筋の通った文章構成を行うための知識を身に着けることを目的としている。
魔法学校シリーズやシェイクスピアの現代語訳版、昨年のアメリカのベストセラーまで幅広いジャンルを学習教材として採用している。
学部間共通ということもあり受講者数も多く、鳴成が受け持つ授業の中で一番大きな教室を使用している。
16時10分に講座が終わり、学生からの質問に答えてから研究室へと帰る。
休憩もそこそこに、鳴成と月落は部屋の真ん中にある大きなテーブルに向かい合って座りながら、生徒から提出された課題に赤を付ける作業に没頭する。
この講座は他とは違い、文章力を育成するのが目的であり課題もそれに即しているので、月落の受け持ちはスペルミスの訂正や、文章の流れや全体的なまとまりをチェックするだけに留まっている。
内容の細かな採点は鳴成が全て行うので、その作業量は膨大であり集中力もより必要となる。
紙の総数は100。
午前中の自分たちが再放送されたかのような既視感にくらりと目眩がしたのを機に月落が腕時計を見ると、時刻は18時を回った頃だった。
他の曜日ならば大体この時間で退勤できるのだが、金曜だけは20時近くまで残るのが常である。
前を見ると、採点を開始した時と全く変わらぬ背筋の伸びた姿勢でペンを走らせる鳴成がいて、月落は思わず頬杖をついてその光景に魅入る。
ライトグレーの三つ揃えに合わせた深いグリーンのソリッドタイが白い肌に映えて、まるで完成された絵画のよう。
癖のない字を書くその指先は、まるで愛を詠う詩人のよう。
見惚れていると、月落の視線を独り占めしていた人物がふと顔を上げた。
「どうしたの?」
出会ってもうすぐ1か月半。
最近やっと少しだけ敬語が取れてきたのが実はすごく嬉しいと言ったら、目の前の人は何も分かってなさそうな顔で首を傾げるだろう。
言葉の堅苦しさが若干取れただけで親しみが深まっている気がして心が満たされるなんて、高校生の恋愛じゃあるまいしとも思うが、仕方がない。
好意を寄せるという行為それ自体が、本能に司られているものだから。
本能を前にしては常識も知識も経験も体裁も、何も太刀打ちできない。
こうして返事も忘れて鳴成を凝視してしまうのも、もはや自然の摂理だ。
「月落くん?」
「……あ、いえ、すいません。ちょっと空腹でエネルギー不足に陥ってました」
「今日は確か、天ざる蕎麦にかつ丼大盛という、炭水化物と脂質大暴走で運動部も真っ青なメニューだった気がするんですが、もうお腹が空いたんですか?」
「燃費が悪いんです。身体の大きさの分カロリー消費も多くて」
「聞いたことなかったけど、きみ、身長はどれくらいですか?」
「186あります」
「何か運動を?」
「子供の頃にスイミングスクールに通っていて、それが今でも趣味として続いてます。泳がない日はジムで筋トレを」
「水泳経験が20年以上あるんですね。どうりで肩幅が広くてしっかりしてると思いました。男性でも憧れる体型をしていますよね」
「これ脱いだらもっと良く分かりますけど、脱いでみましょうか?」
「冗談として受け止めましょう」
着ていたカーキのモヘアカーディガンをするりと脱ぐ仕草をしながら軽口を叩く月落に明るく笑った鳴成は、何か買ってきますか?と声を掛けた。
「先生は何か食べますか?」
「うーん……そんなに空腹ではないです。カロリーを摘まんでいますし」
そういう鳴成の手元には、先ほど月落が差し出したクッキーの皿が置いてある。
甘やかす意味で多めに用意したそれの大半は既に胃に収められているので、空腹でないという言葉は本当だろうと頷ける。
4種類皿に乗せた中でラズベリージャムが中央に乗ったクッキーだけ既に全部なくなっているのを確認しながら、月落は頭の中にある『鳴成スイーツノート』に付箋を貼り付けた。
「僕の分だけ買いに行くのは気乗りがしないので……あ、じゃあ、先生」
「何でしょう」
「この採点が終わったら、夕飯一緒にどうですか?」
「夕飯、ですか?」
駄目で元々という気持ちで誘った。
空腹ではないと承知しているし、仕事終わりは毎回研究棟の前でさっぱりと別れるので、公私の区別は明確にするタイプであるとも理解している。
仕事仲間としてしか見られていない自分と、仕事後の個人的な時間を過ごしてくれる望みは薄い。
けれど、どこかできっかけを作らなければ、学校の敷地外で話をする機会を作ろうとしなければ、関係は永遠に平行線だ。
月落が鳴成に対して抱いている想いはほとんど大部分の輪郭がはっきりし始めていて、日々の小さな愛しさの積み重ねで確かに色づき始めてもいる。
片思いは独りよがりでもいいが、恋愛は互いがいて初めて成り立つもの。
鳴成にも同じ想いを抱いてもらうためには、少しずつ少しずつ距離を詰めていくのが肝心だ。
「はい。電車通勤なので最寄りの駅ビルでよく食事して帰るんですが、結構美味しいお店が多いんです。今日の先生のお昼がソルロンタンとツナサラダだったので……イタリアンはどうですか?」
「イタリアン……」
焦らず、さり気なく。
「ピザ生地はパリパリで軽めですよ。あと、ティラミスが絶品だとメニューに書いてありました」
けれど、逃がさず。
誘い出すカードはいつでも多めに用意しておく。
「季節のジェラートも美味しそうでした。どうですか、先生?」
「……行きましょうか。きみと一緒にご飯を食べるのは楽しいからね」
きゅんとした。
心臓がわし掴みにされて軋む音がするほど。
その痛みに、思わず胸を手の平で押さえてうずくまるほど。
逃がさないようにしたはずなのに、逆に逃げられないようにされてしまった。
年上美人、恐るべし。
「どうしました?月落くん」
「いいえ、何でもないです。丁寧さは据え置きで5倍速で採点するので、早く終わらせて行きましょう、先生」
「ええ、頑張りましょうね」
―――――――――――――――
タコのカルパッチョ ハーブソース
季節野菜のバーニャカウダ
モッツァレラチーズのフリット
牛肉のタリアータ
桜エビとホワイトアスパラのピザ
ティラミス(鳴成用ドルチェ)
ペンネアラビアータ(月落用ドルチェ)
を綺麗に平らげて店を出た二人は、駅ビルの地下駐車場へと向かっていた。
端正な三つ揃えの美男性と、ラフだけれど上品な服装のイケメンが歩いているとなれば、周囲の視線は釘付けになるのが当然。
けれど、その現象にはすっかり慣れている両者は、全く意に介さず脚の長さを活かしてぐんぐんと進んで行く。
「美味しかったですね。きみのお勧めは本当に外れがないです」
「良かったです。飼い主に褒められて喜ぶ犬の気持ちが今すごく理解できます」
「犬?……あ、ちなみにこの前教えてもらったパウンドケーキは母がこの上なく気に入って、ここ最近の手土産として配りに配っているそうです。妹が呆れていました」
「先生、妹さんがいらっしゃるんですね」
「ええ。父、母、私、2歳下の妹の四人家族です。妹は既婚なんですが、母は妹不在の義実家にも持って行ってあちらのご両親とカットしていない一本を平らげたそうで、そこでも美味しいと評判だったと聞いています」
「ご実家のご両親と義実家のご両親だけで行き来があるのは珍しいですね。結構フレンドリーなお母様でいらっしゃるんですか?」
「かなり、ですね。母方はイギリスの家系なんですが、あちらの親戚は社交的でバイタリティーに満ち溢れているので、遺伝子にそういう情報が組み込まれているんでしょう」
話しながら歩いていると、鳴成の愛車が見えてくる。
ルーテシアのブルー。
月落はこのまま電車で帰ろうとしたのだが、鳴成の送って行くという申し出をありがたく受けることにした。
時刻は22時を回る頃。
金曜のこの時間帯は遅めの帰宅ラッシュにぶつかる可能性があるだろうし、何より鳴成と一緒にいられるアディショナルタイムが獲得できるとあれば、それを断るという考えは毛頭ない。
「お邪魔します」
「どうぞ」
共に車に乗り込む。
運転席に座り、持っていたビジネスバッグを後ろの席へと置くために助手席側へと身体をひねった鳴成に、覆いかぶさるようして月落は突然に身を寄せた。
至近距離で近づく互いの顔。
もう少しで唇さえも触れ合ってしまいそうな急接近に、鳴成は目を瞠り硬直した。
黒で縁取られた端正な面差しは、息を奪うのには十分で。
数秒、言葉もなく見つめ合う。
奥底までも透けて見えそうな透明度の高いヘーゼルに捕らわれて、月落が僅かな距離さえも壊しそうになったとき。
「月落くん?何を……」
降り積もる静寂に耐えきれなくなったのか、それとも危険を察知したのか、鳴成の震える声が落ちた。
その微かな動揺を感じた月落は、とっても可愛いなと思いながら鳴成の顔の奥に手を伸ばした。
シートベルトを掴むと、ライトグレーの三つ揃えの上を滑らせるように渡らせカチリと締めた。
バックルの嵌る音が閉ざされた車内に思いのほか大きく響いて、沈黙を破るアイテムとなる。
「すみません、驚かせてしまいましたね。同乗者のシートベルトは締めて確認しろ、という教育方針の下で育ったもので、つい」
「あ、シートベルト……ありがとう、ございます」
そんな教育方針の家などあってたまるか、というツッコミが世界中から飛んできそうだが、あいにくと動揺している鳴成はその異様さに気づかない。
未だぼぉっとしたような状態で、まばたきを繰り返すだけ。
その様子を首を傾げて眺めながら、月落は自分の幼稚な作戦が功を奏したことを確信する。
褒め讃えられても嬉しくも何ともなかった顔の良さを武器として使えるならば、いくらでも使おう。
愛しく思い始めた存在を揺さぶることができるのならば、見境なく使おう。
きっと、初めて欲しいと思った人。
恋愛経験はそれなりにあるし、過去の恋人への想いも決して偽りではなくどれも大切だ。
けれど、沢山の楽しい記憶さえも、この人の前ではその輝きを手放して降参する。
逢ひみての人。
鳴成の身も心も手に入るのであれば、自分は持てる物すべてを惜しまず捧げるだろう。
「先生?行きましょうか?」
底知れぬ想いを吐露するには早計であるのは明確なので、今日はここまで。
焦らずに行こう。
手に入れたいけれど、その欲よりも、失くしたくないという圧倒的な願いの方が強く光るから。
ゆっくり、時間を共にしたいから。
「先生?」
「あ……はい、ええ、そうですね。帰りましょう」
魔法から醒めたように厚みのある身体が跳ねた。
小さくため息を吐いて体勢を直した鳴成がエンジンを掛ける。
月落の住所をナビで検索したあと、ブルーの車体は夜の中へ走り出した。
すっきりとした髪の生え際
一直線に描かれた凛々しい眉
綺麗な鼻筋
薄い唇
そして、
優しく甘やかすような、溶けるほどに熱い漆黒の眼差し
思いがけず間近で眺めたその容貌に、思いがけず胸の壁を打った鼓動。
その強さに困惑する。
一瞬だけ止まった呼吸の内側、心の水面に落ちた一滴の雫。
知ることのなかった何かに絡め取られてしまいそうな予感に、穏やかだった鳴成の世界が少しだけ揺らいだ。
1限の必修英語を終えると80名分の採点作業に追われ、昼をそこそこに済ますと今度は4限に学部間共通で行う英語読解力・表現力開発講座が待っている。
この講座では主に英米の新旧さまざまな書物を教科書として使って読むことに重点を置き、多彩な言い回しや筋の通った文章構成を行うための知識を身に着けることを目的としている。
魔法学校シリーズやシェイクスピアの現代語訳版、昨年のアメリカのベストセラーまで幅広いジャンルを学習教材として採用している。
学部間共通ということもあり受講者数も多く、鳴成が受け持つ授業の中で一番大きな教室を使用している。
16時10分に講座が終わり、学生からの質問に答えてから研究室へと帰る。
休憩もそこそこに、鳴成と月落は部屋の真ん中にある大きなテーブルに向かい合って座りながら、生徒から提出された課題に赤を付ける作業に没頭する。
この講座は他とは違い、文章力を育成するのが目的であり課題もそれに即しているので、月落の受け持ちはスペルミスの訂正や、文章の流れや全体的なまとまりをチェックするだけに留まっている。
内容の細かな採点は鳴成が全て行うので、その作業量は膨大であり集中力もより必要となる。
紙の総数は100。
午前中の自分たちが再放送されたかのような既視感にくらりと目眩がしたのを機に月落が腕時計を見ると、時刻は18時を回った頃だった。
他の曜日ならば大体この時間で退勤できるのだが、金曜だけは20時近くまで残るのが常である。
前を見ると、採点を開始した時と全く変わらぬ背筋の伸びた姿勢でペンを走らせる鳴成がいて、月落は思わず頬杖をついてその光景に魅入る。
ライトグレーの三つ揃えに合わせた深いグリーンのソリッドタイが白い肌に映えて、まるで完成された絵画のよう。
癖のない字を書くその指先は、まるで愛を詠う詩人のよう。
見惚れていると、月落の視線を独り占めしていた人物がふと顔を上げた。
「どうしたの?」
出会ってもうすぐ1か月半。
最近やっと少しだけ敬語が取れてきたのが実はすごく嬉しいと言ったら、目の前の人は何も分かってなさそうな顔で首を傾げるだろう。
言葉の堅苦しさが若干取れただけで親しみが深まっている気がして心が満たされるなんて、高校生の恋愛じゃあるまいしとも思うが、仕方がない。
好意を寄せるという行為それ自体が、本能に司られているものだから。
本能を前にしては常識も知識も経験も体裁も、何も太刀打ちできない。
こうして返事も忘れて鳴成を凝視してしまうのも、もはや自然の摂理だ。
「月落くん?」
「……あ、いえ、すいません。ちょっと空腹でエネルギー不足に陥ってました」
「今日は確か、天ざる蕎麦にかつ丼大盛という、炭水化物と脂質大暴走で運動部も真っ青なメニューだった気がするんですが、もうお腹が空いたんですか?」
「燃費が悪いんです。身体の大きさの分カロリー消費も多くて」
「聞いたことなかったけど、きみ、身長はどれくらいですか?」
「186あります」
「何か運動を?」
「子供の頃にスイミングスクールに通っていて、それが今でも趣味として続いてます。泳がない日はジムで筋トレを」
「水泳経験が20年以上あるんですね。どうりで肩幅が広くてしっかりしてると思いました。男性でも憧れる体型をしていますよね」
「これ脱いだらもっと良く分かりますけど、脱いでみましょうか?」
「冗談として受け止めましょう」
着ていたカーキのモヘアカーディガンをするりと脱ぐ仕草をしながら軽口を叩く月落に明るく笑った鳴成は、何か買ってきますか?と声を掛けた。
「先生は何か食べますか?」
「うーん……そんなに空腹ではないです。カロリーを摘まんでいますし」
そういう鳴成の手元には、先ほど月落が差し出したクッキーの皿が置いてある。
甘やかす意味で多めに用意したそれの大半は既に胃に収められているので、空腹でないという言葉は本当だろうと頷ける。
4種類皿に乗せた中でラズベリージャムが中央に乗ったクッキーだけ既に全部なくなっているのを確認しながら、月落は頭の中にある『鳴成スイーツノート』に付箋を貼り付けた。
「僕の分だけ買いに行くのは気乗りがしないので……あ、じゃあ、先生」
「何でしょう」
「この採点が終わったら、夕飯一緒にどうですか?」
「夕飯、ですか?」
駄目で元々という気持ちで誘った。
空腹ではないと承知しているし、仕事終わりは毎回研究棟の前でさっぱりと別れるので、公私の区別は明確にするタイプであるとも理解している。
仕事仲間としてしか見られていない自分と、仕事後の個人的な時間を過ごしてくれる望みは薄い。
けれど、どこかできっかけを作らなければ、学校の敷地外で話をする機会を作ろうとしなければ、関係は永遠に平行線だ。
月落が鳴成に対して抱いている想いはほとんど大部分の輪郭がはっきりし始めていて、日々の小さな愛しさの積み重ねで確かに色づき始めてもいる。
片思いは独りよがりでもいいが、恋愛は互いがいて初めて成り立つもの。
鳴成にも同じ想いを抱いてもらうためには、少しずつ少しずつ距離を詰めていくのが肝心だ。
「はい。電車通勤なので最寄りの駅ビルでよく食事して帰るんですが、結構美味しいお店が多いんです。今日の先生のお昼がソルロンタンとツナサラダだったので……イタリアンはどうですか?」
「イタリアン……」
焦らず、さり気なく。
「ピザ生地はパリパリで軽めですよ。あと、ティラミスが絶品だとメニューに書いてありました」
けれど、逃がさず。
誘い出すカードはいつでも多めに用意しておく。
「季節のジェラートも美味しそうでした。どうですか、先生?」
「……行きましょうか。きみと一緒にご飯を食べるのは楽しいからね」
きゅんとした。
心臓がわし掴みにされて軋む音がするほど。
その痛みに、思わず胸を手の平で押さえてうずくまるほど。
逃がさないようにしたはずなのに、逆に逃げられないようにされてしまった。
年上美人、恐るべし。
「どうしました?月落くん」
「いいえ、何でもないです。丁寧さは据え置きで5倍速で採点するので、早く終わらせて行きましょう、先生」
「ええ、頑張りましょうね」
―――――――――――――――
タコのカルパッチョ ハーブソース
季節野菜のバーニャカウダ
モッツァレラチーズのフリット
牛肉のタリアータ
桜エビとホワイトアスパラのピザ
ティラミス(鳴成用ドルチェ)
ペンネアラビアータ(月落用ドルチェ)
を綺麗に平らげて店を出た二人は、駅ビルの地下駐車場へと向かっていた。
端正な三つ揃えの美男性と、ラフだけれど上品な服装のイケメンが歩いているとなれば、周囲の視線は釘付けになるのが当然。
けれど、その現象にはすっかり慣れている両者は、全く意に介さず脚の長さを活かしてぐんぐんと進んで行く。
「美味しかったですね。きみのお勧めは本当に外れがないです」
「良かったです。飼い主に褒められて喜ぶ犬の気持ちが今すごく理解できます」
「犬?……あ、ちなみにこの前教えてもらったパウンドケーキは母がこの上なく気に入って、ここ最近の手土産として配りに配っているそうです。妹が呆れていました」
「先生、妹さんがいらっしゃるんですね」
「ええ。父、母、私、2歳下の妹の四人家族です。妹は既婚なんですが、母は妹不在の義実家にも持って行ってあちらのご両親とカットしていない一本を平らげたそうで、そこでも美味しいと評判だったと聞いています」
「ご実家のご両親と義実家のご両親だけで行き来があるのは珍しいですね。結構フレンドリーなお母様でいらっしゃるんですか?」
「かなり、ですね。母方はイギリスの家系なんですが、あちらの親戚は社交的でバイタリティーに満ち溢れているので、遺伝子にそういう情報が組み込まれているんでしょう」
話しながら歩いていると、鳴成の愛車が見えてくる。
ルーテシアのブルー。
月落はこのまま電車で帰ろうとしたのだが、鳴成の送って行くという申し出をありがたく受けることにした。
時刻は22時を回る頃。
金曜のこの時間帯は遅めの帰宅ラッシュにぶつかる可能性があるだろうし、何より鳴成と一緒にいられるアディショナルタイムが獲得できるとあれば、それを断るという考えは毛頭ない。
「お邪魔します」
「どうぞ」
共に車に乗り込む。
運転席に座り、持っていたビジネスバッグを後ろの席へと置くために助手席側へと身体をひねった鳴成に、覆いかぶさるようして月落は突然に身を寄せた。
至近距離で近づく互いの顔。
もう少しで唇さえも触れ合ってしまいそうな急接近に、鳴成は目を瞠り硬直した。
黒で縁取られた端正な面差しは、息を奪うのには十分で。
数秒、言葉もなく見つめ合う。
奥底までも透けて見えそうな透明度の高いヘーゼルに捕らわれて、月落が僅かな距離さえも壊しそうになったとき。
「月落くん?何を……」
降り積もる静寂に耐えきれなくなったのか、それとも危険を察知したのか、鳴成の震える声が落ちた。
その微かな動揺を感じた月落は、とっても可愛いなと思いながら鳴成の顔の奥に手を伸ばした。
シートベルトを掴むと、ライトグレーの三つ揃えの上を滑らせるように渡らせカチリと締めた。
バックルの嵌る音が閉ざされた車内に思いのほか大きく響いて、沈黙を破るアイテムとなる。
「すみません、驚かせてしまいましたね。同乗者のシートベルトは締めて確認しろ、という教育方針の下で育ったもので、つい」
「あ、シートベルト……ありがとう、ございます」
そんな教育方針の家などあってたまるか、というツッコミが世界中から飛んできそうだが、あいにくと動揺している鳴成はその異様さに気づかない。
未だぼぉっとしたような状態で、まばたきを繰り返すだけ。
その様子を首を傾げて眺めながら、月落は自分の幼稚な作戦が功を奏したことを確信する。
褒め讃えられても嬉しくも何ともなかった顔の良さを武器として使えるならば、いくらでも使おう。
愛しく思い始めた存在を揺さぶることができるのならば、見境なく使おう。
きっと、初めて欲しいと思った人。
恋愛経験はそれなりにあるし、過去の恋人への想いも決して偽りではなくどれも大切だ。
けれど、沢山の楽しい記憶さえも、この人の前ではその輝きを手放して降参する。
逢ひみての人。
鳴成の身も心も手に入るのであれば、自分は持てる物すべてを惜しまず捧げるだろう。
「先生?行きましょうか?」
底知れぬ想いを吐露するには早計であるのは明確なので、今日はここまで。
焦らずに行こう。
手に入れたいけれど、その欲よりも、失くしたくないという圧倒的な願いの方が強く光るから。
ゆっくり、時間を共にしたいから。
「先生?」
「あ……はい、ええ、そうですね。帰りましょう」
魔法から醒めたように厚みのある身体が跳ねた。
小さくため息を吐いて体勢を直した鳴成がエンジンを掛ける。
月落の住所をナビで検索したあと、ブルーの車体は夜の中へ走り出した。
すっきりとした髪の生え際
一直線に描かれた凛々しい眉
綺麗な鼻筋
薄い唇
そして、
優しく甘やかすような、溶けるほどに熱い漆黒の眼差し
思いがけず間近で眺めたその容貌に、思いがけず胸の壁を打った鼓動。
その強さに困惑する。
一瞬だけ止まった呼吸の内側、心の水面に落ちた一滴の雫。
知ることのなかった何かに絡め取られてしまいそうな予感に、穏やかだった鳴成の世界が少しだけ揺らいだ。
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