鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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一章

09. 雷鳴轟く①

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 『日中は全国的に晴れますが、都心では夕方にがらっと天気が崩れるところがあるでしょう。特に積乱雲が発達しやすい23区内では、雷を伴う激しい雨に注意してください』


 11月中旬の月曜日、4限の授業が終了してから1時間ほど経った、時刻は17時30分。
 逢宮大学外国語学部准教授の鳴成秋史は部屋の中央に置かれているテーブルで、来週金曜日に行う授業のためのスライド作りをしていた。
 通常は授業が1コマしかない火曜と木曜日に、翌週分の資料作りを行っている。
 けれど今週の木曜日は月1で行われる教授会に出席予定のため前倒しで作業しなければならず、猛スピードでノートパソコンのキーボードを打っている。

 秋晴れが続く中で唯一の傘マークとなっていた今日は朝から本格的な雨で、その中を1限と4限のために2回移動しなければならないのは中々に億劫だった。
 最近ではすっかり鳴成とペアだと認識されている背の高い専属TAは、事務室のミスで締切期限が誤って知らされていた書類を提出しに行っているため現在は不在だ。
 鳴成と対面で座りながら使っていたパソコンやプリント類が綺麗にまとめられてテーブルの端に置かれているのが、とても彼らしいなと思う。

 初対面から2か月。
 その月日の短さに反比例して、鳴成はTAである月落渉について意外と沢山の情報を知ることとなった。


 紅茶を淹れるのが上手なこと
 美味しい茶菓子を見つけてくるセンスの良さ
 大食漢
 世話好き
 アメリカでの生活の様子
 親戚が多く、個性を極めすぎている人が数名いること(自身については、至って普通枠だと思っている)
 必要のないものはすぐに片づけたい性分
 傘が嫌いなこと
 上目遣いをする癖
 何事も即決タイプだけれど、学食のメニューを選ぶ時だけ若干悩むこと
 相対する人によって、薄っすらと見えない壁を作る瞬間がある気がすること
 自分の横顔に刺さる視線の熱さ
 気遣いの端々に乗った想いの密度
 清潔感のあるさっぱりとした見た目なのに、時折醸し出される底知れぬ色気のある雰囲気に――


 と、そこまで思い浮かべたところで、鳴成ははっと我に返った。
 まただ。
 また自分は月落のことを思い出してしまった。
 額に手を当てて目を瞑るけれど、その残像は余韻を残したままぼやけるだけで消えることはない。

 いない隙を見計らって、無意識が勝手に宙にその線画を描いて色を塗るように。
 一瞬を切り取った写真がいつの間にか分厚いアルバムとなって、それがパラパラと風で捲られるように。
 まるで、求めているかのように。

 ここ数日、こんな状態が続いている。
 彼が不在の研究室で、退勤後の運転中に、就寝前に読書をしているベッドの上で。
 ふとその顔が浮かぶ。
 顔だけではない、声も仕草も後ろ姿も浮かぶ。
 正気に返って忘れようとするけれど、毎回失敗に終わる。

 思い出して、身体の中央から込み上げるあたたかい気持ちと、それを後ろから追いかけてくる淡い罪悪感に締めつけられて、鳴成はいつも雁字搦めになる。

 予期せぬ変化。

 いったい自分はどうしてしまったのか、これはどういう状態なのか。
 月落をTAとして採用した理由のひとつは、『自分に興味がなさそうだったから』であるはず。
 職場で共に仕事をする人間に興味を持たれるのは厄介だし一定のライン以上は近づいてほしくなくて、面接をした30名の中から最も鳴成に対して消極的そうなタイプを選んだはずだったのに。
 
 相手が自分を気遣ってくれるから呼応する好意、いわゆるギブアンドテイクは円滑な人間関係を形成する。
 けれど自分の内側にそれ以上の感情が呼び起こされてしまいそうな予感がして、少しだけ身震いがする。

「誰かと親密になることは……」

 避けていたのに。
 もう自分には関係のない世界線だと、出来る限り遠ざけていたのに。

 関われば関わるほど結びつきは深くなる。
 それはやがてどろりとした執着心に変わり、この身を蝕む。

「恋愛、なんて……」

 その言葉を発した瞬間、烈しい怒りで顔面を崩した少女の映像が脳裏にフラッシュバックして、鳴成は思わず目を閉じた。
 頭を振ってその光景を霧散させる。
 時折こうして自分を苛む、正体不明の悪夢。
 30年近く続くこの恐怖はもはや錆びついた釘となって、心の中から抜けることはないだろう。
 はぁ、と息を吐き出した鳴成は、気分転換に新しい紅茶でも淹れようと席を立った。




―――――――――――――――




 18時近いセントラルキッチンには人の気配がなかった。
 日中は割と賑わっていることも多いが、今は5限が終わろうかという頃合いであり、授業のない教員はじっくりと研究に向き合う時間帯となるため、各自研究室にこもっているのだろう。

 電気ケトルに水を入れる。
 ここで自ら紅茶を淹れるのが久しぶりに感じる。
 前任の篠井に頼んだことはなかったので、今までは自分で用意していた。
 月落がTAとして働き始めた当初もその習慣は変わらなかった。

 それなのにいつの間にか、どのタイミングでそうなったかさえも思い出せないほど自然に、テーブルに座り作業をしている自分の元に、そっとマグカップが置かれるようになった。
 多種多様なスイーツ付きで。
 丁寧に淹れられた紅茶は芳醇な香りと甘み、深みのバランスがとても飲みやすくて、その美味しさに鳴成は「そんなことまでしなくていい」と言い出せずにいる。
 甘えているな、と反省する気持ちもあるけれど、月落も楽しそうな様子で世話を焼いてくれているような気がして、見て見ぬ振りをしている。

「あんなに上手に淹れられるのは、どうしてだろう……」

 きちんとした手順で時間を掛ければその分だけ美味しくなると知ってはいるが、今は自分が自分用に作るだけなので簡単に湯であたためたマグカップにティーバッグを落とすだけにする。
 黒地に黄色いロゴのパッケージから取り出した、ヴェネツィアの商人の名前を冠したフレーバードティー。
 2分ほど待ってティーバッグを引き抜くと、無色透明の湖をやわりと染めながら果実やバニラの香りが立ち昇った。
 その場で一口飲んで味を確かめた後、部屋へ帰ろうとした鳴成の耳に突然の轟音が鳴り響いた。

「すごい雨……」

 本降りではあるが傘を差せば凌げる程度の強さであった雨が、一瞬のうちに幾千もの白い滝となるほどの激しさで降る。
 その様子を眺めようと全面ガラス張りの窓まで近づくと、鳴成の目の前でピカリと空を閃光が駆ける。
 遅れて、地面を割り砕くような打撃音が空気を切り裂いた。

「え……落ちた?」

 次の瞬間、セントラルキッチンの照明が消えた。
 窓から見えていた大学敷地内の電気も同時に落ちて、見下ろす少し先まで辺り一面真っ暗な光景が広がる。
 耳をつんざいて鼓膜の奥で反響し続けるかのような雷鳴に眉を顰めながら、鳴成はスマホのライトを点けて研究室へと帰る。
 けれど。

「開かないな…」

 ドアの電気ロックは停電と共に強制睡眠となったようだ。
 オール電化は便利だけれど、こういう時にそのデメリットが露呈する。
 立ち尽くしながらしばし考えたあと、鳴成は来た道を引き返した。

 スマホ以外の荷物は全て研究室に置いてあるのでどうしようもない。
 せめて車のキーさえあれば自宅には帰れたのだろうがそれもないし、この停電がいつまで続くか分からない。
 となれば一旦全部を諦めて、とりあえず先ほど淹れた紅茶を飲もうと思ったのである。
 
 セントラルキッチンには窓際にガラス天板の大きなテーブルとカウンターチェアが何脚も並んでいて、時間を潰すには問題ない。
 置き去りにしていたマグカップを取ると、鳴成は一脚に腰を下ろした。
 そのタイミングで大学事務室からメッセージが届く。


 『先ほど本大学文系キャンパス付近に落雷があり、現在全館で停電しております。迅速に復旧作業を行いますが、時間が掛かる見込みです。

 【学生の皆さんへ】
 システムも停止している関係で本日の6限は中止、対応は後日協議いたします。校舎及び敷地内の非常灯は点灯中ですが足元が見えづらく危険なため、事務系職員並びに技術系職員が誘導灯を持って道を照らしますので、学生の皆さんは焦らず校舎外へと出るようにしてください。

 【教職員の皆さんへ】
 現在、電子ロックによる研究室等での閉じ込めが発生しております。ロックは停電時施錠するタイプを採用しており、外から非常用の鍵を使用してのみ開錠できる仕組みです。これから事務系職員が開錠しに参りますので、しばしお待ちください』


 文字を追っていると、画面にTAからの着信が表示される。
 そう言えば、彼は今どこにいるんだろうか。
 電話に出ると、珍しく余裕のない声が届いた。

『先生、大丈夫ですか?』
「ええ、特に困ったことはありません」
『研究室に閉じ込められてますか?』
「いいえ。セントラルキッチンにいた時に停電になったので、部屋には逆に入れなくなっています。きみは今どこにいますか?」
『外国語学部の研究棟に戻って来たところです。自動ドアが停電で開かなくなってしまったので、これから自力で開けようかと思ってます』
「自力で開くんですか?」
『たぶん。前にも手動で開けたことがあるので、やってみます。開けたらちゃんと閉めるのでご心配なく』
「その心配は一切してないんですが……怪我をしないようにしてください」
『勢い余ってドアを壊さないように気をつけます』
「自分の身体を壊さないようにしてください」
『善処します』

 分かっているのか分かっていないのか判断できかねる返事を最後に切れた通話に苦笑いしながら、鳴成はスマホをテーブルに置いた。
 敷地外からの煌々とした街の明かりと敷地内の非常灯の灯りが、雨の隙間から光を届けてくれる。
 そのおかげで完全なる暗闇にならずに済んでいる部屋の中で、ゆっくりと紅茶を飲んだ。

 鳴成は自身のことを、生存本能の働きが緩めな生物だと思っている。
 こういった緊急時に顕著に実感するのだが、事態の緊急性と行動の迅速さの回路が上手く繋がらず一旦己を蚊帳の外に置いてしまいがちだ。

 「焦るという感覚をもっと切実に習得すべきだ」と事あるごとに言われてきたが、それが一向に改善されぬままこの年齢まで来てしまったので、自分自身もすっかり諦めている。

 なので今、現にこういう場面でも非日常のような表情でたじろがない。
 脚を組み、頬杖をついて、未だに稲光を走らせる夜空をぼんやり眺めていると、遠くからけたたましい足音が聞こえてきた。
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