鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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一章

09. 雷鳴轟く②

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「先生!」

 息を切らして現れた人物は、あまりにもぐっしょりと濡れていた。
 けれど本人は至って気にする素振りはなく、3階まで階段はちょっとつらいですねなどと言いながら鳴成のすぐそばまで近づいてくる。

「月落くん、えっと……凄く濡れてるんですが、どうしたんですか?傘は?」
「第一校舎を出る時にすれ違った学生が、突風で傘が壊れてしまったのであげました。書類は提出済みで守る物がなかったので、必要ないかなと思いまして」
「傘は物ではなく人を守るものでしょう。きみ自身を守らなくてどうするんですか」
「好きじゃないので」
「何が?」
「傘を差すことが」

 そうだった。
 この2か月で月落について知ったことのひとつ。
 傘が嫌い。
 イギリスにも傘を差さない人は多くいたが、まさか日本でもこんな雨の中で差さない人がいるなんて思いもしなかった。
 いつもは綺麗に片側を後ろに撫でつけている黒髪は濡れて、持ち主が動くたびにその束から水滴を落としている。

 鳴成は月落を隣のカウンターチェアに座らせると、スーツの内ポケットから出したハンカチを広げて髪を拭き始めた。

「先生?」
「このままじゃ風邪を引いてしまいますから。あまり効果はないかもしれませんが、応急処置です」

 手櫛で掻き上げながらわしゃわしゃと拭いてやると、月落は楽しそうに笑う。
 笑いながら少し俯いて、頭を振った。
 水浴び後の犬みたいに、主人の手を煩わせて遊ぶかのように、髪の先端から水滴を飛ばす。

「じっとしてなさい」
「思った以上に濡れてて面白くなってきました」
「大人しくして」
「あはは」
「動かない。ほら……良い子だから」
「え……」

 その言葉が出た瞬間、時が止まった。
 鳴成、月落両者共に動きも止まった。
 驚いた顔で見つめ合い、ただ等間隔で呼吸を繰り返すだけ。

 こんな光景は直近で二度目だ。
 チョコレートを食べていた鳴成の頬を月落が触った時とあまりにも同じ。
 今回の発端は鳴成だったけれど。

 微動だにしない大人二名の静寂を破ったのは、一瞬先に我に返った月落だった。

「良い子だからって、この年になって言われるとは思いませんでした」
「……すみません、大昔の癖が出てしまって」
「妹さんがいるって仰ってましたもんね。もしかして子供の頃はよくお世話したりしたんですか?」
「年齢が2歳しか離れていないのでその機会はあまり多くはなかったんですが、小学生の時は時々着替えを手伝ったりしていて……遊びたがる妹を宥めるために使っていた口癖が、なぜか今出てしまいました」

 視線を彷徨わせる鳴成。
 思いの外慌てているようだ。

「良い子だから……あはは、僕も兄に言われていたのを思い出しました」
「弟さんと妹さんがいるのは聞きましたが、きみにはお兄さんもいるんですね」
「はい、4つ上に。兄、僕、弟、妹です」
「4人兄妹は多いですね」
「遺伝ですね。月落は多産の家系ということもあって親戚も沢山いて、存命者を全員集めると40人は軽く超えると思います」
「それはとても大所帯ですね」
「一堂に会するとだいぶうるさいです。これも遺伝なのか、口が回りすぎる者が多くて」

 会話をしながら徐々に取り戻していく動きに、両者共に何処かほっとする雰囲気が漂う。

 なぜだろう。
 一瞬考えるけれど、それを突き詰めてしまったら開けてはいけない扉を開けてしまう気がして、そっと頭の端へと追いやった。

 髪を拭いてやるのを再開した鳴成の手を今度は大人しく受け止めていた月落の頬に、ぴかりと突然の白い稲光が突き刺さる。
 その明るさに驚いていると、次いで先ほど響いていた轟音が再び空気を切り裂いた。

「うわっ」

 またどこかに落ちたかな、と考えていた鳴成の目の前で、大きな肩を竦ませて最大限身を縮こまらせた男がひとり。
 顔の前に腕を持ってきてガードする姿勢を取っている。

「きみはもしかして雷が怖いんですか?」
「っいえ、そんなわけは、全然、まさか雷が怖いなんて、そんなこと」

 空がもう一度光を放つ。

「…………っ!」

 月落は自分を守る体勢でしばらく身構えていたけれど、何も起きない。
 どうやら雷神の悪戯に翻弄されただけのようだ。
 枝分かれした閃光のその先を辿っていた鳴成が窓から視線を戻すと、先ほど小さくなっていた男はより一層小さくなっていた。
 186cmをどう折り込めばそうなるのか。
 一体どういう身体構造なのか不明だが、とてもこじんまりとしている。

「大丈夫ですか?」
「……大丈夫です、と言いたいですが、大丈夫じゃなさそうです」

 ちらちらと外を気にしながら、空気を入れられて膨らむ風船のように徐々に元通りになる月落を、鳴成は静かに見守る。

「何か嫌な思い出でも?」
「小さいとき雨の日に、家の庭にあった大木に雷が落ちるのを間近で見てしまってから正直苦手です。子供の背丈と比べると本当に大きな木だったそれが、爆発するように裂けたのがあまりに衝撃映像すぎて、ショックでその日は熱を出して寝込みました」
「それは不運な出来事でしたね。気象の中でも雷は発生率が低いですし、それが幼い頃であればその圧倒的インパクトは想像を遥かに超えたでしょう。怖かったですね」
「いきなり光るのも駄目なんですけど、万物全てをねじ伏せるかのようなあの音が特に駄目で……」

 趣味の水泳とジム通いで作り上げられた屈強な肉体を持った人物の、まさかのか弱い姿に思いもかけず出くわして、鳴成は以前本で読んだ一節を思い出した。

 『ギャップに母性本能がくすぐられる』

 鳴成に母性はないはずなので正確に言えば今感じている胸のざわめきは別物だろうと思うけれど、胸の内側の何処ともない部分を微弱の電流で刺激されるようなくすぐったさに落ち着かなくなる。

 訳もなく脚を組み替えた。

 胸に手を当てて、心臓の辺りから身体の末端に広がっていく得体のしれない感情の波を、ぐっと耐える。

「誰にでも苦手なものはありますから、そんなにしゅんとしないでください」
「箱とかコンテナとかバスタブでも何でも良いので、入れるものがあったら今すぐにでも入って隠れたいです。格好悪い……」
「残念ながら、列挙されたどれもないので諦めてください。大丈夫、私しかいませんから」
「それが最大にして最悪に問題なんです、先生。せめてもっと深い仲になってから知られたかった……」
「月落くん、言っている意味が分かりかねるのですが」

 月落が要領を得ない独り言をぶつぶつと言っていると、空がもう一度光った。
 びくりと跳ねる肩、慰めようと伸ばした鳴成の手。
 それはしばらく空中で制止したあと、そのまま上へと移動して月落の両耳を塞いだ。

「先生……?」

 いきなり遮断された聴覚に驚いた月落に、鳴成はやわらかい表情を向けてゆっくり首を振った。
 ささやかな声と共に、唇の動きで伝える。

 きこえないから、だいじょうぶ。そばにいるから、だいじょうぶ。こわくないよ

 鳴成の唇を見つめていた月落の目は、どんどんと大きく見開かれていく。
 そのまま何度も繰り返されるまばたき。
 言葉はない、何の挙動もない。

 もしかして伝わらなかっただろうか?

 そう考えた鳴成はもう一度、今度ははっきりと言葉にした。

「大丈夫です。きみをひとりにはしないから」

 ね?と覗きこむ仕草の鳴成に、月落は今度はうんうんと頷いた。
 安心したような青年の姿に、鳴成はそっと微笑む。
 青年の呼吸が先ほどよりも忙しなくなったように感じたが、きっと気のせいだろう。

「先生、そばにいてください」

 月落は、鳴成の手の上から自分の手を重ねてぎゅっと押さえる。
 温もりを確かめるように、存在を確かめるように、離さないというように。
 それを眺めていた鳴成は無意識にこう囁いた。

 それが、不明瞭だった胸のざわめきを、名前のついた感情に育ててしまうとも知らずに。

「良い子……」


 愛しさ、という名の。




 紅茶を淹れるのが上手なこと
 美味しい茶菓子を見つけてくるセンスの良さ
 大食漢
 世話好き
 アメリカでの生活の様子
 親戚が多く、個性を極めすぎている人が数名いること(自身については至って普通枠だと思っている)
 必要のないものはすぐに片づけたい性分
 傘が嫌いなこと
 身長の大きいくせに上目遣いをする癖
 何事も即決タイプだけれど、学食のメニューを選ぶ時だけ少し悩むこと
 相対する人によって、薄っすらと見えない壁を作る瞬間がある気がすること
 自分の横顔に刺さる視線の熱さ
 気遣いの端々に乗った想いの密度
 清潔感のあるさっぱりとした見た目なのに、時折醸し出される底知れぬ色気のある雰囲気

 雷が苦手で怖がる姿がとても、それがとても――



 知ることが増えるたびに結びつきも深くなる。
 それはいつか、執着心に変わるだろうか。

 必要以上の関わり合いは避けたいと思っていたはずなのに。
 自分に興味がなさそうだからという理由でそばに置くことにしたはずだったのに。
 知ることで満たされて、知ることで深みにはまって抜け出せないなんて。


 本人だけが、きっとまだ気づかない。
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