鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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一章

20. 狸との遭遇①

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「ホクちゃん、何そんなとこでモジモジしてるの!人見知りを遺憾なく発揮してる場合じゃないでしょ!」

 心尽くしの料理と気遣いに身体全体で満たされた鳴成と月落が席を立ったのは、16時を過ぎた辺りだった。
 ランチタイムが終わりディナー開始まで店を閉めている時間帯だったため、仕込みで手の離せないスタッフ以外全員に見送られる形で入口に立っている。

「あ……鳴成様、本日は当店でお誕生日を迎えられたこと、とても……光栄に思います。料理長の北園きたぞのです」

 東雲に大声で呼ばれて奥の奥から怯えた様子で出てきたのは、猫背の小柄な男性だった。
 白いコック服を『着ている』んじゃない、むしろ服に『着られている』と感じさせるほどに布を余り散らかしている。

 落ち着かないのか、指先をしきりに擦り合わせながら、北園は俯き加減で鳴成に声をかけた。
 俯いているせいで正確に見えていないのだろう。
 向きは合っているが角度が微妙にズレていて、鳴成と月落のちょうど真ん中に当たる何もない空間に向かって言葉を発している。

「鳴成と申します。本日はこのような素晴らしい場を設けてくださり、ありがとうございました。特別な誕生日になりました」

 鳴成が月落の方へと身を寄せて、北園の正面に立つように位置を調整する。

「お……誕生日おめでとうございます。お口に合うものが……あったのなら、幸いです」
「頂いたお料理はどれも美味しかったですが、北京ダックと苺月餅が特に心に残りました」
「あ……北京ダック、は、当店自慢なので気に入って……頂けたならよかったです。デザート担当は……あちらにおりまして……」

 指し示された先に立っていた女性がお辞儀したのへ、鳴成も会釈で返す。
 北園は独特のリズムで言葉を連ねるが、その声は今にも消え入りそうである。
 無理に会話を引き延ばすタイプではない鳴成と会話の苦手な北園ではあまり長く持たないだろうと察した月落が、横から助け舟を出した。

「北園さん、お久しぶりです」
「あ……渉様、ご無沙汰してます」
「今日は本当にありがとうございました。炒飯が相変わらず美味しくて、懐かしい気持ちになりました」
「渉様、最近全然……来てくださらなかったから、寂しいって……東雲さんがガトリング砲のごとく……吠えてましたよ」
「ちょっとホクちゃん、余計なこと言わないの!」
「あはは、そうなんですね。これからはもう少しまじめに通うようにしますね」
「あ、是非……そうしてください。もし機会があれば、また……鳴成、様と……ご一緒に」
「はい、必ず来ます。ですよね?先生」
「ええ、またお邪魔させていただきます」
「待ってるから!みんなで待ってるから!絶対近いうちに顔見せてね!待ってるからね!」

 東雲のよく通る声に見送られて、鳴成と月落は店を後にした。
 せっかくだからとエレベーターは使わず、ホテル内を見ながら中央の大階段で1階へと降りることにした。

「きみが高校生時代に食べていた炒飯も、北園さんがお作りになったものですか?」
「そうです。碧酔楼の炒飯は一番人気のメニューで、それを考案したのが北園さんなんです」
「そうなんですね。何と言うか……少し、年齢不詳の方ですね?」
「はい、それは僕も昔から思っていて。いま確か、40代後半だと聞いたことがあります。僕が小学生の時に料理長に就任されたんですが、その頃から見た目が全く変わらないんですよね」

 擦れ違う青年が創業者一族のひとりだと知っている従業員が目礼をしてくるのへ軽く頷きながら、月落は鳴成との会話を止めずに歩く。

「小学生ということは、約20年前……若くして料理長に就任されたんですね」
「上海のホテルで北園さんの料理を食べた前任の総責任者が、絶対に日本に連れて帰ると迷惑なほどに通いつめて承諾を得た、というのはホテル内では有名な話です」
「熱意が凄いですね」
「北園さん、あの性格なので、その責任者の顔を見るたびにもはや半泣きだったらしいです。通って通って、最後はなぜか前任者も号泣しながら落とした、という逸話があります。20代で料理長就任は早すぎると反発もあったようですが、彼の料理を食べた関係者は一様に口を噤んだ、と」
「確かに、どれも全部美味しかったです」

 1階へ着き、そのままエントランスホールへと向かう。
 まだ夕方で時間があるので、近くの商業施設に店舗を構える紅茶専門店に、スリランカ産の茶葉を買いに行く予定だ。

 スワロフスキーで造られた、数百の小鳥が大空へ飛び立つ姿を模した豪奢なシャンデリア。
 その下を通りエントランスホールを抜けようとしたとき、後ろからしわがれ声に呼び止められた。

「そこにいるのは、月落総帥のとこの次男じゃないか?」

 振り向くとそこには、恰幅の良いと言えば美化しすぎな、直截に言えばこんもりと腹の出た狸顔の中年男性が立っていた。
 そばにひとり、スーツ姿の男性を従えている。
 その顔を認めたと同時に月落は、鳴成の手を引いて自分の背中へと隠した。
 後ろを向くと、こっそりと囁く。

「少し厄介です。窮屈で申し訳ないんですが、じっとしてて」

 鳴成はそれに、黙ったまま俯いて応えた。

「いやぁ、久しぶりだなぁ。アメリカに行ったと聞いてたがいつの間に帰ってきたんだ」
「半年前に帰国しました」
「そうか、それなら連絡のひとつくらい入れられただろう。うちの彩華あやかはいつも君からの連絡を待って、癇癪を起してるっていうのに」
「行き違いがあるようで恐縮ですが、娘さんと連絡先を交換した憶えはございません」
「そんなバカな。君がアメリカに発つ前に秘書に渡したと言ってたぞ」
「私に専属の秘書はおりませんので、どなたか別の方と勘違いされてお渡しになったようです」
「まったく、そんなはずはないんだがな……それにしたってきちっと挨拶ぐらいはするべきだろう」
「そういった義理はありませんので」
「せっかく娘が気にかけてやってるというのに、価値の分からない男で残念だな」

 後ろにいる鳴成からは月落の表情は一切分からないが、想像はできる。
 きっと、冷酷な表情をしているに違いない。
 なぜなら、目の前の肩というか背中というか上半身のどこからともなく、青い炎がくゆりと立ち上がっているのが見えるから。
 錯覚だと分かってはいるけれど、それは確かに見える。

 迂闊に近づけば、摂氏1000度で一瞬のうちに完全燃焼させられるだろう炎。

 相対する人によって月落が笑顔を使い分けていることには気づいていたけれど、雰囲気自体も変えることができるとは思ってもみなかった。

「月落の価値観は独特ですので。ようなかたへの対応は不熱心でして」
「よう……?なんのことだ?」
「お分かりにならないならば、お気になさらず」

 『ようなかた』。
 聞き慣れない表現に、鳴成は頭の中で漢字を検索する。

 (人に対する評価だとするなら……陽、幼、要?否定的に意味で使ってる気がするから……庸、かな……庸な方)

 思い至って、驚きに声が出そうになった。

 凡庸だ、と言っているのだ。
 つまらなく、取り柄がない、と。
 平凡な娘には興味がない、と実の父親に向かってこんなに真正面から言うとは。

 毒舌だ。
 いつもの彼とは全然違う。

「娘さんはきっと田貫たぬきさんに似たんでしょう」
「あ?……ああ、そうだ。あの子は私に似て美しく聡明でね、自慢の娘だ。本当に君にはもったいないよ」

 (何も気づいていらっしゃらない)

 普段は寛容で好青年な年下の男の、ダークな側面を突発的に知ってしまったけれど、それでも怖さは感じない。
 居心地が悪いと思うこともない。
 そればかりかむしろ、半ば傍観者として状況を観察してしまっている自分がいる。
 理由は明白だ。

 未だ繋がれたままの月落の指先が、とても優しいから。

 中年男性と会話をしている間も、月落はそっと指先を絡めとって包んでくれる。
 鳴成に対してはいついかなる時も穏やかで、あたたかくて、甘い。
 発する雰囲気は暗黒だけれど、その温もりがあるから何も怖くない。

 時折、悪戯な親指で肌をゆっくりとなぞられて、ちりりと電気が走るように疼くのは何かの間違いだと思いたいけれど。

「まぁ、いい。それで、君は今TOGのどの部門にいるんだ?まさかホテルか?」
「いえ、今日はプライベートで所用があっただけです。今は実家とは関わりのない場所で働いていますので」
「は?商社でも不動産でも物流でもなくか?アメリカでMBAを取ったと聞いたが、とんだ宝の持ち腐れだな。グループに還元されない無駄なものに金と月日を費やして、一族は業腹ではないのかね」

 ふん、と田貫は鼻で笑う。
 悪人然としたその面構えに最適な行動だ。
 鳴成は子供の頃に読んだ、歴史上の悪人を集めた図鑑の挿絵を思い出していた。

 受けた教育や経験、知識、知恵、取得した学位、資格などは、即効性のあるものと歳月を経て効力を発揮するものがある。
 それらは人生という一本の道の上、歩く本人にとって必要なタイミングで自動召喚されるアイテムのようなものだ。
 今すぐ使わないなら無駄で何の役にも立たないと決めつけるのは、あまりに即物的で短絡的。

 目の前の男性が誰かは存じ上げないが、物事を俯瞰で把握できない人物に明日はないのでは、と鳴成は思う。

「総帥のとこの次男がこんな調子では、TOGの先も暗いか」
「幸いにも我が一族では、『人生で手に入れた悉くはその人生に必ず反映される。浅薄で面白味のない人間にならぬように率先して新しい海に飛び込め。経験を損得勘定するのは、逐一計算機を叩く人間がすることだ』と教えられます。私の人生経験について、それが無駄だなどと思う親族はひとりもおりませんのでご安心ください」

 逐一計算機を叩く人間、つまり狭量な小物と揶揄されているのだが、果たして目の前の人物には真意が届いているか怪しい。

「どんぶり勘定を続けた結果が路頭に迷う未来に繋がらないよう、せいぜい頑張るんだな」

 想像以上に全く届いていないようだ。
 あらぬ興味が湧いてしまって、鳴成は、月落の肩越しに相手をそっと窺い見ようとした。
 それを諫めるように、指をとんとんと2回叩かれた。

 そこに、ひとつの声が響く。
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