鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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一章

23. クリスタルの暗闇は、二人の距離感を奪う

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「ごめん、ちょっと電話だ」
「ええ、どうぞ」

 正面に座っていた重藤寿信のスマホが着信を知らせた。
 足早に席を離れる背中を見送っていると、メニューを携えたスタッフに声をかけられた鳴成はマティーニを注文した。

 仄暗い店内で、左頬をクリスタルの夜景が照らす。

 ぎっしりと敷き詰められた見渡す限りの光源
 点滅する航空障害灯
 オレンジの東京タワー
 テールランプの流れるレインボーブリッジ

 ソファの背もたれに置いた腕で頬杖をつく。
 東京に住んでいるのに普段はあまり見ることのない夜景を眺めていると、オリーブの添えられたグラスがテーブルに運ばれてきた。
 礼を言おうと視線を窓から店内へと移すと、すぐそばを通って奥の個室へと歩いていく見知った横顔。
 その人はほんの僅か姿を消したあとですぐに戻ってくると、まるで探知センサーでも付いているかのように正確に自分を見つけた。

「あれ……先生?」
「月落くん……」
「え、まさかこんなところで会えるなんて思ってもみなかったです」

 嬉しそうに近づいてくる姿に、胸がどくりと盛大に波打った。
 先ほどまで胸の内側を独占していた人物の、まさかのご本人登場に些か気まずさが拭えない。
 自分が気持ちを吐露しない限り何もバレるはずはないのに、この年下の敏い男には何もかもバレてしまいそうで不自然に目が泳ぐ。

「髪、今日は下ろしてるんですね。何だかより幼く見えて、それはそれでとてもお似合いです。普段の髪型もヘーゼルの瞳が全部見えて好きですが、額が隠れるだけで可愛さ5割増しですごく素敵です。可愛い、先生」

 違うことに大いに気を取られている本人は、全く気がついていないようだが。
 月落が早口すぎて所々しか聞き取れないが、髪型を褒められているのだけは分かった。
 彼は時々自分のことを可愛いと評するが、どう考えてもぼやけたフィルターが掛かっているようにしか思えない。

「先生、おひとりですか?」
「いいえ、それが……」

 二人がその会話を始めたとき、電話をするために外に出ていた重藤が戻ってきた。

「鳴成、ごめん。仕事の電話のあとに奥さんからも連絡がきて遅くなった。給湯器の調子が悪くてシャワーが使えないって言うからちょっと見に帰るわ。ごめんな」
「それは大変ですね。お気をつけて」
「ありがとう。会計は俺持ちで。またな」
「ご馳走様です」

 鳴成にそう言い残して去ろうとした重藤が一切面識のないはずの月落に少し頭を下げたので、月落も同様に挨拶をする。
 グレーのスーツは暗がりに遠ざかって行った。

「知り合いですか?」
「いいえ、まったく。それで、先生。もしかして今からはおひとりですか?」
「ええ、そうなりました」
「では、ご一緒しても?」
「きみもひとりですか?」
「はい、友人を送った帰りです」

 長い指先で店の奥を指し示しながら、月落は鳴成の隣へと座った。
 すかさずメニューを提示するスタッフに、シングルモルトをロックで注文する。
 白シャツにロング丈のテーラードジャケットを羽織る月落は、座った身体ごと器用に鳴成側へと向けた。

「先生、10日ぶりですね。元気にしていました?」
「はい。ほとんどを家で過ごしているんですが、今日は友人に誘われて久しぶりにこんなにキラキラした場所に来ました」

 眩しいとでも言うように、鳴成は手の平で瞼を覆う仕草をする。

「普段こういった場所には来ないので、光の渦に飲み込まれそうです」
「それは大変だ。お手伝いしましょうか?」

 同じように鳴成の目元へと指先を翳した月落に、琥珀色のグラスが届く。
 お互いにそれぞれのグラスを軽く持ち上げたあと、喉を潤す。

「翻訳の作業はどうですか?順調ですか?」
「ええ。今回は以前翻訳した本の続編なので、物語の背景や登場人物の性格、個々の関係性も明確ですし、前回ほどは時間がかからないと思います」

 大学の准教授という仕事以外にも、鳴成は現役の翻訳家として年に数冊の文芸翻訳を行っている。
 毎年3月下旬は春休みとして大学には行かず、自宅に籠って翻訳作業を行うと聞かされたのは先月の半ばだった。

 約2週間ほど会えなかった正月を挟んだ冬休み中も鳴成に会いた過ぎてもんどり打っていた月落は、ある意味この3月下旬が来ることに恐怖すら感じていた。
 案の定、今回も同じく悶え苦しんでいる。

 住所は知っているので、もういっそのこと自宅に突撃しようかと危ない思考回路になりつつあった時にまさか、こんなサプライズがあるなんて。
 時期は逸してしまったが、やはり神様宛にお歳暮でも送ろうかと月落は本気で思う。

「きみはこの10日間で何をしていましたか?」
「うちのグループの中に商社もあるんですが、実はほとんどそこに出向いていました」
「働いていたんですか?」
「いいえ。TOGグループでは春は色々な研修を行う時期と設定していて、僕もそれに強制参加させられていました。ハラスメント防止研修やリスクマネジメント研修、あとは何故かメディアトレーニングもさせられたりして」
「メディアトレーニング?」
「インタビューや緊急記者会見が必要となった時に、適切に対応するためのスキルを習得する研修です。座学や実演を通して、立ち居振る舞いや言動を専門業者に審査してもらうんです。フィードバックを貰って改善するまでがひとつの流れです」
「大変そうですね」
「一日掛かりです。本来は会社の幹部が受けるのに、ついでだからと僕も呼ばれまして。コンサルに勤めていた時に一度受けてるからという全然納得のいかない理由でカメラの前に立たされ、謝罪させられました」

 月落は、いつもは見せない、憮然とした表情を浮かべる。
 納得のいっていない顔だ。

「もしかして、緊急記者会見のトレーニングだったんですか?」
「そうです。しかも不祥事案件です。訳も分からず会議室に行かされ90度の角度で深々と頭を下げさせられた時の腑に落ちなさは、ここ数年で一番でした」
「あはは、それは見てみたかったです。無の境地で謝罪しましたか?」
「もちろんです。一切の疑問や迷いは捨てて、誠心誠意謝りました」

 からかうのが好きな悪戯っ子の眼差しで鳴成が尋ねるのへ、月落は大仰に頷きながら望まれているであろう返答をする。

「えらいね、よく頑張りました」

 そう褒められて、月落の気持ちは雲を突き抜けて成層圏に到達しそうなほどに上がる。
 終日を費やした長時間の研修の苦労が、上下左右の全方位で報われた気さえする。
 好きな人から与えられる優しさは、実に偉大だ。
 こうして愛しいこの人が慰めてくれるのならば、今後訪れるだろう到底納得できないことも理不尽なことも、腐らず受け止められそうで。

「……ん?どうしました?」

 会えた喜びで理性の箍が少しだけ外れた月落は、鳴成の前に自分の頭を差し出した。
 撫でて、と。
 頑張ったから撫でて、とまるでそう言うように。

「きみは、本当に……犬なんでしょうか?」

 その行動の裏にある心理を正しく理解した鳴成は、指先を伸ばして黒髪を梳いていく。
 セットしていない自分の髪についてしきりに感想を述べていた月落だが、そういう自身も今日は緩く後ろに流しているだけである。
 流れに沿って滑らせていく。

 黒くて艶のある髪は触り心地がとても良い。
 鳴成が止め時を見失っていると、伸びてきた少しだけ大きな手に指先を捕らえられた。

 顔を上げた青年に見つめられながら距離を詰められる。
 指先は月落の心臓の上へと宛がわれた。

「月落くん?どうしました……?」

 指の隙間を埋めるように絡められてぎゅっと押さえつけられるから、振りほどけない。
 手の平で感じる男の胸も、手の甲で感じる男の指も、どちらも熱い。

「痛いです、先生」
「申し訳ない。撫でる力が強かったですか?」
「いいえ、そうじゃなくて、ここが」
「ここ……?」
「胸が切ないほど締めつけられてる音、聞こえますか?先生。痛いのにもっと欲しくて、おかしくなりそう……」

 白いシャツ一枚は、本来聞こえるはずのない鼓動のリズムさえも伝わるほどに薄くて、指先を敏感にする。
 距離感がおかしい時はあるけれど、身体的な接触に関しては節度を保っている月落にしてはあまりに度を超えた振る舞いだ。
 鳴成は、指先から腕を通って首筋へと痺れが走るのを感じていた。

「先生」

 呼ばれて、視線の絡む黒の眼差し。
 そのあまりに熱っぽい双眼に射抜かれて、鳴成は微動だにできない。
 気道が狭まって乱れる脈拍のリズムに、速まる血の巡りに、狼狽える。

 見つめ合うまま、時だけが過ぎて、どれくらい経っただろうか。
 鳴成は掴まれていない左手を目の前に差し出すと——

「……あいてっ」

 熱く見つめてくる男の右頬を思いきり抓った。
 不意打ちの攻撃に、捕らわれていた右手が解放された。

「どうしたんです、急に。きみらしくないですが、もしかして酔っていますか?」
「先生、痛いです……そして、全然酔ってないです」

 頬を擦りながら非難めいた口調で責められるけれど、どう考えても非は月落側にあるので鳴成はそれを一切無視した。
 男の握力で抓ったので結構痛かっただろうと思うが、自業自得だ。
 11も年上のおじさんをいとも容易く惑わせた罪は重い。

「素面ならば余計に質が悪いですね?」
「すみません。先生に思いがけず会えたのが嬉しすぎて、ちょっとふわふわしてるかもしれません」
「ふわふわ」
「酔ってはいないですが、もしかしたらある意味酔ってるのかもしれません」
「えーっと、日本語を喋ってもらえますか?」
「I'm drunk on the miracle of finally meeting you.」
「You're exaggerating.」

 身体の距離は相変わらず近いまま、そんなことを言う。
 たじろぐ自分とは対照的に、好意をはぐらかさず直球で投げてくる男。
 先ほど重藤によって胸に刺さった釘が、さらに深くまで確実に刺さる。

「先ほどのような行動もそういう発言も、不用意にしてはいけません。危険でしょう?」
「危険ですか?」
「人の心は簡単に勘違いしますから。少しの優しさでも自分勝手に拡大解釈して愛だと誤認識する、厄介な感覚器官です」
「その解釈で正解なんですが。というより、拡大解釈を用いなければ誤認識さえしてもらえない状況なんですね……分かりました、もっと努力します」
「反対です。他人が勘違いしないように、優しさのレベルを下げるべきだと言っていて」
「大丈夫です。先生にしか言いませんし、先生にしかしませんから」
「私の話を聴いていませんでしたね?成績評価を不可にしますよ?」
「え、落単……こんなに優秀な生徒はいないのに」

 言葉の端々から、行動の僅かな隙間から、その想いを汲み取ってしまおうとする自分を鳴成は必死で律する。
 そうして必死で堪えている時点でもう既に十分傾いている、という事実は見て見ぬ振りをして。
 言葉遊びの中に埋まる本心に、気づかぬ振りをして。

「確かに、きみほど優秀な生徒はいないでしょうね。きみほど私を困らせる生徒もいませんが」
「困ったら叱ってください。先生が怒るところも見てみたいです」
「それは少し難しいかもしれません。私は感情の中で怒るという部分が欠如している性格でして」
「じゃあ……喜、哀、楽、が構成要素ですか?いやでも、先生を悲しませる全てはこれから僕が排除するので、喜楽だけになりますね」
「喜楽?何だか、とても浮かれた人間が出来上がった気がするんですが、思い違いでしょうか?」
「あはは、浮かれた人間という概念が先生に当てはまらなさすぎて、違和感しかないですね」

 細められる黒眼、弧を描く口元。
 薄藍の店内でもはっきりと分かるくらいに寄り添う。

 鳴成も月落も、普段ならば誰が見るとも分からない公の場では決してプライベートすぎる行動は取らないようにしている。
 なのに、今夜は上手く制御ができない。
 暗闇のせいか、満天のクリスタルの夜景のせいか。
 それとも惹かれ合う本能がそうさせるのだろうか。

「浮かれる時もちゃんとあります」
「見てみたいです。でもたぶん、浮かれるのはどっちかと言うと僕だと思います」
「きみこそ、地に両足がしっかりついているタイプだと思うんですが。浮かれてる時なんてありますか?」
「全然あります」
「いつ?」
「今です」

 そう言いながら月落は、身を屈めて鳴成の肩に頭をそっと乗せた。

 突然奪われた距離感。
 驚いた鳴成はしばらく肩に力をいれていたが、思い当たることがあり緊張を解いた。

 もしかしたら今日の彼は甘えたい気分なのかもしれない。
 行動の制御装置を外しているように見えるのがその証拠だ。
 会いたかったという言葉はきっと、紛れもない本心なのだろう。

 それならばと鳴成は、目の前の大きな肩に手を回した。
 あやすように、一定のリズムを刻む。

「先生、会えて嬉しいです。むしろ今日が終わったらあと6日も会えないなんて、地獄です」
「あと6回寝たらまた大学で会えますから、我慢しましょうね」
「先生の好きなクロテッドクリームのファッジを手に入れるので、家に遊びに行ってもいいですか?」
「私は終日書斎にいるので、リビングにいるきみとは物理的に離れますけど、それでも良ければ」
「ひどい、鬼がいる…」

 我儘を言ってぐずる子供のように月落は、目の前の厚い肩をぐりぐりと額で擦る。
 首筋で動く髪のくすぐったさに、びくりと強張った鳴成に月落が顔を上げた。

「痛かったですか?」
「いえ、くすぐったかっただけです」
「なら良かったです」

 何が良かったのか全然納得できない。
 けれど、嬉々として肩に頭を乗せ直した月落に半ば諦めの気持ちになった鳴成は、首元で揺れる黒髪を再度指で梳いた。
 もはや同僚以上恋人未満なんてとっくに凌駕した触れ合いだけれど、闇がきっと隠してくれる。
 きっと、全てを隠してくれる。

「先生」
「何でしょう」
「出勤日、明後日からとかにしませんか?」
「きみだけ先に出勤しても構いません。私はあと数日の春休みを満喫しますから」
「鬼……悪魔……」


 今はもう少しだけこの安寧な海の中で揺蕩っていたい。
 溶かされて、満たされる、この深い海の中で。




-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-
「やっと先生に会えた奇跡に、酔ってます」
「大袈裟ですね」
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