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二章
01. 天気雨。想いは防波堤を越えて②
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「先生、お待たせしました」
月落が沢山のパンと共に対面の席に座ったのは、鳴成が着席してさほど経ってない頃だった。
互いの真ん中エリアにパンの平野を広げた月落と、いただきます、と声を合わせて食べ始める。
ベジタブルファーストでサラダを手に取る鳴成と、宣言通り照り焼きチキンを掴んだ月落。
血糖値の急上昇を懸念して、せめてBLTサンドから食べなさいとパッケージを開封する鳴成と、それに頷きながら二人分のペットボトルのキャップを開ける月落。
「うん、美味しいですね。パンがふわふわで」
「BLT久しぶりに食べました」
「アメリカにいた頃はよく食べてました?定番ですよね」
「食べすぎるくらい食べてました。朝食に自分で作ったり、簡単に済ませたい時に注文してさっと食べたりして」
「セントラルパークで食べるとより一層美味しそうですね」
「え、先生これから行きますか?家のジェット使えば出発時間は思いのままなので、すぐ行けますよ」
「サンドイッチひとつのためにプライベートジェットを飛ばすのは、色々コスパが悪そうなので遠慮します。忘れがちですが、そうでしたね、きみは御曹司でした」
「僕も大概忘れているので、御曹司という響きは実は全然しっくり来てなかったりします。元コンサルと言う方が座り心地が良い気さえします」
「一族の皆さんが聞いたら悲しむでしょう」
「ご安心を。父も時々忘れている節があって、母によく怒られています」
誰にも邪魔されることなく楽しく会話していた彼らの横に影が差したのは、パンの平野が半分ほどになった頃だった。
二人が食堂を使う際は、存在不明の圧力が働いているとしか思えないほどに、周りは空席であることが多い。
そのため警戒心が薄くなっていた。
奇襲に身構えたが、隣に立った人物を見て鳴成も月落も力を抜いた。
「あらま、鳴成准教授とTAの月落渉さん、ご無沙汰しております」
その人は、豊満ワガママボディに赤いうるつやリップが印象的な、事務系職員の許斐ヨリ子だった。
「お隣にお邪魔してもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
皿いっぱいに麺の乗ったトレイを月落の隣に既に置きながら一応そう訊いた彼女に、鳴成は快く了承する。
「許斐さん、食堂にいらっしゃるのは珍しいですね?」
「ええ、そうなんです。今日から一週間、アジアコーナーがタイ料理フィーチャーだと聞きつけたもので。タイに推しを供給していただいている身としては、例え雨あられが降ろうとも売上に貢献せねば申し訳ないと思い、馳せ参じた次第です……だはっ」
大きな口で笑う。
その姿は豪快でコミカルで、憎めない。
食べているのに一切ヨレないリップで極盛りのパッタイとトムヤムクンを咀嚼する許斐を横目に、鳴成と月落も食事を再開する。
「タイ料理フィーチャーだと仰ってましたが、もしかして明日以降のメニューも把握済みですか?」
「あら、月落さん。もしかしてタイ料理がお好きだったり?」
「はい、妹がパクチー狂と言っても過言ではなくて。その影響で時々一緒に食べますね」
「パクチー美味しいですものねぇ!明日はカオマンガイ、明後日はマッサマンカレーだそうです。ガイヤーンやソムタム、揚げ春巻き、バミーヘーンも出てくる予定と食堂の方にお聞きしたので、私この1週間はノーダイエットウィークでタイに溺れようと思ってます」
「大学の食堂にしては結構踏みこんだメニューですね。先生、タイ料理はお好きですか?」
「あまり親しみがないというのが正直なところです。興味はあるんですが、中々勇気が出なくて」
「分かります、世界観が独特ですもんね。明日のカオマンガイは一般向けのジャンルだと思うので、シェアして挑戦してみますか?」
「ええ、是非」
「タイ料理を頬張る美男子、とてもよきです。これでタイ沼にハマる人が増えますように」
拝む仕草でぶつぶつと独り言を言う許斐を、鳴成は首を傾げながら眺めていた。
男性二人に負けず劣らずの爆速で許斐がパッタイの山のほとんどをその身に収めた頃、教員専用スペースの入口付近で数名の職員が話し合いを始めた。
紐が緑色の職員証——技術系の職員のようだ。
紺色の作業着を着て脚立を持っている者もいる。
「政治家の娘が食堂で昼食なんか摂るか?絶対外に食べに行くって」
「とは俺も思うんですけどね。秘書の方から整備依頼が来ちゃったみたいなので、やるしかないですね」
「万が一食べるってなった時に間仕切り一切なしじゃ体裁が悪いだろうって、法学部の学部長も仰ってるしな」
「備えあれば、だけどなぁ……使うか使わないか不明のスペースのために壁を新設するわけにもいかないから、せいぜいパーテーションで区切るくらいしかできないけどなぁ。必要か?本当に」
「俺も『使わない』に一票っす」
「な。ほら、新人の辻もそう言ってるじゃねえか」
「まぁまぁ。一応ですって。あっても困らないですから」
鳴成、月落、許斐の横を通りながらその職員たちは、入口から最も離れた対角のスペースへと移動する。
漏れ聞こえた会話の内容と彼らの眉間に皺が寄っていることから、何か無理難題を押しつけられたのだろうと月落は推測する。
「あらま、今度は食堂に注文が入ったのね」
「大変そうですね?」
「そうなんです、鳴成准教授。今年度から、与党の大御所政治家先生の娘さんが法学部で教鞭を執られることになりまして。いわゆるコネ就職ですね……学長のお知り合いだということで」
『コネ就職』からの続きを囁き声で言う許斐の態度で、その人物が好意的に受け入れられていないのが伝わる。
「週に2コマでゼミは担当しないのに研究室を一室用意しろ、低血圧で朝に弱いから講義は昼過ぎからにしろ、少人数相手ではもったいないから大教室を用意して学生は満杯にしろ、と我儘放題のようでして。法学部担当の職員が般若の形相でパソコンを鬼連打しているのが、ここ3週間ほどの事務室名物となっています」
「あーそれは……モンスター降臨ですね」
「月落さん、ご名答です。客員教授の肩書も欲しいと打診されたんですが、さすがに大学側もその要求は呑めずで、特任講師という異例扱いで有耶無耶にしたようです」
「肝心の受講生は集まったんですか?ん……どうしました?」
シナモンロールを一口サイズにちぎって食べていた鳴成の手首が、月落に捕まった。
一足先に食べ終わってコーヒーを飲んでいた青年は、口を開けて『食べさせて』という仕草をする。
停止する准教授と、めげずに口を開け続けるTA。
根負けした鳴成が、甘酸っぱい香りのする生地をちぎって月落の口元すぐそばまで持っていくと、それはぱくりと跡形もなく吸い込まれた。
微かに指も一緒に食べられた気もするが、気のせいだと思っておく。
「美味しいです?」
「意外と甘すぎなくて美味しいです。午後のおやつを、ここのパンにするのもありですね」
「そうですね。特にきみは夕方に燃料切れになることがあるので、ボリューム的にもちょうど良いと思います」
「リストに入れておきます」
「お願いします」
どちらか単体とは会う機会があれど、両者揃っている場に出くわすことは実はあまりない許斐が、驚いたように瞬きを繰り返す。
昨年後期からの採用で約半年、これほどまでに仲を深めているとは想像していなかった。
月落がTAになってから鳴成が食堂に登場する回数が大幅に増えた、けれどいつも二人で隅の席に座って楽しそうにしているので誰も近づくことができない、と同僚に聞いてはいたけれど、ここまでとは。
鷹揚だけれど、自ら進んで物事や人間関係に関わっていくタイプではない鳴成に、こんなにも近づける誰かがいたなんて。
「……いい……とってもいい……推せるわ」
タイBLで免疫のつきまくっている許斐は全身全霊から漏れでる喜びを何とか捻じ伏せながら、それでも言葉になるのを止められなかった。
今日、新しい推しが出来た。
記念日認定で定時後即帰宅、ケーキを買ってお祝いしなければ。
目を瞑って、きゅんとした表情をする許斐に、鳴成が声を掛ける。
「許斐さん、大丈夫ですか?」
「申し訳ありません。私としたことが、魂を手放してしまいました。受講生のお話ですが、有名政治家のご息女というネームバリューあり、ご自身が私設秘書をされていた経験あり、大学側の強力プッシュあり、で何とか120名は集まったようです」
「良かったですね。数が集まらず、努力した職員の方が非難されるのは気の毒ですから」
「ええ、確かに。鳴成准教授の講義でしたら宣伝なしで軽く300名は集まるというのに……欲しいところには集まらず、欲しくないところには集まる。現実はそう簡単にはいかないですね」
「許斐さん、それは話を盛りすぎではないかと」
「事実です、鳴成准教授。実際、担当されている1年、2年、3年生の選択科目の授業は、応募がそれくらいの人数ありましたし。学部間共通講座はそれ以上あって、こちら側で泣く泣く100名の枠に絞っております」
「先生、知ってましたけど……大人気ですね」
言語学習は本来少人数でこそ行われるべき、という鳴成の意向を最大限に汲んで、大学側は受講人数の設定を行っている。
好きこそものの上手なれ、ではないが、習いたい先生に教えてもらった方が上達も速いし継続もできるというものだろう。
そのため昨年度から大学は、1年生の必修英語を1コマ分増やしてもらえるよう鳴成に頼み込んだ。
狙いは当たり、鳴成が受け持った必修英語4クラスの期末テストの結果は頗る良く、基礎レベルも高い生徒が多いと聞く。
来年度はなんとかもう1コマ担当を増やしてもらえないか、土下座する勢いで頼むつもりだと外国語学部の学部長が話しているのを聞いたが、それは難しいだろうと許斐は確信している。
「もしかしたら、TAを懐柔する方が近道だったりして……」
「え?許斐さん、何か仰いました?」
「いいえ、何も。ちなみにその娘さんは火曜4限と木曜3限に授業をお持ちです。しばらくは騒がしくなると思いますが、どうぞご了承ください」
「法学部とは校舎も離れてますし、直接関わることはないと思いますので、どうぞご心配なく」
「ありがとうございます。あら、もうこんな時間。推しのSNSにハートを送らなくてはいけませんので、これで失礼いたします……だはっ」
許斐はすっかり空になった皿の乗るトレイを持ち上げながらお辞儀をして、ヒールの低い靴で去って行く。
「僕たちも行きますか?」
「ええ、そうしましょう」
ゴミを纏めて捨てて食器を片づけ階段を下りると、食堂の入口が沢山の人で塞がれていた。
皆一様に服の色を変えている。
「え、雨だ。雨です、先生」
「珍しい……天気雨ですね」
学生の間を縫って外に出ると、白い雲の隙間から太陽の光と共に雨粒も降り注いでいる。
青い空からこぼれ落ちる、絹糸のごとき青のしずく。
午後の陽射しで潤うキャンパスに波紋を幾つも描きながら、プリズムに輝く。
「ここから研究棟までちょっと遠いんだけど、どうしようかな……でもそんなに嫌な感じの雨じゃなさそう……」
「上のコンビニで傘が売ってるか見てみましょうか?」
右腕を出して雨粒に触れながら考え事をするような月落に、鳴成はそう声を掛けた。
「これは、待ってても止みそうにないですね……先生、身体は弱い方ですか?」
「……いいえ?」
「風邪を引きやすかったり?」
「いいえ」
「じゃあ、大丈夫ですね。行っちゃいましょう!」
「え、あ、ちょっと待って……っ!」
鳴成の手をしっかりと握った月落は、雨の中を走り出す。
後ろにいた学生たちから戸惑いの声が上がった気がするが、鳴成に振り返る余裕はない。
引っ張られるまま、ついて行くだけ。
誰もがどこかに雨宿りをするキャンパスで、誰もいない絵の中を二人きりで走る。
濡れるテラコッタタイル、水面の踊る噴水、緑を濃くする木々、水溜まりを踏む靴先。
通り過ぎるすべての景色が、スローモーションで流れていく。
「先生」
きらめく春の木漏れ日の下で雨に打たれる非現実が、現実を置き去りにする。
鮮やかな逃避行、そんな大それたことではないけれど。
高揚感に、無邪気さが呼び起こされる。
「先生、あとちょっとですから頑張ってください!」
「ええ、でも……はは、……あははっ」
そしてその無邪気さが、湧き上がる感情を素直に受け入れさせる。
「え、なんで笑って……?」
「楽しいです。きみといると、雨でも楽しい!」
「それは良かったです!僕も先生といる時が何より一番楽しいです!」
細く途切れない雨音、濡れる髪、水の滴る頬、振り返って笑顔をくれる人。
羽毛で包んで安心させながら、新しい世界へと誘ってくれる人。
放したくなくて鳴成は、繋がれた手をぎゅっと握り返した。
「大丈夫です、先生。絶対に離しませんから!」
雨は降り続いて、海の水量は増えて。
防波堤を越えて、想いは止めどなくあふれる。
月落が沢山のパンと共に対面の席に座ったのは、鳴成が着席してさほど経ってない頃だった。
互いの真ん中エリアにパンの平野を広げた月落と、いただきます、と声を合わせて食べ始める。
ベジタブルファーストでサラダを手に取る鳴成と、宣言通り照り焼きチキンを掴んだ月落。
血糖値の急上昇を懸念して、せめてBLTサンドから食べなさいとパッケージを開封する鳴成と、それに頷きながら二人分のペットボトルのキャップを開ける月落。
「うん、美味しいですね。パンがふわふわで」
「BLT久しぶりに食べました」
「アメリカにいた頃はよく食べてました?定番ですよね」
「食べすぎるくらい食べてました。朝食に自分で作ったり、簡単に済ませたい時に注文してさっと食べたりして」
「セントラルパークで食べるとより一層美味しそうですね」
「え、先生これから行きますか?家のジェット使えば出発時間は思いのままなので、すぐ行けますよ」
「サンドイッチひとつのためにプライベートジェットを飛ばすのは、色々コスパが悪そうなので遠慮します。忘れがちですが、そうでしたね、きみは御曹司でした」
「僕も大概忘れているので、御曹司という響きは実は全然しっくり来てなかったりします。元コンサルと言う方が座り心地が良い気さえします」
「一族の皆さんが聞いたら悲しむでしょう」
「ご安心を。父も時々忘れている節があって、母によく怒られています」
誰にも邪魔されることなく楽しく会話していた彼らの横に影が差したのは、パンの平野が半分ほどになった頃だった。
二人が食堂を使う際は、存在不明の圧力が働いているとしか思えないほどに、周りは空席であることが多い。
そのため警戒心が薄くなっていた。
奇襲に身構えたが、隣に立った人物を見て鳴成も月落も力を抜いた。
「あらま、鳴成准教授とTAの月落渉さん、ご無沙汰しております」
その人は、豊満ワガママボディに赤いうるつやリップが印象的な、事務系職員の許斐ヨリ子だった。
「お隣にお邪魔してもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
皿いっぱいに麺の乗ったトレイを月落の隣に既に置きながら一応そう訊いた彼女に、鳴成は快く了承する。
「許斐さん、食堂にいらっしゃるのは珍しいですね?」
「ええ、そうなんです。今日から一週間、アジアコーナーがタイ料理フィーチャーだと聞きつけたもので。タイに推しを供給していただいている身としては、例え雨あられが降ろうとも売上に貢献せねば申し訳ないと思い、馳せ参じた次第です……だはっ」
大きな口で笑う。
その姿は豪快でコミカルで、憎めない。
食べているのに一切ヨレないリップで極盛りのパッタイとトムヤムクンを咀嚼する許斐を横目に、鳴成と月落も食事を再開する。
「タイ料理フィーチャーだと仰ってましたが、もしかして明日以降のメニューも把握済みですか?」
「あら、月落さん。もしかしてタイ料理がお好きだったり?」
「はい、妹がパクチー狂と言っても過言ではなくて。その影響で時々一緒に食べますね」
「パクチー美味しいですものねぇ!明日はカオマンガイ、明後日はマッサマンカレーだそうです。ガイヤーンやソムタム、揚げ春巻き、バミーヘーンも出てくる予定と食堂の方にお聞きしたので、私この1週間はノーダイエットウィークでタイに溺れようと思ってます」
「大学の食堂にしては結構踏みこんだメニューですね。先生、タイ料理はお好きですか?」
「あまり親しみがないというのが正直なところです。興味はあるんですが、中々勇気が出なくて」
「分かります、世界観が独特ですもんね。明日のカオマンガイは一般向けのジャンルだと思うので、シェアして挑戦してみますか?」
「ええ、是非」
「タイ料理を頬張る美男子、とてもよきです。これでタイ沼にハマる人が増えますように」
拝む仕草でぶつぶつと独り言を言う許斐を、鳴成は首を傾げながら眺めていた。
男性二人に負けず劣らずの爆速で許斐がパッタイの山のほとんどをその身に収めた頃、教員専用スペースの入口付近で数名の職員が話し合いを始めた。
紐が緑色の職員証——技術系の職員のようだ。
紺色の作業着を着て脚立を持っている者もいる。
「政治家の娘が食堂で昼食なんか摂るか?絶対外に食べに行くって」
「とは俺も思うんですけどね。秘書の方から整備依頼が来ちゃったみたいなので、やるしかないですね」
「万が一食べるってなった時に間仕切り一切なしじゃ体裁が悪いだろうって、法学部の学部長も仰ってるしな」
「備えあれば、だけどなぁ……使うか使わないか不明のスペースのために壁を新設するわけにもいかないから、せいぜいパーテーションで区切るくらいしかできないけどなぁ。必要か?本当に」
「俺も『使わない』に一票っす」
「な。ほら、新人の辻もそう言ってるじゃねえか」
「まぁまぁ。一応ですって。あっても困らないですから」
鳴成、月落、許斐の横を通りながらその職員たちは、入口から最も離れた対角のスペースへと移動する。
漏れ聞こえた会話の内容と彼らの眉間に皺が寄っていることから、何か無理難題を押しつけられたのだろうと月落は推測する。
「あらま、今度は食堂に注文が入ったのね」
「大変そうですね?」
「そうなんです、鳴成准教授。今年度から、与党の大御所政治家先生の娘さんが法学部で教鞭を執られることになりまして。いわゆるコネ就職ですね……学長のお知り合いだということで」
『コネ就職』からの続きを囁き声で言う許斐の態度で、その人物が好意的に受け入れられていないのが伝わる。
「週に2コマでゼミは担当しないのに研究室を一室用意しろ、低血圧で朝に弱いから講義は昼過ぎからにしろ、少人数相手ではもったいないから大教室を用意して学生は満杯にしろ、と我儘放題のようでして。法学部担当の職員が般若の形相でパソコンを鬼連打しているのが、ここ3週間ほどの事務室名物となっています」
「あーそれは……モンスター降臨ですね」
「月落さん、ご名答です。客員教授の肩書も欲しいと打診されたんですが、さすがに大学側もその要求は呑めずで、特任講師という異例扱いで有耶無耶にしたようです」
「肝心の受講生は集まったんですか?ん……どうしました?」
シナモンロールを一口サイズにちぎって食べていた鳴成の手首が、月落に捕まった。
一足先に食べ終わってコーヒーを飲んでいた青年は、口を開けて『食べさせて』という仕草をする。
停止する准教授と、めげずに口を開け続けるTA。
根負けした鳴成が、甘酸っぱい香りのする生地をちぎって月落の口元すぐそばまで持っていくと、それはぱくりと跡形もなく吸い込まれた。
微かに指も一緒に食べられた気もするが、気のせいだと思っておく。
「美味しいです?」
「意外と甘すぎなくて美味しいです。午後のおやつを、ここのパンにするのもありですね」
「そうですね。特にきみは夕方に燃料切れになることがあるので、ボリューム的にもちょうど良いと思います」
「リストに入れておきます」
「お願いします」
どちらか単体とは会う機会があれど、両者揃っている場に出くわすことは実はあまりない許斐が、驚いたように瞬きを繰り返す。
昨年後期からの採用で約半年、これほどまでに仲を深めているとは想像していなかった。
月落がTAになってから鳴成が食堂に登場する回数が大幅に増えた、けれどいつも二人で隅の席に座って楽しそうにしているので誰も近づくことができない、と同僚に聞いてはいたけれど、ここまでとは。
鷹揚だけれど、自ら進んで物事や人間関係に関わっていくタイプではない鳴成に、こんなにも近づける誰かがいたなんて。
「……いい……とってもいい……推せるわ」
タイBLで免疫のつきまくっている許斐は全身全霊から漏れでる喜びを何とか捻じ伏せながら、それでも言葉になるのを止められなかった。
今日、新しい推しが出来た。
記念日認定で定時後即帰宅、ケーキを買ってお祝いしなければ。
目を瞑って、きゅんとした表情をする許斐に、鳴成が声を掛ける。
「許斐さん、大丈夫ですか?」
「申し訳ありません。私としたことが、魂を手放してしまいました。受講生のお話ですが、有名政治家のご息女というネームバリューあり、ご自身が私設秘書をされていた経験あり、大学側の強力プッシュあり、で何とか120名は集まったようです」
「良かったですね。数が集まらず、努力した職員の方が非難されるのは気の毒ですから」
「ええ、確かに。鳴成准教授の講義でしたら宣伝なしで軽く300名は集まるというのに……欲しいところには集まらず、欲しくないところには集まる。現実はそう簡単にはいかないですね」
「許斐さん、それは話を盛りすぎではないかと」
「事実です、鳴成准教授。実際、担当されている1年、2年、3年生の選択科目の授業は、応募がそれくらいの人数ありましたし。学部間共通講座はそれ以上あって、こちら側で泣く泣く100名の枠に絞っております」
「先生、知ってましたけど……大人気ですね」
言語学習は本来少人数でこそ行われるべき、という鳴成の意向を最大限に汲んで、大学側は受講人数の設定を行っている。
好きこそものの上手なれ、ではないが、習いたい先生に教えてもらった方が上達も速いし継続もできるというものだろう。
そのため昨年度から大学は、1年生の必修英語を1コマ分増やしてもらえるよう鳴成に頼み込んだ。
狙いは当たり、鳴成が受け持った必修英語4クラスの期末テストの結果は頗る良く、基礎レベルも高い生徒が多いと聞く。
来年度はなんとかもう1コマ担当を増やしてもらえないか、土下座する勢いで頼むつもりだと外国語学部の学部長が話しているのを聞いたが、それは難しいだろうと許斐は確信している。
「もしかしたら、TAを懐柔する方が近道だったりして……」
「え?許斐さん、何か仰いました?」
「いいえ、何も。ちなみにその娘さんは火曜4限と木曜3限に授業をお持ちです。しばらくは騒がしくなると思いますが、どうぞご了承ください」
「法学部とは校舎も離れてますし、直接関わることはないと思いますので、どうぞご心配なく」
「ありがとうございます。あら、もうこんな時間。推しのSNSにハートを送らなくてはいけませんので、これで失礼いたします……だはっ」
許斐はすっかり空になった皿の乗るトレイを持ち上げながらお辞儀をして、ヒールの低い靴で去って行く。
「僕たちも行きますか?」
「ええ、そうしましょう」
ゴミを纏めて捨てて食器を片づけ階段を下りると、食堂の入口が沢山の人で塞がれていた。
皆一様に服の色を変えている。
「え、雨だ。雨です、先生」
「珍しい……天気雨ですね」
学生の間を縫って外に出ると、白い雲の隙間から太陽の光と共に雨粒も降り注いでいる。
青い空からこぼれ落ちる、絹糸のごとき青のしずく。
午後の陽射しで潤うキャンパスに波紋を幾つも描きながら、プリズムに輝く。
「ここから研究棟までちょっと遠いんだけど、どうしようかな……でもそんなに嫌な感じの雨じゃなさそう……」
「上のコンビニで傘が売ってるか見てみましょうか?」
右腕を出して雨粒に触れながら考え事をするような月落に、鳴成はそう声を掛けた。
「これは、待ってても止みそうにないですね……先生、身体は弱い方ですか?」
「……いいえ?」
「風邪を引きやすかったり?」
「いいえ」
「じゃあ、大丈夫ですね。行っちゃいましょう!」
「え、あ、ちょっと待って……っ!」
鳴成の手をしっかりと握った月落は、雨の中を走り出す。
後ろにいた学生たちから戸惑いの声が上がった気がするが、鳴成に振り返る余裕はない。
引っ張られるまま、ついて行くだけ。
誰もがどこかに雨宿りをするキャンパスで、誰もいない絵の中を二人きりで走る。
濡れるテラコッタタイル、水面の踊る噴水、緑を濃くする木々、水溜まりを踏む靴先。
通り過ぎるすべての景色が、スローモーションで流れていく。
「先生」
きらめく春の木漏れ日の下で雨に打たれる非現実が、現実を置き去りにする。
鮮やかな逃避行、そんな大それたことではないけれど。
高揚感に、無邪気さが呼び起こされる。
「先生、あとちょっとですから頑張ってください!」
「ええ、でも……はは、……あははっ」
そしてその無邪気さが、湧き上がる感情を素直に受け入れさせる。
「え、なんで笑って……?」
「楽しいです。きみといると、雨でも楽しい!」
「それは良かったです!僕も先生といる時が何より一番楽しいです!」
細く途切れない雨音、濡れる髪、水の滴る頬、振り返って笑顔をくれる人。
羽毛で包んで安心させながら、新しい世界へと誘ってくれる人。
放したくなくて鳴成は、繋がれた手をぎゅっと握り返した。
「大丈夫です、先生。絶対に離しませんから!」
雨は降り続いて、海の水量は増えて。
防波堤を越えて、想いは止めどなくあふれる。
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――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
全8話
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c
【完結】この契約に愛なんてないはずだった
なの
BL
劣勢オメガの翔太は、入院中の母を支えるため、昼夜問わず働き詰めの生活を送っていた。
そんなある日、母親の入院費用が払えず、困っていた翔太を救ったのは、冷静沈着で感情を見せない、大企業副社長・鷹城怜司……優勢アルファだった。
数日後、怜司は翔太に「1年間、仮の番になってほしい」と持ちかける。
身体の関係はなし、報酬あり。感情も、未来もいらない。ただの契約。
生活のために翔太はその条件を受け入れるが、理性的で無表情なはずの怜司が、ふとした瞬間に見せる優しさに、次第に心が揺らいでいく。
これはただの契約のはずだった。
愛なんて、最初からあるわけがなかった。
けれど……二人の距離が近づくたびに、仮であるはずの関係は、静かに熱を帯びていく。
ツンデレなオメガと、理性を装うアルファ。
これは、仮のはずだった番契約から始まる、運命以上の恋の物語。
アプリで都合のいい男になろうとした結果、彼氏がバグりました
あと
BL
「目指せ!都合のいい男!」
穏やか完璧モテ男(理性で執着を押さえつけてる)×親しみやすい人たらし可愛い系イケメン
攻めの両親からの別れろと圧力をかけられた受け。関係は秘密なので、友達に相談もできない。悩んでいる中、どうしても別れたくないため、愛人として、「都合のいい男」になることを決意。人生相談アプリを手に入れ、努力することにする。しかし、攻めに約束を破ったと言われ……?
攻め:深海霧矢
受け:清水奏
前にアンケート取ったら、すれ違い・勘違いものが1位だったのでそれ系です。
ハピエンです。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
自己判断で消しますので、悪しからず。
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