鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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二章

05. ハグと父親たちの密談②

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 同日、午後。
 25階建てビルの最上階では二名の壮年男性が、がっちりと挨拶の握手を交わしていた。

「初めまして、月落衛と申します。本日はお忙しいところお呼び立てして申し訳ありません」
「いいえ、こちらこそご連絡をありがとうございました。鳴成昌彦と申します」

 シャドーチェックのダブルブレストを皺ひとつなく着こなす衛と、襟付きのダブルベストが重厚感のある三つ揃えを纏う昌彦が対面で並ぶと、それはそれは素敵な一枚の絵になる。
 彼らの子供ペアも耽美さは突き抜けているけれど、60代を過ぎて醸し出される色気と経験値の高さに裏打ちされた大人の余裕が、筆舌に尽くしがたい雰囲気を演出している。

「どうぞ、お座りください」
「失礼いたします」

 すぐさま衛の第一秘書である萩原が音もなく現れ、座る両者の前へとティーカップを置いた。
 昌彦のまばたきが少しだけ跳ねた。
 それを見逃さなかった衛が話を切り出す。

「息子さんと同様にミルクティーがお好きとお聞きしましたので、ご用意いたしました。どうぞ、お召し上がりください」
「とてもいい香りですね。先日、ご子息が贈ってくださったルフナ紅茶でしょうか」
「そうです、やはり詳しくていらっしゃる。その茶葉を使って淹れたと聞いております」
「ご子息にはこの度……いえ、息子の元で働き始められた頃からですが、特にこの度は本当にお世話になりました。気を失った息子を運んでいただいてご迷惑をお掛けしたのに、アフターケアや沢山のお見舞いを頂戴して、家族一同心より感謝しております」
「本人は迷惑とは欠片も思っていないでしょうから、どうぞお気になさらないでください」

 人柄は顔に出る。
 服装にも出るし、言動にも出るし、些細な仕草にも出る。
 けれど最も如実に現れるのは、咄嗟の行動だと衛は思っている。

 昌彦は礼を述べる際に迷わず立ち上がり、腰を折って深く頭を下げた。
 有名監査法人の理事長まで務めた男だ、自尊心も気位の高さも人並み以上にあって当然だろう。
 そう思っていたが、本人は一切の躊躇なく誠意のお手本のような行動を取った。

 息子の慧眼は確かなので、彼が信頼している准教授とそのバッググラウンドにいる人物には衛も同等の信頼を寄せているが、実際に昌彦に会ってその思いはより一層強くなった。
 息子よ、素晴らしい相手と巡り会えてよかったな、と一気にお父さんモードに切り替わってしまいそうになるのを衛はなんとか押しとどめる。

「お座りいただいて……それで早速、本日こちらにご足労いただいた件についてですが」
「息子の過去についてであろうというのは予想しております」
「まさしく。失礼とは思いましたが、ご子息の過去の事件についてこちらで少々調べさせていただきました。その事件を引き起こした方と30年ぶりに再会したとなれば、ご本人やご家族はさぞやご不安でしょう」

 昌彦は膝の上で組んでいた手の平を、ぎゅっと握る仕草をした。
 それは、過去のつらい記憶に未だ蝕まれているようにも見えるし、これからきっともたらされるであろう新たな恐怖への怯えであるようにも見える。
 相手は政界の頂点に君臨し続ける大御所議員であり、数々の案件を剛腕でねじ伏せてきた常習犯だ。
 一筋縄では行かないだろうということは誰にでも分かる。
 実際、家族や親戚を慮って手出しするなと脅された経験のある昌彦には、苦い思い出しかないだろう。

「思い遣りをありがとうございます。あの事件発生当時は私も若く、人脈も使える権力も何もかも足りませんでした。転居と息子の転校といった所謂『逃げ』の対処法しか実行できず、家族にはとても不甲斐ない思いをさせました」
「私も家長の身です。それがどれだけ遣る瀬なかったか、そしてどれだけご自身を責められたか、理解できるつもりでいます」
「いま、粕川家と相対してどれほど自分が戦えるか明確な検討はつきませんが、やれるだけやってみるつもりでおります」
「実は本題はその件でして」
「えぇ」
「粕川議員及び粕川春乃さんとの戦いは月落に一任してくださらないか、というご提案をしたいのです」
「………はい?」

 どうしてそこで月落か出てくるのか全くもって理解できない、という顔で昌彦は聞き返した。

「この事件に関しては、当家と粕川家の問題です。そこに関わり合いを持たれるというのは、些か不思議に思えるのですが……正直、月落家が得るものなどひとつもないのではありませんか?」
「我がグループは負け戦はしない主義ですし、利益計算は独自の価値観で行いますので、その点に関してはどうぞご心配なく。ですが今回はどちらかというと、組織主体ではなく個人主体の理由が大きいとでも申しましょうか」
「はぁ……月落家と粕川家も何か揉めていらっしゃるんでしょうか?」
「あぁ、そこではありません。月落が鳴成家にとても感情移入している、というのが最も正しい言い方です」
「ご子息が息子の元で働いていらっしゃるから、ですか?」
「えぇ。息子は大学での仕事をとても気に入ってるようです。また、ここ数日の行動からお察しいただけると思いますが、ご子息との関係性も実に良好のようです」
「色々と心を砕いていただいているのは、私も感じております」
「子離れできていないと笑われてしまうのは承知しておりますが、充実した息子の職場環境を壊されたくないというのが、このご提案の最大要因でして……どうでしょう、ご了承いただけませんか」

 息子思いの良き父親像を全面に押し出して、衛はそう言い切った。
 そう遠くない未来に親戚関係になるであろう准教授とその家族を庇護したいというのが、飾らぬ本音だ。
 想いのまま伝えてしまいたいけれど、それはあまりに時期尚早だと親戚の松影靖高に釘を刺されていたため、懸命に飲み込んだ。

 息子の大切な人が苦しむなんて、『絆の強さがもはや鋼の、身内大好き集団』である月落の血が騒いで仕方がない。
 どんな手を使ってでも敵は排除する。
 それが家長であり、グループの総帥である自分の仕事だ。

「子は一生の宝ですし、恥ずかしながら40を過ぎた息子であろうとも私にとってはいつまでも可愛い子です。ですので、月落さんの気持ちは重々理解できます。ですが、今回は相手が粕川家です。TOGグループの強大さは存じておりますが、多少でも被害を被る結果となるのは私たちの本意ではありません」
「鳴成家は、粕川議員と刃を交えて散るご覚悟がおありになると?」
「えぇ。幸運なことに私も妻の利沙も個人事業主ですので、それを犠牲に子供二人の将来が安寧なものになるのなら、喜んで散りましょう」
「そうですか……」

 粛々と準備をしてきたのだろう。
 この30年間。
 秘書からの報告を聴いただけで口腔内に苦味が走るような事件を、実際に体験させられた当事者なのだ。
 きっと片時も忘れず、そして片隅で怯えながら、地位を築き権力を築き備えてきたのだろう。

 昌彦の実直な人柄からは、けれど敵を討ったあとに潔く切腹する武士のような未練のない気概を感じる。
 素直に感心して、そして、同胞意識が限界突破した。

「これは、ますますだな……」
「はい?何か?」
「いいえ、こちらの話です」

 これはますます、月落の血が燃え滾る。

「貴家のご覚悟は心得ました。不躾なご提案をしてしまい申し訳ありません。ですが、やはり今回の件は月落にお預けいただきたい。粕川勝造議員とやり合って無傷でいられるのは、当グループくらいでしょう。犠牲になったご両親の姿をご子息に見せるのは、私の本意ではありません。」
「それは、そう、ですが……」

 昌彦も妻の利沙も、法に抵触することなどとは一切関わりのない潔白な身ではあるが、如何せん相手は政界の重鎮だ。
 現時点でその脅威は計り知れない。

 犠牲になるとは、何も職を失うばかりではない。
 むしろそれは、序の口かもしれない。
 煙のないところに言いがかりをつけられて破滅の道を歩かされるかもしれないし、もしかしたらそれ以上のことも起きる可能性がある。
 だからこそ昌彦は、長い長い歳月をかけて壁を高くしてきた。
 防御を頑丈にしてきた。
 けれど一点だけ、自分たちだけではどうしようもできなかったことがある。

「ご子息の心の準備はできておられないでしょう」
「それは……」

 痛いところを突かれて、昌彦は言葉を失くす。
 あの事件の詳細を忘れてしまったのは幸運だったが、だからこそ息子の人生の中で粕川という絶対悪は抹消され、因果関係をもたらす存在としては希薄になってしまった。
 もしもこれから昌彦と利沙の身に何かあれば、聡い息子はその元凶にたどり着き、過去の出来事へとたどり着き、自分のせいだと思うだろう。
 失った記憶の中できっと自分に落ち度があって、それが30年越しに両親への危害となり降り注いだのだ、という結論に達してもおかしくはない。

 いや、きっと、記憶が全て戻ったとしても、息子は自身をひどく責めるだろう。
 優しくて繊細な子だから。
 一生分の恐怖を味わい、一生分傷ついた小学6年生のあの日々を、あんなにも涙を流したあの夜を、繰り返させたくはない。

「過去の傷を自分自身で抉るのは、地獄の苦しみでしょう。ご子息の性格は穏やかで深沈だと伺っていますが、人の心は存外に脆い。ご両親の犠牲を目の当たりにすることで、自分の人生を恨むやもしれません。そうなるのは絶対に回避しなければなりません」
「そうですね……全くもって仰る通りです」

 昌彦は顎に手を当てて深く考えこむ。
 それもそうだろう、と衛は思う。
 討ちに行くつもりだった相手を、半ば横から搔っ攫われた形なのだ。
 決意を固めていたならばなおさら、簡単に頷くのは難しいだろう。

 けれど決意を固めていたのならば、敵へと向かうのではなく、その手に握り締めた刀で愛する者を守護してほしい。

「こういった役目は第三者にお任せになった方がよろしいかと。幸い、我がグループには武器が多数あります。頼っていただけると力の発揮しがいもあるでしょう」

 決して虚勢ではないだろう。
 日本一の企業グループ、それを背負って立つ男。
 初対面ではあるけれど、親近感を与えつつも的確に要所を突いて従わせる豪胆さ。
 きっとこの男の手中には数多の糸が握られていて、昌彦が否やを唱えれば次の選択肢を以て攻略を継続されるに違いない。
 どう足掻こうともおそらく、この件に関して昌彦に拒否権はないのだろう。

「分かりました。力及ばずで申し訳ありませんが、息子に関する粕川家との渉外は全てをお任せいたします。どうぞよろしくお願いいたします」

 そう言って立ち上がった昌彦は、再び深く頭を下げた。
 今回は驚きはしなかったが、やはり胸に広がる満足感にも似た感情に、衛はそっと感嘆のため息を吐いた。

 同様に立ち上がり、右手を差し出す。
 固く握手を交わした二名は、そこで初めて朗らかな笑みを互いに向けた。

「ご了承いただけてよかったです。このままでは将来、日本の政界が大変なことになるところでした」
「それは、一体どういう……?」
「月落は掌中の珠への執着心が強く、それを害するものへの攻撃が容赦ないきらいがあるんです。我が息子もその血を色濃く継いでいましてね。もしも、鳴成家の皆さんに不測の事態が起きれば、いつか必ず政界を滅ぼすだろうというのが一族の総意でして」
「それは、また大きなご冗談を」
「いえ、真実です。息子は現在はまだ微力ですが、おそらく10数年後には若くしてグループ総帥の座に就くでしょう。そうなった時に日本を日本として残すためにも、どうぞ今回は私たちにお任せください」

 告げられた、嘘のような、けれど絶対的に本当のような話に昌彦の顔は引き攣る。
 月落ならばやりかねない、そう思えてしまうほどにこの一族の怖さを知った気がした。
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