鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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二章

06. 昼食の裏話と粕川勝造という議員②

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 同日、20時。
 白金の豪邸が並ぶ一角に建つ、瓦屋根の日本家屋。
 そこに、月落衛の姿はあった。

 厳かにライトアップされた枯山水の庭が一枚ガラスを通して楽しめるその個室には、男性がもうひとり座っている。
 薄くなった髪を機嫌よく撫でながら、日本酒のグラスを傾ける。

「いやしかし、白金にこんな隠れ家があるとは知らなかったですな。見た目は一軒家で、中が料亭になってるとは使い勝手が非常に良い。私もこれから使わせていただきたい」
「個室が3つのこじんまりとした内装ですが、部屋同士が離れた場所にあるので声を潜める必要はありませんし、立地も申し分ないので私も贔屓にしているんですよ」
「そうですな。さすがにTOGグループの総帥は良い店をご存じだ」

 お造りの桜鯛と初鰹を咀嚼もそこそこに酒で流し込みながら大声を出すのは、粕川勝造その人である。
 三世議員で与党一の大物。
 機運に恵まれず一国の主になることはついぞなかったが、党内でのその存在感は未だに顕在で、与党最大派閥のトップとして実権を握っている。

 小柄な体躯と70過ぎの年齢に似つかわしくない艶やかな頬が好々爺の雰囲気を上手く演出し、世間では『隣のおじいちゃん議員』として良好な認知度を保ってもいる。

 九谷焼の刺身皿が空になった絶妙なタイミングで海老しんじょと生湯葉の煮物が届き、衛は次の日本酒を注文した。

「いやしかし、まさか総帥自らご連絡いただけるとは思いもよりませんでしたな。月落家は経済一筋で政界とは明確に一線を画しているとの認識でしたが、趣旨替えでも?まさか、どなたかが出馬の意向を示されましたか」

 もしそうなら是非とも我が党からの立候補を、とでも言いたげな眼力で見つめられたが、衛は軽く首を振っただけでそれに応えた。

「いえ、本日は別件でお呼び立てしました」
「ほう、なんでしょう。私にできることでしたら何なりと申しつけてください。TOGと密接な関係を築きたいと願っている同業者はごまんといます。今日こうしてお誘いいただいたと知られれば、矮小な私の自慢話になりましょう」

 今夜の会話の内容を世間に知らせても何ら問題はないが、恐らく粕川サイドは死に物狂いで火消しに奔走せねばならぬだろう。
 それはそれで面白いのだが、茶番を始めたからには最後まで見届ける責任が伴う。
 それは案外骨の折れる作業なので、暇な時の手慰みにでも取っておきたいというのが正直なところだ。

「実は私の次男が昨年の秋から大学で働き始めまして」
「おお、これは偶然ですな。私の娘も先月から大学で教鞭を執っておるんですよ」
「ええ、存じております。逢宮大学法学部で特任講師をされているとか。息子も同じ大学でしてね」
「これはこれは何たる偶然!共通点がありますな!息子さんはどこの学部におられるんです?」
「外国語学部です。鳴成秋史先生という方のTA兼秘書をしております」

 その名前が出た瞬間、ハイペースでグラスを傾けていた粕川の右手が急停止した。
 瞬間、好々爺の仮面は剥がれ、真意を探るような視線が投げられる。
 衛は意に介さず、言葉を重ねた。

「とても優秀な先生だそうで、息子は充実した職員生活を送らせてもらっているようです。集まりの際には色々と話をしてくれるんですが、あんなにも楽しそうに仕事について語るのは息子らしくない、けれど好ましい傾向だと親戚も喜んでくれましてね」
「へ、へぇ……それは初耳です」

 それはそうだろう。
 粕川春乃が鳴成と再会を果たしてから粕川家が鳴成の周辺を調査することは明白だったので、月落に関する情報は一切出ないように細工をしたのだ。
 TAとして働いている男は、カナダの大学を卒業後にバックパッカーとして世界中を旅していた帰国子女の日本人男性という偽情報を掴まされているはずだ。
 その何者でもないただの一般人が鉄壁のガードで鳴成との逢瀬を邪魔するものだから、粕川春乃の不満はもはや噴火寸前という報告を衛は受けている。

「鳴成秋史、という名前も初耳でおられますか?」
「っ……ぐ、ごほ……っ」

 盛大に咽るその姿で返答してしまったも同然だが、衛は粕川が落ち着くのを待った。
 手酌で江戸切子のグラスへ冷酒を注ぎ、新緑を思わせる緑色のクリスタルをゆっくりと口元に運ぶ。

「っ……え、えぇ、初耳です。鳴成准教授などと言う人の話は聞いたこともありません」
「准教授とよくお分かりになりましたね。私は、先生としか呼んでいませんが」
「っ……!」

 今度ばかりは粕川も言葉を失ったようだ。
 逃げ道を見つけられず硬直した小柄な御仁に、衛は率直な問いを投げた。

「お嬢さんの初恋の相手と聞いております。その熱い想いが、子供の純粋さの枠をはみ出したこともある、と」
「……だいぶ昔の話です。鳴成さんには怖い思いをさせてしまいましたが、お父上とは謝罪の上で和解しています。娘も深く反省しましたし30年も前の出来事ですので、今に影響することはないでしょう。ご安心いただいて結構です」

 脅迫した上で反旗を翻させないよう強要したことを、和解とは言わない。
 深く反省していないからこそ娘の性格は改善されず、むしろ改悪される一方なのだろう。
 馬鹿親が……と脳内の松影靖高が毒舌を吐いた。

「今に影響しているからこそ、秘書の方が鳴成准教授の研究室を訪ねては無理なお誘いをしているのでは?講義終わりの帰り道や教室前での待ち伏せなどもあって、息子ともども迷惑していると聞いておりまして」
「それは私の範疇外のことですな。娘の仕事場は基本的に、本人と秘書に任せておりますので」

 音も立てずに部屋の引き戸が開けられる。
 姿を現したのは店のスタッフではなく、衛の第一秘書である萩原だった。

「確かに、派遣会社の秘書と契約をしていたようですが、先週末に一新されたようですね。先生の議員事務所で働いていた方も名を連ねているとか」

 萩原がテーブルへと置いた4枚の写真の内の1枚を、分かりやすいように粕川の前へと移動させた。
 何もかもバレていると悟らざるを得ない粕川は苦し気に唾を飲み込み、すぐに酒を煽った。

「他の方も粕川家と多少なりとも関係があるようで。可愛い娘さんに頼まれましたか?鳴成准教授とのアポを取りつけられる有能な秘書がほしい、とでも?」
「最初に無能な秘書を雇ってしまったばっかりに、あの子の教師生活を快適なものにしてやれませんでした。私の落ち度ですので、私の懐から出したまでです」
「優しいお父様ですね。けれど、娘さんへの過剰な愛情は改めていただかなければなりません。食事の誘いというには執拗で悪質だと息子から聞き及んでいます。お断りしたのに一向に諦めてくださらず、もはや迷惑行為と同等だと」
「好きなものには一直線なところのある性格でして、その真っすぐさを褒めて育てましたのでな。気持ちが先行しすぎて少し行き過ぎる時があるようです」

 行き過ぎるのならそれはそれで、他人を巻き込まずに自滅の道を歩めばいいものを。
 この親にしてこの子あり。
 もしかしたら粕川勝造本人も、育て方を間違えられた人間なのかもしれない。

「娘さんを止められるのはお父様だけでしょう。なんでも欲しいままお与えになるお父様の言うことはお聴きになると伺っていますので、是非お口添えをいただきたい」
「えぇえぇ、承知しました。これ以上息子さんを煩わせるのは私としても心苦しいことですので、娘にはきつく言って聞かせます」

 ここで、粕川の無意識が顕著になる。
 煩わされているのは息子であるが、事実、その最中心部にいるのは息子ではない。
 過去にひどく傷つけられ望まぬ再会によってかさぶたを剥がされ、再度傷を深く抉られようとしているのは鳴成秋史である。

 真の被害者への罪の意識が薄いのは、相手を下に見ているからだろう。
 30年前に圧力で服従させた経験と、現在の鳴成家が粕川にとって脅威になる存在ではないという判断から無意識に排除したのだ。

 強い者に阿る。
 粕川の眼中にはTOGしかなく、迎合する相手も月落のみという考えが明け透けに分かりやすすぎて、衛は苦笑いを零す。
 靖高の罵詈雑言が耳の後ろから聞こえてくるようで、思わずこめかみを揉んだ。

「粕川さんのお言葉は信用に足ると存じていますが、今回は確約を頂きたく」
「それはもう、全幅の信頼を寄せていただいて結構です。娘の性根を叩き直す勢いで正します、お約束いたします」
「そうですね。死に物狂いで必死になっていただかないと、粕川先生の議員生活も危ういものになるでしょうし」

 空中に差し出した衛の右手に、萩原から分厚い紙の束が乗せられる。
 それを受け取った粕川は、数枚捲って中身を確認すると一気に顔色を変えた。
 ざっという音が聞こえてきそうなほどに青褪め、息は荒くなり、震える指でページを行ったり来たりする。

「な、な、な、これは、一体どうやって……」
「粕川先生が過去の政治資金の特定パーティーで得た、子細不明金に関する報告書です。一桁も違わず纏めてありますので、後ほどご確認ください。これが公になれば裏金問題として広く報道され、国民の反感を買うことは間違いないでしょう」
「馬鹿な、絶対に尻尾を掴まれるはずないのに、なぜだ……」
「内3回は私設秘書だった娘さんへの給与に回しておられますが、私的流用だと責められても反論できないでしょうね。政治家一族として名声を誇った粕川家も三世で終わり、来年出馬予定のご長男には引き継げないかもしれません」

 残念だ、とでも言いたげに衛は眉尻を下げるが、内心では慌てふためく粕川の様子を愉快そうに鑑賞している。
 それが分かる萩原だけが、表情をほんの僅かだけ変えた。

「ぐ……それは、それだけは勘弁してくれ!私の代で断ち切ったとなれば父や祖父に顔向けできず、息子の人生も終わってしまう!」
「終わるのは、息子さんだけではないかもしれませんね」

 既に屍のような面持ちの粕川に、もうひとつの紙の束が渡される。
 心もとない頭皮をむしゃくしゃと擦りながら確認するその様子は、好々爺の姿しか見たことのない人間ならば同一人物だと判断するのさえ難しいだろう。

「派閥内議員の会費についても纏めてあります。派閥を脅かすと判断されれば、先生、離党は避けられないでしょうね。あぁ、その最後の方はおまけです。先生の公職選挙法違反と受託収賄の調査報告です。最悪の場合、除名もあり得るかもしれません」

 物騒な物言いに、けれど集められた確かな証拠に、粕川の全身はもはやわなわなと震え出した。
 先ほどまで真っ青だった顔は、今度は逆にマグマの如く真っ赤に染まっている。

「わ、分かった!分かりました!娘をきちんと躾し直します!息子さんのご迷惑にならないように、きちんと言って聞かせますので!この資料に記載されている諸々はどうかなかったことに!どうか、この通りです!」

 粕川は、テーブルに両手をついたまま頭を下げる。
 そこには、大御所議員の威厳も沽券も奪われて惨めな姿を晒す老人がいるのみだった。
 自業自得。
 悪魔を悪魔のままで放置した、己の所業の因果応報だ。

「最も迷惑を被っているのは息子ではありません。鳴成秋史准教授への娘さんの一方的で偏執的な好意を、先生が責任を持って正してください。そして今後一切関わることのないよう、管理を徹底してください」
「承知しました。粕川勝造の名に懸けてお約束します」

 がばりと再度低頭した粕川を、衛は冷めた表情で見つめる。
 緑の切子を傾けるが、本来ならば旨い酒も場の空気に触れてその味わいを失くしたようだ。
 苦味の引き立つそれを嚥下したのち、衛は粕川のグラスを日本酒でいっぱいにした。

「粕川先生、どうぞ顔を上げてください。私としてもこれを世間に公表するのはあまりにも心苦しいので、そうならない未来がくることを願うばかりです」
「……ありがとうございます」

 注がれた無色透明を粕川は一口で飲み干した。
 それを見た衛は、これからは明るい話でもしましょうか、と切り出した。

「明るい話、ですか」
「そうです。なんでも、ご次男の会社が経営難にあるそうですね」

 もう何の話が出ても驚かない。
 この男、そしてこの男の率いる巨大組織の前では、大物政治家と呼ばれる自分もただの凡人であると認識せざるを得ない。

「その会社、我がグループが引き受けましょう」
「それは……願ったり叶ったりです」

 政界においては生きる道を容易く見つけられようとも、畑違いの経営においては知識の足りない粕川家は次男の会社が危機的状況にあっても、適切な対策を講じることが出来ずにいた。

 倒産は極めて体裁が悪いため何とかしたかったのだが、これは渡りに船だ。
 最終的に買収されたとなっても、天下のTOGグループに買われたのならば見栄も張れよう。
 会社の従業員はクビになっても、代表である次男の面子を立ててくれるならば幸甚だ。
 来年は長男の初出馬もあるし、その前に大きな悩み事が解消されてむしろ良かった。

 粕川の顔に喜色が浮かぶ。

「うちの物流部門がM&Aに意欲を見せていましてね」
「それは誠にありがたいことですな」

 この時の粕川は知る由もない。
 売られた恩もやがては弱みになることを。
 方々の情報を握られ、弱みを握られ、いつの間にか指先さえも動かせなくなることを。

 情報を制する者は戦いを制す。
 時代に対してアップデートできぬ者は、自らの首を落とすのみだ。
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