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二章
07. フューシャピンクの悪魔の手②
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月落が事務室に着く少し前、鳴成自身も研究室へとたどり着き扉の電子ロックを開錠したところだった。
扉を開ける。
そこには無人の空間が広がっている、はずだった。
「秋ちゃん、授業お疲れさま。今日も学生の質問にまじめに答えてたの?私、待ちくたびれちゃった」
中央の大きなテーブルには赤とピンクのチェック柄のジャケットを着た女性が座っていた。
後ろには、黒いスーツを着た男性三名を従えている。
その異質な四名の存在のせいで、自分の部屋なのにまるで他人の部屋かのような違和感がある。
「粕川春乃さん……どうしてここに?」
「やだ、秋ちゃん。なんでそんな他人行儀な呼び方なの?昔みたいに春って呼んでくれなきゃ寂しいじゃない」
「春、と呼んでましたか?私が?」
「私と秋ちゃんが仲良くしてた頃はそう呼んでたのよ」
それは半分本当であり、半分嘘だ。
春と呼んでいたのは確かだが、そう呼ばなければ春乃の機嫌が猛烈に急降下して面倒なことになるので、仕方なくそう呼んでいただけである。
機嫌の悪さで他人を操る。
周りに傅かれて育ってきた、特権階級を自称する人間の典型だ。
「秋ちゃん、座って。ゆっくり話がしたいから」
まるで自分がこの部屋の主人かのような振る舞い。
ゆっくり話をしたいと望むなら、後ろに黒い柱を3本も立たせておかないと思うのだが。
出来れば近づきたくはないけれど、このまま立っていても展開は進まないだろうと判断して、鳴成は仕方なく春乃の前に座った。
1か月前に面と向かって会った以来だ。
鳴成の後頭部は奥の方が痛み、薄っすらと吐き気に襲われ始める。
「秋ちゃん、ひどいじゃない。久しぶりに再会した時は汗かいて倒れちゃうし、それから何回も会いたいってお願いしに行ったのに秋ちゃんにくっついてるあの男が妨害してくるし。秋ちゃんは私が恋しくなかったの?」
「申し訳ないんですが、あなたと過ごした小学校時代の記憶を失くしていまして。当時の担当医師にも無理に取り戻す必要はないと判断されたので、残念ながら30年前の交流についてはよく憶えていないんです」
「そんな!私たち本当に仲が良かったのにひどい!一緒に本を読んだりお喋りしたり一緒に帰ったり、シャーペンとか帽子とかくれて、私の家まで遊びに来てくれたこともあったのに!」
「そんなことが?本当に……?」
空白の期間はあれど、鳴成の思い出せる限り自身の性格が大きく変わったことはなかったはずだ。
いま相対するこの女性には嫌悪感しか抱かないのに、幼少の頃は果たして本当に仲良くできていたのだろうか。
『ノートとか絵の具とか、色々と物が無くなってるのには気づいてる?』
『もしかしたら誰かが、史くんの物を勝手に持ってっちゃってるんじゃなかなって思ってるの』
ばやける記憶の片隅で、いつかの母の声が蘇る。
もしかしたら春乃の記憶は混同しているのかもしれない。
あげてない物をくれたと言い、特筆して仲が良かったわけではないがそう思い込んでいるのかもしれない。
「秋ちゃんってば、本当に。昔も浮世離れしたところがあったけど、大人になっても変わらないのね。やっぱり私がそばにいてあれこれやってあげないとダメね。あんな低俗でしょうもないTAに任せてたら、どんどん秋ちゃんのレベルが下がっちゃう」
「月落くんは誠実で善良な人です。彼を侮辱するのは許さない」
次第にズキズキと熱を持ち始めた頭痛に顔を顰めながら、それでも鳴成は確たる意思表示をした。
反論されると思っていなかった春乃が、瞬時に目尻を吊り上げて大声を出した。
「うるさいわね!一体誰に意見してるのよ!私はあの粕川勝造の娘よ!?忘れたの!?私が嫌いって言ったらみんな嫌いじゃなきゃダメなの!私がいらないって言ったら絶対に排除されなきゃダメなの!」
両手でテーブルを叩きつけた春乃は勢いのまま立ち上がると、鳴成のすぐ目の前まで身を寄せた。
先ほどまでの怒りの形相は一瞬で消え、代わりに、年齢の割に一切皺のないつるりとした顔でにっこりと笑った。
「秋ちゃんは相変わらず綺麗でやっぱり大好き。綺麗なものはずっと大好き、ずっと私のもの。子供の頃に私から逃げたことは許してあげる。きっと自分の立場も身分も分かってなかったでしょうから。でも、今回は許さない」
爪の長い指で頬を撫でらて、皮膚が引き攣れたように強張る。
背筋を這い上がる猛烈な寒気、込み上げる吐き気。
息苦しくて空気が上手く吸えない。
震える身体は金縛りにあったように動かない。
至近距離で覗きこんでくる眦に、あの日の恐怖がまざまざと蘇ってくる。
家に来て欲しいと誘われたのを断ると、父は仕事を失い家族も貧窮するだろうと脅された。
車で移動している最中も無理やり手を繋がれ、髪や頬を撫でられ。
部屋に入れられてからは薄暗いベッドの上で、いつの間にか失くした自分の所有物だったものに囲まれて、おぞましい告白をされた。
鳴成が何も言えず黙っていると、半狂乱になった春乃に強制的に「好きだ」と言わされた。
何度も何度も。
強要した疑似告白で悦に入る少女の笑顔は、おぞましさ以外の何物でもなかった。
『ずっと私のそばにいて、ずっと。秋ちゃんは私のものだから、自由なんていらない』
ひとつひとつ脳裏に浮き上がってくる忌まわしいシーンに耐え切れず、鳴成は目を覆うように手の平を翳す。
その手首を、爪の長い春乃の指に掴まれ引っ張られた。
遠のいていく自分の手。
他人事のように眺める。
力なく差し出す格好になったその先にあるのは春乃のもう一方の手、そして握られている赤い紐。
途端、鮮明な映像がフラッシュバックする。
あの日、天蓋に閉ざされた空間で、同じことをされそうになったのを思い出す。
自分の手首と春乃の手首を、一纏めにしようとする赤。
『私たちは運命だから』
「私たちは運命だから、赤い糸で結ばれてなくちゃね」
楽し気に笑う春乃の明るい声とは対照的に、血の気を失くした鳴成の真っ白い顔。
最高潮に頭を殴る頭痛に意識が朦朧となるのを感じていると、そこに。
電子音のすぐ後で、蹴破られたと思しき扉が乱暴に開く音が響いた。
「先生!」
力が入らず椅子からずり落ちそうになっていた鳴成の身体を支える、一陣の風。
それは自分をやわらかく包むと同時に、目の前の諸悪の根源を一思いに吹き飛ばした。
「きゃあっ!!ちょっと何すんのよ!」
後ろに控えていた黒スーツに抱き留められ転ぶことはなかった春乃は、体勢を直すと即座に怒声を張り上げた。
「先生、怪我してませんか?」
向けられた怒りをきっぱりと無視して、月落は鳴成の足元に跪く。
気を失ってはいないようだが、ぐったりとつらそうな鳴成の額に手を当てる。
崩れた前髪を整えながら声をかけた。
「先生?分かりますか?怖かったですね、もう大丈夫です」
「……ぁ、つきおちくん、?」
「そうです。ひとりにしてごめんなさい。不安にさせてごめんなさい。僕がいるから、もう何も怖いものはありません。大丈夫、大丈夫です」
涙の膜を張った瞳にぼおっと見つめられながら、月落はゆっくりゆっくり染みこませるように言葉を紡いだ。
血の気を失くした頬を、そっと撫でる。
「先生、僕がいます。僕が必ず守りますから」
嘘のない想いに、安心しかない言葉に、それまで硬直していた鳴成の身体からほっと力が抜けた。
じわじわと動くようになった両腕を素直に目の前の男に差し出すと、一切の躊躇いもなく抱き締められた。
自分よりも大きくて逞しい、全身全霊で凭れ掛かっても難なく受け止めてくれる人。
霧散する恐怖心の代わりに訪れた平穏に、鳴成は瞼を閉じる。
「あんた何よいきなり現れて!邪魔なのよ!私と秋ちゃんの間に入ってこないで!私を誰だと思ってるの!」
抱き合う鳴成と月落に、フューシャピンクの悪魔の手が伸びる。
その細い手首を大きな手の平で掴むと、月落は少しだけ力を込めた。
「痛い!ちょっと痛いじゃない!離しなさいよ、離して!暴行罪で訴えてやるわ!」
キャンキャンと五月蠅く吠える春乃を、黒いスーツの壁に押し返すように放す。
思わず触れてしまった左手を不愉快だとでも言うように、月落は自分の服で拭いた。
「はぁ?あんた本当にムカつくわね!」
「ボリュームを落としていただけますか?やっと落ち着いた先生を驚かせたくないので」
「私の秋ちゃんから離れなさいよ!何様なのよ!」
「お帰りいただけますか?不法侵入として大学側に抗議をしますよ?」
「私を誰だか分かってないのね。父はこの大学の学長と知り合いだから、誰も私を裁けないの!小物がしゃしゃり出ないで!」
その言葉を聞いて、今まで抱き締めた鳴成だけを見ていた月落が、初めて春乃へと視線を合わせた。
「小物が何を仰る。大学規模程度の威光を権力として振りかざされても、こちら側とスケールの大きさが合わなくて困りますね」
「大学規模程度?何よ、身の程知らずが。与党一の議員である私の父に不可能はないんだから!」
「厳重な箱で育てられただけはあるようですね。真実、世間を知らなさすぎる」
嘲るように月落が笑う。
鳴成の前では見せたことのない、これからも決して見せることのない顔。
「我が一族にかかれば粕川家など明日にでも存在を抹消できるでしょう。初めからそうするのが賢明でした。やはり無価値な人間に不要な情けは無意味でした」
「はぁ?だから、あんた自分を何様だと」
「月落、と言えば話が通じるでしょうか」
さらりと落とされたその名に、春乃は訝し気だったが、後ろにいた黒いスーツ三名が明らかに動揺した。
「……月落って言ったか?まさか、あの月落か?」
「え、ちょっと待ってください、待って待って。僕はあの人、カナダの大学通ってた帰国子女だと聞いてるんですが」
「俺も俺も、俺もそう聞いてる。あ、待てよ。だからさっき、金渡して協力してもらった女子学生の子と話が合わなかったのか。元バックパッカーのTAって言ったとき、小首傾げてたな」
「はぁ?お前、それ先に言えよ」
「ごめんごめん。あの子、月落っては言わなかったから分かんなかったんだよ」
「僕、相手が月落って聞いてたらこんな仕事引き受けませんでした。長生きしたいんで」
「粕川のおっさんから何も聞かされてないよな?」
「聞かされてたらこんな仕事受けてないって。TOGはまずい、さすがにまずい。とっとと逃げたい。本当に俺らの存在なんてあっという間に抹消されるぞ」
小声で交わされる会話。
その者たちの顔色は総じて青い。
「ちょっと!あんたたち、何べらべら喋ってんのよ!うるさいじゃない!」
「お嬢様、ここは一旦退散した方がよろしいと思います。TOGは粕川議員でも敵う相手じゃありません」
「あんた、うちのお父さんを見くびるつもり?!TOGなんて知りもしないし、どうせどっかの成り上がりでしょう?!」
会話を聞いていた月落は、春乃から後ろの男たちへと視線を移した。
「そちらのお嬢様を連れてお帰りいただいても?煩わしい方には即刻お引き取りいただきたいんですが」
「ちょ、何よ煩わしいって……、てあんたたち何よ!離しなさい!何で私の言うことじゃなくてこいつに従うのよ!」
三名がかりで腕を取られながら、引きずられるようにして春乃は連れて行かれる。
「ああ、粕川勝造議員にお伝えください。約束をお破りになるとは誠に残念です。こちらの信頼を裏切られたことについては後日きちんと話し合いの場を設けたく、ご連絡をお待ちください、と」
「か、かしこまりました」
「ちょっと、離して、月落が何だって言うのうよ!私に逆らうなんて許さない!許さないから!」
パタンと扉が閉まった後も廊下に木霊する春乃の声。
それを聞きながら、月落の胸は凍てつく氷を落とされたように冷えきるのを感じていた。
許さないのは、こちらだ。
扉を開ける。
そこには無人の空間が広がっている、はずだった。
「秋ちゃん、授業お疲れさま。今日も学生の質問にまじめに答えてたの?私、待ちくたびれちゃった」
中央の大きなテーブルには赤とピンクのチェック柄のジャケットを着た女性が座っていた。
後ろには、黒いスーツを着た男性三名を従えている。
その異質な四名の存在のせいで、自分の部屋なのにまるで他人の部屋かのような違和感がある。
「粕川春乃さん……どうしてここに?」
「やだ、秋ちゃん。なんでそんな他人行儀な呼び方なの?昔みたいに春って呼んでくれなきゃ寂しいじゃない」
「春、と呼んでましたか?私が?」
「私と秋ちゃんが仲良くしてた頃はそう呼んでたのよ」
それは半分本当であり、半分嘘だ。
春と呼んでいたのは確かだが、そう呼ばなければ春乃の機嫌が猛烈に急降下して面倒なことになるので、仕方なくそう呼んでいただけである。
機嫌の悪さで他人を操る。
周りに傅かれて育ってきた、特権階級を自称する人間の典型だ。
「秋ちゃん、座って。ゆっくり話がしたいから」
まるで自分がこの部屋の主人かのような振る舞い。
ゆっくり話をしたいと望むなら、後ろに黒い柱を3本も立たせておかないと思うのだが。
出来れば近づきたくはないけれど、このまま立っていても展開は進まないだろうと判断して、鳴成は仕方なく春乃の前に座った。
1か月前に面と向かって会った以来だ。
鳴成の後頭部は奥の方が痛み、薄っすらと吐き気に襲われ始める。
「秋ちゃん、ひどいじゃない。久しぶりに再会した時は汗かいて倒れちゃうし、それから何回も会いたいってお願いしに行ったのに秋ちゃんにくっついてるあの男が妨害してくるし。秋ちゃんは私が恋しくなかったの?」
「申し訳ないんですが、あなたと過ごした小学校時代の記憶を失くしていまして。当時の担当医師にも無理に取り戻す必要はないと判断されたので、残念ながら30年前の交流についてはよく憶えていないんです」
「そんな!私たち本当に仲が良かったのにひどい!一緒に本を読んだりお喋りしたり一緒に帰ったり、シャーペンとか帽子とかくれて、私の家まで遊びに来てくれたこともあったのに!」
「そんなことが?本当に……?」
空白の期間はあれど、鳴成の思い出せる限り自身の性格が大きく変わったことはなかったはずだ。
いま相対するこの女性には嫌悪感しか抱かないのに、幼少の頃は果たして本当に仲良くできていたのだろうか。
『ノートとか絵の具とか、色々と物が無くなってるのには気づいてる?』
『もしかしたら誰かが、史くんの物を勝手に持ってっちゃってるんじゃなかなって思ってるの』
ばやける記憶の片隅で、いつかの母の声が蘇る。
もしかしたら春乃の記憶は混同しているのかもしれない。
あげてない物をくれたと言い、特筆して仲が良かったわけではないがそう思い込んでいるのかもしれない。
「秋ちゃんってば、本当に。昔も浮世離れしたところがあったけど、大人になっても変わらないのね。やっぱり私がそばにいてあれこれやってあげないとダメね。あんな低俗でしょうもないTAに任せてたら、どんどん秋ちゃんのレベルが下がっちゃう」
「月落くんは誠実で善良な人です。彼を侮辱するのは許さない」
次第にズキズキと熱を持ち始めた頭痛に顔を顰めながら、それでも鳴成は確たる意思表示をした。
反論されると思っていなかった春乃が、瞬時に目尻を吊り上げて大声を出した。
「うるさいわね!一体誰に意見してるのよ!私はあの粕川勝造の娘よ!?忘れたの!?私が嫌いって言ったらみんな嫌いじゃなきゃダメなの!私がいらないって言ったら絶対に排除されなきゃダメなの!」
両手でテーブルを叩きつけた春乃は勢いのまま立ち上がると、鳴成のすぐ目の前まで身を寄せた。
先ほどまでの怒りの形相は一瞬で消え、代わりに、年齢の割に一切皺のないつるりとした顔でにっこりと笑った。
「秋ちゃんは相変わらず綺麗でやっぱり大好き。綺麗なものはずっと大好き、ずっと私のもの。子供の頃に私から逃げたことは許してあげる。きっと自分の立場も身分も分かってなかったでしょうから。でも、今回は許さない」
爪の長い指で頬を撫でらて、皮膚が引き攣れたように強張る。
背筋を這い上がる猛烈な寒気、込み上げる吐き気。
息苦しくて空気が上手く吸えない。
震える身体は金縛りにあったように動かない。
至近距離で覗きこんでくる眦に、あの日の恐怖がまざまざと蘇ってくる。
家に来て欲しいと誘われたのを断ると、父は仕事を失い家族も貧窮するだろうと脅された。
車で移動している最中も無理やり手を繋がれ、髪や頬を撫でられ。
部屋に入れられてからは薄暗いベッドの上で、いつの間にか失くした自分の所有物だったものに囲まれて、おぞましい告白をされた。
鳴成が何も言えず黙っていると、半狂乱になった春乃に強制的に「好きだ」と言わされた。
何度も何度も。
強要した疑似告白で悦に入る少女の笑顔は、おぞましさ以外の何物でもなかった。
『ずっと私のそばにいて、ずっと。秋ちゃんは私のものだから、自由なんていらない』
ひとつひとつ脳裏に浮き上がってくる忌まわしいシーンに耐え切れず、鳴成は目を覆うように手の平を翳す。
その手首を、爪の長い春乃の指に掴まれ引っ張られた。
遠のいていく自分の手。
他人事のように眺める。
力なく差し出す格好になったその先にあるのは春乃のもう一方の手、そして握られている赤い紐。
途端、鮮明な映像がフラッシュバックする。
あの日、天蓋に閉ざされた空間で、同じことをされそうになったのを思い出す。
自分の手首と春乃の手首を、一纏めにしようとする赤。
『私たちは運命だから』
「私たちは運命だから、赤い糸で結ばれてなくちゃね」
楽し気に笑う春乃の明るい声とは対照的に、血の気を失くした鳴成の真っ白い顔。
最高潮に頭を殴る頭痛に意識が朦朧となるのを感じていると、そこに。
電子音のすぐ後で、蹴破られたと思しき扉が乱暴に開く音が響いた。
「先生!」
力が入らず椅子からずり落ちそうになっていた鳴成の身体を支える、一陣の風。
それは自分をやわらかく包むと同時に、目の前の諸悪の根源を一思いに吹き飛ばした。
「きゃあっ!!ちょっと何すんのよ!」
後ろに控えていた黒スーツに抱き留められ転ぶことはなかった春乃は、体勢を直すと即座に怒声を張り上げた。
「先生、怪我してませんか?」
向けられた怒りをきっぱりと無視して、月落は鳴成の足元に跪く。
気を失ってはいないようだが、ぐったりとつらそうな鳴成の額に手を当てる。
崩れた前髪を整えながら声をかけた。
「先生?分かりますか?怖かったですね、もう大丈夫です」
「……ぁ、つきおちくん、?」
「そうです。ひとりにしてごめんなさい。不安にさせてごめんなさい。僕がいるから、もう何も怖いものはありません。大丈夫、大丈夫です」
涙の膜を張った瞳にぼおっと見つめられながら、月落はゆっくりゆっくり染みこませるように言葉を紡いだ。
血の気を失くした頬を、そっと撫でる。
「先生、僕がいます。僕が必ず守りますから」
嘘のない想いに、安心しかない言葉に、それまで硬直していた鳴成の身体からほっと力が抜けた。
じわじわと動くようになった両腕を素直に目の前の男に差し出すと、一切の躊躇いもなく抱き締められた。
自分よりも大きくて逞しい、全身全霊で凭れ掛かっても難なく受け止めてくれる人。
霧散する恐怖心の代わりに訪れた平穏に、鳴成は瞼を閉じる。
「あんた何よいきなり現れて!邪魔なのよ!私と秋ちゃんの間に入ってこないで!私を誰だと思ってるの!」
抱き合う鳴成と月落に、フューシャピンクの悪魔の手が伸びる。
その細い手首を大きな手の平で掴むと、月落は少しだけ力を込めた。
「痛い!ちょっと痛いじゃない!離しなさいよ、離して!暴行罪で訴えてやるわ!」
キャンキャンと五月蠅く吠える春乃を、黒いスーツの壁に押し返すように放す。
思わず触れてしまった左手を不愉快だとでも言うように、月落は自分の服で拭いた。
「はぁ?あんた本当にムカつくわね!」
「ボリュームを落としていただけますか?やっと落ち着いた先生を驚かせたくないので」
「私の秋ちゃんから離れなさいよ!何様なのよ!」
「お帰りいただけますか?不法侵入として大学側に抗議をしますよ?」
「私を誰だか分かってないのね。父はこの大学の学長と知り合いだから、誰も私を裁けないの!小物がしゃしゃり出ないで!」
その言葉を聞いて、今まで抱き締めた鳴成だけを見ていた月落が、初めて春乃へと視線を合わせた。
「小物が何を仰る。大学規模程度の威光を権力として振りかざされても、こちら側とスケールの大きさが合わなくて困りますね」
「大学規模程度?何よ、身の程知らずが。与党一の議員である私の父に不可能はないんだから!」
「厳重な箱で育てられただけはあるようですね。真実、世間を知らなさすぎる」
嘲るように月落が笑う。
鳴成の前では見せたことのない、これからも決して見せることのない顔。
「我が一族にかかれば粕川家など明日にでも存在を抹消できるでしょう。初めからそうするのが賢明でした。やはり無価値な人間に不要な情けは無意味でした」
「はぁ?だから、あんた自分を何様だと」
「月落、と言えば話が通じるでしょうか」
さらりと落とされたその名に、春乃は訝し気だったが、後ろにいた黒いスーツ三名が明らかに動揺した。
「……月落って言ったか?まさか、あの月落か?」
「え、ちょっと待ってください、待って待って。僕はあの人、カナダの大学通ってた帰国子女だと聞いてるんですが」
「俺も俺も、俺もそう聞いてる。あ、待てよ。だからさっき、金渡して協力してもらった女子学生の子と話が合わなかったのか。元バックパッカーのTAって言ったとき、小首傾げてたな」
「はぁ?お前、それ先に言えよ」
「ごめんごめん。あの子、月落っては言わなかったから分かんなかったんだよ」
「僕、相手が月落って聞いてたらこんな仕事引き受けませんでした。長生きしたいんで」
「粕川のおっさんから何も聞かされてないよな?」
「聞かされてたらこんな仕事受けてないって。TOGはまずい、さすがにまずい。とっとと逃げたい。本当に俺らの存在なんてあっという間に抹消されるぞ」
小声で交わされる会話。
その者たちの顔色は総じて青い。
「ちょっと!あんたたち、何べらべら喋ってんのよ!うるさいじゃない!」
「お嬢様、ここは一旦退散した方がよろしいと思います。TOGは粕川議員でも敵う相手じゃありません」
「あんた、うちのお父さんを見くびるつもり?!TOGなんて知りもしないし、どうせどっかの成り上がりでしょう?!」
会話を聞いていた月落は、春乃から後ろの男たちへと視線を移した。
「そちらのお嬢様を連れてお帰りいただいても?煩わしい方には即刻お引き取りいただきたいんですが」
「ちょ、何よ煩わしいって……、てあんたたち何よ!離しなさい!何で私の言うことじゃなくてこいつに従うのよ!」
三名がかりで腕を取られながら、引きずられるようにして春乃は連れて行かれる。
「ああ、粕川勝造議員にお伝えください。約束をお破りになるとは誠に残念です。こちらの信頼を裏切られたことについては後日きちんと話し合いの場を設けたく、ご連絡をお待ちください、と」
「か、かしこまりました」
「ちょっと、離して、月落が何だって言うのうよ!私に逆らうなんて許さない!許さないから!」
パタンと扉が閉まった後も廊下に木霊する春乃の声。
それを聞きながら、月落の胸は凍てつく氷を落とされたように冷えきるのを感じていた。
許さないのは、こちらだ。
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頼られたら嫌とは言えない南澤燈真は高校二年生。クールなイケメン後輩、北門唯が置き忘れたスマホを手に取ってみると、ロック画が何故か中学時代の燈真だった! 北門はモテ男ゆえに女子からしつこくされ、燈真が助けることに。その日から学年を越え急激に仲良くなる二人。燈真は誰にも言えなかった悩みを北門にだけ打ち明けて……。一途なメロ後輩 × 絆され男前先輩の、救いすくわれ・持ちつ持たれつラブ!
☆ノベマ!の青春BLコンテスト最終選考作品に加筆&新エピソードを加えたアルファポリス版です。
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