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二章
09. やっと手に入れる朝
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2-9
クイーンサイズのベッドが置かれているのとは反対側の四角い天窓から、太陽の光が燦燦と煌めいて無数のベールを作る。
清らかに踊る、銀のオーロラ。
土曜日、7時30分。
だいぶ前から目の覚めていた鳴成秋史は、けれど微動だにできず未だ広いベッドの上から抜け出せずにいる。
それはなぜか。
もぞりと微かに動いただけで額が当たる白い生地、肩を抱きこむ力強い腕、腰に回るもう一方の腕。
人肌でのしなやかな拘束は、きつすぎないのに不思議と逃げることが叶わない。
むしろぴたりと寄り添い、深く上下する胸のリズムがあまりに心地良くて、夜明け前に覚醒した鳴成を再度眠りの谷へと誘うのには十分だった。
二度目起きても全く同じ体勢だったのには、若干驚いたけれど。
昨日自分を救って癒して面倒を見てくれた年下の男は、暗闇の中でも決して離さずにいてくれたらしい。
独りになりたくない、と夕方の研究室で弱弱しく告げた自分を、本当に独りにせず守ってくれた。
申し訳なさがないと言えば嘘になるが、それ以上の感謝と安寧が込み上げる。
そしてそれは、別の感情も連れてきた。
愛しさ。
気泡のように小さく弾ける、止めどない愛しさ。
ぱちぱちと胸の壁を打つ微弱の衝撃に鼓動が高鳴って、それが朝の爽やかな眩しさに煽られて。
理性をぼやけさせる。
箍が外れる音がする。
衝動には抗えなかった。
鳴成は最大限上を向くと、眠る男の唇の端に触れるだけのキスをした。
「……え、先生?」
瞬間、眠りの余韻など一切感じさせない挙動で月落の目が開かれた。
「え、きみ、起きて、」
「先生、今もしかしてキスし……むぐっ」
とんでもなく都合の悪いことを吐き出そうとする口を、鳴成は思わずと言った様子で塞ぐ。
焦った様子で普段にない行動を取りながら、可哀想なほどに視線を右往左往させる鳴成の姿を見たおかげで、月落は平常心を手放さずに済んだ。
キスをされた。
まさか。
本当に?
あまりにも隙間なく抱き締めていたせいで事故的に唇同士が当たってしまった可能性はなきにしもあらずだが、鳴成の顔は先ほどまで確かに自分の胸元にあったはずだ。
離れて伸びをしなければ顔には届かない。
となれば、あれは意図的で意識的なものだったに違いない。
キスをされた。
まさか。
いや、これはきっとそのまさかだ。
……本当に?
「先生?」
月落は、自分の口元を覆っている指先のガードをやんわりと外させると、仄かに朱に染まる鳴成の頬を両手でふわりと包んだ。
「先生、こっち見てください」
諦め悪く下を向く鳴成を短い言葉で従わせると、気まずそうに見つめてくる視線をしっかりと受け止めた。
まばたきの多い瞳、懸命に言い訳を探しているようにも見える。
そのいじらしくも庇護欲をそそる想い人の姿は、月落の腹の奥に熱い炎を点火するのに十分だった。
鳴成の脚を開いて自身の身体を割り込ませた月落は、二人分の体重をもろともせず左腕だけを支えに起き上がる。
広いベッドの真ん中、自分を跨ぐ姿勢で座った鳴成を強く抱き締めた。
太腿に乗るしっかりした質量に、歓喜のため息が無意識に出る。
「……つ、月落くん?いきなりこの格好は……重いのでどきます。あの、手を放して、」
説明なし予備動作なしのいきなりの暴挙に出た月落に抗議をしようにも、気持ちも言葉も色々と追いつかずしどろもどろになる鳴成。
それをゆったりと眺めつつ腰に回した両腕を交差して逃げられないようにした月落は、その白磁の顔中にキスの雨を降らせ始める。
本人の了承は得ないままだが、今はそんなこと構っていられない。
「待ってくださっ、あの……月落く、ん……」
いつも必ずこちら側の気持ち優先で動いてくれる年下の青年。
その仮面を脱ぎ捨てたように、まるで本能のまま好き勝手する様子に鳴成の身体は逃げを打つけれど、後頭部を押さえられていてはどうしようもない。
月落の浮かされたような熱い眼差しに鳴成の胸にも同じ炎が移るようで、堪えきれずに閉じる瞼。
耳元、顎下、頬、こめかみ、眉、瞼、鼻先、そして唇の端。
近づくほどに震える唇。
それは、秘かに望んでいたことへの期待からか、それとも境界線を越えてしまったら戻れなくなる日常への未練か。
自分の身体なのに、分からない。
自分の心なのに、分からない。
分からないけれど、勝手に開いて月落を迎え入れそうになる唇を、鳴成は奥歯を噛んでどうにか誤魔化す。
自分を抱き上げて囲いこむ男の首に両腕を回して、離れないと意思表示していることには気づかずに。
ちぐはぐな鳴成とは対照的に、危うい場所まで顔を近づけていた月落はふいにその距離を開けた。
潤むヘーゼルの視線とかち合う。
熱い熱い眼差しで鳴成の心を独占しながら、左手を掬って持ち上げると、その薬指に口づけを落とした。
「先生。好きです、先生」
実直な黒の瞳、堪えきれぬ想いがどうしようもなく滲む吐息、飾らない告白。
太陽を背負いながら透きとおった空気の中で、純真無垢な言葉を伝えてくれる人。
それがあまりにもハッピーエンドの絵本のようで、あまりにも美しくて、あまりにも非現実的で。
「尽くしても尽くしても尽くし足りなくて、ときどき自分でも怖くなります。でも、先生が喜んでくれると空も飛べるくらい嬉しくて、次は何を贈ろうかと考える時間もご褒美みたいで。先生は、何もかも足りているからこそ芯の部分で冷めていた俺の日常を、あたたかいものへと変えてくれました。誠実で、格好良くて、だけど時々驚くほどあどけなくて、清廉で、寛容で、凪いだ海のようで。こんなにも会いたい、もっともっと話がしたい、すべてを捧げたいと思ったのは、先生が初めてです」
下ろしている鳴成の前髪はそっとかき分けられて、額に真綿のような触れ合いが落ちる。
互いの息の音だけが聞こえる。
「こんなことを突然言われて、きっと困惑してると思います。同性同士ということが、気持ちの面で簡単に踏み切れない枷になることも理解してます。待ちます、いくらでも。先生が人間的に俺を良く思ってくださっていることは、勘違いじゃないですよね?それが恋人としてもそう思ってくださるまで。さっきの先生からのキスが今は気の迷いだとしても、いつか躊躇わずに親密になれる日が来るまで。ずっと待ってます。だから、俺と恋愛する未来を好意的に考えてくださいませんか?」
どこまでも相手に押しつけない。
こんな体勢なのだから、無理やり唇にキスして奪うようなやり方だって可能なはずなのに。
そんなことは絶対にしない。
この年下の男はそんなことは絶対にしないと何故か自分が断言できるほどに、時間をかけて強固な関係を構築してくれた。
もしも出会って僅かの間で勢いに任せてこんなことをされたら、鳴成は間違いなく逃げ出していただろう。
待ってくれた、そしてこれからも待つと言う。
こちら側の覚悟はもうすでに決まっているのに。
その気遣いが心を容赦なく揺らして、躊躇いを遠くへと連れ去る。
「きみは、僕も同じ気持ちを抱いているということは予想していないんですね?」
そう言うと鳴成は、月落の頬を両手で挟んで唇をそっと重ね合わせた。
数秒そうして身体を離すと、呆けたように瞬きを繰り返す顔に出会う。
その様子が可愛くて、鳴成はもう一度小さいキスをした。
「え、先生?これって、もしかして……」
「僕もきみが好きです。今までの人生で、会話のやりとりも空気感も物事に相対する温度も、これほどまでに馴染む人はきみ以外に会ったことがありません。自分なりに明るい世界で自分なりに幸せに暮らしてきましたが、きみはその世界に彩りを加えて、奥深さを加えて、誰かを想う最上の喜びを加えてくれた」
鳴成は、自分と同様に下ろしている黒の前髪をかき分けて、羽根のような触れ合いを落とした。
じわじわと熱っぽく眇められていく瞳にもキスをしてなだめていると、腰に回されていた月落の手の平が背中を這い上がってより身体を密着させられる。
もうこれ以上は我慢できないという様子で近づいてくる整った容貌に、口を開いて応えた。
何度か啄んで、両者の想いは名残惜し気に離れる。
「ずっと、これから先もこうして一緒にいたいです。きみは問題解決能力の高い人なので、どんな火の粉も振り払えるだろうということは承知していますが、この先の道のりで困難に遭遇した時は必ず僕が助けます。きみをずっと、誰より大切にします。だから……きみの未来を僕にくれますか?」
真摯な告白に言葉もなく大きく数度頷いた月落は、ぎゅうっと強く鳴成を抱き締めた。
肩と肩を合わせるように、腕と腕を合わせるように、心臓と心臓を合わせるように。
ふたつに分かれてしまった個体を、ひとつに戻すように。
指先ひとつ分の隙間もない容赦のない抱擁に、鳴成は月落の背中を叩いて抗議するが、腕の力が緩むことはない。
「痛いですよ?」
「8か月分の恋情が報われて暴走中なので、少し大目に見ていただけると嬉しいです」
「8か月前というと出会った頃ですね。もしかして、きみは最初から僕のことを……?」
「はい、実は。気持ち悪がられるだろうと思って言わなかったんですが、TAに応募したのは先生目当てというのが一番の理由でした」
明かされた真実に、鳴成は驚きながら月落の顔を覗き込む。
「僕たち、前に会ったことがありましたか?」
「いいえ。日本に帰国してたまたま観た報道番組で逢宮の特集が組まれていたんです、そこに一瞬映った先生の顔があまりに好みど真ん中で、すぐに、調べ……まし、た」
気まずそうに表情を歪めながら、どんどん尻すぼみになる自白。
まじまじと見つめていると、力なく項垂れた月落が鳴成の肩に凭れ掛かる。
夜景ひしめくいつぞやの夜を思い出させる仕草に、鳴成はあの時と同じように黒髪を撫でた。
「不純な理由ですみません」
「いいえ。きみは実力で採用されたので、何も後ろめたさを感じる必要はありません。むしろ、そういった気持ちを隠して面接に臨んでもらえて良かったです。そういう類の方は初めから不採用枠だったので」
「他にもいたんですね、先生目的の人が」
月落は、眼前の首筋や耳の下を唇でなぞる。
「あはは……くすぐったい」
仰け反って逃げる鳴成に構わず、月落の悪戯は止まない。
「きみは触ってないと会話ができないんですか?」
「できません。今までだって触りたくて触りたくて仕方なかったのに、必死で我慢するしかなかったんです。しばらくは俺のターンなので、今度は先生が我慢してください」
「しばらくってどれくらい?」
「うーん……短くて30年くらい?」
「『しばらく』の時間概念が僕と大いにズレている気がするんですが……お爺さんになっても触るの?」
「見た目がどう変わろうとも、それが先生ならば手も繋ぐし、ハグもするし、キスもします。先生は俺の最後の人ですから」
覚悟してください、とうっとりした黒の眼で乞われる。
覚悟はとうにできているつもりだったが、もう少し強度を上げた方が良さそうだ。
けれど、鳴成とて離すつもりはない。
この巡り合わせを、一生手放すつもりはない。
「きみは僕の人生最愛の人です」
そう告げると、月落は一瞬瞠目したあと、顔を盛大に綻ばせて笑った。
己の太腿の上に大人しく跨っていた鳴成の身体を持ち上げると、月落は後ろへ倒れてベッドにダイブする。
体躯の良い自分がこんなにも誰かの自由にされた経験のない鳴成は、水泳と筋トレで鍛えられた大型犬の筋肉に感心すると共に、それが素直に楽しくて声を出して笑ってしまう。
「気に入りました?」
「ええ、幼い頃に戻ったみたいです。まさか、おじさんになって抱っこされたり転がされたりする日が来るとは思いませんでした」
「おじさんじゃないです。お望みとあれば毎日して差し上げますね」
「きみが腰を痛めてしまうと気の毒なので、それは遠慮します」
起きた時と同様に、鳴成を胸に抱きこむようにしながらふたりで寝転がる。
昨日の昼から何も食べていない鳴成の空腹具合を気にするべきなのだろうが、今はこうしてくっつくことに全力を傾けたくて。
「もう一度寝ますか?」
「先生は眠いですか?」
「うーん、そこそこですね。でも、きみにこうされていると眠ってしまいそうです」
「俺も先生が腕の中にいると、ほんのりあったかくて寝ちゃいそうです」
ヘーゼルの髪にキスをする。
してもしても足りなくて、いつか嫌がられるのではないかと心配になるけれど、嫌がられたらそれはその時に考えよう。
叱られても、きっと幸せだろうから。
「いや、むしろ叱られたい……」
「何ですか?」
「先生が俺を叱る日が来るのかなと思っただけです」
「どうでしょう……そういえばきみは、プライベートな空間では一人称が変わるんですね」
「あ、そうですね、無意識でした。でも、先生も変わってますよ?」
「え、僕もですか?あ……無意識でした」
「前に先生が酔ってここに泊まった時にもそうなってたので、その一人称の先生に久しぶりに会えて嬉しいです」
「何それ」
重なりながら、くすくすと笑い合う。
いつも通りの尽きない会話、いつも通りのじゃれ合い、いつもとは形を変えた関係性。
どちらかの想いが死なない限り、この関係性は未来永劫壊れない。
やっと手に入った。
やっとやっと念願が叶った。
「先生、………先生?」
愛しい人が微睡みを漂っても、月落はいつまでもその髪を梳いていた。
その存在を、腕の中に感じ続けていた。
その日の午後。
月落お手製のブランチを8割程度食べた鳴成を自宅まで送り、その足で月落は実家へと寄った。
父の書斎へと向かう途中で、電話をかける。
「喂,渉哥」
「小浩,你现在有空吗?你能给我发送 “深圳交通建設 ”的详细信息吗?」
「好啊, 没问题!」
-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-
「もしもし?」
「小浩、いま時間あるか?深圳交通建設の詳細を送ってほしいんだけど」
「オッケー!いいよ!」
クイーンサイズのベッドが置かれているのとは反対側の四角い天窓から、太陽の光が燦燦と煌めいて無数のベールを作る。
清らかに踊る、銀のオーロラ。
土曜日、7時30分。
だいぶ前から目の覚めていた鳴成秋史は、けれど微動だにできず未だ広いベッドの上から抜け出せずにいる。
それはなぜか。
もぞりと微かに動いただけで額が当たる白い生地、肩を抱きこむ力強い腕、腰に回るもう一方の腕。
人肌でのしなやかな拘束は、きつすぎないのに不思議と逃げることが叶わない。
むしろぴたりと寄り添い、深く上下する胸のリズムがあまりに心地良くて、夜明け前に覚醒した鳴成を再度眠りの谷へと誘うのには十分だった。
二度目起きても全く同じ体勢だったのには、若干驚いたけれど。
昨日自分を救って癒して面倒を見てくれた年下の男は、暗闇の中でも決して離さずにいてくれたらしい。
独りになりたくない、と夕方の研究室で弱弱しく告げた自分を、本当に独りにせず守ってくれた。
申し訳なさがないと言えば嘘になるが、それ以上の感謝と安寧が込み上げる。
そしてそれは、別の感情も連れてきた。
愛しさ。
気泡のように小さく弾ける、止めどない愛しさ。
ぱちぱちと胸の壁を打つ微弱の衝撃に鼓動が高鳴って、それが朝の爽やかな眩しさに煽られて。
理性をぼやけさせる。
箍が外れる音がする。
衝動には抗えなかった。
鳴成は最大限上を向くと、眠る男の唇の端に触れるだけのキスをした。
「……え、先生?」
瞬間、眠りの余韻など一切感じさせない挙動で月落の目が開かれた。
「え、きみ、起きて、」
「先生、今もしかしてキスし……むぐっ」
とんでもなく都合の悪いことを吐き出そうとする口を、鳴成は思わずと言った様子で塞ぐ。
焦った様子で普段にない行動を取りながら、可哀想なほどに視線を右往左往させる鳴成の姿を見たおかげで、月落は平常心を手放さずに済んだ。
キスをされた。
まさか。
本当に?
あまりにも隙間なく抱き締めていたせいで事故的に唇同士が当たってしまった可能性はなきにしもあらずだが、鳴成の顔は先ほどまで確かに自分の胸元にあったはずだ。
離れて伸びをしなければ顔には届かない。
となれば、あれは意図的で意識的なものだったに違いない。
キスをされた。
まさか。
いや、これはきっとそのまさかだ。
……本当に?
「先生?」
月落は、自分の口元を覆っている指先のガードをやんわりと外させると、仄かに朱に染まる鳴成の頬を両手でふわりと包んだ。
「先生、こっち見てください」
諦め悪く下を向く鳴成を短い言葉で従わせると、気まずそうに見つめてくる視線をしっかりと受け止めた。
まばたきの多い瞳、懸命に言い訳を探しているようにも見える。
そのいじらしくも庇護欲をそそる想い人の姿は、月落の腹の奥に熱い炎を点火するのに十分だった。
鳴成の脚を開いて自身の身体を割り込ませた月落は、二人分の体重をもろともせず左腕だけを支えに起き上がる。
広いベッドの真ん中、自分を跨ぐ姿勢で座った鳴成を強く抱き締めた。
太腿に乗るしっかりした質量に、歓喜のため息が無意識に出る。
「……つ、月落くん?いきなりこの格好は……重いのでどきます。あの、手を放して、」
説明なし予備動作なしのいきなりの暴挙に出た月落に抗議をしようにも、気持ちも言葉も色々と追いつかずしどろもどろになる鳴成。
それをゆったりと眺めつつ腰に回した両腕を交差して逃げられないようにした月落は、その白磁の顔中にキスの雨を降らせ始める。
本人の了承は得ないままだが、今はそんなこと構っていられない。
「待ってくださっ、あの……月落く、ん……」
いつも必ずこちら側の気持ち優先で動いてくれる年下の青年。
その仮面を脱ぎ捨てたように、まるで本能のまま好き勝手する様子に鳴成の身体は逃げを打つけれど、後頭部を押さえられていてはどうしようもない。
月落の浮かされたような熱い眼差しに鳴成の胸にも同じ炎が移るようで、堪えきれずに閉じる瞼。
耳元、顎下、頬、こめかみ、眉、瞼、鼻先、そして唇の端。
近づくほどに震える唇。
それは、秘かに望んでいたことへの期待からか、それとも境界線を越えてしまったら戻れなくなる日常への未練か。
自分の身体なのに、分からない。
自分の心なのに、分からない。
分からないけれど、勝手に開いて月落を迎え入れそうになる唇を、鳴成は奥歯を噛んでどうにか誤魔化す。
自分を抱き上げて囲いこむ男の首に両腕を回して、離れないと意思表示していることには気づかずに。
ちぐはぐな鳴成とは対照的に、危うい場所まで顔を近づけていた月落はふいにその距離を開けた。
潤むヘーゼルの視線とかち合う。
熱い熱い眼差しで鳴成の心を独占しながら、左手を掬って持ち上げると、その薬指に口づけを落とした。
「先生。好きです、先生」
実直な黒の瞳、堪えきれぬ想いがどうしようもなく滲む吐息、飾らない告白。
太陽を背負いながら透きとおった空気の中で、純真無垢な言葉を伝えてくれる人。
それがあまりにもハッピーエンドの絵本のようで、あまりにも美しくて、あまりにも非現実的で。
「尽くしても尽くしても尽くし足りなくて、ときどき自分でも怖くなります。でも、先生が喜んでくれると空も飛べるくらい嬉しくて、次は何を贈ろうかと考える時間もご褒美みたいで。先生は、何もかも足りているからこそ芯の部分で冷めていた俺の日常を、あたたかいものへと変えてくれました。誠実で、格好良くて、だけど時々驚くほどあどけなくて、清廉で、寛容で、凪いだ海のようで。こんなにも会いたい、もっともっと話がしたい、すべてを捧げたいと思ったのは、先生が初めてです」
下ろしている鳴成の前髪はそっとかき分けられて、額に真綿のような触れ合いが落ちる。
互いの息の音だけが聞こえる。
「こんなことを突然言われて、きっと困惑してると思います。同性同士ということが、気持ちの面で簡単に踏み切れない枷になることも理解してます。待ちます、いくらでも。先生が人間的に俺を良く思ってくださっていることは、勘違いじゃないですよね?それが恋人としてもそう思ってくださるまで。さっきの先生からのキスが今は気の迷いだとしても、いつか躊躇わずに親密になれる日が来るまで。ずっと待ってます。だから、俺と恋愛する未来を好意的に考えてくださいませんか?」
どこまでも相手に押しつけない。
こんな体勢なのだから、無理やり唇にキスして奪うようなやり方だって可能なはずなのに。
そんなことは絶対にしない。
この年下の男はそんなことは絶対にしないと何故か自分が断言できるほどに、時間をかけて強固な関係を構築してくれた。
もしも出会って僅かの間で勢いに任せてこんなことをされたら、鳴成は間違いなく逃げ出していただろう。
待ってくれた、そしてこれからも待つと言う。
こちら側の覚悟はもうすでに決まっているのに。
その気遣いが心を容赦なく揺らして、躊躇いを遠くへと連れ去る。
「きみは、僕も同じ気持ちを抱いているということは予想していないんですね?」
そう言うと鳴成は、月落の頬を両手で挟んで唇をそっと重ね合わせた。
数秒そうして身体を離すと、呆けたように瞬きを繰り返す顔に出会う。
その様子が可愛くて、鳴成はもう一度小さいキスをした。
「え、先生?これって、もしかして……」
「僕もきみが好きです。今までの人生で、会話のやりとりも空気感も物事に相対する温度も、これほどまでに馴染む人はきみ以外に会ったことがありません。自分なりに明るい世界で自分なりに幸せに暮らしてきましたが、きみはその世界に彩りを加えて、奥深さを加えて、誰かを想う最上の喜びを加えてくれた」
鳴成は、自分と同様に下ろしている黒の前髪をかき分けて、羽根のような触れ合いを落とした。
じわじわと熱っぽく眇められていく瞳にもキスをしてなだめていると、腰に回されていた月落の手の平が背中を這い上がってより身体を密着させられる。
もうこれ以上は我慢できないという様子で近づいてくる整った容貌に、口を開いて応えた。
何度か啄んで、両者の想いは名残惜し気に離れる。
「ずっと、これから先もこうして一緒にいたいです。きみは問題解決能力の高い人なので、どんな火の粉も振り払えるだろうということは承知していますが、この先の道のりで困難に遭遇した時は必ず僕が助けます。きみをずっと、誰より大切にします。だから……きみの未来を僕にくれますか?」
真摯な告白に言葉もなく大きく数度頷いた月落は、ぎゅうっと強く鳴成を抱き締めた。
肩と肩を合わせるように、腕と腕を合わせるように、心臓と心臓を合わせるように。
ふたつに分かれてしまった個体を、ひとつに戻すように。
指先ひとつ分の隙間もない容赦のない抱擁に、鳴成は月落の背中を叩いて抗議するが、腕の力が緩むことはない。
「痛いですよ?」
「8か月分の恋情が報われて暴走中なので、少し大目に見ていただけると嬉しいです」
「8か月前というと出会った頃ですね。もしかして、きみは最初から僕のことを……?」
「はい、実は。気持ち悪がられるだろうと思って言わなかったんですが、TAに応募したのは先生目当てというのが一番の理由でした」
明かされた真実に、鳴成は驚きながら月落の顔を覗き込む。
「僕たち、前に会ったことがありましたか?」
「いいえ。日本に帰国してたまたま観た報道番組で逢宮の特集が組まれていたんです、そこに一瞬映った先生の顔があまりに好みど真ん中で、すぐに、調べ……まし、た」
気まずそうに表情を歪めながら、どんどん尻すぼみになる自白。
まじまじと見つめていると、力なく項垂れた月落が鳴成の肩に凭れ掛かる。
夜景ひしめくいつぞやの夜を思い出させる仕草に、鳴成はあの時と同じように黒髪を撫でた。
「不純な理由ですみません」
「いいえ。きみは実力で採用されたので、何も後ろめたさを感じる必要はありません。むしろ、そういった気持ちを隠して面接に臨んでもらえて良かったです。そういう類の方は初めから不採用枠だったので」
「他にもいたんですね、先生目的の人が」
月落は、眼前の首筋や耳の下を唇でなぞる。
「あはは……くすぐったい」
仰け反って逃げる鳴成に構わず、月落の悪戯は止まない。
「きみは触ってないと会話ができないんですか?」
「できません。今までだって触りたくて触りたくて仕方なかったのに、必死で我慢するしかなかったんです。しばらくは俺のターンなので、今度は先生が我慢してください」
「しばらくってどれくらい?」
「うーん……短くて30年くらい?」
「『しばらく』の時間概念が僕と大いにズレている気がするんですが……お爺さんになっても触るの?」
「見た目がどう変わろうとも、それが先生ならば手も繋ぐし、ハグもするし、キスもします。先生は俺の最後の人ですから」
覚悟してください、とうっとりした黒の眼で乞われる。
覚悟はとうにできているつもりだったが、もう少し強度を上げた方が良さそうだ。
けれど、鳴成とて離すつもりはない。
この巡り合わせを、一生手放すつもりはない。
「きみは僕の人生最愛の人です」
そう告げると、月落は一瞬瞠目したあと、顔を盛大に綻ばせて笑った。
己の太腿の上に大人しく跨っていた鳴成の身体を持ち上げると、月落は後ろへ倒れてベッドにダイブする。
体躯の良い自分がこんなにも誰かの自由にされた経験のない鳴成は、水泳と筋トレで鍛えられた大型犬の筋肉に感心すると共に、それが素直に楽しくて声を出して笑ってしまう。
「気に入りました?」
「ええ、幼い頃に戻ったみたいです。まさか、おじさんになって抱っこされたり転がされたりする日が来るとは思いませんでした」
「おじさんじゃないです。お望みとあれば毎日して差し上げますね」
「きみが腰を痛めてしまうと気の毒なので、それは遠慮します」
起きた時と同様に、鳴成を胸に抱きこむようにしながらふたりで寝転がる。
昨日の昼から何も食べていない鳴成の空腹具合を気にするべきなのだろうが、今はこうしてくっつくことに全力を傾けたくて。
「もう一度寝ますか?」
「先生は眠いですか?」
「うーん、そこそこですね。でも、きみにこうされていると眠ってしまいそうです」
「俺も先生が腕の中にいると、ほんのりあったかくて寝ちゃいそうです」
ヘーゼルの髪にキスをする。
してもしても足りなくて、いつか嫌がられるのではないかと心配になるけれど、嫌がられたらそれはその時に考えよう。
叱られても、きっと幸せだろうから。
「いや、むしろ叱られたい……」
「何ですか?」
「先生が俺を叱る日が来るのかなと思っただけです」
「どうでしょう……そういえばきみは、プライベートな空間では一人称が変わるんですね」
「あ、そうですね、無意識でした。でも、先生も変わってますよ?」
「え、僕もですか?あ……無意識でした」
「前に先生が酔ってここに泊まった時にもそうなってたので、その一人称の先生に久しぶりに会えて嬉しいです」
「何それ」
重なりながら、くすくすと笑い合う。
いつも通りの尽きない会話、いつも通りのじゃれ合い、いつもとは形を変えた関係性。
どちらかの想いが死なない限り、この関係性は未来永劫壊れない。
やっと手に入った。
やっとやっと念願が叶った。
「先生、………先生?」
愛しい人が微睡みを漂っても、月落はいつまでもその髪を梳いていた。
その存在を、腕の中に感じ続けていた。
その日の午後。
月落お手製のブランチを8割程度食べた鳴成を自宅まで送り、その足で月落は実家へと寄った。
父の書斎へと向かう途中で、電話をかける。
「喂,渉哥」
「小浩,你现在有空吗?你能给我发送 “深圳交通建設 ”的详细信息吗?」
「好啊, 没问题!」
-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-
「もしもし?」
「小浩、いま時間あるか?深圳交通建設の詳細を送ってほしいんだけど」
「オッケー!いいよ!」
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オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
隣国のΩに婚約破棄をされたので、お望み通り侵略して差し上げよう。
下井理佐
BL
救いなし。序盤で受けが死にます。
大国の第一王子・αのジスランは、小国の第二王子・Ωのルシエルと幼い頃から許嫁の関係だった。
ただの政略結婚の相手であるとルシエルに興味を持たないジスランであったが、婚約発表の社交界前夜、ルシエルから婚約破棄するから受け入れてほしいと言われる。
理由を聞くジスランであったが、ルシエルはただ、
「必ず僕の国を滅ぼして」
それだけ言い、去っていった。
社交界当日、ルシエルは約束通り婚約破棄を皆の前で宣言する。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
悪役令息を改めたら皆の様子がおかしいです?
* ゆるゆ
BL
王太子から伴侶(予定)契約を破棄された瞬間、前世の記憶がよみがえって、悪役令息だと気づいたよ! しかし気づいたのが終了した後な件について。
悪役令息で断罪なんて絶対だめだ! 泣いちゃう!
せっかく前世を思い出したんだから、これからは心を入れ替えて、真面目にがんばっていこう! と思ったんだけど……あれ? 皆やさしい? 主人公はあっちだよー?
ご感想欄 、うれしくてすぐ承認を押してしまい(笑)ネタバレ 配慮できないので、ご覧になる時は、お気をつけください!
できるかぎり毎日? お話の予告と皆の裏話? のあがるインスタとYouTube
インスタ @yuruyu0 絵もあがります
Youtube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます
プロフのWebサイトから、両方に飛べるので、もしよかったら!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている
キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。
今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。
魔法と剣が支配するリオセルト大陸。
平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。
過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。
すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。
――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
全8話
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c
【完結】この契約に愛なんてないはずだった
なの
BL
劣勢オメガの翔太は、入院中の母を支えるため、昼夜問わず働き詰めの生活を送っていた。
そんなある日、母親の入院費用が払えず、困っていた翔太を救ったのは、冷静沈着で感情を見せない、大企業副社長・鷹城怜司……優勢アルファだった。
数日後、怜司は翔太に「1年間、仮の番になってほしい」と持ちかける。
身体の関係はなし、報酬あり。感情も、未来もいらない。ただの契約。
生活のために翔太はその条件を受け入れるが、理性的で無表情なはずの怜司が、ふとした瞬間に見せる優しさに、次第に心が揺らいでいく。
これはただの契約のはずだった。
愛なんて、最初からあるわけがなかった。
けれど……二人の距離が近づくたびに、仮であるはずの関係は、静かに熱を帯びていく。
ツンデレなオメガと、理性を装うアルファ。
これは、仮のはずだった番契約から始まる、運命以上の恋の物語。
アプリで都合のいい男になろうとした結果、彼氏がバグりました
あと
BL
「目指せ!都合のいい男!」
穏やか完璧モテ男(理性で執着を押さえつけてる)×親しみやすい人たらし可愛い系イケメン
攻めの両親からの別れろと圧力をかけられた受け。関係は秘密なので、友達に相談もできない。悩んでいる中、どうしても別れたくないため、愛人として、「都合のいい男」になることを決意。人生相談アプリを手に入れ、努力することにする。しかし、攻めに約束を破ったと言われ……?
攻め:深海霧矢
受け:清水奏
前にアンケート取ったら、すれ違い・勘違いものが1位だったのでそれ系です。
ハピエンです。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
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見つけ次第削除いたします。
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