鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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二章

11. 砂吐く研究室とトラウマの終焉①

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「先生、おはようございます」

 月落渉が粕川勝造とその娘の春乃に私的な制裁を下した日の翌日、月曜日。
 逢宮大学外国語学部准教授である鳴成秋史が使う研究室の扉が開けられたのは、朝8時を少し過ぎた頃だった。

 初夏の陽気を早々に迎え、強くなってきた陽射しにブラインドを下ろした窓際で、スモークチェアに座ってパソコンを開いている人がひとり。
 そこへ、チェックのタイルカーペットに足音を吸い込ませながら近づく男がひとり。

「月落くん、おはようございます」

 その姿を認めて、この部屋の主である鳴成はそっと立ち上がった。
 鍛え上げられた上半身を白シャツで中和しながら、カーキの細身カーゴパンツですっきりとしたオフィスカジュアルを実現する年下の男は、つい先日、自分との関係性を大きく変えた男だ。
 TA兼秘書から、恋人兼TA兼秘書となった。

 胸の奥に潜めていた想いを言葉でしっかりと伝え合って確かめ合った土曜日の朝、それから夕方までを共に過ごした。
 別れを惜しむように手を繋いだのなんて何年ぶりだっただろうか。
 焦らずに育てたからこそ太い幹となった木が、平穏とときめきが折り重なる地面にしっかりと根付いているのを実感した。
 まさかこの年にもなって、深夜に寝る間も惜しんでメッセージのやり取りをすることになろうとは、鳴成自身が一番想像していなかった。

「先生、今日も綺麗です」

 たったの1日半ぶりの再会なのにこんなにも蕩ける眼差しを向けられて、准教授は少しだけたじろぐ。
 年甲斐もなく脳内でこの朝のことをシミュレーションしたと告白したら、眼前に立つ男は一体どういう顔をするのだろうか。
 自惚れでなければ、きっと破顔したあとに、ぎゅうぎゅうに抱き締められるだろう。
 土曜日の夕方、自分を自宅まで送り届けてくれた彼が、しばらくそうして離さなかったように。

「きみも、今日も格好良いですね。こんなにも素敵な人が私の恋人になってくれたというのは、もしかしたら夢でしょうか?」

 わざとそう言った。
 この年下の男が沸き立つだろうと分かっていて、わざと。

 何事にもスマートに応対するくせに、時々甚だしく人懐っこくなる大型犬。
 愛しくて仕方がない。
 言葉ひとつで喜ばせられるならば、何億でも捧げたいと思うほどに。

 遠い過去に置いてきた、恋愛に向かう気持ちの昂りが息を吹き返すのを感じる。
 特別な存在を、誰よりも一際愛したいという衝動。

 しばし動かなくなってしまった月落の前髪を、鳴成はそっと撫でる。
 ぱちぱちと数回まばたきを繰り返したその人は突如真顔になり、両腕を横に広げてハグをする体勢に入った。

 のだが。

「……どうしました?」

 大人しく抱き締められるつもりでいた鳴成は、けれどいつまでも縮まらない距離に、顔を横に倒しながら尋ねた。
 その仕草に、月落は切羽詰まったように息を吐き出しながら、空中で彷徨わせていた両手で自身の顔を覆った。
 開いた指先の隙間から、鳴成を覗き見る。

「月落くん?」
「すみません、先生。あまりにも先生が可愛すぎて我慢できずに抱き締めるところでした。いくら僕たちがラブラブな恋人同士になったとはいえ公私混同するなんて大人の風上にも置けないですし、子供だと先生に呆れられても致し方ない行動だったと反省しています。今後は精神集中して研究室では節度を保った触れ合いに留めますので、どうか嫌にならないでください」

 ほぼ息継ぎなしにそう告げられて、肺活量が凄いなと明後日な方向の感想が鳴成の胸に宿る。
 右から左に滞りなく流れていってしまった言葉の風を細部まで追いかけるのは諦めて、鳴成はひとつだけを強く否定することにした。

「私がきみを嫌いになる日は未来永劫やって来ませんので、安心してください。公私混同のしすぎは困りますが、きみはきっと丁度良いラインで調整してくれるでしょうから、どうぞ今までの通り自然なままでいてください」
「先生、それは僕のことを信頼しすぎでは?いつでもこうして狙われていることを自覚してくださらないと……」

 そう言いながら、月落は鳴成の後頭部に手を差し入れると逃げられないように支えながら、顔をぐっと近づけた。
 唇と唇が触れ合う間近で見つめ合う。
 ブラインドの隙間から射し込む朝陽を背負って立つ男の黒い眼は、想いが結ばれた土曜日の朝を思い出させて、鳴成の心臓を忙しなくさせる。

 少しでも動けばもう紅い皮膚が触れ合いそうな距離を、鳴成は月落の胸板を押し返すことで隙間を空けた。
 素直に動いてくれたことで、月落に強引に奪うつもりはなかったのだと分かる。

「こういうのはさすがに、踏み越えすぎでしょう?」
「キスはラインを越えていますか?」
「ええ、大幅に」
「確か、抱っこも許可が下りなかったと記憶しているので……じゃあ、純度100%のハグまでですね?ラブラブなのに、ハグまでしか出来ないなんて寂しいです」
「十分だと思うんですが」
「好きなのに、駄目ですか?」
「好きだから、駄目です。きみに破滅の道を歩かせる訳にはいきませんから。職場で爛れた行為は許されません」

 先ほどまで抱き締められるつもりでいた事実を隠して、鳴成はそう告げた。
 もしかすると、自分への戒めのためもあったかもしれない。
 容易に傾いてしまいそうになる身体や心を、強い気持ちで律しなければ。

 改まった顔をする鳴成に、月落の顔は優しく綻ぶ。

「だから好きです、先生。こんなにも素敵な人に彼氏になってもらえたなんて、全世界に向かって叫びたいほどに嬉しいです」

 身体の距離はそのままに、月落は互いの額と額をくっつけると、目を閉じた。
 それを、あまりにも近すぎてもはやぼやけた視界の中で確かめた鳴成もそっと瞼を閉じる。
 この触れ合いは爛れていないと、胸の内で言い訳をしながら。

「幸せすぎて溶けてなくなりそうです」
「それは良かった、と言うべきですか?きみがいなくなってしまったら私は悲しみのどん底なんですが」
「先生を絶対に孤独にはしないので安心してください。前に、あのバーで約束しましたよね?先生の世界から喜怒哀楽の哀を排除して喜楽だけにすると」
「ええ、憶えています。私を浮かれた人間にしようとする、きみの悪い作戦ですよね」
「何だか人聞きの悪い作戦になってますが、そうです、それです。先生に悲しみが訪れることはもうきっとありませんし、もし万が一あったとしても、僕が癒して慰めて、傷を治しますから」

 鳴成の頬に、月落の両手が添えられる。
 真摯に見つめ合ったあと、鳴成は少しだけ踵を上げて黒髪に縁取られた額にキスを贈った。
 それを、贈られた側は呆気にとられながらも恨めしそうな視線で以て見つめ返した。

「先生、公私混同ですよ?ひどい、僕は頑張って我慢したのに」
「申し訳ない。私も男なので、本能が理性に勝ってしまう瞬間がありまして」
「そうやって素直に非を認めながら満足そうに笑うのは、大人のずるいところです、先生」

 くたりと力を抜いた月落が、鳴成の肩に頭を乗せる。
 薄々気づいていたが、この大型犬はこの体勢がとても好きらしい。
 襟足を撫でてやると、嬉しそうにぶんぶんと振られる尻尾が見える……気がする。

「あと、先生。この格好もずるいです」
「ん?どれですか?」

 これだ、と言いながらすらりとした指が、鳴成が着ているベストのバックベルトを淡く引っ張る。
 初夏の気温で室内も暖かかったため、鳴成はジャケットを脱いで、青ストライプのクレリックシャツに明るいベージュのベストとスラックスという出で立ちであった。

 厚みのある上半身に引き締まった腰が際立って、さらには白い襟から垣間見える陶器の肌の生っぽさがそれはそれは月落の好みを刺激する。
 一糸乱れのない禁欲的な装いが、逆に欲を逆撫でする。

 綺麗に爪の切られた清潔な指先で、心の弱い部分を掻き乱されるようで。
 それが、くすぐったくて歯がゆくて、どうしようもなく惑わされて。

「夏にこの格好で授業することはないですよね?」
「ええ。教室内は冷房も効きますし、夏でもジャケットは着用します」
「良かったです。そうじゃなかったら、大学の校舎すべてを改造して全館空調システムに変更するところでした」
「きみが言うと全く冗談に聞こえないので、やめましょうね?」

 身体を離した鳴成が眉を下げながら、無茶を言う年下の男の頬を抓る。
 内心ではきっと冗談だと思っているところが可愛い。
 必要だと判断すればどんな無茶も実行に移す男だと鳴成が身を以て知るのは、もう少し付き合いが深くなってから。
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