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二章
12. 閑話・月落家女子会②
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ココナッツミルクシャーベットで口を冷やしながら、蛍は飲み物のメニューを手に取る。
「お二人とも、次は何飲みますかー?」
「白桃烏龍茶をお願い」
「私は、安吉白茶にしようかな。蛍ちゃんは?」
「ジャスミンティーソーダにする」
決まった瞬間に扉が開き、心得たりとばかりに東雲が姿を現した。
その後ろには、各種甜点が所狭しと並んだ大きな銀のトレイを両手に抱えた西岡も入ってくる。
お代わりのお茶を頼むと共に、気に入ったデザートも補充してもらい嬉しそうな三名だ。
セイボリーのお代わりも提案されたが、弓子は適量だと辞退し、梢は小籠包を、蛍は叉焼包をオーダーした。
「そういえば、上の『Le Chateau』に渉様がご来店になるそうです。ここで月落家の女子会が開かれていると聞いた料理長の瀬戸さんが、ホクちゃんに知らせにいらっしゃってました。13時半からのご予約で、二名と」
そう言い残して東雲は、笑顔で退室した。
そう言い残された面々は、少しだけぽかんとする。
「え、渉が来るって知ってた?ママ」
「全然知らなかった」
「しかも、二名って言った?」
「言ってたね。お相手はもちろん、あの方な気がするけど……」
「鳴成准教授でしょうね。最近、正式にお付き合いを始めたようじゃない」
「ええ、喜ばしいことに」
「えぇぇぇぇ?!そうなの?!」
「蛍、知らなかった?」
「蛍ちゃん、知らなかったの?」
当然の如くといった雰囲気を醸し出す伯母と母を交互に見ながら、蛍は手元に残っていた八宝茶を一気飲みした。
そこへ、東雲がティーソーダを運んできたので、それも半分ほどを一息に飲む。
「まぁ、でもそうなってまだ10日も経ってないから当然といえばそうかも知れないわね。てっきり衛が家族の前で大はしゃぎして、小躍りしてるんじゃないかと思ったんだけど」
「その知らせをパパが受け取ったのが、ちょうど出張で大阪に行ってる時だったんです。なので、萩原さんと一緒に小躍りした可能性はありますね」
「なら、スパイダーも一緒に小躍りしてるわね。あの二人がくっつくのを切に願ってた面々が、結構な数いるって話だったから」
「皆様に応援されてるのに空振りしたらどうしようかと思ってました。男気が足りなくて鳴成先生を振り向かせられなかったら格好悪いですから」
「え、待って。3月下旬に会った時にはまだ告白とかそんな感じじゃないって言ってたのに、この2か月で急展開を迎えたの?焦らずゆっくり進みたいって言ってたんだけど」
「そう、色々あってね」
「あ、もしかしてあの、不愉快ド派手ピンクの自己中迷惑モンスター事件?」
とんでもない命名に、弓子と梢は口元を押さえて噴き出すのを懸命に堪える。
「蛍、言葉に棘が刺さりすぎじゃない?不愉快ド派手ピンク、の時点で相手にとってはもう致命傷でしょう?」
「これ言ってたの、翔。ちなみに悟は、『幼稚おばさん破滅への道を自己開拓』って言ってたよ」
「ごめんなさい、お義理姉さん。もっと厳しく育てるべきでした」
「いいのよ、何も間違ってないから。私がこの子達と同年代だったら、もっと完膚なきまでに罵ってたはずだから」
若い世代だからという言い訳では繕えないほどの、無邪気な辛辣さに首をとんとんと叩く弓子。
けれど、一族の中で圧倒的に口の悪い部類の一角を担うと自覚しているので、他人の言動をとやかく言う筋合いはない。
ちなみにもう片方の角は、敵には毒を吐きまくることで有名な、物流部門代表の松影靖高だ。
「で、その事件でめでたく二人は恋人同士になったって?」
「そうなの。災い転じて福となしたみたい、結局」
「鳴成准教授にとっては最悪の出来事でしょうから、心底可哀想だけれどね。これから渉がそばで支えれば、ゆっくりでも風化して行くでしょう」
「尽くし攻めの男だからね、渉は」
「蛍ちゃん、何それ。尽くし攻め?」
「うん、箱江のとこの創太くんが言ってた。渉はつくづく尽くし攻めだって」
「あら、言い得て妙じゃないの。そうね、渉の愛は献身以外の何物でもないものね」
エッグタルトをさくりと齧る弓子、麻婆豆腐に舌鼓を打つ梢、追加で別皿に大量に貰った白胡麻団子を噛み締める蛍は、それぞれに納得した表情を浮かべる。
そこに三度、扉をノックする音が響いた。
「どうぞ」
そう弓子が返事をすると、ヘーゼルの177cmと黒の186cmが並んで部屋の中へと入ってきた。
ワインレッドのサマーニットの上にホワイトベージュのセットアップを合わせた鳴成と、襟に金のレース刺繍があしらわれた白いシャツと黒のパンツに身を包む月落は、後ろからすかさず入ってきたスタッフによって用意されたテーブルの前へと立った。
「あらあら、噂をすれば、美男子二人の登場じゃないの。ここに私たちがいるってよく分かったじゃない」
「うん、東雲さんに連絡をもらったんだ」
色鮮やかな花が咲き誇る庭に、月毛と黒鹿毛の馬が仲良く迷い込んだ。
絵画にでも描かれるのではと思わせるような、非現実的と表現しても間違いではない光景に、女子三名はそれぞれに想いを馳せる。
それを、月落の穏やかな低音がそっと打ち破る。
「先生、ご紹介します。母の梢と、妹の蛍です」
その言葉と同時に梢と蛍が音もなく立ち上がる。
そして優雅に笑みを浮かべながら、清らかな声音を発した。
「渉の母の梢でございます。息子がいつもお世話になっております」
「初めまして、妹の蛍と申します」
「初めてご挨拶をさせていただきます。逢宮大学にて息子さんと共に働かせていただたいております、鳴成秋史と申します。お目にかかれて光栄です」
そして、ゆるりと弓子も立ち上がった。
「鳴成准教授、お久しぶりね。お元気そうで何よりだわ」
「弓子さんにはここ1か月ほどの間に、私も母の利沙も大変にお世話になりました。お礼が遅くなりまして、申し訳ありません」
「全然大したことじゃないから気にしないでちょうだい。私も利沙さんと交流を深められる良い機会になって嬉しかったのよ。さ、どうぞ、お座りになって」
深く腰を折る鳴成に、弓子はさらりと手を振って応える。
全員が着席をしたタイミングで、入室した東雲が月落と鳴成の前に茶器を置いた。
「ローズの香る八宝茶ね」
「ありがとう」
「ありがとうございます、頂きます」
「鳴成様も渉様も、近いうちにまたいらしてね。スタッフ一同楽しみにお待ちしてるから」
囁き声で落とされた言葉に頷くだけの返事をした両名が、用意された八宝茶で喉を潤す。
ふわり、と芳しいそよ風に吹かれたような香りに鳴成が目を細める。
「薔薇の良い香りですね」
「今度、ローズティーも手にいれてみますか?」
「うーん、おじさんが飲んでいても変じゃないでしょうか?さすがに40を過ぎた男性が大学の研究室で飲むには、画的に耐えがたいと思うんですが」
「何をどう考えても似合いすぎるので飲んでください。僕が見たいので、是非飲んでください」
「きみが見たい、は理由づけになるの?」
「なります、大いに。探してみますね」
「お願いします」
「渉、鳴成准教授を独り占めするのはやめてちょうだい」
同じ空間にいるのに、まるで透明なカプセルに入った別世界にいるかのような甥の雰囲気に、弓子から厳しい意見が飛んだ。
せっかく普段はお目にかかれない希少種に会えたのに、このまま眺めるだけで終わってしまうのは勿体ない。
幸せ満載モードを壊すのは忍びないが少し我慢なさいと鋭い眼差しで訴えかけると、月落は渋々といった顔で「どうぞ」と鳴成を明け渡した。
「渉が鬱陶しくてごめんなさいね」
「いいえ、そう思ったことは一度もありません。むしろ渉さんには本当に色々とお世話になっていて、感謝してもしきれないほどです」
隣で、「え、いま渉さんって言った……」と口元を押さえて絶句する月落を目の端に留め置いたまま、鳴成は言葉を途切れさせない。
今まで見たことのない息子の表情の変化に驚きながらも、梢はこう切り出した。
「鳴成先生、大学のお仕事はお忙しくしていらっしゃいます?」
「実はそれほどでもありません。前期の中盤ですし定期試験まではまだ日があるので、学期の中では一番穏やかな時期かと思います」
「じゃあもしかして、今はもうひとつのお仕事に精を出されていらっしゃったり?」
「はい。イギリスで出版された推理小説の翻訳作業をしています」
「大学の准教授と並行して翻訳家としてのお仕事もされるのは大変ですね。きっちりとペース配分はされてると思いますけれど」
「はい。一応、年に4冊のペースで翻訳をしています」
「それは結構ハイペースですね。先生、私、先生が翻訳された本は入手できる限りは全て読ませていただいたんです」
「全て、ですか?」
ジャンル問わずで翻訳をしているので、出版されたものの中には入手困難なマイナーな本も多数ある。
けれどそれを除いたとしても、この15年間で携わった本の数は多い。
一朝一夕で読める量ではないはずだと、鳴成は驚きを隠せない。
「私も全部読んだわよ。『胸底に潜む海』が秀逸だったわ。オリジナル版も読んだけど、主人公が孤独を吐露する時の心情表現に痛いほど共鳴してしまって」
「私もその部分は涙なしには読めませんでした」
「ありがとうございます。気に入っていただけて嬉しいです」
「え、私も読んでみたいんだけど。てか、忙しいのにどこに読書する時間があったの?」
「蛍ちゃん、時間は使うものだけど、作るものでもあるからね。ちなみにパパも読んでるし、うちの親戚はほとんどが読んでるわ」
「萩原以下の秘書たちも読んでるって言ってたわよ」
読者層の思わぬ広がりに困惑顔で月落を見遣る鳴成へ、「大人気ですね、先生」と月落は満足げに笑った。
照れたように咳ばらいをしながら八宝茶を飲み干した鳴成の茶杯へ、月落がすかさず新しい茶を注ぐ。
満たされたガラスの器の温度を手で確かめて、息を吹きかけながら冷ます。
「ねぇ、渉ってキャラ変したの?」
「弓子伯母さん気がついちゃった?それね、この前私も思ったんだよね。今までは新しい彼氏が出来ても、あんなデロデロに甘くなる感じじゃなかったよね。ね?ママ」
「そうね。というより、今までお付き合いした方々は、私たちに紹介してくれさえしなかった気がするんだけど。蛍ちゃんは会ったことある?」
「ない。ひとりもない。いつも付き合ったって聞くけど、いつの間にか別れてた」
「親戚に紹介してもいいと思うほど本気なのね。まぁ、あの雰囲気を見れば本気だって誰が見ても明らかだけど、鳴成准教授とは将来をきちんと考えてるのね」
「え、じゃあ、あの美人を『お義理兄さん』って呼ぶ日が近いうちに来るってこと?うわぁ、それはご褒美すぎる」
「私には、『義理の息子』って呼ぶ日が来るってことね。ママ、今からわくわくが止まらないわ」
「パパが聞いたら飛び跳ねて成層圏まで行っちゃうんじゃない?」
「そうね。そうなったら世間の皆さんのご迷惑になるから、今日会ったことは衛には内緒にしなさい。萩原には口止めしておくから」
「お義理姉さん、お願いします」
目の前でとんでもない作戦会議が行われているとは知らず、ほのぼのと会話をしていた月落と鳴成だが、月落が腕時計を確認したタイミングで立ち上がった。
「時間だから行くね」
「お邪魔しました。楽しい時間をお過ごしください」
「あなたたちも沢山食べなさいね」
ヘーゼルと黒の馬が去った部屋には、鮮やかな花だけが残る。
大きな窓から臨む常緑樹の海が、穏やかな風に吹かれて葉を揺らしている。
さくらんぼを摘まむ乙女が、ぷちぷちとヘタを取る音を小気味よく鳴らしながら、こう言った。
「てかさ、渉、ほとんど鳴成さんしか見てなかったよね?身体の向き、どう考えてもおかしくなかった?」
「キャラ変ね、ほんと」
「ええ、本当に」
「お二人とも、次は何飲みますかー?」
「白桃烏龍茶をお願い」
「私は、安吉白茶にしようかな。蛍ちゃんは?」
「ジャスミンティーソーダにする」
決まった瞬間に扉が開き、心得たりとばかりに東雲が姿を現した。
その後ろには、各種甜点が所狭しと並んだ大きな銀のトレイを両手に抱えた西岡も入ってくる。
お代わりのお茶を頼むと共に、気に入ったデザートも補充してもらい嬉しそうな三名だ。
セイボリーのお代わりも提案されたが、弓子は適量だと辞退し、梢は小籠包を、蛍は叉焼包をオーダーした。
「そういえば、上の『Le Chateau』に渉様がご来店になるそうです。ここで月落家の女子会が開かれていると聞いた料理長の瀬戸さんが、ホクちゃんに知らせにいらっしゃってました。13時半からのご予約で、二名と」
そう言い残して東雲は、笑顔で退室した。
そう言い残された面々は、少しだけぽかんとする。
「え、渉が来るって知ってた?ママ」
「全然知らなかった」
「しかも、二名って言った?」
「言ってたね。お相手はもちろん、あの方な気がするけど……」
「鳴成准教授でしょうね。最近、正式にお付き合いを始めたようじゃない」
「ええ、喜ばしいことに」
「えぇぇぇぇ?!そうなの?!」
「蛍、知らなかった?」
「蛍ちゃん、知らなかったの?」
当然の如くといった雰囲気を醸し出す伯母と母を交互に見ながら、蛍は手元に残っていた八宝茶を一気飲みした。
そこへ、東雲がティーソーダを運んできたので、それも半分ほどを一息に飲む。
「まぁ、でもそうなってまだ10日も経ってないから当然といえばそうかも知れないわね。てっきり衛が家族の前で大はしゃぎして、小躍りしてるんじゃないかと思ったんだけど」
「その知らせをパパが受け取ったのが、ちょうど出張で大阪に行ってる時だったんです。なので、萩原さんと一緒に小躍りした可能性はありますね」
「なら、スパイダーも一緒に小躍りしてるわね。あの二人がくっつくのを切に願ってた面々が、結構な数いるって話だったから」
「皆様に応援されてるのに空振りしたらどうしようかと思ってました。男気が足りなくて鳴成先生を振り向かせられなかったら格好悪いですから」
「え、待って。3月下旬に会った時にはまだ告白とかそんな感じじゃないって言ってたのに、この2か月で急展開を迎えたの?焦らずゆっくり進みたいって言ってたんだけど」
「そう、色々あってね」
「あ、もしかしてあの、不愉快ド派手ピンクの自己中迷惑モンスター事件?」
とんでもない命名に、弓子と梢は口元を押さえて噴き出すのを懸命に堪える。
「蛍、言葉に棘が刺さりすぎじゃない?不愉快ド派手ピンク、の時点で相手にとってはもう致命傷でしょう?」
「これ言ってたの、翔。ちなみに悟は、『幼稚おばさん破滅への道を自己開拓』って言ってたよ」
「ごめんなさい、お義理姉さん。もっと厳しく育てるべきでした」
「いいのよ、何も間違ってないから。私がこの子達と同年代だったら、もっと完膚なきまでに罵ってたはずだから」
若い世代だからという言い訳では繕えないほどの、無邪気な辛辣さに首をとんとんと叩く弓子。
けれど、一族の中で圧倒的に口の悪い部類の一角を担うと自覚しているので、他人の言動をとやかく言う筋合いはない。
ちなみにもう片方の角は、敵には毒を吐きまくることで有名な、物流部門代表の松影靖高だ。
「で、その事件でめでたく二人は恋人同士になったって?」
「そうなの。災い転じて福となしたみたい、結局」
「鳴成准教授にとっては最悪の出来事でしょうから、心底可哀想だけれどね。これから渉がそばで支えれば、ゆっくりでも風化して行くでしょう」
「尽くし攻めの男だからね、渉は」
「蛍ちゃん、何それ。尽くし攻め?」
「うん、箱江のとこの創太くんが言ってた。渉はつくづく尽くし攻めだって」
「あら、言い得て妙じゃないの。そうね、渉の愛は献身以外の何物でもないものね」
エッグタルトをさくりと齧る弓子、麻婆豆腐に舌鼓を打つ梢、追加で別皿に大量に貰った白胡麻団子を噛み締める蛍は、それぞれに納得した表情を浮かべる。
そこに三度、扉をノックする音が響いた。
「どうぞ」
そう弓子が返事をすると、ヘーゼルの177cmと黒の186cmが並んで部屋の中へと入ってきた。
ワインレッドのサマーニットの上にホワイトベージュのセットアップを合わせた鳴成と、襟に金のレース刺繍があしらわれた白いシャツと黒のパンツに身を包む月落は、後ろからすかさず入ってきたスタッフによって用意されたテーブルの前へと立った。
「あらあら、噂をすれば、美男子二人の登場じゃないの。ここに私たちがいるってよく分かったじゃない」
「うん、東雲さんに連絡をもらったんだ」
色鮮やかな花が咲き誇る庭に、月毛と黒鹿毛の馬が仲良く迷い込んだ。
絵画にでも描かれるのではと思わせるような、非現実的と表現しても間違いではない光景に、女子三名はそれぞれに想いを馳せる。
それを、月落の穏やかな低音がそっと打ち破る。
「先生、ご紹介します。母の梢と、妹の蛍です」
その言葉と同時に梢と蛍が音もなく立ち上がる。
そして優雅に笑みを浮かべながら、清らかな声音を発した。
「渉の母の梢でございます。息子がいつもお世話になっております」
「初めまして、妹の蛍と申します」
「初めてご挨拶をさせていただきます。逢宮大学にて息子さんと共に働かせていただたいております、鳴成秋史と申します。お目にかかれて光栄です」
そして、ゆるりと弓子も立ち上がった。
「鳴成准教授、お久しぶりね。お元気そうで何よりだわ」
「弓子さんにはここ1か月ほどの間に、私も母の利沙も大変にお世話になりました。お礼が遅くなりまして、申し訳ありません」
「全然大したことじゃないから気にしないでちょうだい。私も利沙さんと交流を深められる良い機会になって嬉しかったのよ。さ、どうぞ、お座りになって」
深く腰を折る鳴成に、弓子はさらりと手を振って応える。
全員が着席をしたタイミングで、入室した東雲が月落と鳴成の前に茶器を置いた。
「ローズの香る八宝茶ね」
「ありがとう」
「ありがとうございます、頂きます」
「鳴成様も渉様も、近いうちにまたいらしてね。スタッフ一同楽しみにお待ちしてるから」
囁き声で落とされた言葉に頷くだけの返事をした両名が、用意された八宝茶で喉を潤す。
ふわり、と芳しいそよ風に吹かれたような香りに鳴成が目を細める。
「薔薇の良い香りですね」
「今度、ローズティーも手にいれてみますか?」
「うーん、おじさんが飲んでいても変じゃないでしょうか?さすがに40を過ぎた男性が大学の研究室で飲むには、画的に耐えがたいと思うんですが」
「何をどう考えても似合いすぎるので飲んでください。僕が見たいので、是非飲んでください」
「きみが見たい、は理由づけになるの?」
「なります、大いに。探してみますね」
「お願いします」
「渉、鳴成准教授を独り占めするのはやめてちょうだい」
同じ空間にいるのに、まるで透明なカプセルに入った別世界にいるかのような甥の雰囲気に、弓子から厳しい意見が飛んだ。
せっかく普段はお目にかかれない希少種に会えたのに、このまま眺めるだけで終わってしまうのは勿体ない。
幸せ満載モードを壊すのは忍びないが少し我慢なさいと鋭い眼差しで訴えかけると、月落は渋々といった顔で「どうぞ」と鳴成を明け渡した。
「渉が鬱陶しくてごめんなさいね」
「いいえ、そう思ったことは一度もありません。むしろ渉さんには本当に色々とお世話になっていて、感謝してもしきれないほどです」
隣で、「え、いま渉さんって言った……」と口元を押さえて絶句する月落を目の端に留め置いたまま、鳴成は言葉を途切れさせない。
今まで見たことのない息子の表情の変化に驚きながらも、梢はこう切り出した。
「鳴成先生、大学のお仕事はお忙しくしていらっしゃいます?」
「実はそれほどでもありません。前期の中盤ですし定期試験まではまだ日があるので、学期の中では一番穏やかな時期かと思います」
「じゃあもしかして、今はもうひとつのお仕事に精を出されていらっしゃったり?」
「はい。イギリスで出版された推理小説の翻訳作業をしています」
「大学の准教授と並行して翻訳家としてのお仕事もされるのは大変ですね。きっちりとペース配分はされてると思いますけれど」
「はい。一応、年に4冊のペースで翻訳をしています」
「それは結構ハイペースですね。先生、私、先生が翻訳された本は入手できる限りは全て読ませていただいたんです」
「全て、ですか?」
ジャンル問わずで翻訳をしているので、出版されたものの中には入手困難なマイナーな本も多数ある。
けれどそれを除いたとしても、この15年間で携わった本の数は多い。
一朝一夕で読める量ではないはずだと、鳴成は驚きを隠せない。
「私も全部読んだわよ。『胸底に潜む海』が秀逸だったわ。オリジナル版も読んだけど、主人公が孤独を吐露する時の心情表現に痛いほど共鳴してしまって」
「私もその部分は涙なしには読めませんでした」
「ありがとうございます。気に入っていただけて嬉しいです」
「え、私も読んでみたいんだけど。てか、忙しいのにどこに読書する時間があったの?」
「蛍ちゃん、時間は使うものだけど、作るものでもあるからね。ちなみにパパも読んでるし、うちの親戚はほとんどが読んでるわ」
「萩原以下の秘書たちも読んでるって言ってたわよ」
読者層の思わぬ広がりに困惑顔で月落を見遣る鳴成へ、「大人気ですね、先生」と月落は満足げに笑った。
照れたように咳ばらいをしながら八宝茶を飲み干した鳴成の茶杯へ、月落がすかさず新しい茶を注ぐ。
満たされたガラスの器の温度を手で確かめて、息を吹きかけながら冷ます。
「ねぇ、渉ってキャラ変したの?」
「弓子伯母さん気がついちゃった?それね、この前私も思ったんだよね。今までは新しい彼氏が出来ても、あんなデロデロに甘くなる感じじゃなかったよね。ね?ママ」
「そうね。というより、今までお付き合いした方々は、私たちに紹介してくれさえしなかった気がするんだけど。蛍ちゃんは会ったことある?」
「ない。ひとりもない。いつも付き合ったって聞くけど、いつの間にか別れてた」
「親戚に紹介してもいいと思うほど本気なのね。まぁ、あの雰囲気を見れば本気だって誰が見ても明らかだけど、鳴成准教授とは将来をきちんと考えてるのね」
「え、じゃあ、あの美人を『お義理兄さん』って呼ぶ日が近いうちに来るってこと?うわぁ、それはご褒美すぎる」
「私には、『義理の息子』って呼ぶ日が来るってことね。ママ、今からわくわくが止まらないわ」
「パパが聞いたら飛び跳ねて成層圏まで行っちゃうんじゃない?」
「そうね。そうなったら世間の皆さんのご迷惑になるから、今日会ったことは衛には内緒にしなさい。萩原には口止めしておくから」
「お義理姉さん、お願いします」
目の前でとんでもない作戦会議が行われているとは知らず、ほのぼのと会話をしていた月落と鳴成だが、月落が腕時計を確認したタイミングで立ち上がった。
「時間だから行くね」
「お邪魔しました。楽しい時間をお過ごしください」
「あなたたちも沢山食べなさいね」
ヘーゼルと黒の馬が去った部屋には、鮮やかな花だけが残る。
大きな窓から臨む常緑樹の海が、穏やかな風に吹かれて葉を揺らしている。
さくらんぼを摘まむ乙女が、ぷちぷちとヘタを取る音を小気味よく鳴らしながら、こう言った。
「てかさ、渉、ほとんど鳴成さんしか見てなかったよね?身体の向き、どう考えてもおかしくなかった?」
「キャラ変ね、ほんと」
「ええ、本当に」
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ひよったら消します。
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