鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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二章

13. 痛いの痛いの②

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 洗い物は高性能なビルトイン食洗機に任せて、その間に月落は風呂に入ることにした。
 グレーを基調とした洗面室の大きな鏡の前に二人して並ぶ。

「身体は洗えそうですか?」
「はい、何とか。髪を洗うのが難しくて。左手だけだと、こう、右のこっち側が上手く出来なくて……」

 動作を伴いながら行われる月落の説明に、鳴成はとても真剣な顔で耳を傾ける。
 まるで、講義を最前列ど真ん中で聴講している学生のように。

「流すのも大変そうですね」
「昨日は右耳にお湯が大量に入って、途中で諦めました」
「きみは趣味が水泳なので、もしかしてそういう状況には慣れてる?」
「自ら好き好んで水に飛び込むのとシャワーに無理やり襲われるのは、ストレス度が段違いです、先生」
「そうなんですね。それは可哀想に」

 話をしながら右手の包帯と湿布を丁寧に剥がした鳴成に、月落はこっそりと身構える。
 講義室でのあのシーンを思い出したからだ。
 僅かに緊張する月落をよそに、鳴成は何も気づかない様子で着ているネイビーのベストを脱いだ。
 水色ストライプのネクタイを外すと、白いワイシャツの袖を捲り始める。

「先生、まさかその格好で僕の髪を洗ってくださるつもりですか?」
「ええ、まさしく。あ、靴下は脱ぎますよ?」

 全然まったくそんなことを言っているんではない。
 論点は、靴下がどうこうではない。

 どう考えてもオーダーメイドでカスタムされたフル装備を数箇所外しただけの、それでも十分に高価なそれらを、自分の髪を洗うためだけに濡らすのはさすがに駄目だろう。
 スーツが泣くし、テーラーも泣く。

「僕の心臓に悪いので、できれば着替えていただけると嬉しいです」
「きみの心臓は強いでしょう?それに、少しくらい濡れても大丈夫ですよ?」
「先生用の着替えを増やしたので、良ければ使ってください」

 そう言って鏡の右側を開けると、以前は空きスペースだった棚の3段分にTシャツとスウェットの上下がきっちりと収納されている。
 そこから、ベージュのTシャツとネイビーのスウェットパンツを取り出すと、月落は鳴成へと渡した。
 その行動の速さに無言の圧を感じた鳴成は、素直に受け取ることにした。

「では、お借りします」
「ありがとうございます」
「きみも着替えてください。散らかしてしまう気がします。自分以外の髪を洗うのはこれが初めてなので、被害を最小限に留められる自信がありません」
「先生の散らかったところを見られるなんて、むしろ大歓迎です」
「嬉々とした表情をするのはやめなさい」

 楽しそうに持ち上がった頬を抓る鳴成の指先を捕らえて、月落は自分の手の平を覆いかぶせると、琥珀の爪にキスを贈った。
 微かに跳ねる指先を宥めるように、唇でなぞる。
 ヘーゼルの瞳と視線を絡めると、掴んでいた鳴成の手を自分の首へと誘導してそっと抱き締め合った。

 添えるだけしか出来ない右手の代わりに、左腕でしっかりと愛しい人の身体を受け止める。
 胸の奥、穏やかなさざ波が寄せては返す音がするようだ。

「着替えて扉を開けて目的を達成しなければならないんですが、中々に難しそうですね」

 髪を洗いにきたのに、まったくそこまでたどり着かない。
 けれど、そう言う鳴成も腕を緩めようとせず月落に身を寄せているのだからお互い様だ。

 想いを通わせる恋人同士の前では現実も時間も、概念というただの透明な膜となるだけ。
 中身などないも同然、抑止力には到底ならない。
 彼らは、もはや無敵だ。

「もう少しだけ、このままで。先生が嫌だなと思ったら教えてください。腕を離す努力をするので」
「それは困りました。私たちはこのままここで、永遠の眠りに就きそうです」

 同じ重さの想いを交換し合う。
 与えて穴の空いたスペースが、与えられてぴたりと埋まる。
 境界線は融合して、異物感など端からないに等しい。
 そうして、完全なひとつとなる。

「もういっそのこと、この状態で二人でシャワーを浴びたい……いや、だめだ。先生のスーツは何としてでも死守しなければ……いや、でも離したくない」
「心の葛藤がすべて声に出ていますが、気づいていますか?この距離だとさすがに聞こえますね」
「言葉にしないと、胸がはち切れそうで無理です、先生」
「分かりました。では、心を鬼にしてきみとの間に隙間を作ることにしましょう。感情の赴くままに行動するのは大人とは言えませんから」

 するりと腕の力を解いた鳴成は、少し背伸びをして月落の片方だけ露になっている額に唇を寄せた。
 場違いなほどに神聖なその仕草に、月落の首筋が仄かに染まる。

「お風呂に入りましょうね。きみも着替えてください」

 鮮やかに微笑む人に、黒髪の美男子は異議を申し立てることなどできやしなかった。




 Tシャツにスウェットパンツというお揃いの格好をした准教授とTAが、水の張られていない空の大きなバスタブの中で体勢を変えつつ格闘し終えたのは、開始から約20分が経った頃だった。
 泡まみれになりながら、水の攻撃を避けながら、ところどころを濡らす程度で完遂できたのはある意味幸運だった。

 一人になった浴室で月落はそのままシャワーで手早くすべてを済ませ、その後バトンタッチした鳴成は月落によって用意されたバスタブのお湯を満喫した。
 新しい着替え一式を身に付けてリビングへと向かうと、家の持ち主はナイトブルーのソファに深く腰かけて電話をしていた。

 聞こえてくる言語は韓国語のようだ。
 アジア側にはあまり明るくないので自分が聞いても内容は分からないが、話を盗み聞きしている気がして足が止まった。
 近づかずに戻って先に髪を乾かしてしまおうと思っていると、気がついた月落がすぐさま立ち上がり歩いてくる。

 右耳と右肩でスマホを挟んだ彼は、左手で鳴成の肩に掛けられているバスタオルを持ち上げると、ヘーゼルの襟足を拭いた。
 いつになく早口で投げ合われる会話をされるがまま聴いていると、向こうからまだ言葉が響いているにも関わらず月落がおもむろに電話を切った。

「切って良かったんですか?お相手の方はまだ話したそうでしたけど」
「大丈夫です。大学時代にこっちに留学してた韓国の友人なんですが、酔ってるみたいでさっきから話が堂々巡りしてて」
「テニスのラリーみたいに剛速球のやりとりでしたね」
「あ、あいつ日本語喋れるから日本語に切り替えれば良かったですね。すみません、内容が分からなくて寂しくさせましたか?」
「いいえ、まったく。きみの韓国語を聴くのは初めてなので、新鮮で素敵でした」
「先生……!」

 褒められて純粋に喜ぶ姿が月落を幼く見せる。
 常に理知的な雰囲気を纏う彼だが、最近は鳴成の前になるとその仮面を自らぶん投げる傾向が目立つ。

 冷蔵庫から取り出した炭酸水をグラスに注いで渡してくる月落に礼を言って飲むと、火照った身体に染み入るようだった。
 残り僅かだからと、ペットボトルから直接飲むその黒髪が、さらりと流れたのが目に映る。

「髪、結構乾いてしまいましたね」
「タオルドライだけで結構乾く髪質みたいで、時々そのまま寝たりしてます」
「それでも今日はドライヤーしましょうね」
「はい、お願いします」

 いつぞやの夜とは逆の位置関係。
 床に置いたクッションひとつに座る月落の髪を、後ろのソファに座る鳴成が乾かしていく。

 するすると指の間をすり抜ける黒の艶が美しい。

 さほど時間を掛けずに乾かし終わった後で、鳴成も自分の髪を乾かし始める。
 手伝いをしたいのか邪魔をしたいのか紙一重の動作で、ドライヤー中の鳴成の髪を撫でる月落の戯れに付き合っていたら、いつもよりも時間が掛かってしまった。

 時刻は22時45分。

 食洗機に任せていた食器を取り出して元の場所に戻し、月落の手首に新たな湿布と包帯を巻いた。

 大学の講義室で月落相手に言ったことを思い出した鳴成は、素肌の手首に息を吹きかけると呪文の言葉を口にする。
 それを、喜び半分照れ半分の、何とも形容しがたい表情で月落が見ていた。
 何かを我慢するように唇を噛む月落の姿など、親戚でも親友でもお目にかかったことなどないというのに、そんな顔をさせた当の本人は至って真面目に湿布を貼っていて、全く気づいていなかった。

「できました。痛みはどうですか?」
「明日にはほとんど支障なく動かせそうな気がします」
「それは良かったです」

 手を繋いでロフトに上がる。
 黒いナイトテーブルに置いた炭酸水を飲みながら、並んでベッドのヘッドボードに凭れながら座る。
 ひとつのタブレットを二人で覗きながら、その日のニュースについて会話をしていると、あっという間に時は過ぎる。

 中央省庁がピックアップされた記事が出ていたことから鳴成の大学時代の友人の話に発展し、それがまさか家族を巻き込んだ告白大作戦に至るとは思いもよらず、月落は興味津々で耳を傾けた。

 自分の交友関係も大いに謎だろうとは思うが、鳴成の交友関係も多種多様だ。
 友人の数は多くないと前に聞いたが、その分バリエーションに富んでいてとても面白いのだ。
 先日ちらりと零した、鉄鋼業をしている友人の話も気になっていて、今度時間のある時に尋ねてみようと思っている月落だった。

「先生、そろそろ寝ますか?」
「ええ、そうします」
「明日は先生の手料理、楽しみにしてます」
「あれを手料理と言っていいのかは少し疑問が残るところですね。焼いた食材とビーンズ、目玉焼きをワンプレートに乗せればほぼ完成するので」
「イギリスの朝食ってとりあえず全部焼く感じですか?」
「概ねそうです」
「ビーンズは日本人は好き嫌いが分かれる味だと見たことがあるんですが、本当ですか?」
「そうかもしれません。私は母が好きなので子供の頃から食べていて慣れているんですが、きみはどうでしょう。水分が多くて他の食材に浸食しやすいので、もし苦手だった時のために明日はビーンズだけ別のお皿で用意しましょうね」
「ありがとうございます。食べられそうだったら大盛で食べます」
「パンにスクランブルエッグとビーンズを乗せて食べるのも美味しいので、明日は目玉焼きとスクランブルエッグのどちらも作りましょうね」
「え、楽しみすぎる……今日眠れるかな」

 遠足前日の小学生のような発言をする月落に、鳴成は苦笑いを浮かべる。
 大柄な小学生の寝つきが良いのは何度か実地で経験済みなので、冗談だと分かってはいる。
 いるけれど、だからこそそれが余計に笑いを誘う。

「あ、そうだ。先生、今日はこれをつけて寝てみませんか?」

 ベッドに潜り込み、当たり前のように月落に抱き締められながら寝る体勢になっていた鳴成の頭上から、そう提案された。
 指し示す先には、黒い円柱の物体。

「それは、何ですか?」
「プラネタリウムです」
「見てみたいです」

 月落がそのスイッチを入れて部屋の明かりを消すと、天井から壁の隅々までを光の粒が覆い隠す。
 ひとつひとつの小さな煌めきが、潰れることなくはっきりとその存在を湛えながら、ひとつの大きな集合体を形成する。

 銀河。

 まさしくそれを見ているような光景が、目の前いっぱいに隙間なく広がっている。

「凄いですね……まるで宇宙空間に身ひとつで投げ出された気持ちになります」
「はい。僕も買って点けた初日はあまりに壮観で、逆に目が冴えました」

 息遣いが聞こえてきそうな、光の群れ。
 ぎっしり、という表現があまりにも正しく似合う。

「きみは星が好きなんですか?知らなかった」
「はい、実は。星だけじゃなくて、空にまつわる諸々が好きです。あ、雷以外ですが」
「だから、あの天窓を作ったんですね」
「そうです。この建物を設計するという段階で、自分の部屋は思い通りに作れると設計士さんに言われて、真っ先にお願いしたのがあの天窓でした」
「あの窓は私も好きです。晴れの日は特に。陽射しがベールのように降り注いでいるのが、美しくて……絵画のようで」
「気に入っていただけて良かったです。僕は、朝の研究室で窓際に座りながら本を読む先生の姿がもっと好きです。それこそ本当に絵画のようで」
「ん?私が、何です?」

 うとうとし始めた鳴成の上を、月落の声が通り過ぎていく。
 捕まえられずに宙を漂う言の葉はやがて、暗闇に揺れる光へと吸収される。

「眠いですね、先生。おやすみなさい」
「おやすみなさい。また、明日」

 7時間もすればまた会える。
 けれど、それがとても長い時間旅行に思えて月落は、そっと腕の中の体温を抱え直した。

「また明日、会えるのを楽しみにしています」



 願わくば、夢の中でも会えますように。

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