鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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二章

18. 名前で呼んで①

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 蝉の大合唱が各地で最盛期となる8月中旬。
 うだるような暑さに端正な顔を僅かばかり歪めながら、月落渉は赤坂見附の裏路地にある、とある木製の引き戸を引いた。
 小料理屋『六鱗』。
 尾びれの長い金魚を象った提灯だけが目印の、知る人ぞ知る隠れ家だ。

「渉、こっち」

 右奥のカウンターから手を伸ばすのは、クリアフレームの眼鏡を掛けた男。
 幼馴染の箱江創太である。

「相変わらず早いな。俺、インタイムなのに毎回遅刻した奴みたいになるんだけど」
「ほら、菓子屋はせっかちが多いから」
「親父さんに殴られるぞ、そんなこと言うと」
「うん、秘密にして。まじでぶん殴られるから。いいか、俺の命はお前が握ってると思え」
「必要ないから返却したいんだけど」
「渉、ひどすぎ。幼馴染にして親友の俺に対してほんとひどすぎ。なんでこんな子に育っちゃったんだか」

 箱江の隣に座ると、冷たいおしぼりとグラスに入った飴色のビールがすぐに目の前に置かれた。

「小梅さん、ありがとうございます」
「渉坊ちゃま、いらっしゃいませ。外は夜でも蒸し暑いでしょう?」

 そう声を掛けるのは割烹着に身を包んだ小柄な女性、女将の小梅だ。
 年季の入った指先が、シンプルな色合いの瀬戸焼やガラスの大皿に乗った料理から適量を分けて月落と箱江の前に並べていく。

「夏本番が始まってしまって、正直もううんざりしてます。ビールがより美味しいのと、小梅さんのチャンプルーだけが夏の救いです」
「はいはい、すぐお出ししましょうね。月落の坊ちゃま方はゴーヤチャンプルーが本当にお好きね」

 月落は箱江とグラスを合わせる。
 小皿に乗ったイイダコのキムチ、夕顔と茄子のきんぴら、トマト胡麻ダレの冷奴、夏白菜の鶏ひき肉ロールに舌鼓を打つ。

「待って、小梅さん。俺んとこにゴーヤチャンプルーが出てきたことなくない?」
「お父様がゴーヤがお嫌いでしょう?なので一緒にお越しになった際は、お出ししたことがなかったの。今日はお召し上がりになります?」
「うん、俺にもください」

 一見お断りの店だ。
 さらには、女将に常連だと認められた者しか新規紹介客を連れてこられない、という厳かなルールがある。
 数回通っただけで勘違いした者が勝手に知人と共に暖簾をくぐり、その者共々出禁になった例は数え切れない。

 それもこれも、この店を愛する客が各業界でその名を轟かせる有力者ばかりであり、その者たちの束の間の安寧を守るためにはそうせざるを得ないというのが最大の理由だ。

 この空間で商談を始める者などいない。
 有力者が私服でふらっと、家族や友人と食事をしにくる。
 小梅の母の代から始めたこの店は、代々で通う常連客ばかり。

 月落家と箱江家もその中のひとつであり、食の好みは把握され済みだ。
 自分の嫌いなもの、そして共に食事をする者の苦手なものは基本出てこない。
 その気遣いもまた、この店を心地良く思う気持ちの一端を担う。

「茶寮はどうなった?オープンして4か月も経てば、さすがに落ち着いたか?」
「軌道に乗った。夏の新メニューも好評だから一安心してるとこ。あ、そうそう。3月に渉と蛍ちゃんが遊びにきて食べてくれたメニューあるじゃん?」
「うん、食べたのは主に蛍だけど」
「あのメニューだけ異様に人気で、シーズナルが外れて定番メニューに昇格したのも何品かあったんだよ。調べたんだけど、モデル級の美男美女が食べた!っていう動画がサイトでバズりにバズってたわ。視聴回数凄くて笑っちゃった」
「お役に立てたようで」
「その報告受けた親父が、お前の実家がある方向に向かって直立不動で拝んでた」
「五代目何してるの……創太も息子なら止めろよ」
「面白いから、動画撮って秒で弟に送ったわ」

 箱江には、大学2年生になる年の離れた弟がいる。
 経営云々には興味ないけれど、和菓子職人として一人前になりたいと、大学に行きながら父の元で修業を積んでいる。

 伝統と革新を掛け合わせたネオ和菓子を発明する兄と、果実を使った和菓子に心を囚われて一途にその研鑽に励む弟。
 以前に月落が、父と親戚の松影靖高と会議を行った際に手土産として持参したのが、箱江の弟が考案したレモン餡最中だ。
 父が気に入りすぎて仕事中のおやつに常備している、と秘書の萩原から先日こっそり教えられた。

 チャラい見た目の兄と同程度にチャラい見た目の弟は、和菓子の未来を背負って立つ若手としての正道を真面目に邁進している。

「渉は最近どうなのよ、仕事は」
「前期が終わって、先週はテストとレポートの採点に追われてた。俺はTAだからそこまで仕事量はないんだけど、先生は成績評価もあってだいぶ大変そうだった」

 8月から大学は長い夏休み期間に突入したが、教員は学生と同じように1か月半の休みを取得できる訳ではない。
 担当学生の成績評価が終わったあとは登録等の事務作業、後期授業用の資料探しやレジュメ作成、中旬には大学入試試験の原案が担当者から上がってくるので、それに関する会議も複数回行われる。

 さらに今年の鳴成は、下旬に予定されているオープンキャンパスでの模擬授業を担当することになり、現役高校生向けの特別資料を作る必要もあるので大変そうだ。
 模擬授業を引き受けてくれないかと、学部長や事務系職員の包囲網の中で説得された鳴成は、困りながらも結局断り切れず渋々了承していた。
 ちなみに、過去5回ほどこの説得は実を結ばなかったので、今年成就したやっとの願いにその日の外国語学部は何やらお祭り騒ぎだったらしいと、月落は後日噂で耳にした。

 半強制的に承諾させられた鳴成を慰めるために、午前中で完売不可避の幻と話題のストロベリータルトを、普段は使わぬ特権——百貨店の外商担当に確保を頼んで無事に手に入れた。
 ロイヤルミルクティーと共に食した鳴成の、元気を取り戻した様子に胸を撫でおろした月落だった。

「授業って何コマ持ってるんだっけ?」
「6コマ」
「成績評価って何人分?」
「延べ350弱」
「吐きそう、無理そう。キャパオーバーで、俺だったら絶対に逃げる自信しかない」

 顔を歪めた箱江が、ビールを一気に煽る。

「それでも比較的自分は楽な方だって先生は言ってる。優秀な学生が多くて、問題なく優評価の子たちばっかりだからって」
「それでも、それを入力して事務に提出するんだろ?すごい集中力と体力が必要だわ……俺には無理」
「和菓子作りも集中力と体力が必要だから、同系統なんじゃないのか?」
「俺らが向き合ってるのは無機質な紙とパソコンじゃなくて、小さくて可憐で甘い我が子たちだから。癒され度が全然違う」
「あ、でもそういう意味だと、この1週間は先生のおやつに『はこゑ』の出したから、癒されてたと思う」
「ありがとう、渉くん。営業をどうもありがとう。会ったことはないけど絶対に美形な准教授に食べてもらえて凄く嬉しいし、出来ればその様子を写真に収めてアップしてもらえると、そりゃもう飛び上がるほど嬉しいんだけど」
「先生の顔はSNSに乗せたくないから断固拒否」
「そんなお前の心を懐柔する手土産攻撃だ。とりゃ!」

 そう言って箱江が出したのは、竜胆色の地に金箔の曲線が縦横で交差するデザインの紙袋だ。

「袋、変わったのか」
「この間からね。卯の花色に金箔は親父のショッパーだったから、そろそろ俺のに変えてもいいんじゃないかって言ってもらえてさ。まだまだ親父の店だし親父のお客さんも多いから、金箔部分は残しつつって感じにした。俺が代表だって胸張って言えるようになれたら、全面的に変えるつもり」
「格好良いな」
「さんきゅ。で、その中に入ってるのが新作ね。桃とシャインマスカットの錦玉テリーヌ」

 月落が取り出したプラスチックのパッケージに収められているのは、ココナッツミルク羹の上に薄くシャインマスカットのジュレを敷き、更にその上に刻んだ白桃を散らした錦玉羹を重ねたテリーヌだ。
 夏の果実をふんだんに使った、涼し気な三層の和菓子。

「この白いの何?」
「ココナッツミルク」
「先生が好きそう。ありがとう」
「あ、消費期限が明日いっぱいなんだけど大丈夫そうか?夏休みだろうし、もし会う予定なさそうなら今回のはお前が食べるか、実家に持ってって」
「先生、今日の夜泊まりに来るから、明日の朝一緒に食べようかな」
「はぁ????!!!!」

 箱江創太史上最も大きな叫び声が出た。
 うるさい、と耳を押さえる月落の両肩を掴んだ箱江は、頭に思い浮かぶ文言を全く漉さずにそのまま口から出した。

「お前、もしかして付き合ってんの?付き合ってんのか?あの准教授と?いつから?俺、全然聞かされてないんだけど?いつ?超最近?そうなった経緯は?好きです、付き合ってください、いいですよって?え、何?何なに?もしかしてカフェ来たあの時には実はもう付き合ってたり?言われてない。言われてないよな?俺寂しすぎて、ちょっと今日は眠れそうにないんだけど」
「よく噛まずにそれだけの語数言えたな」
「感心するとこそこじゃないんだけどね?」
「創太坊ちゃまは夏になって、口の滑りも一段と滑らかになったようですねぇ」

 ハイパーヒートアップする片方と、騒音を意に介さず冷静沈着なもう片方。
 そのどちらの前にも作り立てのゴーヤチャンプルーを置きながら、小梅は酒のお代わりを尋ねる。

「もう一杯ビールください」
「小梅さん、俺、ライムサワー」
「はいはい、すぐお持ちしましょうね」

 小鯵の南蛮漬けが乗った皿も置いた小柄な背中は、奥へと姿を消した。

「で、渉。で?渉」
「うん、付き合ってる。5月末から」
「かぁー!!!カフェに来た日じゃなかったにしても、親友の慶事を2か月近くも知らなかったのはさすがに悲しすぎる」
「ごめん。メッセージで伝えるのも違う気がして。直接会うにしても創太、忙しそうだったし」
「うん、そう。何だか最近雑事が多くてお前と飯食うのも久しぶりだから、文句を言えた筋じゃないのは納得してる。いやでも、それにしても!喜ばしいことこの上ないな!」

 水泳で鍛えられた月落の逞しい肩を、繊細な和菓子を作る手がぐわんぐわんと揺する。
 その有り様を見てくすくすと笑いながら、小梅がビールの入ったグラスとくし切りのライムが刺さったグラスを若者たちの前に置く。
 空になった皿と引き換えに、一口サイズに切られたジンジャーポークステーキが出てくる。

「小梅さん、聞いて!渉にもついに春が来た!超美人の!」
「あらまぁ、それは喜ばしいですね。是非お目にかかりたいわ。お時間が合えば、今度お連れになってくださいね」
「ありがとうございます。小梅さんの料理は絶対に先生も好きだと思うので、近いうちに一緒に来ます」
「お待ちしてますね」

 そう言いながら、年季の入った指は中身の入っていないグラスを持って去る。
 先生は好き嫌いはないけど、野菜と魚介中心で出してもらうように事前に相談しても良いな……と月落が考えていると、横から、時速100km級のスパイクが幼馴染から飛んできた。

「なぁ、ひとつ訊きたいんだけど」
「ひとつでいいのか?」
「いや、質問は俺の心の間欠泉から猛烈に噴き出してるわけだが、とりあえずめっちゃ気になったことから」
「なに?」
「約半年恋焦がれた准教授とめでたく恋人同士になって、2か月経ったんだよな?」
「そう」
「お前、未だにその人のこと『先生』って呼んでんの?それはオフィシャル限定で?プライベートでは名前呼びとか?」

 菓子職人から投げられた餡子の塊が頭にクリーンヒットする。
 いきなりの衝撃に、目眩のごとく世界が回り、月落は絶句した。

「……確かに」

先生、と呼びすぎて気づいていなかった。
先生、と呼び慣れすぎて疑問さえも浮かんでいなかった。

「ミスった……」

 唇に手を当てたまま押し黙る月落と、その様子を不思議そうに眺めながらゴーヤチャンプルーを食む箱江の姿は、それからしばらく続いた。
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