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二章
18. 名前で呼んで②
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その日の夜、21時30分。
季節ごとにひとつの翻訳作業を行うというペース作りをしている鳴成は、7月中旬から翻訳家としての夏をスタートさせている。
成績評価が終わったため、大学に行く日は週3に減らしている。
それ以外の時間はほとんどを在宅に充てているので、必然的に年下の恋人と会う日数も減った。
とはいえ、付き合い始めてからは大学で、そして金曜日から土曜日の夕方までを一緒に過ごすというスケジュールで逢瀬を重ねているので、社会人の一般的なデート日数になったという表現の方が正しいかもしれない。
翻訳家としての仕事を最大限尊重してくれる月落は、作業のためにあまり会えなくなると宣言した鳴成に盛大なる労いの言葉を掛けてくれた。
4日後に会う約束をして別れたその翌日には、チョコレートとクッキーがぎっしり詰めこまれた抱えきれないほどに大きな箱が自宅に届けられて、玄関で思わず苦笑いが零れたものだ。
それを息抜きにしつつ、朝も夜もなく書斎で英語と日本語に向き合い続けてついに今日、久しぶりの再会を果たした。
一般的には4日なんて「久しぶり」の範疇ではないのだが、出来立てアツアツカップルの辞書にそんな概念一切載っていなくとも、きっと許されるだろう。
「元気にしていましたか?」
4日、たったの4日だ、と言うツッコミはこの際夜空に吹っ飛ばそう。
品川駅で待ち合わせした鳴成と月落は、改札前で会うなり嬉しそうに笑い合った。
「はい、元気にしていました。先生は仕事どうですか?」
「おかげ様で順調です。ミステリーは私も好きなジャンルで原作をわくわくしながら読んだので、翻訳作業もスムーズに行えています」
夜になっても暑さの収まらない中を歩く。
平日の夜であるので、駅は帰路を急ぐ会社員の群れでひしめき合っている。
盾になるように、鳴成をすぐ後ろに隠しながら月落は進む。
駅を出て道を外れると賑わいの度合いはぐっと落ち着いた。
「先生、お腹は減ってませんか?」
「ええ。翻訳期間中はお手伝いさんが張り切って料理をストックしてくれるので、食事に困ることはありません。むしろ、ジムにも行かず散歩にも出ずに籠るので、体重の増加が心配になります」
そう聞いた月落は、鳴成から少し距離を取ってつま先から頭のてっぺんまで視線を往復させた。
「え、全然です、先生。むしろもっと厚めでも僕は好きです」
「甘やかすのはほどほどにしてください。太ったおじさんは見苦しいので、出来るだけ努力するつもりです」
「本音なんですが……でも、努力する先生はとっても素敵なので、僕に協力できることがあればお手伝いします」
「あんなに大量のチョコレートを送ってくれた張本人が言いますか?」
「美味しくなかったですか?」
「どれも美味しくて、『あとひとつだけにしよう』という自分との約束を何度も破りました」
「可愛い。それは良かったです」
とりとめのない会話をしながら月落の自宅へと帰り、月落は鳴成にシャワーを促した。
夜に数分歩いただけだが、身体にまとわりつく湿気と汗で気持ち悪いだろうと思ったからだ。
「先生、湯船に浸かりますか?」
「シャワーだけお借りします」
素直に浴室へと向かった鳴成のために、レモン入りの炭酸水を用意しておく。
白いTシャツにベージュのスウェットでリビングへと出てきた鳴成と入れ違いで、月落もシャワーを浴びる。
夏は烏の行水になりがちだ。
暑すぎてドライヤーをパスした月落が、グレージュのバスタオルで髪を勢いよく拭きながらリビングへと戻ると、そこに愛しい人の姿はなかった。
「……てことは、上か」
階段を上がる。
広く造られたロフトの最奥には、ベッドスペースとはアクリルの引き戸で区切られたワークスペースがある。
部屋と呼べるほどの広さはないが、壁に沿って作り付けられたL字のテーブルはそこそこに大きい。
パソコンやタブレット、ワーキングチェアが置かれているが、この空間のほとんどを埋めるのは、テーブル上部に備え付けられた本棚に並ぶ書籍の背表紙だ。
『本の虫』だと自身のことを呼ぶ鳴成が、その空間を探知しないはずはない。
泊まりに来始めた割と最初の段階でそのスペースを発見してからは、そこで本を読んでいる姿を見かけることも多い。
月落が階段を上り切ると、やはり半透明のアクリル板の後ろにぼんやりとした人影があった。
3灯のペンダントライトがじんわりとオレンジを滲ませる下で、その人は背筋を伸ばして立ちながらページを捲っている。
近づいても振り向かないのは、集中している証拠だ。
鳴成のすぐ後ろに立った月落は、その切り揃えられた綺麗なうなじに目を奪われた。
いつもはワイシャツの襟に隠されている、神聖なる清らかさ。
禁欲的な白さ。
瞬間、吸い寄せられるように無意識に、その生成りの肌に唇を落とす。
「っ……あ、シャワーから戻ったんですね、気づきませんでした……月落くん?」
振り返ろうとする顎を前向きに右手で固定すると、月落は少し強めに鳴成の肌を吸う。
びくり、と跳ねる身体に気を良くして、犬歯で柔らかく齧ったあとは、火照った生え際の辺りを舐めて癒す。
そしてまた、ほのかに朱を滲ませる肌を吸って、繰り返す。
夢中になっているとも気づかずに、夢中になる。
「っ…、ん……待っ、あの、」
うなじから始まった戯れは、遮るものなく移動して耳の下にも及ぶ。
鳴成は途切れる声でなんとか月落を止めようとするけれど、後ろを陣取っている大きな身体はその密着を解いてくれない。
振り返ろうにも前を向かされ、身体を離そうにも背中から回された左腕で位置を固定されているため、微かな身動きさえ出来ない。
囲われて、囚われの身だ。
鳴成は首筋を走るむず痒さから逃れたくても逃れられず、淡く息を乱すのみ。
出してはならないかすれた声が出てしまいそうで、居たたまれない。
「はぁ…、っ……ぁ、…」
手に持っていた本が音を立てて落下した。
それが月落の意識を戻すきっかけになったらしい。
左腕が緩んだのを感じ取った鳴成はその身を翻して後ろを向くと、ぶ厚い胸板を手の平で押して距離を取った。
いきなり始まった触れ合いに抗議するように睨む。
先生、それは逆効果だ。
月落側から見るとそれは完璧な上目遣いで、しかも潤ってもいて、美人が麗しい顔で怒っているのは実に眼福だという感想を芽生えさせる手伝いにしかならない。
「どうしていきなりこうなったんです?」
「えーっと……うなじが綺麗で……それで、思わず」
離れても未だ感覚が残っているのか、弄られた場所をふいに指でなぞる鳴成のその仕草があまりに淫靡で、月落はもう一度口を開いてその場所に顔を寄せようとする。
駄目です、と唇に封をされてそれは叶わなかったけれど。
「嫌ですか?」
「いいえ、全く。きみとこうするのは、恥ずかしいけれど嫌ではないです……大いに恥ずかしいだけで」
最近、こういう触れ合いが増えた。
軽いキスから深めのキスに、キスする場所が唇から首やその下に。
恋人同士だ、自然なこと。
そう受け入れてはいても、今まで経験してきたポジションとは逆の立場になることに、鳴成の胸中には少なからず感情の躊躇いが伴う。
それを理解している月落は、ゆっくり時間を掛けて進むと約束をし、それをきっちりと守っている。
付き合い始めて約2か月、十分に大人同士の自分たちはもうそろそろ最後まで行く時期だと、鳴成も自覚している。
「そうみたいですね。耳が、真っ赤です」
耳元で囁かれる。
たったそれだけのことなのに、身体の中心に響くのは何故なんだろう。
黒の大型犬は時に予告なく、その爽やかな仮面を自ら脱いで色気のしたたる雰囲気を纏ってしまうから、正直困る。
ついて行けない内にあれこれと触られて、乱す息をさらに奪うようにキスをされて、それが苦しいのに気持ち快くて。
困る。
「先生……あ、そうだ、先生」
「はい?」
「ひとつお願いがあるんですが」
「ええ、なんでしょう」
何かを思い出して、あっさりと距離を取る年下の恋人。
溢れでていた色気が一瞬で消え、いつも通りの彼が戻ってくる。
その展開の速さに付いて行けず、鳴成はとりあえずで返事をした。
真面目な顔は、一呼吸置いてから意を決したようにこう言った。
「先生のことを、名前で呼んでもいいですか?」
「名前、ですか。ええ、どうぞ」
オレンジのペンダントライトを背負う、自分よりも高い場所にある顔を見上げながら、鳴成は間髪なく答えた。
「真剣な顔でお願いと言うから何かと思ったら、意外なことでした。でも、思い返してみれば、きみは未だに私のことを『先生』と呼んでいますね」
「はい、そうなんです。今日食事をした幼馴染に指摘されて僕も初めて気がつきました。あまりにも口に馴染みすぎて、違和感が全くありませんでした」
「私も呼ばれ慣れすぎて、と言うより、きみが『先生』と呼ぶ響きが好きで、変更してほしいという希望を提出する気持ちがありませんでした。随分、他人行儀でしたね」
おでこを寄せて笑い合う。
恋人を職業名で呼び続けるのは、些か奇妙な光景だろう。
けれど、二人の関係を知っている親族でさえ誰ひとり指摘してこなかったのはきっと、月落がそう呼びすぎて親族の中でも鳴成の名称は『渉の先生』だと強く印象付けられているせいだろう。
「呼んでみてください、名前で」
「……秋史さん」
「……うん、何だか変な感じがします。胸の表面がくすぐったいような」
「秋史さん」
「あはは……きみの声で聴くと、自分の名前じゃないように聞こえます。不思議ですね」
優しい顔で鳴成は月落にキスをする。
かすめるだけですぐ離れる、始まりの合図のような口づけ。
「でも実は、先生のことを先生と呼ぶのもすごく気に入ってるので、二種混合でも良いですか?」
「ええ、お好きにどうぞ」
「先生は僕のことを名前で呼んではくれないです?」
「あ、確かに。私にもその特権があるんでした」
呼んで呼んで、と期待に漲る目で見つめられる。
そんな大型犬の眼差しに応えるように、鳴成は大切に大切にその名を声に乗せた。
「渉くん」
「…………」
「渉くん」
「………………」
「……渉くん、どうしました?」
「………どうしよう、駄目だこれ。俺、駄目になりそう」
口元に手を当てて、ぼそりと独り言が落ちる。
「大丈夫ですか?っ…え……んんっ」
翳った黒の瞳に、切羽詰まった熱情の炎が灯る。
下から見上げていた鳴成は、月落からあふれ出た剣呑な雰囲気を察して本能で後ろに下がるけれど、無慈悲にも本棚に阻まれて迫りくる熱い唇の餌食となった。
「ぅ、ん……わ、たるく…、ぁ!」
キスをしながら抱き上げられ、ベッドまで連行される。
唇の端を舐められ食まれ、くすぐったさに開いた口の隙間を逃さず侵入してきた舌で中を暴かれる。
息の根さえも吸い取られて呼吸を整えることに必死になっていると、Tシャツの中に差し込まれた手の平に身体の線をなぞられた。
綺麗だとしきりに褒める言葉と思いつめた眼差し、濡れる舌によく動く長い指先。
与えられる全てが、鳴成を知らない世界へと連れていく。
いつもより少しだけ濃密な触れ合いに、恥じらいはいつの間にか波に攫われて。
夜が更けていく。
季節ごとにひとつの翻訳作業を行うというペース作りをしている鳴成は、7月中旬から翻訳家としての夏をスタートさせている。
成績評価が終わったため、大学に行く日は週3に減らしている。
それ以外の時間はほとんどを在宅に充てているので、必然的に年下の恋人と会う日数も減った。
とはいえ、付き合い始めてからは大学で、そして金曜日から土曜日の夕方までを一緒に過ごすというスケジュールで逢瀬を重ねているので、社会人の一般的なデート日数になったという表現の方が正しいかもしれない。
翻訳家としての仕事を最大限尊重してくれる月落は、作業のためにあまり会えなくなると宣言した鳴成に盛大なる労いの言葉を掛けてくれた。
4日後に会う約束をして別れたその翌日には、チョコレートとクッキーがぎっしり詰めこまれた抱えきれないほどに大きな箱が自宅に届けられて、玄関で思わず苦笑いが零れたものだ。
それを息抜きにしつつ、朝も夜もなく書斎で英語と日本語に向き合い続けてついに今日、久しぶりの再会を果たした。
一般的には4日なんて「久しぶり」の範疇ではないのだが、出来立てアツアツカップルの辞書にそんな概念一切載っていなくとも、きっと許されるだろう。
「元気にしていましたか?」
4日、たったの4日だ、と言うツッコミはこの際夜空に吹っ飛ばそう。
品川駅で待ち合わせした鳴成と月落は、改札前で会うなり嬉しそうに笑い合った。
「はい、元気にしていました。先生は仕事どうですか?」
「おかげ様で順調です。ミステリーは私も好きなジャンルで原作をわくわくしながら読んだので、翻訳作業もスムーズに行えています」
夜になっても暑さの収まらない中を歩く。
平日の夜であるので、駅は帰路を急ぐ会社員の群れでひしめき合っている。
盾になるように、鳴成をすぐ後ろに隠しながら月落は進む。
駅を出て道を外れると賑わいの度合いはぐっと落ち着いた。
「先生、お腹は減ってませんか?」
「ええ。翻訳期間中はお手伝いさんが張り切って料理をストックしてくれるので、食事に困ることはありません。むしろ、ジムにも行かず散歩にも出ずに籠るので、体重の増加が心配になります」
そう聞いた月落は、鳴成から少し距離を取ってつま先から頭のてっぺんまで視線を往復させた。
「え、全然です、先生。むしろもっと厚めでも僕は好きです」
「甘やかすのはほどほどにしてください。太ったおじさんは見苦しいので、出来るだけ努力するつもりです」
「本音なんですが……でも、努力する先生はとっても素敵なので、僕に協力できることがあればお手伝いします」
「あんなに大量のチョコレートを送ってくれた張本人が言いますか?」
「美味しくなかったですか?」
「どれも美味しくて、『あとひとつだけにしよう』という自分との約束を何度も破りました」
「可愛い。それは良かったです」
とりとめのない会話をしながら月落の自宅へと帰り、月落は鳴成にシャワーを促した。
夜に数分歩いただけだが、身体にまとわりつく湿気と汗で気持ち悪いだろうと思ったからだ。
「先生、湯船に浸かりますか?」
「シャワーだけお借りします」
素直に浴室へと向かった鳴成のために、レモン入りの炭酸水を用意しておく。
白いTシャツにベージュのスウェットでリビングへと出てきた鳴成と入れ違いで、月落もシャワーを浴びる。
夏は烏の行水になりがちだ。
暑すぎてドライヤーをパスした月落が、グレージュのバスタオルで髪を勢いよく拭きながらリビングへと戻ると、そこに愛しい人の姿はなかった。
「……てことは、上か」
階段を上がる。
広く造られたロフトの最奥には、ベッドスペースとはアクリルの引き戸で区切られたワークスペースがある。
部屋と呼べるほどの広さはないが、壁に沿って作り付けられたL字のテーブルはそこそこに大きい。
パソコンやタブレット、ワーキングチェアが置かれているが、この空間のほとんどを埋めるのは、テーブル上部に備え付けられた本棚に並ぶ書籍の背表紙だ。
『本の虫』だと自身のことを呼ぶ鳴成が、その空間を探知しないはずはない。
泊まりに来始めた割と最初の段階でそのスペースを発見してからは、そこで本を読んでいる姿を見かけることも多い。
月落が階段を上り切ると、やはり半透明のアクリル板の後ろにぼんやりとした人影があった。
3灯のペンダントライトがじんわりとオレンジを滲ませる下で、その人は背筋を伸ばして立ちながらページを捲っている。
近づいても振り向かないのは、集中している証拠だ。
鳴成のすぐ後ろに立った月落は、その切り揃えられた綺麗なうなじに目を奪われた。
いつもはワイシャツの襟に隠されている、神聖なる清らかさ。
禁欲的な白さ。
瞬間、吸い寄せられるように無意識に、その生成りの肌に唇を落とす。
「っ……あ、シャワーから戻ったんですね、気づきませんでした……月落くん?」
振り返ろうとする顎を前向きに右手で固定すると、月落は少し強めに鳴成の肌を吸う。
びくり、と跳ねる身体に気を良くして、犬歯で柔らかく齧ったあとは、火照った生え際の辺りを舐めて癒す。
そしてまた、ほのかに朱を滲ませる肌を吸って、繰り返す。
夢中になっているとも気づかずに、夢中になる。
「っ…、ん……待っ、あの、」
うなじから始まった戯れは、遮るものなく移動して耳の下にも及ぶ。
鳴成は途切れる声でなんとか月落を止めようとするけれど、後ろを陣取っている大きな身体はその密着を解いてくれない。
振り返ろうにも前を向かされ、身体を離そうにも背中から回された左腕で位置を固定されているため、微かな身動きさえ出来ない。
囲われて、囚われの身だ。
鳴成は首筋を走るむず痒さから逃れたくても逃れられず、淡く息を乱すのみ。
出してはならないかすれた声が出てしまいそうで、居たたまれない。
「はぁ…、っ……ぁ、…」
手に持っていた本が音を立てて落下した。
それが月落の意識を戻すきっかけになったらしい。
左腕が緩んだのを感じ取った鳴成はその身を翻して後ろを向くと、ぶ厚い胸板を手の平で押して距離を取った。
いきなり始まった触れ合いに抗議するように睨む。
先生、それは逆効果だ。
月落側から見るとそれは完璧な上目遣いで、しかも潤ってもいて、美人が麗しい顔で怒っているのは実に眼福だという感想を芽生えさせる手伝いにしかならない。
「どうしていきなりこうなったんです?」
「えーっと……うなじが綺麗で……それで、思わず」
離れても未だ感覚が残っているのか、弄られた場所をふいに指でなぞる鳴成のその仕草があまりに淫靡で、月落はもう一度口を開いてその場所に顔を寄せようとする。
駄目です、と唇に封をされてそれは叶わなかったけれど。
「嫌ですか?」
「いいえ、全く。きみとこうするのは、恥ずかしいけれど嫌ではないです……大いに恥ずかしいだけで」
最近、こういう触れ合いが増えた。
軽いキスから深めのキスに、キスする場所が唇から首やその下に。
恋人同士だ、自然なこと。
そう受け入れてはいても、今まで経験してきたポジションとは逆の立場になることに、鳴成の胸中には少なからず感情の躊躇いが伴う。
それを理解している月落は、ゆっくり時間を掛けて進むと約束をし、それをきっちりと守っている。
付き合い始めて約2か月、十分に大人同士の自分たちはもうそろそろ最後まで行く時期だと、鳴成も自覚している。
「そうみたいですね。耳が、真っ赤です」
耳元で囁かれる。
たったそれだけのことなのに、身体の中心に響くのは何故なんだろう。
黒の大型犬は時に予告なく、その爽やかな仮面を自ら脱いで色気のしたたる雰囲気を纏ってしまうから、正直困る。
ついて行けない内にあれこれと触られて、乱す息をさらに奪うようにキスをされて、それが苦しいのに気持ち快くて。
困る。
「先生……あ、そうだ、先生」
「はい?」
「ひとつお願いがあるんですが」
「ええ、なんでしょう」
何かを思い出して、あっさりと距離を取る年下の恋人。
溢れでていた色気が一瞬で消え、いつも通りの彼が戻ってくる。
その展開の速さに付いて行けず、鳴成はとりあえずで返事をした。
真面目な顔は、一呼吸置いてから意を決したようにこう言った。
「先生のことを、名前で呼んでもいいですか?」
「名前、ですか。ええ、どうぞ」
オレンジのペンダントライトを背負う、自分よりも高い場所にある顔を見上げながら、鳴成は間髪なく答えた。
「真剣な顔でお願いと言うから何かと思ったら、意外なことでした。でも、思い返してみれば、きみは未だに私のことを『先生』と呼んでいますね」
「はい、そうなんです。今日食事をした幼馴染に指摘されて僕も初めて気がつきました。あまりにも口に馴染みすぎて、違和感が全くありませんでした」
「私も呼ばれ慣れすぎて、と言うより、きみが『先生』と呼ぶ響きが好きで、変更してほしいという希望を提出する気持ちがありませんでした。随分、他人行儀でしたね」
おでこを寄せて笑い合う。
恋人を職業名で呼び続けるのは、些か奇妙な光景だろう。
けれど、二人の関係を知っている親族でさえ誰ひとり指摘してこなかったのはきっと、月落がそう呼びすぎて親族の中でも鳴成の名称は『渉の先生』だと強く印象付けられているせいだろう。
「呼んでみてください、名前で」
「……秋史さん」
「……うん、何だか変な感じがします。胸の表面がくすぐったいような」
「秋史さん」
「あはは……きみの声で聴くと、自分の名前じゃないように聞こえます。不思議ですね」
優しい顔で鳴成は月落にキスをする。
かすめるだけですぐ離れる、始まりの合図のような口づけ。
「でも実は、先生のことを先生と呼ぶのもすごく気に入ってるので、二種混合でも良いですか?」
「ええ、お好きにどうぞ」
「先生は僕のことを名前で呼んではくれないです?」
「あ、確かに。私にもその特権があるんでした」
呼んで呼んで、と期待に漲る目で見つめられる。
そんな大型犬の眼差しに応えるように、鳴成は大切に大切にその名を声に乗せた。
「渉くん」
「…………」
「渉くん」
「………………」
「……渉くん、どうしました?」
「………どうしよう、駄目だこれ。俺、駄目になりそう」
口元に手を当てて、ぼそりと独り言が落ちる。
「大丈夫ですか?っ…え……んんっ」
翳った黒の瞳に、切羽詰まった熱情の炎が灯る。
下から見上げていた鳴成は、月落からあふれ出た剣呑な雰囲気を察して本能で後ろに下がるけれど、無慈悲にも本棚に阻まれて迫りくる熱い唇の餌食となった。
「ぅ、ん……わ、たるく…、ぁ!」
キスをしながら抱き上げられ、ベッドまで連行される。
唇の端を舐められ食まれ、くすぐったさに開いた口の隙間を逃さず侵入してきた舌で中を暴かれる。
息の根さえも吸い取られて呼吸を整えることに必死になっていると、Tシャツの中に差し込まれた手の平に身体の線をなぞられた。
綺麗だとしきりに褒める言葉と思いつめた眼差し、濡れる舌によく動く長い指先。
与えられる全てが、鳴成を知らない世界へと連れていく。
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