鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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三章

10. 31回目の誕生日②

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「省庁に勤める友人の話はしたことがあったでしょうか?」
「はい、前に一度。大学時代のあだ名が『野武士』だった方ですよね」
「そうです。あ、もしかしてその辺りの話しかしていないですか?」
「先生が大学2年を終了した時点で渡英されたので、そこからはイギリスの思い出話が続いた気がしてます。なので、僕の中でのご友人は、甲冑を着て勇ましく刀を振るっているままですね」
「それはその友人には可哀想なことをしました。今では立派な紳士ですので、日を改めてイメージの書き換えをしましょう」
「はい、是非」

 月落がそう言い終えたとき、女性スタッフがシェリー酒とコースの一品目を運んで来た。

「お待たせいたしました。辛口のフィノと、甘海老と緑黄色野菜のサルピコンでございます」

 白ワインに麦の色が混ざったような風合いのグラスを持ち上げるだけの乾杯をすると、鳴成と月落はそれを一口飲んだ。

「すっきりしていて美味しいですね」
「酸味が少なめで飲みやすいです」

 二人はグラスを傾けつつ、色鮮やかなマリネを食す。

「先生。それで、そのご友人が?」
「ああ、そうでした。その友人が今年結婚をしまして、6月に行われた結婚式に家族総出で出席したんです。ガーデンパーティの立食形式だったんですが、並んでいた料理がどれも本当に美味しくて。数えきれない種類が用意されたピンチョスのエリアは、人だかりで凄いことになっていました」
「もしてかして、こちらのシェフの方がお作りになった、とかですか?」
「そうです。気になって訊いてみたら、奥様の弟さんがスペイン料理のお店をやっていると友人に教えてもらいました。そのことを今夜のディナーについて考えていた時に、ふと思い出して。加えて、一緒に沖縄に行った時にきみがパエリアが好きだと言っていたことも思い出して、『友人枠』を最大限利用して、今夜予約を入れてもらいました」
「そんなに短期間で予約の取れるお店じゃないと聞いたんですが……」
「ええ。正確には、席を増やしてもらった、ですね」
「え、ここ、もしや通常は8席なんですか?」
「そのようです」

 予約を捻じ込んだ訳ではなく、本来はない席を無から生み出したらしい。
 その特別仕様に、鳴成と元野武士の友人は相当に近しい間柄なんだと月落は認識する。

「イベリコ豚の生ハムでございます」

 美しい白と赤のグラデーションが、木の皿に線を描くようにして盛られている。
 一口サイズに切られ、枚数が数えられないほどの重なりようだ。

「こんなに生ハムを食べる機会はそうないですね」
「このワインと良く合って美味しいです。先生、同じのを頼みますか?」
「ええ、そうします」

 アルコール度数15%のシェリー酒が、水のようになくなっていく。
 自宅近くで食事をしている気楽さからか、鳴成のペースはいつもより若干速い。
 それを嬉しく感じながら、月落はワインのおかわりを注文した。

「あ、ピミエントス・デ・パドロンだ」
「ピミ、ピミエン……?」
「ししとうをオリーブオイルで揚げて岩塩を振りかけたやつですね。これは手を使ってもいいですか?」

 月落の問いに、女性スタッフが笑顔で頷く。
 すかさず新しいおしぼりが提供された。

「沖縄の時も思いましたが、きみはスペイン料理に詳しいですね?」
「僕が高校3年生の頃に父がスペイン料理の魅力に憑りつかれたことがあって、少しでも時間が空くと強制同行されてたんです」
「それは……スペインに、ということですか?」
「はい、そうです。受験期だったので母や親戚が父を軽く窘めたらしいんですが、連れ去られた僕本人も乗り気だったので、強くは言えなかったようです。本当に度々行ってました。受験勉強は飛行機の中でしたりして」
「それは何と言うか、他の受験生が聞いたら暴動が起きそうですね?」

 月落の出身校は、国立大最難関のひとつだ。
 外国で食を楽しむのが第一目的で、その片手間に飛行機で受験勉強をしていた高校生が容易に受かるレベルではない。
 年下の恋人に関する規格外の逸話には免疫が出来てきていたつもりであったが、どうやらまだまだ足りないらしい、と鳴成は考えを改める。

「いつか先生ともスペインに行きたいです。あ、もしかしてイギリス在住の時に行ったことがありますか?」
「いいえ、残念ながら。在英時代も本の虫で行動範囲は狭かったので、スペインには一度も行かず終いでした。大学時代にフランス人の友人が出来たこともあって、旅行は大半がフランスやドイツだったので」
「先生、フランス語とドイツ語話者ですもんね。言語が解る国に偏る気持ちは分かります。じゃあ、初スペインは是非、僕と」
「ええ、連れて行ってください」
「バルセロナに通称ピンチョス通りと呼ばれている場所があって、そこで色々摘まみながら昼飲みするのも楽しそうです」
「時間があれば、サグラダ・ファミリアを観てみたいです。確か、来年完成予定でしたね」
「僕も工事途中しか見てないので、行ってみたいです。来年の夏休みの予約とさせてください」
「承知しました」

 『どうか叶いますよう』にという願いの筆によって描かれる未来予想図ではなく、確かな訪れが約束された未来図。
 それが極簡単なやりとりで形になる、逆説的な親密さ。
 こんなにも幸せで罰が当たりそうだと何気なく生じた感覚を、鳴成は白ワインで流す。
 例え罰が当たっても、それ以上にさらに幸せになればいいので全く問題はない。

「美味しいですね」
「美味しいです」

 真蛸とじゃがいものア・フェイラ
 秋イカのア・ラ・プランチャ
 舞茸のクリームクロケタス
 アルボンディガス

 野菜や海鮮、肉をバランス良くふんだんに使ったタパスは、本当に絶品だ。
 懐かしさと美味しさで頬を丸くしながらも月落が最も天にまで昇ったのは、魚介のパエリアを一口食べた時だった。

「美味しい、無理、美味しすぎて、羽が生えそう、もう僕は今スペインにいます、間違いなく、ここはスペイン」

 誰に聞かせるでもなく早口のワントーン低い声音でそう呟く青年は、目を閉じて深呼吸している。
 まるで身体全体に、その香ばしい香りを充満させているかのように。
 魚介の濃厚な出汁と直前できゅっと絞ったレモンの爽やかな酸味、噛むほどに旨みの溢れるしっとりしたバレンシア米と上に乗った海老やムール貝の柔らかさが、右手に握ったスプーンの動きを止めなくさせる。

「渉くん、よく噛んで。もはや飲んでませんか?そのスピードはもう飲んでますね?」

 コースの〆ということで小さめの浅型鍋で出されたパエリアは、吸い込まれる如く月落の口の中へと収まっていく。
 まばたきをひとつする度に鍋の上の一区画が綺麗に無くなっていって、鳴成が半分ほどを食べ終えた頃にはもう月落は最後の一口だった。

「泣く子も黙る食べっぷりでしたね」
「美味しすぎました。飲み込んで消えていくのが悲しくなったくらいです」
「もしお腹に余裕があるなら、追加注文できるか訊いてみますか?」

 月落の顔がぱっと明るくなったのを見た鳴成は担当の女性スタッフを呼ぶと、パエリアを単品で追加できるかを尋ねた。

「はい、可能でございます。3種類ございまして、いまお召し上がりいただいた魚介のパエリア、鶏肉のパエリア、イカ墨のパエリアもご用意しております」
「イカ墨のパエリア」

 月落は聞いた単語をそのまま繰り返す。

「好きですか?」
「はい、好きです。好きで、好き……好きなんですが……歯が黒くなった姿を先生の前に晒すのはまだちょっと勇気がないので、魚介のパエリアをおかわりでください」
「デザートは追加のパエリアの後でお出ししますか?」
「いえ、一緒にください」
「かしこまりました」

 同時に、鳴成は梨のサングリア、月落は地ビールを注文した。

「きみの歯が黒くなっても、私は一向に構わないんですが」
「僕の気持ちの問題です。好きな人の前では格好つけたいですから。もう少し気持ちに緩みがでるようになってから、イカ墨は食べることにします」
「それはいつですか?」
「えーっと、老後にでも」
「私の老後ですか?」
「僕の老後です」
「月落家のご親戚から察するに、一般的な老後の年齢ではないですよね?」
「そうですね。健康であれば、75前くらいかと」
「長い道のりですね。きみの老後となると私はもうだいぶ前後不覚な気がしますが……結構、憶えておきます」
「一緒にスペインでイカ墨のパエリアを食べましょうね、秋史さん」
「さすがにその年齢で飛行機の上は、一直線で天に召されそうな気がしてなりません」

 会話の弾むなか、しばらくして再度登場したパエリア、デザートのクレマカタラーナ、美味しい酒と共に夜は更けていく。




 鳴成の自宅を月落が訪れたのは、今日で数回目。
 招かれないという意味ではなく、品川の月落宅が半同棲寄りのスタイルへと着々と変化を遂げているため純粋に泊まりやすい、というのが最大の理由だ。
 鳴成の自宅にも来客用のセットはあるし、部屋着のストックなども用意があるのだが、甲斐甲斐しく恋人を世話したい月落の欲を満たすには品川の方が最適で、それを察している鳴成も異論はないためいつも泊まりに行っている。

「お邪魔します」
「どうぞ」

 間接照明でほのかに照らされたマンションの内廊下を進み、木目が最大限生かされた玄関扉を開ける。
 夜も遅い。
 暗闇を想像していた月落の目の前には、反して、闇を照らす光の一本道が浮かび上がっていた。

「え……」
「さあ、上がってください」

 鳴成に背中を押されて靴を脱ぐ。
 等間隔で置かれたLEDのキャンドルは広いリビングダイニングを抜けて、一番奥の主寝室へと続いているようだ。

 白磁の手に引かれて歩く。
 途中寄り道をして、一旦手洗いを済ます。
 洗面台にもキャンドルが置かれていたことに、月落は思わずくすりと笑ってしまった。

 再び光の道を歩いてたどり着いた先には、今は暗くてほぼ見えないけれどアッシュブラウンの落ち着いた色合いの扉。
 銀色のドアノブ付近には蓄光の星のステッカーが貼ってある。
 ぐるりと囲って散りばめるように。
 おもちゃのプラネタリウムのように。

「可愛いですね。子供部屋みたいです」
「悪戯されたみたいですよね。昨日貼っていて、私も思いました」
「……先生」
「何でしょう」
「僕は今日一日のデートが先生からの誕生日プレゼントだと思ってたんですが、もしかしてこれからがクライマックスだったりしますか?」
「うーん、そのつもりで準備はしました。が、現象に対する琴線の触れ方は得てして、する側とされる側で同一ではありませんから、クライマックスかどうかはきみの判断次第です」
「どうしよう、手が震えてきました。もう既に嬉しすぎて上手く呼吸が出来ません」
「私も緊張してしまうので、あまり期待しすぎないようにしてください。こういうサプライズは、正直苦手で」
「ちょっと一回深呼吸します」

 大きく胸を上下させた月落は、鳴成の顔を見る。
 視線で促され、意を決したように扉を開く。

「わぁ……え、凄い……綺麗です」

 ダウンライトがほんのりと灯る室内。
 クイーンサイズのベッドの上の壁には、『HAPPY BIRTHDAY』のシルバーバルーンとそれを飾る月の形をしたガーランドが光る。
 黒、白、グレーの風船も雲のように塊になって天井近くに浮いている。

「これ、先生がひとりで準備してくださったんですか?」
「アイディアは我が家の女性陣から授かったんですが、実行は一応私ひとりでやりました」
「本当に綺麗です」

 部屋の入口で足を止めたままの月落が見つめる先には、ベッドの上に置かれた一際大きな『31』を象ったシルバーのバルーン。
 その周りには輝く星型のガーランドと、クリア、白、グレーの風船が無数に置かれている。
 自分のためだけに作られた特別な空間が、その完璧な装飾が、温かい恋人の気持ちが、上限を遥かに超えるほどの感動となって胸に押し寄せる。

「昨日の出勤前に膨らませて出たんですが、空気が抜けていなくて安心しました」
「出勤前?朝早くに大変でしたね。でも、めちゃくちゃ嬉しいです。感動して言葉が出ないくらいです」
「それは頑張った甲斐がありました。でもね、渉くん。きみが言うクライマックスがあるとしたら、きっとこれからだと思います」

 来て、と連れられて一緒にベッドの端へと近づく。

「飛ばしてみてください」
「風船を、ですか?」
「ええ。かき分けるようにして」

 言われた通り、月落はその長い腕でふよふよと揺れながらベッドを占拠するシックな色合いの風船を左右に避けた。
 そこに、無地の茶色いギフト袋がぎっしりと詰まったボックスが現れた。
 見ると、2から31までの数字が書かれている。

「これは……?」
「アドベントカレンダーです。本来は記念日をゴールとして一日一日開けていくものですが、そこは大目に見てください。1がないのは今日の分で、それはここに」

 そう言って渡されたラッピングを開けると、とても実用的なアイテムが顔を出した。

「ドライヤーだ。ちょっと風力が弱くなって来てたので、ちょうど替え時でした。ありがとうございます」
「明日からひとつずつ開けてください。これからの30日間を、楽しく過ごせますように」

 袋の中身は様々なものが入っている。
 ネクタイやカフスボタン、いつかTAを終えて会社員へと戻った時に使えるカードケース。
 本気度の高い物以外にも、遊び要員のバスボムや月落愛用の歯磨き粉、お手伝いさんおすすめのふりかけなどが入っている。

 悪戯で、外国産の激甘キャラメルも数個忍ばせておいた。
 それを包んでいる時が一番楽しかったというのは、絶対に死守しなければならない秘密だ。

「ありがとうございます。これから30日掛けて先生の気持ちを受け取れると思うと、本当に嬉しいです。人生最高の誕生日プレゼントです」

 感無量といった表情の月落に、ぎゅうと強く抱き締められる。
 胸と胸が合わさって、高鳴る鼓動が伝染するようだ。
 鳴成も応えるように広い背中に腕を回してしばらく抱擁したあと、そっと身体を離す。

「お誕生日おめでとうございます。出会えた奇跡に心から感謝しています。産まれてきてくれて、ありがとうございます」

 ただひたすらに、愛しい人の瞳を見つめながら言葉を紡ぐ。
 慈しむ気持ちが、掛け替えのない気持ちが、真っ直ぐに伝わるように。

「秋史さん……」

 黒の瞳は瞬間切なく揺らいで、眉根をくっと歪ませた。
 耐えるように。
 それでも隠し切れない、潤んでいく膜の輝き。

「大好きです、渉くん。来年も再来年も、10年後も20年後も、こうしてお祝いしましょうね」

 鳴成が目の前の頬に唇を寄せたのを合図に、重なる互いの唇。
 それは軽く啄むように、けれど早々に激情を伝え合う深さに変わる。


 大切だ、大切だ、と吐息で、指で、声で、身体全体で伝え合う行為は、日付が変わってもしばらく終わらなかった。
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