鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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三章

14. 黄葉の公園での小さな出会い①

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 11月第3週木曜日の朝、鳴成秋史は自宅の寝室で目を覚ました。
 明日から3日間に渡って行われる私立大学最大級の学祭『逢宮祭』準備のため、本日の大学は午前中が補講、午後から休講となる。
 受け持っている木曜3限の講義も、漏れなく休みとなった。
 元々水曜日は授業を持っていないため、来週の日曜日まで計5日間の休日を手に入れた鳴成である。

 秋の分の翻訳作業は既に完了していて、特に差し迫った用事もない。
 昨年までならばこういう日々はひたすら自宅に籠って、積読の山を減らすことに精を出していたのだが、今年の彼は一人ではない。

 年下の恋人とは仕事場で週の大半を共に過ごしているため気持ち的にも余裕があり、各々のプライベートな時間も確保したいという思いも一致している。
 よって、恋人としての時間を取るのは基本的に金曜から土曜、あとは仕事終わりに食事に行く何日かにすると、交際が始まった頃に擦り合わせを行った。

 互いの用事でデートが前後に倒れる時もあるけれど、今週はその予定はない。
 水曜と木曜は例年と変わらず書斎で本に埋もれるか、最近回数を増やしたジムに行くのもいいなと思案していると、週初めの仕事終わりに恋人からある提案をされた。

「先生、水曜からのお休みは本とお友達になるご予定ですか?」
「ええ、一応そのつもりです」
「木曜日、僕と黄葉を見に行きませんか?」
「紅葉は好きです。山ですか?」
「あ、山登りがお好きなら今からでもコース変更できますけど」
「いいえ、特段そういう訳では。紅葉と言えば山かなという、安直な考えです」
「登山はご興味ないですか?」
「あまり経験がないので何とも。インドアが生息域ということもありますし」
「そうですね。僕的にも、山に登ってる先生の姿はあまり想像ができないですね」
「でしょう?」

 すっかり陽の暮れた研究室で帰り支度をしながらの会話は、公私の区別が曖昧になる。
 准教授とTAという肩書きが透明なものへと変化していく。

「山じゃないなら、寺社仏閣ですか?」
「公園です。イチョウ並木が見頃らしいので、一緒にどうかなと思いまして。黄色い葉で黄葉の方ですね。池があったりカフェがあったりするので、午後をゆっくり過ごすのも良さそうです」
「あ、もしかして立川の?」
「そうです。前に先生が翻訳された本の舞台になった場所です」
「『黄昏セラミック』ですね」
「はい。最近ようやく英語版を入手しました」
「よく見つかりましたね。その本は私が駆け出しの頃に出版されたもので、確かイギリスでも入手困難だったはずなんですが」

 月落の自宅のロフト部分に設置されている磨りガラスで仕切られたワークスペースは、壁一面が本棚となっている。
 経営や金融、不動産、リーダーシップに関する本が多く並ぶ中の一角。
 他とは明らかに区別された場所に、鳴成が翻訳に携わった書籍が集められた専用のコーナーが設けられている。
 それに鳴成が気づいたのは、泊まりに行くようになってから何度目かの夜のことだった。

 日英だけでなく、独英のものも置かれていて、そして必ず原作と翻訳版がセットで揃っていて、そのラインナップに驚くと共にとても感動したのを憶えている。
 恋仲になってから集め始めたにしては少々無理な量だった。
 それは、仕事仲間であった時から自分に興味を持っていたということの現れで、月落の想いの深さを身に染みて感じた鳴成だった。

「イギリスの小さな町にある本屋さんで見つけてくれた知人がいて、送ってもらいました」

 知人——各国で諜報活動をしているスコーピオンのことだ。

「どういう状態か確かめたいので、今度見ても?」
「はい、もちろんです。それで先生、木曜日は僕とデートしてくださいますか?」
「ああ、そうでした。ええ、是非」

 というやり取りの結果、本日木曜日は黄葉デートと相成った。
 今日明日を共に過ごし、土日はフリーとなるイレギュラーシフトで、鳴成の読書日もきちんと確保される形となった。

 南青山の自宅まで月落が迎えに来るのが11時。
 6時半に起きて身支度を整えると、鳴成はジムへと繰り出した。

 先祖返りが色濃く出た彼は、見た目の身体的特徴だけでなく内部構造も日本人離れしているようで、比較的筋肉がつきやすい。
 以前までは週1ペースでもそこそこ十分だと感じていたジム通いだが、最近では最低で週2、余裕のある時は週3で行くようにしている。

 月落がTAとして働き始めてから食事をきちんと摂るようになり、糖分も多く摂るようになり、体重変化が気になり出したからだ。

 実際には身体のフォルムも数値も変わってはいないのだが、中年期新人の己の肉体を甘く見てはいけない。
 楽しい日々の大きな代償に気づいた時にはきっと後の祭り。
 おじさん体型に足を踏み入れてしまえば転がるように体脂肪は増え、以前の体型を取り戻すのに時間が掛かるだろう。
 けれど、楽しみを我慢するつもりも、月落との美味しい食事を控えるという選択肢も鳴成にはない。

 幸せだから。
 とても、幸せだから。

 ならば、その幸せにたとえ首まで浸りきったとしても、きっちり自力で起き上がれる筋肉をつければ良い。
 そう心に決め、今日も鳴成はジムで汗を流した。

 上半身の筋トレ後に有酸素を20分。
 終わってすぐにプロテインを飲む。
 自宅近くなのでそのまま帰宅してシャワーを浴びたら、朝食を気持ち軽めに食べる。

 サラダにスクランブルエッグ、パン、昨日お手伝いさんが作り置きしてくれた鶏むね肉とほうれん草のトマト煮込み、カフェラテ。

 夜干ししていた洗濯物を仕舞って、掃除をする。
 無くなるタイミングがなぜか同じの各種洗剤を詰め替えて、母からの怒涛のメッセージに返信しているともうすぐ約束の時間だ。
 休日なので髪をセットするのはやめて、ざっくり手櫛を通して前髪は下ろす。
 キャメルのショールカラーニットに黒のテディジャケット、ダークブラウンのチェック柄パンツを穿いて玄関の扉を開けた。

 マンションを出ると、もう既に黒のSUVが入口から少し離れた場所に停まっていた。
 長身の男が腕組をしながら、車に寄りかかるようにして自分を待っている。
 気づくとすぐに笑顔で迎えてくれる。

「おはようございます。待ちましたか?」
「先生、おはようございます。いえ、全然。ちょうど今着いたところです」

 黒のタートルネックに濃い緑のシェルブルゾン、ダークグレーのシガレットパンツを穿いた月落が、鳴成のために助手席のドアを開けた。

「ありがとうございます」

 運転席に座った月落は、鳴成のシートベルトを締めると自分のも締めた。
 ドリンクホルダーに並んだ2つのカップを指で差しながら、説明が開始される。

「こっちがロイヤルミルクティーで、こっちがキャラメルカスタードマロンラテです」
「キャラメルカスタードマロンラテは珍しいセレクトですね。きみが飲んだら甘さで震えてしまうんではないかと思うんですが」
「ソイラテにしようかなと思ったんですが、季節のおすすめで大きなポップが出てて思わず頼んじゃいました。低脂肪ミルクに変更してショット追加したので、原形を留めてなかったらすみません」
「それはそれで楽しみです。半分ずつにしましょうね」
「先生がくださった誕生日アドベントカレンダーでキャラメルの美味しさを再発見したので、チャレンジしてみます」
「あはは」

 前向きな言葉とは裏腹に、月落はジト目で鳴成を見る。

 9月27日の月落の誕生日に用意した30日分のプレゼントの中に、外国製の激甘キャラメルを何個か忍ばせるという悪戯をした。
 毎朝ひとつずつ開けていると嬉しそうな顔をしていた月落だが、初めてキャラメルを食べた日は研究室に出勤してきた時の顔が若干引き攣っていて、鳴成は思わず肩を震わせた。
 「甘くて、2回歯磨きをしました」と言われて、その震えは更に大きくなった。
 ひとしきり笑ったあとで顔を上げて、むくれた表情をする恋人の肩をよしよしと撫でるまでがワンセット。
 それをその後も何回か繰り返した。
 
 どのプレゼントをどの日に入れたのかをあまり細かく記憶していなかったので、突然訪れるその引き攣った表情に出会う日を心待ちにしていると白状すればきっと、より一層拗ねられること間違いなしだ。
 唇のチャックは絶対に開けてはならない。

「ここに水と緑茶のペットボトルも入ってるので、お好きにどうぞ」
「ありがとうございます」

 いつものことながら至れり尽くせりだ。
 甘やかしが行動原理に根付く男。
 こういうのに慣れてしまってはきっと自分は駄目になると分かっているのに、頭のてっぺんまで浸ってしまいたい気持ちになる。

 ……大丈夫だと思いたい。
 ……筋トレをしているので。

「出発しても良いですか?」
「お願いします。疲れたら運転を代わります」
「そういえば、この車を先生が運転したことないですよね?」
「ええ、SUVに乗ったこと自体も実はあまりないので勝手があまり分かっていませんが、きみが良ければ代わります。ぶつけるかもしれませんが」
「先生?!」

 黒の車体は秋空の下をゆっくり発進する。




―――――――――――――――




 正午前、道中で蕎麦屋へと入った。

 昭和初期を代表する陶芸家である矢鬼野匠やきのたくみが別邸として建てた日本家屋を、必要最低限リノベーションしているという店内。
 平日だからか昼時の少し前だったからか、予約不可だったけれども待たずに中へと案内された。
 色づく紅葉がはらりと散る苔庭を臨む、窓際の席に向かい合って座る。
 景色鑑賞もそこそこに、渡されたメニューをさっそく開いて相談会が始まった。

「天ざる蕎麦……あったかいのも良いですね。先生、舞茸のかき揚げ美味しそうです」
「秋限定と書いてあるのを見ると、これは食べなければという気持ちにさせられますが……多分、大きいですよね。天ぷら盛り合わせと一緒はさすがに多いかな?」
「シェアで、先生」
「お願いします。お蕎麦屋さんに来ると、ついつい天ぷらを食べたくなりますよね」
「分かります。僕は天重も食べようとしてます。あ、酢の物も食べますか?サラダの代わりに。これは各自でも大丈夫そうですね」
「渉くん、茶碗蒸しもありますよ」
「え、食べたいものがどんどん増えていく……いや、でも僕は自分の胃袋を信じてるので頼みます」
「私もきみの胃袋には全幅の信頼を寄せています」
「そう言われては、負けられない戦いがここにある気が……あ、先生、秋茄子の田楽もありますね」
「……勝てそうですか?」

 結局、鳴成は温の天ざる蕎麦と酢の物、田楽を、月落は鴨せいろに天重、酢の物、茶わん蒸しを注文した。
 秋刀魚の造りと舞茸のかき揚げもシェアする用で頼む。
 11時から開店している店はちょうど客の入れ替わりの時間帯のようで、空席になってもすぐに埋まる。

「先生、昨日はどんな一日でした?」
「十中八九お察しの通り、ずっと読書をしていました。お手伝いさんが来てくれた時の「こんにちは」と帰る時の「ありがとうございました」以外は一切何も喋っていない気がします」
「あはは、それは省エネモードでしたね。ジムにも行かなかったですか?」
「ええ、なので今朝行って来ました」
「奇遇ですね、僕もです」
「奇遇と言うか、それはきみが週4のペースでジムに行っているから、単に被る率が高いということではないですか?」
「そうとも言いますね」
「プールですか?」
「はい、今週はマシンよりも水泳の気分なので、ずっと潜ってようかと思ってます」
「もしかして潜水で?」
「それも時々やりますが、基本は平泳ぎです。一番好きなので」
「クロールとかじゃないんですね」
「それも時々ですね。人が全然いない時間帯だとバタフライをしてます。波が立つので、両隣のコースが空いてないとやりにくくて。なので、あえて深夜に泳ぎに行ったりすることもあります」

 深夜という言葉を聞いて、信じがたいという表情で鳴成が気持ち仰け反る。
 深夜とは、誇張なくおそらく丑三つ時だろう。
 自分がすやすやと寝ている時間帯に、まさか恋人がプールでバタフライをしていようとは。

「まさか、今朝と言うのは実は……?」
「いえ、今日はちゃんと朝でした。6時に到着したので」

 十分に早い。

「重々承知していましたが……体力おばけ」
「そうですね。うちの家系は体力おばけ集団だと思います。初期設定で与えられてるゲージが、世間の皆さんとは違うようです」

 公私を共にして色々あれこれする中で、それを実感する機会は多かったけれど。
 自分が年老いて……たとえば10年後、月落について行ける体力があるのか甚だ怪しい。
 顎に指を当てて考え耽る鳴成を、月落は微笑んで見つめている。

「先生、ご心配なく。無理せずいてくだされば、僕がカバーしますので」
「ええ、お世話になります」

 とりあえず足腰を弱らせないように、トレッドミルを傾斜設定にして坂道ウォーキングをしようと鳴成は心に決めた。

「きみの昨日はどうでしたか?」
「転職活動、というか採用面接に行ってきました」
「採用、面接?グループに入るのは決定事項だという認識だったんですが」
「はい、決まってます。新卒入社組であろうと転職組であろうと、グループに入る時には試験と面接は必須なんです。なので、履歴書を提出して昨日、面接をしました」
「これまで教えてもらった話から推測するに、ご親戚の方がずらっと並んでいらっしゃる気がしますね」
「その通りです。みんな奇跡的に東京にいたので、10部門の全責任者対僕という異様な光景でした。ですが、血縁がほとんど、それ以外の方も顔見知りなので、殺伐とした雰囲気は一切なく和やかでした」

 和やかに感じたのは、気持ちに余裕があったからだろう。
 どんな場面でも平常心を失わず、言葉を発さなくとも場を掌握できる人だからこその感想だ。

「私が同じ立ち位置になったら、卒倒する自信しかありません」
「そうですね、男性陣は一様に身体が大きので、威圧感はある意味ではありすぎるかなと思います。画づら的には完全に悪役側ですね」
「きみは正義のヒーローですね。立ち向かえました?」
「経歴は一応それなりなので、それを武器にして何とか」
「お疲れ様でした。前に話してもらった通り、どの部門が採用するかで骨肉の争いに発展しそうですね。きみの希望はあるんですか?」
「部門を複数経験したい旨は伝えてあるので、あとは任せようと思ってます。僕が以前在籍していたコンサルが総合系ファームだったので、CBSでの経験を併せるとどの分野でもあまり困らないかなと」
「もしホテル部門に配属になったら、働いているきみを見るために宿泊予約を取ってしまいそうですね」
「ホテルにします!今すぐ正志叔父さんに連絡して!ホテルに!」
「渉くん、落ち着きましょうね?」
「お待ちどおさまです。あったかい天ざる蕎麦と鴨せいろです。あら、ごめんなさいね。通れるかしら?」

 猛烈な勢いでスマホを操作し始める月落を鳴成が制止していると、母親世代の店員がお盆をふたつ運んできた。
 同じタイミングで、奥の広い座敷に座っていた親族集まりであろう集団がぞろぞろと店を後にするようで、店員の後ろを通って行く。

「ありがとうございます」
「天ざるのお盆には酢の物、鴨せいろには酢の物と茶碗蒸しも一緒に乗ってますからね。他のは別皿でご用意するから、少々お待ちくださいね」
「お待たせしました。田楽と天重、お刺身と舞茸の天ぷらです」

 後ろから続いてやって来た女性の店員が二人の間に皿を並べていく。
 普通サイズのテーブルはあっという間にいっぱいになった。

「いただきます」

 声を合わせて箸を持った月落と鳴成の横を、小学校低学年ほどの見た目の少女がたったったと走り抜ける。
 と思った瞬間、べしゃりと音がした。
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