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07. 最愛の定義
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それからのステファンの学校生活は、いつも通りと言えば紙一重でその範疇に収まってはいたけれど、明らかに別物となった。
「おはよう、ステフ。今日も一段と可愛らしいね」
朝は必ず、玄関先に筆頭公爵家の豪奢な馬車が止まるようになった。
それまでも何度か乗るように誘われたけれど、貴族街の中途半端な位置にあるウェインハット家に寄るためにわざわざ遠回りをさせる面倒は掛けられない、と断っていた。
けれどあの告白の日からは、問答無用で迎えに来る。
そしてそれは、突撃お宅訪問というような電撃スタイルではなく、きちんとした理由付きだったのでステファンも断りづらかった。
「ステフ、朝から君に会いたいんだ。私の朝は君に会うことで完成すると言っても過言ではないよ。夢の中でも会いたいけれど、夢は不確かだろう? 会えなかった日、私は朝食も喉を通らないんだ。可哀想だろう? まだまだ成長期の私の健康を慮ってくれるなら、朝からその可愛い顔を愛でさせてほしい」
きちんとした理由か?と疑いたくなる気持ちはよく分かる。
長文の勢い任せだ。
『理屈っぽい屁理屈を並べて押せ』の拡大解釈だ。
とはいえ、強引な手でも相手の了承を得ることに成功してしまえば、それ即ち勝ちである。
「……いいよ。そうしないと、この国が滅んでしまうかもしれないんでしょ?」
そして相手はステファンだ。勝ち確だ。
裏の裏の裏を読む伯爵家子息にかかれば、屁理屈も立派な理屈に昇華される。
有難い。
こうしてベルジュードは、朝の天国をその手中に収めた。
馬車の中では毒草の話や家族の話、勉強の話を中心に花を咲かせ、拒まれない程度のスキンシップもした。
「ステフ、キスは?」
「しない、しないっていつも言って…、っん」
「昨日もそう言ったけれど、最後に口を開いたのは君だったね」
「ッ、なぞるの、くすぐったい……ゃう」
フェザータッチで唇と唇を合わせられて、皮膚に痺れが走る。
これ以上キスをされないように、とステファンは自身の手の平で唇を塞いだ。
けれど、無駄な抵抗だ。
ベルジュードの自由を奪わない限り、この戯れは終わらない。
頬に、首筋に、耳元にやわらかく触れられて、迫られた小動物は馬車に揺られながら、その身体を紅く染めるしかなかった。
授業中は教科書を忘れたと大声で宣言するベルジュードに机をぴたりとくっつけられ、その影で手を繋がれた。
教室中の四方八方から善意の教科書が回されて来たが、忘れ物をした張本人は一切合切を笑顔で拒否していた。
教師からも新品の教科書が提供されたが、それも極上の笑顔で返品した。
そんなことが何度も続いたが、筆頭公爵家の超優秀な子息という肩書は、周囲の観察眼を曇らせるには実に有用な目くらましだった。
誰も疑問に思わなかった。
ただひとり、ゼイナル侯爵家の子息以外は。
「お前、せめて授業中は大人しくしろよ」
「大人しくしている。誰にも迷惑は掛けてないだろう?」
「一番迷惑掛けられてる奴が一番気づいてないのが、一番の問題なんだよ」
「そうなんだよ、ショーン。手を繋ぐっていうのはもしかしたら、ステフの中では日常茶飯事なんだろうか? 全くときめいてる様子がないんだ」
「知らねー。俺に訊くなー」
その会話の直後の授業中、ベルジュードは考えあぐねていた。
どうすればこの想いが伝わるだろうかと。
無意識に指を何度も滑らせる。
右手、利き手ではないその指を掴まれて遊ばれるその感覚に気を取られたステファンのノートが、スペルミスの散った文字列で埋まっているとも知らずに。
放課後の図書館は危険だ。
だから行くのを躊躇ったステファンだが、自分より力の強い相手に腕を引っ張られては止まることは出来ない。
夕陽に照らされたソファ席。
端に座ったステファンは、ベルジュードにぴたりと距離を失くされたままで『古代種の毒魚図鑑』のページを捲る。
背もたれに回された腕に閉じ込められて、その身体は独占されている。
「ベルジュードは読みたいものとかないの?」
「ステフが読みたい本が、私の読みたい本だよ」
「あ、じゃあこれ貸すから、どうぞ。覗き込んでると首を痛めちゃうから」
「ありがとう、優しいね。けれど、お構いなく。君の読書の時間を邪魔するつもりはないからね」
邪魔だ、もう十分に邪魔だ。
そう強く訴えられないステファンはどうにか眼力に頼ってみるけれど、それはさらりと躱された。
躱された上で都合よく拡大解釈され、なぜか唇が迫ってくる。
「キスをねだってるのかな?」
「え……全然、そんなことない。全然そんなつもりじゃない」
「本当に?そんなに熱く見つめられたら、勘違いしてしまうよ、ステフ。君のせいだね」
公共の場ではいけない、と首が取れるほどに背けるステファン。
その必死な姿が可愛くて、ベルジュードは笑いを堪えることができなかった。
キャラメルベージュの髪を撫でて宥めながら、「ここではしないよ」と安心させる。
疑い混じりでぎこちなく首を元に戻したステファンに、さらなる笑いが誘われたのはもはや必然だ。
帰りの馬車の中でひどく唇を吸われることになるとは、その時のステファンには想像さえ出来なかった。
―――――――――――――――
放課後、いつものようにベルジュードに見送られながら、ステファンは屋敷へと帰った。
「ステファン、おかえり」
居間では執事に手伝われながら、母がガーデニングで育てた花を花瓶に活けていた。
じっとしていられない性分だから、と田舎暮らしだった時代も王都に住んでいる今も、家の中のことは全て自ら片付ける母の腕は、相変わらず少し日に焼けている。
白磁の肌を競い合う社交界では浮いているらしいが、本人はあまり気にしていない。
天高く盛りすぎた髪でその夜の話題を根こそぎ掻っ攫った日に大泣きして以降、どこか吹っ切れたようだ。
外見よりも中身勝負だ、とステファンが書き記した『貴族ことば』の用紙を、今は寝る前に熟読しているという。
クローゼットの一等地で眠っていた花柄のドレスを叩き起こして袖を通した母を眺めながら、ステファンはソファに身を沈めた。
無意識で、思案の霧を吐き出す。
「あら、大きなため息ね。学校で嫌なことでもあった?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど」
「そういうわけじゃないんだけど、悩んでることがあるのね?」
「うん、どうして分かったの?」
母が隣に座る。
日向の匂いがした。
「あなたはあまり悩まない子だから、そうなった時は一目瞭然なの。頭の回転が速いから、時々独自ルートを突き進んでしまうことはあるけど、基本的には順序立てて考えられるでしょう? それが出来ずにモヤモヤしてる時は、分かりやすく落ち込むのよね」
髪を撫でられる。
キャラメルベージュの髪は完全なる母譲りだ。
優しい手つきに、心がほどける。
「父さんと母さんは幼馴染だったよね?」
「そう。ここに移り住む前にみんなで暮らしてた場所からそう遠くない田舎で育ったの」
「出会ってすぐ好きになったの?」
「ううん、出会ったのは物心がついたばかりで幼かったから、ライアンは普通に遊び友達のひとりだったわ」
「好きになったのはいつ?」
「ちょっと待って、ステファン。もしかして私たち今、恋バナしてる?」
恋バナ……?
聞き慣れない単語にステファンは首を斜めにする。
「言い換えると……もしかしてあなた、誰かと恋をしたりしてるの?」
「うーん……分からない」
「好きかどうか分からない?」
「うん」
「それが恋かどうか分からない?」
「うん」
「もしかして告白されたりした?」
「うん」
きゃー!と、母が胸の前で手を組んで絶叫した。
うら若き乙女の如くだ。
いつの間にか部屋の端に立っていた執事も、したり顔で黙っている。
「誰? それは誰なの、ステファン? 返事はしたの? もうお付き合いしてるの?」
矢継ぎ早に投げかけられて、ステファンは広げた手の平でストップの意を示した。
「落ち着いて、母さん。告白はされただけでまだ返事はしてない。自分の気持ちが分からないから」
「そうだった、そうだったわ。早とちりしてごめんなさいね」
「自分の気持ちを確かめる術ってどういうのか知りたいんだ。何を以てして、人って人を好きになるのか」
「だから、私とライアンの馴れ初めを知りたいのね」
母は視線を上げる。
遠い場所にある思い出を呼び覚ましているようだ。
「私がライアンを好きになったきっかけは、きっとあれね。昔、ひとりで森に入った時に足を毒蛇に噛まれたの。弱い毒だったから大事にはならなかったんだけど、腫れて歩けなくなってしまって。いつの間にか日も暮れて、寒くて怖くて震えてたら、ちょうどライアンに出会って」
「もしかして、いなくなった母さんを探しに来たの? 夜の森に入るなんて、父さんは勇敢だね」
「そうだったらロマンチックだったんだけど、夜にしか咲かないシビレユウガオを探しに来たらしいのよ。あの人らしいでしょう?」
うふふ、と笑う母の顔にはあどけない笑みが乗る。
時間を巻き戻しているからだろうか、少女のようだ。
「でも私を見つけた途端、手に持ってた全てを投げ出して私の名前を呼ぶあの人の姿に、とっても胸がきゅんとしたわ」
「胸がきゅん……蛇の毒が心臓に回っちゃったのかな?」
「そうなったら私は死んじゃってるわね。今頃ここにいないし、あなたも生まれてないわ」
執事の吹き出す音が漏れる。
込み上げる笑いをやりすごそうとしているのか、肩が猛烈に上下している。
「胸がきゅんとするのが、恋に落ちた証なの?」
「人体って不思議なものでね、ステファン。常識では説明できない、神秘的なリアクションをする時があるのよ」
「それはどんな時そうなるの?」
「感情が大幅に揺らいだ時かしらね。予め持ってる器に収めきれないほどの想いが漲ると、主張してくるの」
「主張……」
「この人は他とは違う、この人は特別だってね」
特別。
父も母も弟も、自分にとっては特別な存在だけれど、それとはまた違うのだろうか。
「きゅんとするっていうのはどんな感覚?」
「きっと人によって違うんでしょうけど、大概が締めつけられる感じね。引き攣れて、痛むような」
「もしかして、恋って命懸けなの?」
「そうかもしれないわ。恋って愛の始まりでしょう? 最愛の人となら、死んでもいいって思えるもの。たとえ破滅する道のりでも、共に死んでもいいって」
国語の試験以外にも命懸けがあるなんて。
この世界には難しいことだらけだ。
頭がもげるほどに項垂れたい気分のステファンだった。
母との会話のあと自室に戻ったステファンは、ベッドの上で深く思いを巡らせていた。
「恋は死と隣り合わせ……ベルジュードは僕と死んでもいいって思ってるってこと?」
自分を好きだと言っていた。
世界一、宇宙一好きだと。
それはもう、きっとそういうことだろう。
あの眼差しに嘘もなければ裏もない。
誠実な言葉だけをくれる彼を、自分は果たしてどう思っているのか。
「嫌いではない……じゃあ、好き? 死ぬほど好きなのかな……?」
その想いの強さには、現段階では決して至っていない。
人間としては好き、友人としても好き。
じゃあ、恋をする相手としては……?
『ステフ、好きだよ』
頭に響く声。
濃いグレーの瞳、キスをする熱い唇、掠める匂い、なぞる指先。
ベルジュードのひとつひとつが、閉じた瞼の裏に浮かぶ。
だんだんと呼吸が乱れて、ぞわり……と胸の襞が逆立った。
そして次の瞬間、ぎゅう、と胸が引き攣った。
「痛い……心臓が痛い……」
認めてしまって力が抜ける。
ステファンはそのままベッドに突っ伏した。
掛け布団をめちゃくちゃに搔き抱いて、身体を縮こまる。
主張する心臓をどうにかしたかった。
漲る胸きゅんを、どうにしたかった。
『可愛いね、ステフ。好きだよ』
それでも止まない彼の声は、心を濡らす霧雨のようで。
「おはよう、ステフ。今日も一段と可愛らしいね」
朝は必ず、玄関先に筆頭公爵家の豪奢な馬車が止まるようになった。
それまでも何度か乗るように誘われたけれど、貴族街の中途半端な位置にあるウェインハット家に寄るためにわざわざ遠回りをさせる面倒は掛けられない、と断っていた。
けれどあの告白の日からは、問答無用で迎えに来る。
そしてそれは、突撃お宅訪問というような電撃スタイルではなく、きちんとした理由付きだったのでステファンも断りづらかった。
「ステフ、朝から君に会いたいんだ。私の朝は君に会うことで完成すると言っても過言ではないよ。夢の中でも会いたいけれど、夢は不確かだろう? 会えなかった日、私は朝食も喉を通らないんだ。可哀想だろう? まだまだ成長期の私の健康を慮ってくれるなら、朝からその可愛い顔を愛でさせてほしい」
きちんとした理由か?と疑いたくなる気持ちはよく分かる。
長文の勢い任せだ。
『理屈っぽい屁理屈を並べて押せ』の拡大解釈だ。
とはいえ、強引な手でも相手の了承を得ることに成功してしまえば、それ即ち勝ちである。
「……いいよ。そうしないと、この国が滅んでしまうかもしれないんでしょ?」
そして相手はステファンだ。勝ち確だ。
裏の裏の裏を読む伯爵家子息にかかれば、屁理屈も立派な理屈に昇華される。
有難い。
こうしてベルジュードは、朝の天国をその手中に収めた。
馬車の中では毒草の話や家族の話、勉強の話を中心に花を咲かせ、拒まれない程度のスキンシップもした。
「ステフ、キスは?」
「しない、しないっていつも言って…、っん」
「昨日もそう言ったけれど、最後に口を開いたのは君だったね」
「ッ、なぞるの、くすぐったい……ゃう」
フェザータッチで唇と唇を合わせられて、皮膚に痺れが走る。
これ以上キスをされないように、とステファンは自身の手の平で唇を塞いだ。
けれど、無駄な抵抗だ。
ベルジュードの自由を奪わない限り、この戯れは終わらない。
頬に、首筋に、耳元にやわらかく触れられて、迫られた小動物は馬車に揺られながら、その身体を紅く染めるしかなかった。
授業中は教科書を忘れたと大声で宣言するベルジュードに机をぴたりとくっつけられ、その影で手を繋がれた。
教室中の四方八方から善意の教科書が回されて来たが、忘れ物をした張本人は一切合切を笑顔で拒否していた。
教師からも新品の教科書が提供されたが、それも極上の笑顔で返品した。
そんなことが何度も続いたが、筆頭公爵家の超優秀な子息という肩書は、周囲の観察眼を曇らせるには実に有用な目くらましだった。
誰も疑問に思わなかった。
ただひとり、ゼイナル侯爵家の子息以外は。
「お前、せめて授業中は大人しくしろよ」
「大人しくしている。誰にも迷惑は掛けてないだろう?」
「一番迷惑掛けられてる奴が一番気づいてないのが、一番の問題なんだよ」
「そうなんだよ、ショーン。手を繋ぐっていうのはもしかしたら、ステフの中では日常茶飯事なんだろうか? 全くときめいてる様子がないんだ」
「知らねー。俺に訊くなー」
その会話の直後の授業中、ベルジュードは考えあぐねていた。
どうすればこの想いが伝わるだろうかと。
無意識に指を何度も滑らせる。
右手、利き手ではないその指を掴まれて遊ばれるその感覚に気を取られたステファンのノートが、スペルミスの散った文字列で埋まっているとも知らずに。
放課後の図書館は危険だ。
だから行くのを躊躇ったステファンだが、自分より力の強い相手に腕を引っ張られては止まることは出来ない。
夕陽に照らされたソファ席。
端に座ったステファンは、ベルジュードにぴたりと距離を失くされたままで『古代種の毒魚図鑑』のページを捲る。
背もたれに回された腕に閉じ込められて、その身体は独占されている。
「ベルジュードは読みたいものとかないの?」
「ステフが読みたい本が、私の読みたい本だよ」
「あ、じゃあこれ貸すから、どうぞ。覗き込んでると首を痛めちゃうから」
「ありがとう、優しいね。けれど、お構いなく。君の読書の時間を邪魔するつもりはないからね」
邪魔だ、もう十分に邪魔だ。
そう強く訴えられないステファンはどうにか眼力に頼ってみるけれど、それはさらりと躱された。
躱された上で都合よく拡大解釈され、なぜか唇が迫ってくる。
「キスをねだってるのかな?」
「え……全然、そんなことない。全然そんなつもりじゃない」
「本当に?そんなに熱く見つめられたら、勘違いしてしまうよ、ステフ。君のせいだね」
公共の場ではいけない、と首が取れるほどに背けるステファン。
その必死な姿が可愛くて、ベルジュードは笑いを堪えることができなかった。
キャラメルベージュの髪を撫でて宥めながら、「ここではしないよ」と安心させる。
疑い混じりでぎこちなく首を元に戻したステファンに、さらなる笑いが誘われたのはもはや必然だ。
帰りの馬車の中でひどく唇を吸われることになるとは、その時のステファンには想像さえ出来なかった。
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放課後、いつものようにベルジュードに見送られながら、ステファンは屋敷へと帰った。
「ステファン、おかえり」
居間では執事に手伝われながら、母がガーデニングで育てた花を花瓶に活けていた。
じっとしていられない性分だから、と田舎暮らしだった時代も王都に住んでいる今も、家の中のことは全て自ら片付ける母の腕は、相変わらず少し日に焼けている。
白磁の肌を競い合う社交界では浮いているらしいが、本人はあまり気にしていない。
天高く盛りすぎた髪でその夜の話題を根こそぎ掻っ攫った日に大泣きして以降、どこか吹っ切れたようだ。
外見よりも中身勝負だ、とステファンが書き記した『貴族ことば』の用紙を、今は寝る前に熟読しているという。
クローゼットの一等地で眠っていた花柄のドレスを叩き起こして袖を通した母を眺めながら、ステファンはソファに身を沈めた。
無意識で、思案の霧を吐き出す。
「あら、大きなため息ね。学校で嫌なことでもあった?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど」
「そういうわけじゃないんだけど、悩んでることがあるのね?」
「うん、どうして分かったの?」
母が隣に座る。
日向の匂いがした。
「あなたはあまり悩まない子だから、そうなった時は一目瞭然なの。頭の回転が速いから、時々独自ルートを突き進んでしまうことはあるけど、基本的には順序立てて考えられるでしょう? それが出来ずにモヤモヤしてる時は、分かりやすく落ち込むのよね」
髪を撫でられる。
キャラメルベージュの髪は完全なる母譲りだ。
優しい手つきに、心がほどける。
「父さんと母さんは幼馴染だったよね?」
「そう。ここに移り住む前にみんなで暮らしてた場所からそう遠くない田舎で育ったの」
「出会ってすぐ好きになったの?」
「ううん、出会ったのは物心がついたばかりで幼かったから、ライアンは普通に遊び友達のひとりだったわ」
「好きになったのはいつ?」
「ちょっと待って、ステファン。もしかして私たち今、恋バナしてる?」
恋バナ……?
聞き慣れない単語にステファンは首を斜めにする。
「言い換えると……もしかしてあなた、誰かと恋をしたりしてるの?」
「うーん……分からない」
「好きかどうか分からない?」
「うん」
「それが恋かどうか分からない?」
「うん」
「もしかして告白されたりした?」
「うん」
きゃー!と、母が胸の前で手を組んで絶叫した。
うら若き乙女の如くだ。
いつの間にか部屋の端に立っていた執事も、したり顔で黙っている。
「誰? それは誰なの、ステファン? 返事はしたの? もうお付き合いしてるの?」
矢継ぎ早に投げかけられて、ステファンは広げた手の平でストップの意を示した。
「落ち着いて、母さん。告白はされただけでまだ返事はしてない。自分の気持ちが分からないから」
「そうだった、そうだったわ。早とちりしてごめんなさいね」
「自分の気持ちを確かめる術ってどういうのか知りたいんだ。何を以てして、人って人を好きになるのか」
「だから、私とライアンの馴れ初めを知りたいのね」
母は視線を上げる。
遠い場所にある思い出を呼び覚ましているようだ。
「私がライアンを好きになったきっかけは、きっとあれね。昔、ひとりで森に入った時に足を毒蛇に噛まれたの。弱い毒だったから大事にはならなかったんだけど、腫れて歩けなくなってしまって。いつの間にか日も暮れて、寒くて怖くて震えてたら、ちょうどライアンに出会って」
「もしかして、いなくなった母さんを探しに来たの? 夜の森に入るなんて、父さんは勇敢だね」
「そうだったらロマンチックだったんだけど、夜にしか咲かないシビレユウガオを探しに来たらしいのよ。あの人らしいでしょう?」
うふふ、と笑う母の顔にはあどけない笑みが乗る。
時間を巻き戻しているからだろうか、少女のようだ。
「でも私を見つけた途端、手に持ってた全てを投げ出して私の名前を呼ぶあの人の姿に、とっても胸がきゅんとしたわ」
「胸がきゅん……蛇の毒が心臓に回っちゃったのかな?」
「そうなったら私は死んじゃってるわね。今頃ここにいないし、あなたも生まれてないわ」
執事の吹き出す音が漏れる。
込み上げる笑いをやりすごそうとしているのか、肩が猛烈に上下している。
「胸がきゅんとするのが、恋に落ちた証なの?」
「人体って不思議なものでね、ステファン。常識では説明できない、神秘的なリアクションをする時があるのよ」
「それはどんな時そうなるの?」
「感情が大幅に揺らいだ時かしらね。予め持ってる器に収めきれないほどの想いが漲ると、主張してくるの」
「主張……」
「この人は他とは違う、この人は特別だってね」
特別。
父も母も弟も、自分にとっては特別な存在だけれど、それとはまた違うのだろうか。
「きゅんとするっていうのはどんな感覚?」
「きっと人によって違うんでしょうけど、大概が締めつけられる感じね。引き攣れて、痛むような」
「もしかして、恋って命懸けなの?」
「そうかもしれないわ。恋って愛の始まりでしょう? 最愛の人となら、死んでもいいって思えるもの。たとえ破滅する道のりでも、共に死んでもいいって」
国語の試験以外にも命懸けがあるなんて。
この世界には難しいことだらけだ。
頭がもげるほどに項垂れたい気分のステファンだった。
母との会話のあと自室に戻ったステファンは、ベッドの上で深く思いを巡らせていた。
「恋は死と隣り合わせ……ベルジュードは僕と死んでもいいって思ってるってこと?」
自分を好きだと言っていた。
世界一、宇宙一好きだと。
それはもう、きっとそういうことだろう。
あの眼差しに嘘もなければ裏もない。
誠実な言葉だけをくれる彼を、自分は果たしてどう思っているのか。
「嫌いではない……じゃあ、好き? 死ぬほど好きなのかな……?」
その想いの強さには、現段階では決して至っていない。
人間としては好き、友人としても好き。
じゃあ、恋をする相手としては……?
『ステフ、好きだよ』
頭に響く声。
濃いグレーの瞳、キスをする熱い唇、掠める匂い、なぞる指先。
ベルジュードのひとつひとつが、閉じた瞼の裏に浮かぶ。
だんだんと呼吸が乱れて、ぞわり……と胸の襞が逆立った。
そして次の瞬間、ぎゅう、と胸が引き攣った。
「痛い……心臓が痛い……」
認めてしまって力が抜ける。
ステファンはそのままベッドに突っ伏した。
掛け布団をめちゃくちゃに搔き抱いて、身体を縮こまる。
主張する心臓をどうにかしたかった。
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有無を言わさず騎士団に連れ去られたルカの、無能と蔑まれた力。それは、戦場で瘴気に蝕まれる騎士たちにとって、そして孤独な鬼神の心を救う唯一の光となる奇跡だった。
追放された役立たず神官が、最強騎士団長の独占欲と溺愛に包まれ、かけがえのない居場所を見つける異世界BLファンタジー!
異世界にやってきたら氷の宰相様が毎日お手製の弁当を持たせてくれる
七瀬京
BL
異世界に召喚された大学生ルイは、この世界を救う「巫覡」として、力を失った宝珠を癒やす役目を与えられる。
だが、異界の食べ物を受けつけない身体に苦しみ、倒れてしまう。
そんな彼を救ったのは、“氷の宰相”と呼ばれる美貌の男・ルースア。
唯一ルイが食べられるのは、彼の手で作られた料理だけ――。
優しさに触れるたび、ルイの胸に芽生える感情は“感謝”か、それとも“恋”か。
穏やかな日々の中で、ふたりの距離は静かに溶け合っていく。
――心と身体を癒やす、年の差主従ファンタジーBL。
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