華とケモノ

斯波良久@出来損ないΩの猫獣人発売中

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飛べないトリは空を仰ぐ

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 服部 斎は幼い頃から高校卒業までの実に18年間、孤児院で育ててもらった。
 母の顔すら記憶にはなく、それは家族に捨てられたことを物語っていた。この『服部』の姓も孤児院の院長先生の苗字からもらったものだ。
 斎に限らず院内のほとんどの子どもがその姓を名乗っていたし、母の顔すら覚えていないのだった。周りも皆同じだったからか、孤独を感じることは一度もなかった。
 だが劣等感を感じることはあった。
 それはテレビでアルファの有名人を見た時であったり、街中で肩を抱かれたオメガの男性を見たりした時だったり。そんな時、決まって斎は思うのだ。

 なぜ自分はアルファやオメガではないのだろうーーと。

 この国に限らず、世界のどの国の値を見てもベータが人口のほとんどの割合が占める。だから特別、斎の性が珍しいということもないし、また斎が特別劣っているというわけでもない。
 だがもしアルファやオメガだったら親に捨てられることはなかったのではないかと考えることを止められないのだ。
 そんな劣等感を掻き消すために、いつしか斎はよく幼い子どもたちの世話を焼くようになった。
 誰かから必要として欲しかったのだ。
 斎お兄ちゃんと呼ばれる度に、自分はそこにいてもいいのだと肯定されているような気分になった。

 斎は高校に入学してからはバイトに明け暮れ、少しでも孤児院にお金を入れるようになった。
 それが親にすら捨てられた斎なりの孝行であった。高校を卒業したら出て行かなくてはいけない孤児院に少しでも居場所を残しておきたいのだという気持ちも少しだけあった。何かしらの繋がりさえあればずっと自分のいた跡を残しておいてもらえると思ったのだ。
 卒業後、斎は就職をせずフリーターとして日々様々なバイトをこなし、そして月に稼いだお金から必要な分だけを引いて、残りは全て孤児院に寄付をした。

「君。終わった後、少しいいかな?」
 ある日、比較的割のいいイベント系のバイトをこなしていると一人の男から声をかけられた。
「何でしょう?」
 後片付けが終わるとイベント主催の関係者らしい男に連れられ、会場の奥まったところへとやってきた。
「君、マネージャーとしてうちの会社で働かないか?」
 その勧誘と一緒に男は一枚の名刺を取り出した。
 この仕事をしていると何度かそうやって声をかけてもらうことはあった。それでも月に入る金額を重視してフリーターとしてアルバイトを掛け持ちすることを選んだのだ。
 とりあえず差し出された名刺を受け取るとそこには取締役と明記されていた。
 その途端に名刺を持つ手が震えた。まさかそんなに高い地位を持った人に自分の仕事を認めてもらえているとは思わなかったのだ。
 もちろん請け負ったからにはしっかりやり通すのが斎のやり方ではあったが、それでも驚かずにはいられないのだ。

「考えておいてくれないか? いい返事、期待しているよ」
「……はい」
 斎はその男が立ち去った後もじいっと名刺を眺めては立ち尽くしていた。

 自分の仕事ぶりを認めてくれた男が取締役だということにも驚いた。だが驚くべきはそこだけではないのだ。今日の主催の会社もといその男性の会社はこの国で暮らすものならその名を知らないものはいないだろうというほど有名なタレント事務所『シャトランテ』だったのだ。
 一日一回は見る化粧品のCMに出演している女優も、ターミナル駅の改札を抜けたところの大きな広告スペースを独占するアイドルグループも皆『シャトランテ』に所属している。

 そんな事務所でマネージャーを……。
 仕事としては魅力的だ。
 もちろん金銭面を最重要として選んだ仕事ではあるが、この仕事は誰かの喜ぶ姿を一緒に作っているという感覚が得られるところが好きでもある。
 だがやはり斎にとって重要なのはお金なのだ。

 いつものように数日後に断りの電話をいれようと早々に決め、そして手帳にもらった名刺を挟んだ。
 後はいつも通りの日常に帰るだけだ。

 翌日から何事もなかったかのように働いた……つもりだった。
 斎自身の生活は何も変わりはなかったが、意識してしまっているからか妙に広告が目に入った。どこもかしこも名刺に記されたタレント事務所、『シャトランテ』の抱えるタレントばかりだ。そんなのはずっと前からだというのに、見る度にあの名刺を思い出させる広告が斎を苛立たせた。

 そのせいか、アルバイト先の人には「服部君、今日は早めに上がっていいよ」と気を使われてしまう始末だ。今まではこんなことがなかったばかりに斎自身も戸惑った。
 自分が思う以上にあの会社に惹かれてしまっているのだろうと大きな溜息を漏らした。

 そんな時、ふと孤児院の院長先生の言葉が斎の頭によぎった。
『好きなことをしなさい。斎君には自由に生きる権利があるのだから』
 それは斎がもう何度も言われた言葉だった。
 お金を孤児院にいれるのは斎が自分自身で決めたことで、好きでやっていることだった。それなのになぜ彼がそう諭すのか斎にはよくわからなかった。
 けれど今ならよくわかる。
 きっと彼はこの日のために再三諭し続けたのだろう。

 いつか斎が本当にやりたいことと巡り合った時のために。

 そのことに気づいた斎の行動は早かった。名刺に記された電話番号に連絡し、そしてその日中に再び名刺の男と会うことになった。
 斎を高く評価してくれているらしい男は、斎が良い返事を返した途端に喜びが抑えきれないとばかりに斎を強く抱きしめた。
 驚きのあまり固まってしまう斎に男は実はずっと斎を狙っていたのだと嬉しそうに付け足した。どうやら斎がことごとくその手の誘いを断っていたことは彼の耳にも入っていたらしかった。

 それから全てのアルバイトでの労働期間を終えた斎は正式にその会社で働くこととなった。
 初めは色んなマネージャーの補佐について仕事を学んでいけばいいと説明を受けた。そんな斎が初めてついたのは今や日常生活で彼の姿を観ない日はないと言われるほど有名な橋間 勇樹のマネージャー、白井だった。

「服部君、久しぶり。君と一緒に働けて嬉しいよ。今日から三ヶ月、よろしくね」
 いくつか勇樹の出席するイベントの仕事をしたことのある斎は白井の顔を覚えていた。だが白井が自分の顔を覚えてくれているとは露ほどにも思わなかった。なにせ勇樹の出席するイベントはどれも規模が大きく、それに比例してスタッフの数も多くなるのだ。
 それにすれ違いざまに挨拶を交わしたことはあれど、ちゃんと自己紹介をした覚えはない。
「よろしくお願いします」
 マネージャーになるのならそれだけの技量を求められるということだろう。人の顔と名前を覚えるのは比較的得意な方だと思っていた斎だが、自分などまだまだであったと痛感したのだった。

 それから斎は白井のようになれるよう、彼の姿を必死で追った。
 一ヶ月目にして彼はマネージャーとして飛び抜けて優秀だと理解したのだが、手本にするならより優秀な方がいいと斎は白井を手本にすることを止めなかった。
 そして白井の担当する勇樹はといえば、テレビや広告で見るような甘い笑顔は基本的に浮かべることはなく、完全に仕事のオンとオフを使い分けているように思えた。
 白井は慣れているようだが、初め、斎はもしや気を悪くさせてしまったかとあたふたしたもので、そんな斎の姿が勇樹の気にめしたらしく、カメラ相手に浮かべるような笑みとは違う、子どものようなからかった笑いを浮かべながら「怒ってないから安心してくれ」と弁解された。
 それを皮切りに勇樹は少しずつ彼の本来の姿を斎に見せるようになった。

 カメラを通してファンに見せるものでも、仕事が終わってから覗かせる何事にも無関心な様子でもなく、斎を信頼しているように言って見せたのだ。
「斎、お茶ちょうだい」
 それまで「ねぇ」とか「君」としか言われたことのなかった斎にとってそれは大きな進歩だった。
 それは斎が白井の元から離れる日の前日のことだった。
 勇樹に名前を呼ばれるまで実に三ヶ月もの日を要した。それだけ彼は人との間に分厚い壁を作っていたのだろう。
 そんなところが少しだけ、斎の育った園の子どもたちと似ていると思った。
 彼らも劣等感を抱え続ける斎同様にやはり何かを抱えているのだ。自分を押さえつけることに慣れている彼らは隠し続けることに、表には出さないことに慣れているだけで、ふとした瞬間に見えない壁があるように感じることもあるのだった。
 長く生活を共にしているとそれが徐々に崩れてくることもあれば、唐突に発生することもある。だが誰もそれを無理矢理壊そうとはしない。待てばいいからだ。いつか崩れるその日まで。
 勇樹のその壁がほんの少しだけ崩れたのはその日だったのだろう。
 皮肉にももう明日から斎は白井ではない、他のマネージャーの下につくことになる。これでは近づいた距離が無になることはないものの、気づけばまた距離が広がっていたなんてこともある。それがなんだかとても勿体無いことをしているような気がした。
 だがしかし一介の雇われの身として、人気タレントの勇樹と離れがたく思っているなど誰にも話すことは出来ず、そんな想いを冷やすようにその日、冷水を頭から被った。幼い頃から身体の丈夫さだけは誇ることができる斎であったが、こうすれば明日は風邪を引くことが出来るのではないかと、最終日に勇樹と会わずに済むのではないかとチラリと頭を過ぎったのだ。
 だが元来真面目な気質の斎は三度目にしていよいよ正気に戻ると身体にシャワーで温水を当て、冷めた身体を温め直した。

「服部君、君にはまだしばらく俺の元についてもらうことになったから」
 風邪はひかなかったものの、重い気持ちで仕事に向かった斎に白井は思わぬことを告げた。
「なぜ、ですか?」
「詳しくは君にも話せない。いつまでかは決まってないけどしばらくはいつも通りでいいから」
 白井の歯切れの悪い言葉に斎は心底ホッとした。
 いつまでかはわからないが、それでもまだ勇樹と一緒にいられるのだと。そして期限がわからないこともまた斎には好都合だった。明日は他に行ってくれと直前にでも告げてくれれば昨晩のように思い悩むことはないのだから。

 そしてしばらく斎はいつものように白井と勇樹の元で働いた。
 斎自身に変わったことはなかったが、白井は時々申し訳なさそうに何も言わずに斎に向かって微笑みかけた。
 その意味がわかったのは白井に期間の延長を告げられてから一ヶ月ほどしてのことだった。
 白井の元に配属されて以来、一度も会っていなかった取締役の男から呼び出しがかかったのだ。
 会社の最上階、彼の部屋の前までやってくると何かしでかした覚えのなかった斎だが、緊張からか背筋を這うようにして一筋の汗が流れ落ちる。
「服部です」
 ノックの後に続けた、もう二十年以上の付き合いの苗字を発する声は恥ずかしくも震えていた。
 頭をよぎるのは解雇されたらどうしようという不安ばかり。
 たった数ヶ月前までは様々なアルバイトをしてはお金が入ることが何よりの楽しみだった斎からは考えられないほどに今の職にやりがいを感じていたのだ。いや、やりがいだけではない。アルファである勇樹に本能的に惹かれているのだ。
 アルファやオメガは生涯を共にする番を探し出すために身体から独特な、花にも果実にも似た香りを漂わせるらしいが、それは斎の鼻には届くことはない。
 それはアルファとオメガの、選ばれた者のみが感じることができる香りであり、ベータにはそれを感じる能力がないのだからだ。発情期が近づいたオメガであっても抑制剤が行き届いているこの国では滅多なことではその香りをベータにまで分け与えることはないのだ。
 ではなぜこんなにも斎は勇樹に惹かれるのか。
 それはおそらく彼のカリスマ性がそうさせているのだろう。
 斎も所詮は画面越しに彼を眺めるファンと一緒なのだ。ただ少しだけ彼らよりも勇樹の近くにいるための権利を得たに過ぎないのだった。
 その権利の対価はいかほどなのか、斎は知らなかった。
 だからこそこんなにも恐れているのだ。

「服部君、わざわざ悪いね」
「いえ……。それで話とはなんでしょうか」
「実は君には勇樹の専属マネージャーになってもらいたい」
「専属、マネージャー……ですか?」
「ああ。本当は何人かの補佐に付かせてから相性の良さそうなタレントに付かせようと思ったんだが……勇樹がどうしてもというからね」
「勇樹さんが……」
 斎は耳を疑った。
 出来ることなら今すぐにでも家に戻って、ベッドで疲れた身体に丸一日の休みを与えてからもう一度聞き直したかった。

 斎にとって勇樹はサクラのような人だった。この芸能界でいつまでも優雅に咲く花のようだと。遠くから眺めることは叶っても決して手の届かない存在なのだと。
 マネージャーの白井にすらも一歩引いた勇樹とは少しだけ距離が近づいた気はしていたものの、それでも小さな一歩のはずだった。

 だがもし聞き間違えでないのならば確かに目の前の男は勇樹が望んだことだと言った。
 あの勇樹が、だ。

 頭までその情報が届いた途端に斎の中の何かが疼いた。
 自分は親に捨てられた子どもで、選ばれしアルファでもなければ、将来を約束されたオメガでもない、平凡以下の人間であるのだと思い込んでいた斎にとって自分を選んでもらったことは今までの人生で一番の喜びなのだ。

「無理にとは言わないよ。だが、もし服部君が少しでもいいと思ってくれたのならば了承してほしい。特別視するようで他のタレントには悪いが、あの子はうちで預かった大事な子だから……」
「その役目、是非私にやらせてください」
 斎はすぐにその申し出を受け入れた。
 そうして斎は正式に勇樹専属のマネージャーとなったのだった。


 この仕事について間もないということと、勇樹の仕事は他のタレントに比べて倍以上の仕事があることから、しばらくは白井の補佐をする形で今まで以上のペースで仕事を覚えていった。
 それでも斎が一人でも勇樹のマネージャーとして立派に仕事をこなせるようになるまで一年以上の月日が経った。
 どんなに激務であろうとも根を上げずに仕事をこなしていけたのは、斎がマネージャーになることは勇樹が望んでくれたことで、彼の期待に応えるためには早く一人前にならなければならないのだという思いがあったからだ。
 そんな斎のやる気を感じとったのか、白井も熱心に斎にこの業界の礼儀作法などを教えていった。

「服部君、君にはもう必要ないかもしれないけど」
 いよいよ白井から卒業し、斎が一人前のマネージャーとして明日から勇樹の元に正式な専属マネージャーにつくぞという日、仕事終わりに白井は一冊のノートを斎に託した。
 それは勇樹の好みや癖が書き記された、角の丸くなったノートだった。

「これ……」
「あの子は難しい子だから、ずっと俺が担当するんだろうなって思ってた。だからさ、服部君に押し付けられて俺は嬉しいよ」
 斎の肩を軽快に叩く白井の手はその動作からは感じ取れないほどに重く、それが今まで彼が背負い続けていたものだと初めて理解した。
 白井は『押し付けた』と称したがそれは斎にこれ以上のプレッシャーをかけないよう、彼なりの冗談なのだろう。

「だからさ、勇樹をよろしくな」
 白井の瞳の奥に潜んだ熱はどこかあの男を彷彿とさせた。
 まるで自らの子を託すような一大決心をした後の目だ。
 きっと彼らが斎を不要だと、荷が重すぎると感じたら斎や勇樹の意思など関係なく彼らは勇樹を取り戻しに来るだろう。
 母が身を呈して自分の子どもを守るように。

「はい!」
 彼らの思いに応えるように、斎はハッキリとそのバトンを受け取った。


 それから数年、ひたすらに勇樹に尽くすようにして働いた甲斐あってか、今や彼はすっかり斎に甘えるようになっていた。

「斎、今度の休みハワイ行こう?」
 今だって休憩中、控え室に勇樹と斎しかいないのをいいことに勇樹は斎の腰に手を回して甘えている。
 そんなことしなくとも斎がどこかに行ってしまうことなどないのだが、それでも彼は何かに怯えたように事あるごとに斎に触れていようとするのだ。
 初めこそその行動に何かしらの意味があるのではないかと勘ぐって身体を強張らせていた斎だったが、これも勇樹なりのリラックスかと思えばさほど気にならなくなった。勇樹と長くいればいるほど周りがどれだけ彼に期待をしているかわかるのだ。
 休憩さえ抜ければまた多くのファンが望む『勇樹』に戻らなくてはならない彼を少しでも休ませてあげられたらと無理矢理引き剥がすことはしない。
 それどころか最近ではすっかりそんな姿も可愛く思えてしまい、気づけば彼の、羨むほどのサラサラの髪を撫でるようになっている。撫でるたびに勇樹が気持ちよさそうに目を細めるものだから余計に愛おしくなるのだ。

 だがその一方でこの行動は良くないものだともわかっていた。

「行きませんよ。あなたの休日は私の休日でもあるんですから」
「斎の仕事は俺の世話を焼くことだろう? 俺の休み中も世話、焼いて?」
「嫌ですよ。今度の休暇は園の子どもたちと遊ぶ約束してるんですから」
 斎がいつもそうやって、家族のような存在の園の子どもたちを理由にしてつれない態度で返してしまうのはいつか離れていく勇樹に少しでも距離をとっていなければどんどんと深みにはまっていってしまうからだ。
 斎も本当はずっと勇樹と居られるのならいたい。だが自分はあくまでマネージャーなのだと言い聞かせて何とか理性を保っていた。

「そうか。なら俺もその園に行くか。いつかは挨拶に行かなきゃって思ってたし……」
「挨拶って何のですか?」
「いつもお世話になってますって。園の人たちは斎の家族なんだろ?」
 園とは斎を育ててくれた孤児院のことだ。幼い頃から共に過ごしている彼らを斎は自分の家族のように思っているのだ。
 だが園のみんなが斎の家族だったとしても勇樹が彼らに挨拶をする理由にはならない。だが勇樹はそれをまるで当たり前のように言ってのけるのだ。

「そんなことしなくていいですからしっかり休んでください。今度の休みは二ヶ月後ですので」
 勇樹は数多くのタレントが出ては消えを繰り返している芸能界で、もう何年も売れっ子としてテレビや雑誌に引っ張りだこで、休みなどそう簡単に取れるような人ではないのだ。
 そんな人をマネージャーとはいえ休日に独占するようなことがあってはならないのだ。

「俺は斎といるだけで十分癒されるのに……」
 勇樹はそう言いながら斎の腰を抱く腕に力を込めた。
 勇樹が甘えるのは仕事中緊張感を張り巡らせている反動なのだと自分に言い聞かせるのももう限界が近づいてきた。
 もしも自分がオメガだったらと、後天性オメガについて書かれた論文のいくつかを斎が読み漁ったのはもう何ヶ月も前のことだ。
 だが一つ、また一つと読み終わる度にそれは偶発的なものであり、人為的には未だ方法が確立されていないのだと記載された事実が斎の心を突き刺した。

 やはり選ばれた者にしかなれないものなのだと、その事実に打ちのめされる度、斎は勇樹の目の前から消えてなくなりたいと願った。
 辞表を提出するなり、それでなくとも担当を代えてもらうよう願い出たり、方法はいくらでもあるのだ。だがそうしなかったのは、己の一方的な欲望から信念を持ってこの仕事に望んでいる勇樹への侮辱になりそうな気がしたからだった。
 勇樹にとってのたった一人になれなくとも彼には失望されたくなかった。

「早く運命の番が現れればいいのに……」
「なんか言ったか?」
「いえ、何も」
 休憩が終わる直前、仕事に向かう勇樹の背中に呟いたのは無意識のことで、言った斎自身が驚いていた。唯一の救いは勇樹の耳には届かなかったことだろう。

「そう? ならいいけど」
 勇樹は納得したように再びスタジオへと戻って行った。

 スポットライトに当てられる勇樹を眺めながら、見慣れたはずの彼の一挙手一投足に強く惹かれる。

「やっぱり違うなぁ……」
 そして今日も斎は思うのだ。
 勇樹は雲の上の人間であるーーと。
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