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1巻
1-3
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「ついにひとりになってしまったわね……。よし、第二の人生を謳歌するわよ!」
アンウェイは大きな独り言を言い、空元気で不安を跳ね除けようとする。
(……国のためにも、シュイルツのためにも、これでよかったのよね)
そして、慣れない硬いベッドで眠りについたのだった。
半年後。アンウェイは、キラの町でケイトとしての生活にすっかり馴染んでいた。
安くて美味しいをモットーとするニコニコ食堂は、店主で料理担当のおばさん、洗い場担当のおばさんの甥のロン、接客担当のアンウェイの三人できりもりしている。
アンウェイにとって接客を行うのは、もちろん人生で初めてのことである。
だが、フランが食堂で住み込みの仕事を見つけてきてからというもの、下町の食堂の様子や接客の仕方、皿洗い、野菜の洗い方などを彼女からこっそり教えてもらっていたのだ。最初は慣れないことで失敗もしたが、持ち前の器用さですぐに店の戦力となるまで成長した。今では、仕込みなど自分の担当以外の業務まで出来るほどになっている。
「ケイト、出来たよ! 持っていって!」
時刻は正午過ぎで、食堂はにぎわっていた。おばさんの声かけにアンウェイはすぐに反応し、ニッコリと笑って料理をテーブルへ運ぶ。
「はい! おじさま、お待たせいたしました。いつもありがとうございます!」
「ケイトは今日も元気だなー! わしは飯だけじゃなくて、ケイトに元気をもらいに来てもいるのだよ」
「ありがとうございます! いくらでも元気を吸い取っていって下さいね!」
常連客の対応もアンウェイはもう慣れたもので、そう返すと食堂全体からワアッと笑いが起こる。言葉遣いや態度はだいぶ砕けたが、それでもやはり、アンウェイの接客はまだまだ丁寧だ。しかし、その言動もまたニコニコ食堂の客には新鮮で、ケイトは売上にも貢献しているのであった。
国はというと、この半年の間にアンウェイの葬儀が執り行われた。
体裁を守るためか、アンウェイの尊厳を守ろうとしたのかは不明だが、『キラの町で増水した川に落ち、遺体は発見されていない』と、自殺ではなく事故死として国民へ発表されている。当初は町のあちこちでアンウェイの名前を聞いたが、今は少しずつ国民から忘れ去られている。それで良いと、アンウェイは心から思っていた。
そして、つい先日、ミランダが新王妃の座に就いた。
国民へのお披露目式を見にいったフランが、ミランダは立派な佇まいで、シュイルツは少し痩せたようだがまずまず元気そうであったと教えてくれた。アンウェイは、自分のものだった王妃の座が、本当にミランダのものになったことに少しの寂しさを感じた。しかし、すぐに自分自身に言い聞かせる。
「よかった、これで国民も安心ね。私がしたことは間違ってはいなかったわ」
さらに二年後、シュイルツとミランダの間に第二子の王女が誕生した。
二十四歳になったアンウェイは、変わらずニコニコ食堂で毎日楽しく働いている。ニコニコ食堂での生活は快適で楽し過ぎて、もう少しもう少し……とキラの町での生活がズルズルと長引いてしまっていた。フランはアースの町で、いくつか住み込みで働けそうな場所をピックアップしているようで、アンウェイの決心がつき次第すぐに交渉に進むと言っている。
もうすぐ秋が訪れようとしているある日、キラの町は朝からソワソワしていた。
国王が町の視察に来るのだ。
そしてこの町の誰よりも、アンウェイが一番ソワソワしているに違いなかった。本日は絶対に食堂から外に出ないと、アンウェイは心に決めている。
「おばさん、少し体調が優れないので、おつかいはロンに頼んでくれますか?」
「ケイト、大丈夫かい? 無理をしないで、休みたい時はすぐに言うんだよ?」
「今は大丈夫です。ありがとうございます」
心配そうな表情を浮かべるおばさんに、アンウェイは笑顔で答えた。
(……ただの仮病です。嘘をついてごめんなさい)
そう心の中で謝罪をしてから、昼に使う野菜を洗い始めた。するといつもは陽気なおばさんが、ふうっとため息をつきながら言う。
「視察団に、真面目に仕事をしていますってアピールしないといけないだろうから、今日の昼は客が少ないかもしれないね」
「いつもとても忙しいので、たまにはそのような日があっても良いのではないでしょうか?」
アンウェイの穏やかな物言いに、おばさんは思わず笑顔になる。
「そうだね。今日は来てくれたお客さんをゆっくりもてなそうかね」
「そうですね」
そう言ってふたりは微笑み合う。
おばさんの予想は的中し、正午を過ぎても客が少なく、二~三割程度しか席が埋まってはいなかった。
――チリチリン。
ドアについている鈴の音を聞いて、アンウェイは条件反射で挨拶した。
「いらっしゃいませ!」
「すみません、店主はどなたですか?」
アンウェイは一瞬、心臓が止まるかと思った。
ドアを開けて店に入ってきたのは、シュイルツの側近オリオン騎士団長だったからだ。
長身細身の彼は、腰まである長い黒髪を後ろでひとつに束ねている。腰に剣を差しており、威圧感もある。
オリオンの黒い瞳と一瞬目が合うが、アンウェイはすぐに目を逸らし、厨房に向かって大きな声を上げた。
「少々お待ちをー! おばさーん!」
アンウェイは咄嗟に口調を町娘風にし、声も高めにしてみた。いくら黒髪に染色しているとはいえ、声や顔のパーツで不思議がられる恐れがある。
おばさんを呼ぶとアンウェイはさっさと裏へ下がり、皿洗いをしながら様子を窺う。
おばさんはオリオンと話を終えたのか、くるっと踵を返して急いで戻ってきた。
「ロン、ケイト! 大変よ! 今から国王陛下一行がここで食事されるわ! うちの評判を聞いて来られたらしいわ!」
おばさんは頬を赤らめて興奮している。
対照的にアンウェイは、サーッと血の気が引くのを感じた。まさか町のこんな安い店に国王一行が来るなんて、予想だにしていなかったのだ。
「……おばさん、ごめんなさい、調子が悪くて……。裏で休んでいても良いかしら?」
「えぇ、今かい⁉ ケイトそれは困るよ! お願いだから、せめて国王陛下一行に料理を出し終えるまではいてもらえないかい⁉」
おばさんの発言はもっともである。国王陛下一行が来るとなれば、これからおばさんは料理を作るのにいっぱいいっぱいだろう。アンウェイが休むとなると、接客に不慣れなロンが料理出しなどの対応をすべてひとりで行わなければならなくなる。
(どうしましょう。……ううん、でもきっと大丈夫、アンウェイは死んだと思われているのだから。黒髪にしたし、質素な服に化粧も薄い。目を合わせず料理を出すだけなら、きっと気付かれはしないわ。そう、私は町娘のケイトよ!)
アンウェイは心の中で自分にそう言い聞かせた。
続々と一行が入店している食堂内を見ると、ちょうど席についたシュイルツの姿が目に入った。
(シュイルツ……元気そうでよかった。もうすっかり父親なのでしょうね……)
アンウェイは、ドキッと胸の鼓動が聞こえたような気がしてしまう。ときめく心とともに複雑な感情までもが押し寄せ、打ち消すように両頬を両手で強く叩いた。
「私はケイトよ!」
再び自分で自分を鼓舞し、早速仕事に取りかかる。
「いらっしゃいませー! お水をどうぞー!」
「陛下が口にされるものは、先に部下が味見をいたします。そこの部下の前へ置いて下さい」
オリオンにそう言われ、アンウェイは安堵した。これでシュイルツに直接料理を出す必要はない。
「まずは前菜のサラダでございます。今朝、市場から仕入れた新鮮な物ばかりでございます。どうぞお召し上がり下さいませ」
おばさんが説明をしている中、アンウェイはサラダを配る。オリオンや周りの人も料理に目がいっており、誰もアンウェイの顔を見ない。そのまま順調に料理出しは進み、最後の料理を出し終えてアンウェイがほっとしていると……
――パリン!
グラスが床に落ちた音が食堂中に響き渡った。音の先である、シュイルツとは別のテーブルで食事をしていた従者のもとに、アンウェイはすぐに駆けつける。
「お怪我はありませんか⁉」
「はっはい……」
「お召し物にかかってないですか?」
「いいえ、大丈夫です。グラスを割ってしまい、本当に申し訳ありません」
従者はバツの悪そうな表情を浮かべるが、アンウェイはただグラスが割れただけで済んで良かったと安堵する。
「お怪我もなく、お召し物も汚れなかったようで良かったです」
アンウェイは従者へにっこりと笑って、割れたグラスの破片をまとめる。床を拭くためのモップを取りに行こうとした時、後ろから呼び止められた。
「私の従者がグラスを割ってしまい、申し訳なかった。新しい物を五十個ほど送らせよう」
声の主が誰なのか、アンウェイは顔を見なくてもすぐにわかった。ときめきなのか緊張なのか、判断のつかない胸の鼓動に戸惑いながら振り返る。
「わざとではありませんし、ひとつくらい問題はありません。予備もたくさんありますので、お気になさらないで下さい」
アンウェイはお辞儀をしているように見せかけ、顔を下げたままで答えた。そして、ささっと裏へ下がろうとするが、すぐに質問を投げかけられた。
「そなた、出身はどこだ?」
アンウェイはその場に固まった。
「……アースです」
ケイトはアースの町が出身地だという設定にしており、周囲にもそう伝えている。アンウェイはひたすら俯きじっとしていた。はたから見れば、国王に話しかけられ萎縮しているように見えるだろう。
「そうか……そなた、年はいくつだ?」
「……二十八です」
「……」
アンウェイは、俯いたままで居心地が悪く困っていた。するとそんなふたりの様子を見て、おばさんが不安げに口を開く。
「国王陛下、うちのケイトが何か粗相をいたしましたでしょうか?」
「……名をケイトと申すのか。いや、そのようなことはない。ただ知っている者に似ていたものでつい……そんなはずはないのだがな。すまなかった」
そう言うとシュイルツは、一瞬でいつも通りのキリッとした国王の顔となる。
「突然の訪問にもかかわらず、快い対応に感謝する。人気店なだけあって大変美味であった。これからもキラの町の人々に、美味しい料理を食べさせてやってくれ」
その後はアンウェイには目もくれずに食事を済ませると、一行は去っていく。
シュイルツを見送るアンウェイは、自身の心臓がうるさいことに気付いていた。
(シュイルツ……痩せてさらに顔が小さくなって、もっと素敵になっていたわ……。変わらず優しくて、元気そうでよかった。……会うことが出来ないと、恋しさが増すものなのね……)
アンウェイだと知られたらどうしようという想いもあるが、何より今は、久しぶりのシュイルツとの会話に心が踊って仕方がなかったのだ。自分を落ち着かせようと深呼吸を何度も繰り返す。
「あー、緊張したね! ケイト、無理を言って悪かったね。休んでおくれ」
おばさんは、どしっと豪快に椅子に腰を下ろしながら言った。
「あ……いえ、もう治ったので大丈夫です」
疲労困憊の様子のおばさんに、アンウェイは微笑みながら水を手渡した。
「そうかい? ……ぷはー、ただの水も労働のあとは美味しいねえ。そういえばケイト、二十八だなんて、なんで嘘をついたんだい? 国王陛下に嘘を言うなんて、バレたら罰があるのは知っているだろうに」
「あっ、そうでした。自分の歳を間違えてしまいました!」
アンウェイはおばさんと目を合わせずに、うっかり間違えたかのように装う。
「年上に間違えるなんて、変わった子だねぇ! 私は一歳でも若くなりたいよ! はははっ!」
おばさんは緊張から解き放たれ、いつもよりも豪快に笑う。アンウェイも一緒に笑って誤魔化したのだった。
国王一行の視察から一週間が過ぎた午後一時半、昼食時間のピークが終わり、少し店内が落ち着いてきた頃だった。
――チリチリン。
「いらっしゃいませ! ……っ!」
アンウェイはいつもの条件反射で元気良く言ったが、入ってきた客を見て固まる。
そこにいたのはシュイルツとオリオンで、ふたりは同じ騎士の格好をしており、どうやらお忍びらしい。
「とても美味しかったため、また来させてもらった。今度はふたりでこっそりと」
微笑みながら話すシュイルツに、咄嗟にアンウェイは前回同様、町娘風に語尾を伸ばし声のトーンも上げる。
「よ……ようこそおいで下さいましたー! 空いている席へどうぞー!」
(普段の豪華な食事に慣れていたら、たまには庶民食が食べたくなるものよね。うん、きっとただそれだけよ。テンションも上げていこう。私はケイト、私はケイト……)
急に逃げ出せば怪しまれる可能性があるため、アンウェイは自己暗示をかけ、開き直って仕事に徹する。
「はい、おじさん! いつもの!」
「ありがとー。あれケイト、なんか今日はいつもよりテンションが高いね。何か良いことでもあったのかい?」
アンウェイの笑顔が引きつった。後ろからシュイルツの視線が突き刺さっているというのに、この常連客はなんてことを言うのだろうか。
「そんなことありませーん! いつも通りですよー!」
変な汗をかきながら、アンウェイの不自然すぎるほど元気な接客は続く。そして、何も絡まれることなくシュイルツとオリオンは帰っていき、アンウェイはホッと胸を撫でおろす。
(シュイルツの視線がとても痛かったような、そうでもないような……ううん、ご飯が美味しかったから、また食べに来ただけよね?)
アンウェイはそうであってほしいと思い、もう来店がないことを祈ったのだった。
しかし、アンウェイの願いもむなしく、シュイルツとオリオンは月に一回程度お忍びでやって来るようになる。アンウェイはケイトとして町娘風でなんとかやり過ごすが、最近はいつ来るかと気が気でない。来たら来たで困るが、来なかったら来なかったで少し寂しいような気もしてしまう。
(私はときめいて良い立場ではないのに……)
アンウェイは、自分の感情に戸惑ってもいた。
暖かくなってきた三月終わり。昼の営業を終了しようとしていた時、オリオンがひとりで店にやってきた。
「こんにちは。近くを通りがかったので寄ったのですが、まだよろしいでしょうか?」
オリオンは申し訳なさそうに、少しいつもより頭を低くして店へ入って来る。
「食材がほとんど残っていないのでメニューは選べませんが、なんでも良いなら大丈夫ですよー!」
アンウェイは、条件反射で町娘風を出せるようになっていた。注文をおばさんに伝え、しばらくすると良い匂いが店に漂い始める。
「ケイトさん」
「はい、なんでしょー?」
アンウェイは、水の入ったコップをオリオンに出しながら答える。
「国王陛下の部下であり友人として、ずっとお礼を言いたいと思っていたのです。少し私の話を聞いていただけますか?」
「えっ……。あっ、はい……」
「ご存知だとは思いますが、前王妃殿下は三年ほど前に亡くなられました。前王妃殿下は冷静沈着で思慮深い方で、いつも陛下を支えられていました。その前王妃殿下にケイトさんはとてもよく似ているのです。髪の色や出身地、年齢も違うのですが……」
急なオリオンの話に、アンウェイは思わずその場で固まる。オリオンは視線を落とし水を一口飲むと再び口を開く。
「陛下は前王妃殿下が亡くなられてから、とても気落ちされていました。それでも国を治めなければならない。前王妃殿下の願いと約束を叶えるためにも、国のことを第一に考え再婚し、第二子も儲けました」
アンウェイは何も答えることが出来ず、遠くを見ながら話すオリオンを見つめる。
「すべてが国のためです。もちろん、国王ですのでそれはいいのです。ですが私には、陛下の心には大きな穴が空いているように見えておりました。今も陛下は、前王妃殿下を愛しているのです」
思わずアンウェイは目を見開く。
(な……何を言っているの……?)
オリオンは、アンウェイを気にすることなく話を続けた。
「ですが、ここでケイトさんと出会い陛下は変わりました。とても穏やかになったのです。このようなことを言われても困ると思いますが、いつもありがとうございます。どうか変わらずこのままで接していただければと思います。よろしくお願いいたします」
オリオンはそう言い切ると、座ったまま深く頭を下げた。
「……はい」
頭の中が真っ白なアンウェイは、それしか言えなかった。……そう言うしかなかった。
その後はいつも通りに料理を出し、会計を済ませ、見送り、後片付けをしたのだろう。しかし、アンウェイは心ここにあらずといった様子で、気付くと店の二階の自室に戻っていた。
夜の営業準備を始めるまで一時間程度あり、いつもなら食事をして少し横になるのだが、今日はそれどころではなかった。
自室に入った途端に溢れ出した涙が、まったく止まらないのだ。シュイルツが今もアンウェイを想っている。それはとてもうれしいことであり、悲しいことでもあった
(心からシュイルツの幸せを願っているわ。だからこそ私のことは忘れて、ミランダ様を愛してほしい、子どもたちと幸せになってほしいの)
国を思えば、アンウェイがしたことは間違ってはいなかったと思う。すべてにおいて間違っていなかったと言い切りたいからこそ、シュイルツの国王としてだけではない、一個人としての幸せを心の底から願っている。
(それなのに……。……もしかして私が邪魔をしている? ケイトがいたら、アンウェイを忘れられないのではないかしら……?)
アンウェイは先延ばしにしていた転居について、本格的に考えなければならない時期が近づいていると感じた。
二週間後。本日は半年に一度のおばさん一家の親族会の日である。毎年気候の良い四月と十月に開催され、この日だけニコニコ食堂は店を休む。
「じゃあ、私とロンはおじさんのところに行ってくるからね。帰りは遅くなると思うから、先に寝ていていいからね」
「はい。親族会、楽しんで来て下さいね」
おばさんは久しぶりの集いが楽しみなようで、ウキウキしているのがアンウェイにも伝わってくる。おばさんとロンはアンウェイに満面の笑みを返し、桜の花が舞う中、出掛けていったのだった。
それから数時間後。辺りが暗くなった頃、アンウェイは店の前の花壇の水やりを忘れていたことを思い出し、外へ出た。カラフルで可愛い、お気に入りの花に水をやっていると、後ろから声をかけられる。
「……ケイト?」
「申し訳ありません、本日お店はお休みにさせていただいております……」
アンウェイはそう言いながら振り返ると、そこに立つ人物を見て驚く。
「シュ……こっ、国王陛下⁉」
アンウェイは思わず大きな声を出してしまう。慌てて口元を押さえ、辺りをキョロキョロと見渡すも人の気配はなくホッとしていると、シュイルツが微笑みを浮かべながら口を開く。
「そうか、今日店は休みなのか。それなのに会えるなんて、私はついているな」
「どうかされたのですか? ……って、おひとりですか⁉」
シュイルツの周りには誰も見当たらない。しかも、いつものお忍びで店に来る時の騎士の服装とは違って、国王の外出着の装いでまずまず目立つ格好をしている。
「あぁ……最近眠れないのだ。正直疲れが溜まっている。本日もいろいろと考えていたら、どうしても君に会いたくなってしまったのだ……」
困ったように笑うシュイルツの表情に、アンウェイは目を奪われてしまう。
「……いきなりすまない。よかったら少し話をしてもらえないだろうか? 下心は一切ないから。他愛のない話を少しするだけで良いのだ……本当にそれだけで良いから……」
アンウェイは少しやつれた顔のシュイルツを見て、放ってはおけなかった。シュイルツは何かあると眠れなくなるタイプである。そのような時はいつも、アンウェイが彼を子どものように抱きしめて一緒に眠ったものだった。
「……外は誰かに見られるといけないので、中にお入り下さいませ」
そう言いドアを開けた途端、アンウェイは立ち止まった。
「あっ……今日、艶出しの液を床に塗ったのでした……。明日の朝まで床を踏むことが出来ません」
半年に一度の店休日に掃除をすることもまた、ニコニコ食堂の恒例であった。アンウェイの部屋や台所へは違う出入り口があるため生活に不便はない。
「そうか。なら立ち話で悪いが、ここで少し話すのはだめか?」
シュイルツは、捨てられた子猫のような表情を浮かべる。
国王がそんな姿を見せるなんて、普通ならあり得ない。アンウェイに似ているからと言って、しがない町娘に心を許しているのも、国王としてはよろしくない。ますますアンウェイは、弱っているシュイルツを放ってはおけないと感じてしまう。
「だめではありませんが、人が通るかもしれません」
「いやー、ヒューイの奥さんの手料理は絶品だなー!」
ちょうど向こうから男性が三人、大声で話しながら店のほうへ歩いてくるのが見えた。
(まずいわ! 国王陛下がひとりでこんなところにいるのを見られたら……。騒ぎになってもいけないし、変な噂を立てられても困る)
アンウェイは焦り、咄嗟に言った。
「陛下、こちらへ来て下さい!」
アンウェイは、シュイルツを自室へ通してしまったのだ。
アンウェイは大きな独り言を言い、空元気で不安を跳ね除けようとする。
(……国のためにも、シュイルツのためにも、これでよかったのよね)
そして、慣れない硬いベッドで眠りについたのだった。
半年後。アンウェイは、キラの町でケイトとしての生活にすっかり馴染んでいた。
安くて美味しいをモットーとするニコニコ食堂は、店主で料理担当のおばさん、洗い場担当のおばさんの甥のロン、接客担当のアンウェイの三人できりもりしている。
アンウェイにとって接客を行うのは、もちろん人生で初めてのことである。
だが、フランが食堂で住み込みの仕事を見つけてきてからというもの、下町の食堂の様子や接客の仕方、皿洗い、野菜の洗い方などを彼女からこっそり教えてもらっていたのだ。最初は慣れないことで失敗もしたが、持ち前の器用さですぐに店の戦力となるまで成長した。今では、仕込みなど自分の担当以外の業務まで出来るほどになっている。
「ケイト、出来たよ! 持っていって!」
時刻は正午過ぎで、食堂はにぎわっていた。おばさんの声かけにアンウェイはすぐに反応し、ニッコリと笑って料理をテーブルへ運ぶ。
「はい! おじさま、お待たせいたしました。いつもありがとうございます!」
「ケイトは今日も元気だなー! わしは飯だけじゃなくて、ケイトに元気をもらいに来てもいるのだよ」
「ありがとうございます! いくらでも元気を吸い取っていって下さいね!」
常連客の対応もアンウェイはもう慣れたもので、そう返すと食堂全体からワアッと笑いが起こる。言葉遣いや態度はだいぶ砕けたが、それでもやはり、アンウェイの接客はまだまだ丁寧だ。しかし、その言動もまたニコニコ食堂の客には新鮮で、ケイトは売上にも貢献しているのであった。
国はというと、この半年の間にアンウェイの葬儀が執り行われた。
体裁を守るためか、アンウェイの尊厳を守ろうとしたのかは不明だが、『キラの町で増水した川に落ち、遺体は発見されていない』と、自殺ではなく事故死として国民へ発表されている。当初は町のあちこちでアンウェイの名前を聞いたが、今は少しずつ国民から忘れ去られている。それで良いと、アンウェイは心から思っていた。
そして、つい先日、ミランダが新王妃の座に就いた。
国民へのお披露目式を見にいったフランが、ミランダは立派な佇まいで、シュイルツは少し痩せたようだがまずまず元気そうであったと教えてくれた。アンウェイは、自分のものだった王妃の座が、本当にミランダのものになったことに少しの寂しさを感じた。しかし、すぐに自分自身に言い聞かせる。
「よかった、これで国民も安心ね。私がしたことは間違ってはいなかったわ」
さらに二年後、シュイルツとミランダの間に第二子の王女が誕生した。
二十四歳になったアンウェイは、変わらずニコニコ食堂で毎日楽しく働いている。ニコニコ食堂での生活は快適で楽し過ぎて、もう少しもう少し……とキラの町での生活がズルズルと長引いてしまっていた。フランはアースの町で、いくつか住み込みで働けそうな場所をピックアップしているようで、アンウェイの決心がつき次第すぐに交渉に進むと言っている。
もうすぐ秋が訪れようとしているある日、キラの町は朝からソワソワしていた。
国王が町の視察に来るのだ。
そしてこの町の誰よりも、アンウェイが一番ソワソワしているに違いなかった。本日は絶対に食堂から外に出ないと、アンウェイは心に決めている。
「おばさん、少し体調が優れないので、おつかいはロンに頼んでくれますか?」
「ケイト、大丈夫かい? 無理をしないで、休みたい時はすぐに言うんだよ?」
「今は大丈夫です。ありがとうございます」
心配そうな表情を浮かべるおばさんに、アンウェイは笑顔で答えた。
(……ただの仮病です。嘘をついてごめんなさい)
そう心の中で謝罪をしてから、昼に使う野菜を洗い始めた。するといつもは陽気なおばさんが、ふうっとため息をつきながら言う。
「視察団に、真面目に仕事をしていますってアピールしないといけないだろうから、今日の昼は客が少ないかもしれないね」
「いつもとても忙しいので、たまにはそのような日があっても良いのではないでしょうか?」
アンウェイの穏やかな物言いに、おばさんは思わず笑顔になる。
「そうだね。今日は来てくれたお客さんをゆっくりもてなそうかね」
「そうですね」
そう言ってふたりは微笑み合う。
おばさんの予想は的中し、正午を過ぎても客が少なく、二~三割程度しか席が埋まってはいなかった。
――チリチリン。
ドアについている鈴の音を聞いて、アンウェイは条件反射で挨拶した。
「いらっしゃいませ!」
「すみません、店主はどなたですか?」
アンウェイは一瞬、心臓が止まるかと思った。
ドアを開けて店に入ってきたのは、シュイルツの側近オリオン騎士団長だったからだ。
長身細身の彼は、腰まである長い黒髪を後ろでひとつに束ねている。腰に剣を差しており、威圧感もある。
オリオンの黒い瞳と一瞬目が合うが、アンウェイはすぐに目を逸らし、厨房に向かって大きな声を上げた。
「少々お待ちをー! おばさーん!」
アンウェイは咄嗟に口調を町娘風にし、声も高めにしてみた。いくら黒髪に染色しているとはいえ、声や顔のパーツで不思議がられる恐れがある。
おばさんを呼ぶとアンウェイはさっさと裏へ下がり、皿洗いをしながら様子を窺う。
おばさんはオリオンと話を終えたのか、くるっと踵を返して急いで戻ってきた。
「ロン、ケイト! 大変よ! 今から国王陛下一行がここで食事されるわ! うちの評判を聞いて来られたらしいわ!」
おばさんは頬を赤らめて興奮している。
対照的にアンウェイは、サーッと血の気が引くのを感じた。まさか町のこんな安い店に国王一行が来るなんて、予想だにしていなかったのだ。
「……おばさん、ごめんなさい、調子が悪くて……。裏で休んでいても良いかしら?」
「えぇ、今かい⁉ ケイトそれは困るよ! お願いだから、せめて国王陛下一行に料理を出し終えるまではいてもらえないかい⁉」
おばさんの発言はもっともである。国王陛下一行が来るとなれば、これからおばさんは料理を作るのにいっぱいいっぱいだろう。アンウェイが休むとなると、接客に不慣れなロンが料理出しなどの対応をすべてひとりで行わなければならなくなる。
(どうしましょう。……ううん、でもきっと大丈夫、アンウェイは死んだと思われているのだから。黒髪にしたし、質素な服に化粧も薄い。目を合わせず料理を出すだけなら、きっと気付かれはしないわ。そう、私は町娘のケイトよ!)
アンウェイは心の中で自分にそう言い聞かせた。
続々と一行が入店している食堂内を見ると、ちょうど席についたシュイルツの姿が目に入った。
(シュイルツ……元気そうでよかった。もうすっかり父親なのでしょうね……)
アンウェイは、ドキッと胸の鼓動が聞こえたような気がしてしまう。ときめく心とともに複雑な感情までもが押し寄せ、打ち消すように両頬を両手で強く叩いた。
「私はケイトよ!」
再び自分で自分を鼓舞し、早速仕事に取りかかる。
「いらっしゃいませー! お水をどうぞー!」
「陛下が口にされるものは、先に部下が味見をいたします。そこの部下の前へ置いて下さい」
オリオンにそう言われ、アンウェイは安堵した。これでシュイルツに直接料理を出す必要はない。
「まずは前菜のサラダでございます。今朝、市場から仕入れた新鮮な物ばかりでございます。どうぞお召し上がり下さいませ」
おばさんが説明をしている中、アンウェイはサラダを配る。オリオンや周りの人も料理に目がいっており、誰もアンウェイの顔を見ない。そのまま順調に料理出しは進み、最後の料理を出し終えてアンウェイがほっとしていると……
――パリン!
グラスが床に落ちた音が食堂中に響き渡った。音の先である、シュイルツとは別のテーブルで食事をしていた従者のもとに、アンウェイはすぐに駆けつける。
「お怪我はありませんか⁉」
「はっはい……」
「お召し物にかかってないですか?」
「いいえ、大丈夫です。グラスを割ってしまい、本当に申し訳ありません」
従者はバツの悪そうな表情を浮かべるが、アンウェイはただグラスが割れただけで済んで良かったと安堵する。
「お怪我もなく、お召し物も汚れなかったようで良かったです」
アンウェイは従者へにっこりと笑って、割れたグラスの破片をまとめる。床を拭くためのモップを取りに行こうとした時、後ろから呼び止められた。
「私の従者がグラスを割ってしまい、申し訳なかった。新しい物を五十個ほど送らせよう」
声の主が誰なのか、アンウェイは顔を見なくてもすぐにわかった。ときめきなのか緊張なのか、判断のつかない胸の鼓動に戸惑いながら振り返る。
「わざとではありませんし、ひとつくらい問題はありません。予備もたくさんありますので、お気になさらないで下さい」
アンウェイはお辞儀をしているように見せかけ、顔を下げたままで答えた。そして、ささっと裏へ下がろうとするが、すぐに質問を投げかけられた。
「そなた、出身はどこだ?」
アンウェイはその場に固まった。
「……アースです」
ケイトはアースの町が出身地だという設定にしており、周囲にもそう伝えている。アンウェイはひたすら俯きじっとしていた。はたから見れば、国王に話しかけられ萎縮しているように見えるだろう。
「そうか……そなた、年はいくつだ?」
「……二十八です」
「……」
アンウェイは、俯いたままで居心地が悪く困っていた。するとそんなふたりの様子を見て、おばさんが不安げに口を開く。
「国王陛下、うちのケイトが何か粗相をいたしましたでしょうか?」
「……名をケイトと申すのか。いや、そのようなことはない。ただ知っている者に似ていたものでつい……そんなはずはないのだがな。すまなかった」
そう言うとシュイルツは、一瞬でいつも通りのキリッとした国王の顔となる。
「突然の訪問にもかかわらず、快い対応に感謝する。人気店なだけあって大変美味であった。これからもキラの町の人々に、美味しい料理を食べさせてやってくれ」
その後はアンウェイには目もくれずに食事を済ませると、一行は去っていく。
シュイルツを見送るアンウェイは、自身の心臓がうるさいことに気付いていた。
(シュイルツ……痩せてさらに顔が小さくなって、もっと素敵になっていたわ……。変わらず優しくて、元気そうでよかった。……会うことが出来ないと、恋しさが増すものなのね……)
アンウェイだと知られたらどうしようという想いもあるが、何より今は、久しぶりのシュイルツとの会話に心が踊って仕方がなかったのだ。自分を落ち着かせようと深呼吸を何度も繰り返す。
「あー、緊張したね! ケイト、無理を言って悪かったね。休んでおくれ」
おばさんは、どしっと豪快に椅子に腰を下ろしながら言った。
「あ……いえ、もう治ったので大丈夫です」
疲労困憊の様子のおばさんに、アンウェイは微笑みながら水を手渡した。
「そうかい? ……ぷはー、ただの水も労働のあとは美味しいねえ。そういえばケイト、二十八だなんて、なんで嘘をついたんだい? 国王陛下に嘘を言うなんて、バレたら罰があるのは知っているだろうに」
「あっ、そうでした。自分の歳を間違えてしまいました!」
アンウェイはおばさんと目を合わせずに、うっかり間違えたかのように装う。
「年上に間違えるなんて、変わった子だねぇ! 私は一歳でも若くなりたいよ! はははっ!」
おばさんは緊張から解き放たれ、いつもよりも豪快に笑う。アンウェイも一緒に笑って誤魔化したのだった。
国王一行の視察から一週間が過ぎた午後一時半、昼食時間のピークが終わり、少し店内が落ち着いてきた頃だった。
――チリチリン。
「いらっしゃいませ! ……っ!」
アンウェイはいつもの条件反射で元気良く言ったが、入ってきた客を見て固まる。
そこにいたのはシュイルツとオリオンで、ふたりは同じ騎士の格好をしており、どうやらお忍びらしい。
「とても美味しかったため、また来させてもらった。今度はふたりでこっそりと」
微笑みながら話すシュイルツに、咄嗟にアンウェイは前回同様、町娘風に語尾を伸ばし声のトーンも上げる。
「よ……ようこそおいで下さいましたー! 空いている席へどうぞー!」
(普段の豪華な食事に慣れていたら、たまには庶民食が食べたくなるものよね。うん、きっとただそれだけよ。テンションも上げていこう。私はケイト、私はケイト……)
急に逃げ出せば怪しまれる可能性があるため、アンウェイは自己暗示をかけ、開き直って仕事に徹する。
「はい、おじさん! いつもの!」
「ありがとー。あれケイト、なんか今日はいつもよりテンションが高いね。何か良いことでもあったのかい?」
アンウェイの笑顔が引きつった。後ろからシュイルツの視線が突き刺さっているというのに、この常連客はなんてことを言うのだろうか。
「そんなことありませーん! いつも通りですよー!」
変な汗をかきながら、アンウェイの不自然すぎるほど元気な接客は続く。そして、何も絡まれることなくシュイルツとオリオンは帰っていき、アンウェイはホッと胸を撫でおろす。
(シュイルツの視線がとても痛かったような、そうでもないような……ううん、ご飯が美味しかったから、また食べに来ただけよね?)
アンウェイはそうであってほしいと思い、もう来店がないことを祈ったのだった。
しかし、アンウェイの願いもむなしく、シュイルツとオリオンは月に一回程度お忍びでやって来るようになる。アンウェイはケイトとして町娘風でなんとかやり過ごすが、最近はいつ来るかと気が気でない。来たら来たで困るが、来なかったら来なかったで少し寂しいような気もしてしまう。
(私はときめいて良い立場ではないのに……)
アンウェイは、自分の感情に戸惑ってもいた。
暖かくなってきた三月終わり。昼の営業を終了しようとしていた時、オリオンがひとりで店にやってきた。
「こんにちは。近くを通りがかったので寄ったのですが、まだよろしいでしょうか?」
オリオンは申し訳なさそうに、少しいつもより頭を低くして店へ入って来る。
「食材がほとんど残っていないのでメニューは選べませんが、なんでも良いなら大丈夫ですよー!」
アンウェイは、条件反射で町娘風を出せるようになっていた。注文をおばさんに伝え、しばらくすると良い匂いが店に漂い始める。
「ケイトさん」
「はい、なんでしょー?」
アンウェイは、水の入ったコップをオリオンに出しながら答える。
「国王陛下の部下であり友人として、ずっとお礼を言いたいと思っていたのです。少し私の話を聞いていただけますか?」
「えっ……。あっ、はい……」
「ご存知だとは思いますが、前王妃殿下は三年ほど前に亡くなられました。前王妃殿下は冷静沈着で思慮深い方で、いつも陛下を支えられていました。その前王妃殿下にケイトさんはとてもよく似ているのです。髪の色や出身地、年齢も違うのですが……」
急なオリオンの話に、アンウェイは思わずその場で固まる。オリオンは視線を落とし水を一口飲むと再び口を開く。
「陛下は前王妃殿下が亡くなられてから、とても気落ちされていました。それでも国を治めなければならない。前王妃殿下の願いと約束を叶えるためにも、国のことを第一に考え再婚し、第二子も儲けました」
アンウェイは何も答えることが出来ず、遠くを見ながら話すオリオンを見つめる。
「すべてが国のためです。もちろん、国王ですのでそれはいいのです。ですが私には、陛下の心には大きな穴が空いているように見えておりました。今も陛下は、前王妃殿下を愛しているのです」
思わずアンウェイは目を見開く。
(な……何を言っているの……?)
オリオンは、アンウェイを気にすることなく話を続けた。
「ですが、ここでケイトさんと出会い陛下は変わりました。とても穏やかになったのです。このようなことを言われても困ると思いますが、いつもありがとうございます。どうか変わらずこのままで接していただければと思います。よろしくお願いいたします」
オリオンはそう言い切ると、座ったまま深く頭を下げた。
「……はい」
頭の中が真っ白なアンウェイは、それしか言えなかった。……そう言うしかなかった。
その後はいつも通りに料理を出し、会計を済ませ、見送り、後片付けをしたのだろう。しかし、アンウェイは心ここにあらずといった様子で、気付くと店の二階の自室に戻っていた。
夜の営業準備を始めるまで一時間程度あり、いつもなら食事をして少し横になるのだが、今日はそれどころではなかった。
自室に入った途端に溢れ出した涙が、まったく止まらないのだ。シュイルツが今もアンウェイを想っている。それはとてもうれしいことであり、悲しいことでもあった
(心からシュイルツの幸せを願っているわ。だからこそ私のことは忘れて、ミランダ様を愛してほしい、子どもたちと幸せになってほしいの)
国を思えば、アンウェイがしたことは間違ってはいなかったと思う。すべてにおいて間違っていなかったと言い切りたいからこそ、シュイルツの国王としてだけではない、一個人としての幸せを心の底から願っている。
(それなのに……。……もしかして私が邪魔をしている? ケイトがいたら、アンウェイを忘れられないのではないかしら……?)
アンウェイは先延ばしにしていた転居について、本格的に考えなければならない時期が近づいていると感じた。
二週間後。本日は半年に一度のおばさん一家の親族会の日である。毎年気候の良い四月と十月に開催され、この日だけニコニコ食堂は店を休む。
「じゃあ、私とロンはおじさんのところに行ってくるからね。帰りは遅くなると思うから、先に寝ていていいからね」
「はい。親族会、楽しんで来て下さいね」
おばさんは久しぶりの集いが楽しみなようで、ウキウキしているのがアンウェイにも伝わってくる。おばさんとロンはアンウェイに満面の笑みを返し、桜の花が舞う中、出掛けていったのだった。
それから数時間後。辺りが暗くなった頃、アンウェイは店の前の花壇の水やりを忘れていたことを思い出し、外へ出た。カラフルで可愛い、お気に入りの花に水をやっていると、後ろから声をかけられる。
「……ケイト?」
「申し訳ありません、本日お店はお休みにさせていただいております……」
アンウェイはそう言いながら振り返ると、そこに立つ人物を見て驚く。
「シュ……こっ、国王陛下⁉」
アンウェイは思わず大きな声を出してしまう。慌てて口元を押さえ、辺りをキョロキョロと見渡すも人の気配はなくホッとしていると、シュイルツが微笑みを浮かべながら口を開く。
「そうか、今日店は休みなのか。それなのに会えるなんて、私はついているな」
「どうかされたのですか? ……って、おひとりですか⁉」
シュイルツの周りには誰も見当たらない。しかも、いつものお忍びで店に来る時の騎士の服装とは違って、国王の外出着の装いでまずまず目立つ格好をしている。
「あぁ……最近眠れないのだ。正直疲れが溜まっている。本日もいろいろと考えていたら、どうしても君に会いたくなってしまったのだ……」
困ったように笑うシュイルツの表情に、アンウェイは目を奪われてしまう。
「……いきなりすまない。よかったら少し話をしてもらえないだろうか? 下心は一切ないから。他愛のない話を少しするだけで良いのだ……本当にそれだけで良いから……」
アンウェイは少しやつれた顔のシュイルツを見て、放ってはおけなかった。シュイルツは何かあると眠れなくなるタイプである。そのような時はいつも、アンウェイが彼を子どものように抱きしめて一緒に眠ったものだった。
「……外は誰かに見られるといけないので、中にお入り下さいませ」
そう言いドアを開けた途端、アンウェイは立ち止まった。
「あっ……今日、艶出しの液を床に塗ったのでした……。明日の朝まで床を踏むことが出来ません」
半年に一度の店休日に掃除をすることもまた、ニコニコ食堂の恒例であった。アンウェイの部屋や台所へは違う出入り口があるため生活に不便はない。
「そうか。なら立ち話で悪いが、ここで少し話すのはだめか?」
シュイルツは、捨てられた子猫のような表情を浮かべる。
国王がそんな姿を見せるなんて、普通ならあり得ない。アンウェイに似ているからと言って、しがない町娘に心を許しているのも、国王としてはよろしくない。ますますアンウェイは、弱っているシュイルツを放ってはおけないと感じてしまう。
「だめではありませんが、人が通るかもしれません」
「いやー、ヒューイの奥さんの手料理は絶品だなー!」
ちょうど向こうから男性が三人、大声で話しながら店のほうへ歩いてくるのが見えた。
(まずいわ! 国王陛下がひとりでこんなところにいるのを見られたら……。騒ぎになってもいけないし、変な噂を立てられても困る)
アンウェイは焦り、咄嗟に言った。
「陛下、こちらへ来て下さい!」
アンウェイは、シュイルツを自室へ通してしまったのだ。
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