光の瀑布──1945.08.xx

一式鍵

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光の瀑布

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 八月の初旬、しかも真昼の頃だというのに、海から吹き付ける風はいやに冷たかった。繰り返される潮騒、砂浜に乗って毛羽立つ波、逃げていく透明な海水――律子リツコはすっかり大きくなったおなかに手を当ててから、どんよりと曇った空を見上げた。聞こえてくる海の音は、まるで誰かのすすり泣きだ。

 あの人と初めて来た海も、こんな風に寒かったっけ。夏なのにね、と笑い合ったことを思い出し、少し胸が痛くなる。

 雨が降るか降らないか。そんな微妙な色合いの雲々は、まるで律子の胸中を代弁するかのようだった。雲は律子の味方だった。分厚く、広く広がっている雲のおかげで、あの忌々しい四発のエンジン音を聞かなくて済むからだ。

 また風が吹き抜けていく。ウミネコがいている。

「こんな海、嫌いよ、私」

 律子はうつむく。

 だってあなたは――。

 律子の夫――忠司タダシは、南方へと向かう輸送船に乗っていた。だが、昨日、律子の兄が、その船が一月も前に撃沈されていたのだという情報を持って帰ってきた。

 国はもう本当のことなんて何も教えてくれない。軍の要職についている兄がいいなければ、律子も大本営の発表にすがって生きていかなければならなかっただろう。

 忠司が死んだという証拠はない。けれど、生きていると信じるにはあまりにも状況が悪すぎたし、律子はなにより現実主義者だった。
 
「戦争は、もうだめだ」

 いつの間にか律子の兄が隣に立っていた。ここまで律子を送ってきてくれたのが兄だ。兄は陸軍の高級将校であったが、左腕に砲弾を受けて帰還したのだ。幸い、左腕は切断するには至らなかったが、ほとんど自由は利かなくなった。

「おれは運が良かった」

 兄は言った。口癖のように言っていることだ。律子は兄の顔を見て目を細める。

「地獄発、内地行の切符が左手一本で買えたから?」
「ああ。安いもんだろ。あそこは……本物の地獄の方がまだマシだったくらいさ」
「でも、あの人は……」
「今のお前はな、リツ。元気な子供を産むことだけを考えろ」
「わかってる」

 律子はまたおなかを撫でた。忠司が出征するときはまだほとんど目立たなかったのに、今やもうはち切れそうなほどに大きくなっている。

 の忠司は、広島のくれで生まれ育った。仕事で東京に出てきて律子と出会い、結ばれた。だが、結婚生活も四年目を待たずして、彼は赤紙に連れ去られてしまった。

 そして先月、船に乗った数百人、あるいはもっと多くの兵隊と共に行方不明となってしまった。海に落ちた人に、彼らは執拗に機銃掃射を浴びせたらしい。

 律子が口を開こうとしたその時、兄がぼそりと呟いた。

「戦艦榛名ハルナ
「え?」
「呉の港に停泊中だった戦艦が、爆撃機を二機も落としたんだとさ」
「知ってるわ。兄さんから何度も聞いたわ」

 それは先週の話だ。浮き砲台として使われた最期だったのだと、軍の情報通である兄は言っていた。

 律子は過度な形容詞が舞い踊る勇ましい文面の新聞を思い出しながら、うんざりだと首を振った。冷たい空気が律子の頬をべっとりと撫でていく。

「忠司君みたいな研究者まで戦地に送り込むなんていうような国は、もうだめだ」
「そうね」
「彼は戦後にこそ必要な人間だったよ。この国を瓦礫から再生させられるのは彼のような人間だ」
「ありがとう、兄さん」
 
 律子はため息を吐いた。もうすぐ子どもが生まれる。けど、この時流の中で、どうしたらいいのか見当がつかなかった。生きる方法が、幸せになる未来が、どうしても想像できなかった。律子の心は、まるでこの曇天どんてんのようによどんでいた。

「リツ、お前、本当に今日、広島に?」
「ええ。今日の便で。それにしても、東京は強いわね」

 忘れもしない三月十日――東京大空襲。東京は文字通り焼け野原になった。兄曰く、風を利用した効果的な爆撃だった。何万人もの人々が春先の空の下で焼き殺されたのだ。はっきりと民間人を狙った大虐殺だった。

 しかし、それでも戦争は続いた。

 そしてついには七月、呉の港に停泊していた榛名を含む戦艦たちが軒並みやられた。陸軍の高射砲や戦闘機はもはや頼ることはできなくなっていたし、海軍の航空機は、その多くが特攻の道具と化した。兵士たちは戦う術ではなく、重い爆弾を抱えて敵にぶつかる技術のみを学んで飛び立っていった。――全て兄から得た情報だった。

「俺が機密をペラペラしゃべるのはお前の口が堅いと知っているからだぞ。それに俺も誰かに言わんでは耐えられんのだ、すまんな、リツ」
「わかっているわ、兄さん。ありがとう」

 律子は兄と共に軍の車両に向かってゆっくりと歩く。

「この子に父親の顔を見せてやりたい。ただそれだけなのに」
「いま、みんなが不幸だ。だからと言って、お前の慰めにはならんけどな」
「不幸は相対的なものじゃないからね」

 律子は風に耳を澄ます。遠くにもあの唸るエンジンの音は聞こえてこない。今日は平和だった。

「律子、その身体で本当に行くのか?」
「うん、お義父さんとお義母さんにはよくしてもらったし、生まれたら最初に見せてあげたいの」
「しかしなぁ、身重なお前を行かせるのは。三日待ってもらえれば、俺の仕事も一段落する」
「ううん、これは私のけじめだし、三日も待ってたら動けなくなっちゃう」
「そうか……」

 兄はため息をつく。彼は律子の頑固さをいやというほど知っていた。兄はほとんど右手一本で器用に車を操っていた。律子はその鮮やかな右手さばきに見とれながら、すっかり荒れ果ててしまった東京の街を見渡した。この中でも律子、正確には兄の家は無事だったのだから、兄の運の強さは確かだった。

 広島行の列車は多くはない。時間通りに来る保証も、時間通りに着く保証もない。それどころか、無事に辿り着けると約束されているわけでもない。

 駅の中は濃厚な煙草の煙に包まれていた。せ返るほどの臭いに、律子は思わず口に手をやった。ひどく退廃的なその空間には様々な人がいた。共通しているのは誰もが遠い目をしていることだった。新聞を手にしても読んではいない。酒を手にしていても酔ってはいない。

 彼らは律子を見ると一瞬興味深げな表情を見せたが、すぐに隣の兄に気付いて目を逸らした。兄は陸軍の高級将校である。一般人や兵隊たちがおいそれと口を利ける立場の人ではない。そんな権威に、律子は守られていた。

 その自覚があるから、なお、一人で広島に行くことを選んだのだ。

 人々が大勢群れている中に、広島行の汽車が到着した。

 たちまち乗降場は人込みでごった返した。兄が律子を守るように立っている。律子も人々に飲まれないようにと、兄の右腕にしがみついていた。律子は少し眩暈めまいを覚えていた。

 ――その時だ。

 リツ!

「忠司さん!?」

 人ごみのどこかから、律子は自分を呼ぶ声を聞いた。数か月ぶりに聞く、聞き間違えようのない懐かしい優しい声だ。

 律子は目を見開き、声の聞こえてきたと思しき方向を注視する。

「忠司さん!?」
「どうしたんだ、リツ。いきなり」
「あの人の声が!」
「ほんとか」

 兄はぐるりと周囲を見回した。律子はひたすらに耳を澄ませた。

 リツ!

 人ごみの奥。汽車とは反対側から、その声ははっきりと聞こえた。律子は兄から手を離し、懸命に声の主を探す。

「あなた!」

 見つけた――!

 軍服姿の忠司が、人ごみのうねりの中で微動だにせずに立っていた。病的に青白い顔だったが、その顔にはほのかに微笑が浮かんでいた。彼はじっと律子を、その優しい視線で見つめていた。

「リツ、汽車が出てしまうぞ」
「でも、忠司さんが!」
「どこにもいないぞ」
「そんなはずない!」

 不自然なほどの過密な人の群れ。その流れに必死に逆らって、律子は兄の手を引いた。

「ほら、あそこ!」
「見えん」

 兄は首を振る。

 律子は不満げに兄を見て、そしてまた忠司のいた方向に視線を戻した。

 ――いなかった。

 それと共に人々の群れも、まるで波が引いていくように過ぎ去ってしまった。兄も「今の人間の数はなんだったんだ」と呟くほどだった。律子は膝の力を失う。兄が慌てて右手で律子を捕まえた。

 そして汽車が動き始める。

「リツ、今日は無理だ。もう汽車がない」
「……そうね」

 すっかり誰もいなくなってしまった乗降場には、煙草の煙だけが残っていた。

「忠司さん……」
「見間違いだよ、リツ。でもそうだな、もしかして何かを伝えに来たのかもなぁ」

 兄はそう言ってまた車に乗った。律子は名残惜し気に駅を振り返り、首を振ってから車に乗り込んだ。その頬は知らず流れた涙に濡れていた。

 これは昭和二十年、八月五日の出来事だった。後日、律子はその翌日に広島に投下された一発の新型爆弾によって引き起こされた惨劇を耳にした。そして、その時、忠司の死を確信したのだった。

 その後、玉音放送のその日、律子は無事に子を産んだ。終戦の日に生まれた命に、律子は確かに未来を託した。その子は広島を襲った光の瀑布ばくふに負けないようにと、光司コウジと名付けられたのだった。
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