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小学生編
二十(2020、秋)
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幸い、パンツは樹が自分のをこっそり貸してくれた。ずっしりと血が染みた枕カバーとシーツは隠しようもなかったが、樹は「だいじょうぶ。おれあらう」 と保証した。
「それにしたって、布団はどうしようもないだろ……」
「あきらきたとき、これ。またよごれる」
「いや、またって……」
「あきらよごす」
「汚さないから!」
夜中の経緯を思い出し、晶は言いながら赤面した。樹は何とも思っていないようだが、あれはあきらかに普通の受血ではなく、成人用雑誌に載っているようなものに、近かったと思う……いつか、啓介が公園のくずかごから拾ってきて、見せびらかしていたことがあったっけ……
そして、樹はあれを「また」やるつもりでいるらしい……
無邪気な樹の微笑を眺めながら、晶は自問した。自分は、樹とまた受血する気があるのか……?
無意識に、晶は唾を飲み込んでいた。
そう、……自分はそうするだろう。例え禁じられ、引き離されても、彼の血が欲しいと思ってしまうだろう。
自分は、そうなってしまったのだ。
それは、呪いのようにも思えたが、樹の笑顔を見ていると、それもどうでもいいような気がしてきた。
早朝、隼太と樹の家族に別れを告げ、二人は常磐線に乗った。わずかとは言え電車賃を出してもらうことには気が咎めたが、電車に乗らないと学校に間に合わない。穢狗は電車に乗ると目立つものだが、今の樹は全く普通の十歳の少年に見えるので問題はなさそうだった。
ほとんど眠っていなかった二人は、人もまばらな暖房の効いた下り線で、肩を寄せ合ってうとうとし、もう少しで乗り過ごすところだった。
朝靄の中、樹は「またね、あきら!」と手を振って別れた。
いつ樹は穢狗の姿に戻るのだろう。前の受血のときは、翌日の昼には戻っていたから、今日の昼くらいか……中学校に向かって走っていく後ろ姿を見ながら、あのままでは仕事には戻れないだろうと思った。叱られたりしないといいけど……樹の生活を考えれば、今後、受血のタイミングはよく考えなければならない……
家に近づくにつれて、晶の足取りは重くなった。
考えないようにしていた現実が重くのしかかってくる……
うそりよだかの標的は、本当に、隼太一人だったのだろうか。いなかったことにされたのは、隼太だけで、晶は巻き込まれただけなのか。
母に電話をかけたときの、「無言電話みたい」という一言が、冷たく耳に蘇る。
もし、……家に帰って、母が自分に気づかなかったらどうしよう。あるいは、この子など知らない……という目で見られたら。
自宅の前の階段を上がり、首から下げた鍵で玄関を開ける。
「ただいまー……」
恐る恐る声をかけ、靴を脱ぐ。
返事はない。
リビングへの扉を開けたところで、歯ブラシを咥えた母と鉢合わせした。
「おはえり、あひら」
もごもごと母は言い、洗面台に引き返してうがいをした。
気が抜けたような思いで、晶は、食卓の椅子に座り込んだ。いつもの朝のニュースが七時を告げた。
「随分早く帰ってきたのね。お泊り、どうだった? 朝ご飯、まだなのかな」
「うん……母さん、俺……」
「ん?」
何から話していいか分からず、晶は口ごもった。母の中では、晶は友達のところに泊まったということになっているようだが、そんな連絡を晶はしていない。
都合よく、記憶が改ざんされているのだ……
「俺、おれ……ランドセル、道に置いてきちゃった」
「ええ?! 何でまた、そうなったの」
「それは……あれが」晶の声が震えた。「うそりよだかが」
「は?」
「ほ、本当なんだよ。襲われたんだ……」
「もぉ……何いってんのよ、あんた」
母は呆れたように笑った。「小さい子みたいなこと言っちゃって……何か、帰り道に怖いことでもあったの?」
「怖いこと……あったよ」
晶は、ぎゅっと母の袖を掴んだ。母は、当惑したように彼を見つめた。「俺……なかったことにされそうになったんだ。母さんに電話したのに、声が届かなくて……姉さんと同じように……うそりよだかに、連れて行かれるかと思った。それに、その、うそりよだかは、」
晶は、強いて息を吐き、続けた。
「……父さんだったよ」
「晶……あんた、何を言ってるの?」
母は、怪訝な顔をした。
「あんたは一人っ子でしょ。姉さんて、誰のこと?」
晶は口を開いたが、そこから声は出てこなかった。
「それになによ、父さんがその、なんとかおばけですって、いやね……父さんなら、さっき起きて来たわよ」
「え……」
晶が顔を上げたとき、トイレを流す音がして、リビングのドアが開いた。
そこから入ってきたのは、見たことのない男だった。痩せて背が高く、白髪混じりの髪を短く刈り込んでいる。彼は、晶に笑いかけた。
「おかえり、晶。昨日は楽しかったかい」
息が短く喉の奥で刻まれ、晶は口を開閉させた。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
心配そうに「父」が言った……
「何か悪い夢でも見たのよ、きっと……帰ってから変なことばかり言って」
困ったように母は笑った。その手に、晶はしがみついた。「母さん……母さん、父さんは……」
「なあに?」
涙がこぼれ落ち、晶はしゃくりあげた。「あらあら……今日は、赤ちゃんね。お泊りが案外寂しかったのかな」
母は優しく言い、晶の肩を抱き寄せた。頭を撫でる手は、職場で使う消毒薬のために荒れた母のいつもの手で、嗅ぎ慣れたハンドクリームの香りがした。
「子どもだって色々あるだろ」
「父」は穏やかに言い、通りすがりにぽんと背をたたいた。
もう二度と、母に会えないのだ……と、晶は思った。泣きながら姉のことを語り、強張った顔で父は死んだと強弁した母には。話したいことも相談したいことも、話して理解して慰めてほしいことも、山のようにあったのに、もう、――
……二度とできない。
もう、子どもでは、いられないのだ……
母の腕に抱かれて涙を流しながら、晶は、そうひとりごちていた。
「それにしたって、布団はどうしようもないだろ……」
「あきらきたとき、これ。またよごれる」
「いや、またって……」
「あきらよごす」
「汚さないから!」
夜中の経緯を思い出し、晶は言いながら赤面した。樹は何とも思っていないようだが、あれはあきらかに普通の受血ではなく、成人用雑誌に載っているようなものに、近かったと思う……いつか、啓介が公園のくずかごから拾ってきて、見せびらかしていたことがあったっけ……
そして、樹はあれを「また」やるつもりでいるらしい……
無邪気な樹の微笑を眺めながら、晶は自問した。自分は、樹とまた受血する気があるのか……?
無意識に、晶は唾を飲み込んでいた。
そう、……自分はそうするだろう。例え禁じられ、引き離されても、彼の血が欲しいと思ってしまうだろう。
自分は、そうなってしまったのだ。
それは、呪いのようにも思えたが、樹の笑顔を見ていると、それもどうでもいいような気がしてきた。
早朝、隼太と樹の家族に別れを告げ、二人は常磐線に乗った。わずかとは言え電車賃を出してもらうことには気が咎めたが、電車に乗らないと学校に間に合わない。穢狗は電車に乗ると目立つものだが、今の樹は全く普通の十歳の少年に見えるので問題はなさそうだった。
ほとんど眠っていなかった二人は、人もまばらな暖房の効いた下り線で、肩を寄せ合ってうとうとし、もう少しで乗り過ごすところだった。
朝靄の中、樹は「またね、あきら!」と手を振って別れた。
いつ樹は穢狗の姿に戻るのだろう。前の受血のときは、翌日の昼には戻っていたから、今日の昼くらいか……中学校に向かって走っていく後ろ姿を見ながら、あのままでは仕事には戻れないだろうと思った。叱られたりしないといいけど……樹の生活を考えれば、今後、受血のタイミングはよく考えなければならない……
家に近づくにつれて、晶の足取りは重くなった。
考えないようにしていた現実が重くのしかかってくる……
うそりよだかの標的は、本当に、隼太一人だったのだろうか。いなかったことにされたのは、隼太だけで、晶は巻き込まれただけなのか。
母に電話をかけたときの、「無言電話みたい」という一言が、冷たく耳に蘇る。
もし、……家に帰って、母が自分に気づかなかったらどうしよう。あるいは、この子など知らない……という目で見られたら。
自宅の前の階段を上がり、首から下げた鍵で玄関を開ける。
「ただいまー……」
恐る恐る声をかけ、靴を脱ぐ。
返事はない。
リビングへの扉を開けたところで、歯ブラシを咥えた母と鉢合わせした。
「おはえり、あひら」
もごもごと母は言い、洗面台に引き返してうがいをした。
気が抜けたような思いで、晶は、食卓の椅子に座り込んだ。いつもの朝のニュースが七時を告げた。
「随分早く帰ってきたのね。お泊り、どうだった? 朝ご飯、まだなのかな」
「うん……母さん、俺……」
「ん?」
何から話していいか分からず、晶は口ごもった。母の中では、晶は友達のところに泊まったということになっているようだが、そんな連絡を晶はしていない。
都合よく、記憶が改ざんされているのだ……
「俺、おれ……ランドセル、道に置いてきちゃった」
「ええ?! 何でまた、そうなったの」
「それは……あれが」晶の声が震えた。「うそりよだかが」
「は?」
「ほ、本当なんだよ。襲われたんだ……」
「もぉ……何いってんのよ、あんた」
母は呆れたように笑った。「小さい子みたいなこと言っちゃって……何か、帰り道に怖いことでもあったの?」
「怖いこと……あったよ」
晶は、ぎゅっと母の袖を掴んだ。母は、当惑したように彼を見つめた。「俺……なかったことにされそうになったんだ。母さんに電話したのに、声が届かなくて……姉さんと同じように……うそりよだかに、連れて行かれるかと思った。それに、その、うそりよだかは、」
晶は、強いて息を吐き、続けた。
「……父さんだったよ」
「晶……あんた、何を言ってるの?」
母は、怪訝な顔をした。
「あんたは一人っ子でしょ。姉さんて、誰のこと?」
晶は口を開いたが、そこから声は出てこなかった。
「それになによ、父さんがその、なんとかおばけですって、いやね……父さんなら、さっき起きて来たわよ」
「え……」
晶が顔を上げたとき、トイレを流す音がして、リビングのドアが開いた。
そこから入ってきたのは、見たことのない男だった。痩せて背が高く、白髪混じりの髪を短く刈り込んでいる。彼は、晶に笑いかけた。
「おかえり、晶。昨日は楽しかったかい」
息が短く喉の奥で刻まれ、晶は口を開閉させた。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
心配そうに「父」が言った……
「何か悪い夢でも見たのよ、きっと……帰ってから変なことばかり言って」
困ったように母は笑った。その手に、晶はしがみついた。「母さん……母さん、父さんは……」
「なあに?」
涙がこぼれ落ち、晶はしゃくりあげた。「あらあら……今日は、赤ちゃんね。お泊りが案外寂しかったのかな」
母は優しく言い、晶の肩を抱き寄せた。頭を撫でる手は、職場で使う消毒薬のために荒れた母のいつもの手で、嗅ぎ慣れたハンドクリームの香りがした。
「子どもだって色々あるだろ」
「父」は穏やかに言い、通りすがりにぽんと背をたたいた。
もう二度と、母に会えないのだ……と、晶は思った。泣きながら姉のことを語り、強張った顔で父は死んだと強弁した母には。話したいことも相談したいことも、話して理解して慰めてほしいことも、山のようにあったのに、もう、――
……二度とできない。
もう、子どもでは、いられないのだ……
母の腕に抱かれて涙を流しながら、晶は、そうひとりごちていた。
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