【ハルピュイアの鎮魂】―禁忌を超えて、魂に、触れる。― ディストピアSFホラー×異形吸血鬼譚×異種族恋愛BL

静谷悠

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中学生編

五(2020、秋)

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 全国大会が終わり、三年生が引退して、学校は文化祭準備一色だった。晶は関東第二位まで記録を残し顧問に抱き締められたが、崇は応援組で終わった。
 
 ――その虎谷崇は、少々疲労感を持て余していた。
 
 文化祭では、なんだかんだと背中を押されてクラス模擬店の責任者になった崇だが、今までのところ卒なくこなしている。喫茶店とお化け屋敷とで割れた投票をうまく討論させ意見をまとめあげ、お化け役を任命して内装係を組織させ、デザイン案を全体から募集してクラスの絵のうまい女子に全体デザインを任せた。

 まずまず、自分でもうまくやっているとは思う。そういう役割が好きだったし、実際向いている。……とはいえ、時に気疲れするのも事実だった。

 そんなとき、崇は一人、放課後の音楽室で、気晴らしにピアノを弾くことにしていた。随分前にやめてしまったピアノだが、指を動かしている間は無心になれる。
 夕陽が差し込む音楽室で、その日、崇は頭を空っぽにしてパッヘルベルの「カノン」を弾いていた。単調でありながら複雑に展開し、重層化しつつ華やかに広がるメロディを、ひたすら指先を駆使して追っていく。
 曲が終わり、ふっとため息をついたときだった。小柄な影が唐突に近づき、ぎゅっと彼を抱き締めた。
「うわっ……わ?!」

「すごい」

 ヒューヒューと掠れる呼吸音のせいでどうにも聞き取りにくかったが、どうやら、それはそう言っているようだった。

「たかひ、すごい、すごいきえい。きえいなのひく。すごい」

「樹か」 

 崇は苦笑した。「カノンくらい弾けても、そこまで自慢にならないけど……」
「きえい。おえ、すき」
「そうだ、おまえ、ちょっと練習してみるか?」
 抱きついてくる手を外して、鍵盤に導いてやる。
「えんしゅう?」
「そう。最初は、なにがいいかな……やっぱりキラキラ星か」
 ド、ド、ソ、ソ、ラ、ラ、ソ……と言いながら、ふしくれ捻れた指を鍵盤に当ててやる。
 驚いたことに、樹はたった一度でそれを覚え、滑らかに指でメロディを追った。
「えっ、おまえ、ほんと賢いな。初めてだよな?」
 面白くなってきた崇は、彼を膝に乗せて、左手の伴奏も教えてやった。樹の手はねじまがり小さく、やりにくそうではあったが、崇がやってみせるとたちまちそれを再現してみせた。
 崇もびっくりしたが、本人の反応はさらに上回った。
「できう、おえ、できた!」
 彼は文字どおり跳び上がるようにして喜び、崇の首に抱きついて喜んだ犬がするように顔を舐め回した。
「おいこら、やめろよ、おいってば……」
「おえ、うえひい。おと、きえい、ひけた!」
「分かった分かった。良かったな」

「樹」

 呼びかけられた声に、樹は振り返り、走ってそこにいた人物に飛びついた。「あきや、きいて、おえね、おえ、できた!」ぴょんぴょん、と跳ねながら頭を脇の下に押し込む。
「どうしたのこれ……」
 水埜晶だった。
 汚れた顔を袖で拭きながら、崇は苦笑した。「キラキラ星を教えてやったんだ。すごいんだぜ、一回で両手合わせられんの。しかもめっちゃ喜ぶし」
 嬉しくてたまらない、と言った様子の樹を眺める。「なんか可愛いよな、そいつ」
 晶は、何故かちょっと眉をひそめて崇を見、言った。
 
「甘かった?」
 
「え?」
 聞き間違いかと思った。
「……何でもない」晶はふっと目をそらした。
「それより、そろそろ完全下校だぞ。最後、片付けチェックしてくれる? 内装チーム結構汚したから」
「ああ……」
 微かな違和感を感じながら、そのとき崇は彼の後ろ姿を見たのだった。未だ嬉しそうに弾んでいる小さな身体を、晶はなだめるようにぽんぽんと叩いてやっていた。
 (あんなに音楽を、喜ぶなんて)
 彼は、ちょっと思った。根の民、というより、《音の民》なのかもしれないな。
「また教えてやってくれよ」
 ちらと振り返って、晶は言った。

 *
 
 完全下校の縛りがきつく、内装の進行は難渋した。文化祭当日朝まで作業は続いた。早朝から登校したメンバーではあったが、時間がないからもう黒くするだけで後はなんとかしよう、という派閥と、いや、最初のデザインを尊重するべきだ、という派閥が衝突したことでさらに事態は悪化した。いずれにも与しない晶は、淡々と作業を進めていたが、終わるかどうかをそろそろ危ぶみ始めていた。
 お化け役メンバーたちが、そろそろ扮装を始める中、内装チームは言い合いを続けていたが、崇がそこで手を叩いた。
「さあ、あと一時間。何ができるか考えてみようぜ。デザインを尊重したいのは、皆同じだよ……じゃあ、この短時間でなにができる?」
 彼は、デザインの発案者である女子に笑いかけた。彼女は、思い切ったように言った。「細かい絵はもうなしで行きましょう。黒地に赤をとばして血飛沫に見せて、あとは毛糸のクモの巣をかぶせるだけで」
「よし。いいね」
 崇は、お化け役メンバーを振り返った。「あとは、こっちの名優たちが最高に客を驚かせてくれるさ。じゃあみんな、最後一時間、集中してやろう!」
 こういうところだ……と、晶はそっと思った。自分が、決して引き受けない役回りを、滑らかにこなしてみせる崇に、晶は感嘆と尊敬を抱いていた。実際、崇はいいやつだ……名家の出であることを鼻にかけることもなく、知的で、生まれながらの優しさとでもいうべきものがある……
 なのに、最近、彼の姿を見るたび、ちょっとした鬱屈を感じる自分がいた。別に、彼のようになりたいわけでもない、なのに……
 
 音楽を崇に教えられ、無邪気に喜んでいた樹の顔を思い出すと、胸中で名前のない感情がもやもやと不快に渦巻く。
 
 樹が知らない世界に触れ、喜びを得ることは嬉しいことのはずなのに……
 
 全員が協力し、黙々と作業するうち、開始十五分前にして、内装は仕上がった。
 歓声が上がる。
「よし、後は実行部隊に任せて、撤収!」
 バタバタと片付けを済ませて、立ち去ろうとしたとき、紫穂と目が合った。
「大丈夫?」
「何が?」
「疲れてるみたいだから」
「そう? もう行かないと」
「ほら、ぼうっとしすぎ」
 言いながら彼女はちょっとつま先立ち、唇を触れ合わせた。そのまま滑らかに舌を入れてくる。
 生徒同士の唾液交換は普通のことだったが、紫穂とは初めてだった。実際、早起きしたせいで寝不足だったから、他人の体液はありがたい。血液同様、舌を刺すような酸味が頭の霧を晴らしてくれる……とはいえ、樹とのそれのような、頭の芯が痺れるような甘さとそれに対する欲望には比ぶべくもなく、唇を離すことに名残惜しさはなかった。
 そのとき、ぐっと、強い力で手首が掴まれた。
 後ろに引かれて、彼は転びかけた。「うわ? え……何」

 それは、樹だった。

 彼はものも言わず、彼の腕を引いて歩き出した。見送る紫穂が、ちょっと面白そうな目をしているのが視野に入る。
 
「おい……ちょっと、樹、痛いよ」
 
 しかし樹は止まらず、生徒でごった返す廊下を無理矢理抜けていく。小柄な穢狗の姿のくせに、妙に力が強い。「痛い、痛いって、樹!」
 そのとき、スピーカーから賑やかな音楽が鳴り始めた。
 文化祭が、始まったのだ。

  
 
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