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中学生編
十三(2023、初夏)
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早朝、筆記用具と昼食を入れた軽いリュックサックを背に、二年生は駐車場に整列した。
晶たちの班の目的地は行方地区で、距離としてはまあまああるが、湖上を渡るのは一キロもない。飛翔力に不安がある紫穂がいるので、途中で休憩が取れるのはありがたかった。
子どもたちは、三十秒おきに自分の目的地に向かって飛び立った。
崇が地図とコンパスを持ち、地形と見比べながら方角を決める。朝日が強い風を貫いて彼の横顔を照らした。
「しんどくなったら早めに言えよ。湖を渡りさえすれば、休憩できるから」
「……ありがとう」
不本意そうに紫穂は言い、スピードを上げた。
眼下の湖は途切れ、鬱蒼とした森が広がった。
「意外にこれだけ茂ってると、陸地でも着地しにくいな……みんな、どうやるんだろ」
「俺が枝を払うよ」
「大がかりだなあ……でも、そんなとこか。そのときは頼むよ」
日差しが強くなり、温められた草いきれが上空まで昇ってくるようだった。チロチロチロチロ……とでもいうような鋭い鳥の声が響く。
「カサグリヒタキだ。警戒音出してる、巣があるのかな」
「写真が撮れるとプレゼンに使えるんだけど……」
紫穂は言葉少なだった。高度が下がってきている。ちらっと目をやって、崇が言った。「晶、頼む」
「了解」
飛びながら、左右の翼を光る刃翼に変えて加速する。斜めに身体を傾けて回転し、木と木の梢が重なるあたりを一気に切り払った。竜巻が巻き起こったようになり、小さい穴が緑に穿たれ、晶は一足先に森の中に降り立っていた。
緑の天井に空いた穴から、崇と紫穂が降りてきた。足元が悪く、よろけた紫穂を、晶は支えた。彼女は肩で息をしていた。
「ありがとう……」
崇は地図と時計を見比べた。
「結構来たな。ここからなら、ちょっと歩けば行方地域の北端になる。ちょっと休憩して、後は歩きで行こうか」
足元の枝を避けて、三人は、苔むした倒木の上に腰を下ろした。木々の向こうから、波音がしてくる。海ではなく、湖に寄せる波なのだった。
ほかのグループの気配はない。
何ともしれぬ鳥の声、宙を飛ぶ虻の羽音を聞きながら、三人は水筒を使い、粉っぽい携帯食を食べた。
「紫穂、受血しておいた方がいい。疲れただろ」
晶は言った。紫穂は、しぶしぶ頷いた。
「崇、頼むよ。俺は朝やっちゃったからさ」
崇は気軽に指を傷つけ、紫穂の前に差し出した。「ほら」
紫穂は、不本意そうに唇をつけ、飲んだ。
「……ありがとう」
その顔を片手で崇が写真に撮った。「え?! ちょっと、やめてよ、なに撮ってるの?」
「不服そうな雨貝女史」
「消しなさいよ!」
「いいじゃん、レアだし」
崇は紫穂の手を避けて、スマホの画面を閉じた。「俺にはくれないの?」
はあっ、とため息をついて、彼女は指に歯を立て、崇に差し出した。
「朝受血したって、樹くんとでしょ」
気まずさを紛らわすように言う。晶は口ごもった。「え……あ、まあ、うん」
「してなかったとして、私にくれる気あった?」
答えかねて、晶は紫穂を見返した。彼女は見透かすように目を細めた。「もう、樹くんとしかできないんじゃないの」
「えっ、どういうこと?」
唇を拭いながら、崇が二人を見比べた。
「文化祭のとき、わたしが晶くんと唾液交換してたら、すごく怒ってたでしょ、彼。仲直りしたみたいだから、あのときどうしたのかなって思って」
「紫穂……」
晶は肩を竦めた。「自分が気まずいからって、俺に話を振るなよな」
「え」彼女は珍しく虚を突かれた顔をした。
「まあいいけど……おまえらには隠すつもりもないし」
晶は水筒をしまいながら言った。
「俺は樹だけだし、樹は俺だけだってことにしたよ。もう他人とは受血しない。唾液交換も」
「えっ……」
唖然としたのは、崇だった。
「そ、それってありなの?」
「だって、お互いに、嫌なんだよ。そういうのが」
「気を悪くしないんでほしいんだけどさ……それって、その、付き合ってるってこと?」
晶は黙り込んだ。
「まあ、普通は、たとえ結婚してたって他人と受血くらいするけどね」紫穂が混ぜ返した。「でも、いいんじゃない……素敵だと思うわ」
「いやでも、……こういっちゃなんだけど、かなりシビアなんじゃないのか、それ……その、穢狗と……」
崇は自分の発した言葉にたじろいだかのように、残りの台詞を飲み込んで晶の表情を窺った。
「そういうの、なのかなぁ……」
晶は呟いた。自分たちの関係は、何か、付き合うとかそういうものとはもっと違う次元のもののような気がしていた。だが、それをどう言葉にすればいいか分からなかった。
「なに? まだ告白してないとか?」
「いやだから、そういうのじゃなくて……」
「なんか、宿泊学習っぽくなってきたな。よし、恋バナしながら出発しようぜ」
「いいけど、あなたもするのよ、崇くん」
「俺は何の浮いた話もございませんよ」
「不健全な噂はたくさん耳に入るけどね……」
二人の話を聞きながら、晶は、(あきら、すき、だいすき)と言いながらいちいちくっついてくる樹の肌の温かさを思い出していた。
付き合ってるかいないかでいえば、付き合ってるってことなんだろうな、と晶は思った。
ワタクモガエルと、水面を走るオオヤゴモドキ、ギラリと鱗を光らせて尾を翻す巨大なニシキゴイを写真に収め、フィールドワークはまずまずの滑り出しだった。蒲が揺れる湖面はぎりぎりまでどこが岸なのか分かりにくく、飛翔しなくては近づくことも困難だった。日差しはどんどん強くなり、湖面はまばゆかったが、濃く茂った木々の影は涼しかった。
「ねえ……あれ、なに?」
と、紫穂が林の中に指さしたのは、大きめのガガンボダマシのような姿の虫だった。ただし、その影はまるで透き通るかのように儚く、木漏れ日の中で七色にきらめいている。
「見たことないな……知ってる?」
「いや。形は蚊みたいなのに、色が違うだけであんなに綺麗に見えるんだな……」
虹色のガガンボダマシは、しゃぼん玉のようにふわふわと風に揺れながら木の間隠れに見えなくなった。
「あっ、写真! 写真取らないと」
紫穂が言い、木の根を踏んでその後を追った。
「おい、紫穂、気を付けろ……」
晶が声をかけたとき、その後ろ姿が、何かに引かれるようにして、茂みの中に消えた。
「きゃっ……、何、いや……」
「紫穂!?」
晶が駆け寄ろうとしたとき、崇が叫んだ。「晶っ! 後ろだ!」
「え……」
振り返ろうとしたとき、何か重いものが衝撃とともに頭に振り下ろされた。視界が横転する。地面に頬がついたとき、晶は霞む視野の端に、いびつな裸足のつま先と、節くれだった拳を見た。
(穢狗……)
再び頭上に衝撃があり、今度こそ、晶は意識を失った。
晶たちの班の目的地は行方地区で、距離としてはまあまああるが、湖上を渡るのは一キロもない。飛翔力に不安がある紫穂がいるので、途中で休憩が取れるのはありがたかった。
子どもたちは、三十秒おきに自分の目的地に向かって飛び立った。
崇が地図とコンパスを持ち、地形と見比べながら方角を決める。朝日が強い風を貫いて彼の横顔を照らした。
「しんどくなったら早めに言えよ。湖を渡りさえすれば、休憩できるから」
「……ありがとう」
不本意そうに紫穂は言い、スピードを上げた。
眼下の湖は途切れ、鬱蒼とした森が広がった。
「意外にこれだけ茂ってると、陸地でも着地しにくいな……みんな、どうやるんだろ」
「俺が枝を払うよ」
「大がかりだなあ……でも、そんなとこか。そのときは頼むよ」
日差しが強くなり、温められた草いきれが上空まで昇ってくるようだった。チロチロチロチロ……とでもいうような鋭い鳥の声が響く。
「カサグリヒタキだ。警戒音出してる、巣があるのかな」
「写真が撮れるとプレゼンに使えるんだけど……」
紫穂は言葉少なだった。高度が下がってきている。ちらっと目をやって、崇が言った。「晶、頼む」
「了解」
飛びながら、左右の翼を光る刃翼に変えて加速する。斜めに身体を傾けて回転し、木と木の梢が重なるあたりを一気に切り払った。竜巻が巻き起こったようになり、小さい穴が緑に穿たれ、晶は一足先に森の中に降り立っていた。
緑の天井に空いた穴から、崇と紫穂が降りてきた。足元が悪く、よろけた紫穂を、晶は支えた。彼女は肩で息をしていた。
「ありがとう……」
崇は地図と時計を見比べた。
「結構来たな。ここからなら、ちょっと歩けば行方地域の北端になる。ちょっと休憩して、後は歩きで行こうか」
足元の枝を避けて、三人は、苔むした倒木の上に腰を下ろした。木々の向こうから、波音がしてくる。海ではなく、湖に寄せる波なのだった。
ほかのグループの気配はない。
何ともしれぬ鳥の声、宙を飛ぶ虻の羽音を聞きながら、三人は水筒を使い、粉っぽい携帯食を食べた。
「紫穂、受血しておいた方がいい。疲れただろ」
晶は言った。紫穂は、しぶしぶ頷いた。
「崇、頼むよ。俺は朝やっちゃったからさ」
崇は気軽に指を傷つけ、紫穂の前に差し出した。「ほら」
紫穂は、不本意そうに唇をつけ、飲んだ。
「……ありがとう」
その顔を片手で崇が写真に撮った。「え?! ちょっと、やめてよ、なに撮ってるの?」
「不服そうな雨貝女史」
「消しなさいよ!」
「いいじゃん、レアだし」
崇は紫穂の手を避けて、スマホの画面を閉じた。「俺にはくれないの?」
はあっ、とため息をついて、彼女は指に歯を立て、崇に差し出した。
「朝受血したって、樹くんとでしょ」
気まずさを紛らわすように言う。晶は口ごもった。「え……あ、まあ、うん」
「してなかったとして、私にくれる気あった?」
答えかねて、晶は紫穂を見返した。彼女は見透かすように目を細めた。「もう、樹くんとしかできないんじゃないの」
「えっ、どういうこと?」
唇を拭いながら、崇が二人を見比べた。
「文化祭のとき、わたしが晶くんと唾液交換してたら、すごく怒ってたでしょ、彼。仲直りしたみたいだから、あのときどうしたのかなって思って」
「紫穂……」
晶は肩を竦めた。「自分が気まずいからって、俺に話を振るなよな」
「え」彼女は珍しく虚を突かれた顔をした。
「まあいいけど……おまえらには隠すつもりもないし」
晶は水筒をしまいながら言った。
「俺は樹だけだし、樹は俺だけだってことにしたよ。もう他人とは受血しない。唾液交換も」
「えっ……」
唖然としたのは、崇だった。
「そ、それってありなの?」
「だって、お互いに、嫌なんだよ。そういうのが」
「気を悪くしないんでほしいんだけどさ……それって、その、付き合ってるってこと?」
晶は黙り込んだ。
「まあ、普通は、たとえ結婚してたって他人と受血くらいするけどね」紫穂が混ぜ返した。「でも、いいんじゃない……素敵だと思うわ」
「いやでも、……こういっちゃなんだけど、かなりシビアなんじゃないのか、それ……その、穢狗と……」
崇は自分の発した言葉にたじろいだかのように、残りの台詞を飲み込んで晶の表情を窺った。
「そういうの、なのかなぁ……」
晶は呟いた。自分たちの関係は、何か、付き合うとかそういうものとはもっと違う次元のもののような気がしていた。だが、それをどう言葉にすればいいか分からなかった。
「なに? まだ告白してないとか?」
「いやだから、そういうのじゃなくて……」
「なんか、宿泊学習っぽくなってきたな。よし、恋バナしながら出発しようぜ」
「いいけど、あなたもするのよ、崇くん」
「俺は何の浮いた話もございませんよ」
「不健全な噂はたくさん耳に入るけどね……」
二人の話を聞きながら、晶は、(あきら、すき、だいすき)と言いながらいちいちくっついてくる樹の肌の温かさを思い出していた。
付き合ってるかいないかでいえば、付き合ってるってことなんだろうな、と晶は思った。
ワタクモガエルと、水面を走るオオヤゴモドキ、ギラリと鱗を光らせて尾を翻す巨大なニシキゴイを写真に収め、フィールドワークはまずまずの滑り出しだった。蒲が揺れる湖面はぎりぎりまでどこが岸なのか分かりにくく、飛翔しなくては近づくことも困難だった。日差しはどんどん強くなり、湖面はまばゆかったが、濃く茂った木々の影は涼しかった。
「ねえ……あれ、なに?」
と、紫穂が林の中に指さしたのは、大きめのガガンボダマシのような姿の虫だった。ただし、その影はまるで透き通るかのように儚く、木漏れ日の中で七色にきらめいている。
「見たことないな……知ってる?」
「いや。形は蚊みたいなのに、色が違うだけであんなに綺麗に見えるんだな……」
虹色のガガンボダマシは、しゃぼん玉のようにふわふわと風に揺れながら木の間隠れに見えなくなった。
「あっ、写真! 写真取らないと」
紫穂が言い、木の根を踏んでその後を追った。
「おい、紫穂、気を付けろ……」
晶が声をかけたとき、その後ろ姿が、何かに引かれるようにして、茂みの中に消えた。
「きゃっ……、何、いや……」
「紫穂!?」
晶が駆け寄ろうとしたとき、崇が叫んだ。「晶っ! 後ろだ!」
「え……」
振り返ろうとしたとき、何か重いものが衝撃とともに頭に振り下ろされた。視界が横転する。地面に頬がついたとき、晶は霞む視野の端に、いびつな裸足のつま先と、節くれだった拳を見た。
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