白と黒

河野マサ

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深層

騒乱の折、空虚

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 生井和馬かずまは、すっかりと慣れていた自身が所有するプリウスの車内に違和感を覚え続けていた。先からハンドルを握った手の指先が運転とは無関係な動きに対しての忙しなさを見せる。どうにも落ち着いていられない。数秒おきに横目で助手席をチラ見してしまう。
 憂いに満ちたように見える横顔は果たして、胸の内の苛立ちを堪えての姿なのか。それとも単に、この愉快さとは無縁のドライブの終着点を思っての不安気か。いずれにせよ、と和馬は微かに震えを伴う唇を動かした。「運転」
 「なに」やたらと食い気味に助手席の女性は言い切った。返事に違いはないのだが、口調と声音はしかして会話の続行を拒む。「なんでもない、です」
 再び気不味い沈黙が車内に蔓延した。
 元を正すと、このドライブの提案者は桜園美尋だった。ノッカーと呼ばれる反社会的な魔術組織を追う任務に就いている女性に対して美尋が共有した情報は、ノッカーに依頼を頼もうとしている指定暴力団が密会に使うであろう場所の情報だった。
 関東圏にいくつか存在する候補のうちで最も可能性の高いとされる場所を伝え聞いていた。その後、何やら二人だけで会話を繰り返していた様子だったが、和馬にはその会話の内容を共有することは許されなかった。
 ひと通りの会話を交わすと、美尋は「急いでるなら」と言って和馬の方を指差した。「彼を使いなよ」
 上司命令ね。その一言を付け足された和馬には、もはや断る余地は残されていなかった。が、和馬にとっては渡りに船と言わんばかりの話でもあった。
 「あのさ」信号を二つばかり過ぎたところで、和馬は勇気を振り絞って声を捻り出した。視線は前方へ向けたまま、運転に集中しているテイを保つ。そうすることで平静を保った。無視されたとしても、独り言だったと思い込める。

「君ってなんて言うか、他の魔術師とは違うよね」

 カチカチ、とウィンカーの音だけが耳に返ってくる。保険をかけて置いて良かった。少しの落胆を覚えつつも、和馬の心的外傷は必要最低限に収まりそうだった。が、「よく言われる」ずいぶんと間を空けてから女性は詰まらなさそうに呟いた。
 返答を得られた驚きに感け、つい女性の方を向いてしまった。「前」空かさず女性の忠告が耳を射る。「ごめん」
 幸い車通りは少なく歩行者もいなかった為、大事には至らなかった。

「取っ付きにくい印象って意味では同じだけど、ウチの魔術師たちと違って同じ目線で話をしてくれる」

 会話を途切れさせたくなかった和馬は、女性の注意がどこか虚空へ向かうよりも先に言葉を紡ぐ。

「別に普通じゃない。魔術師も非魔術師員も同じ人間なんだし。まあ、中にはタチの悪い連中もいるだろうけど。あの女だって、別に普通だったじゃん」
「桜園さんはうちの支部でも特別だよ。あの人は人間って生き物が誰よりも好きな人だから」

 「へえ」チラと横目で助手席の方を見ると、女性の顔に微笑が浮かんでいた。

「鈍そうに見えるけど、意外と良い観察眼してんじゃん」

 素直に褒めてくれた。和馬の気分はそれだけで有頂天へと昇り詰める。先から車窓を過ぎて行くだけだった街並みが途端に色付き出して見え始めた。
 ひと目で惹かれていた。服装はそこらの若い子と似通っていても、顔付きや佇まいは全く異なって見えた。時折に覗く憂愁の滲んだ表情も、とても魅力的に思っていた。気付けば、和馬は隣にいる出会って間もない女性の虜になっていた。

「良ければ名前、教えてよ」
「……白河。白河沙羅」

 ほんの少しだけ空いた間が気になったが、教えてくれた。その事実だけで和馬の口は饒舌さを増す。

「僕は生井和馬。よろしくね、白河さん」

 頰が緩んでいる自覚がある。浮かれていると思われたくはない。が、どうにも自制は利きそうにない。
 ねえ。不意に、沙羅の小さく呟くような声が言の葉を散らした。

「私とは深く関わらない方が身の為だと思う」

 拒絶の意は感じ取れなかった。忠告にしても声音が弱々しい。言うなれば、ここまで見てきた彼女らしからぬ言葉だった。
 ちょうど赤に変わった信号機を幸いに思い、ブレーキペダルを軽く踏み込みながら沙羅の方を向いた。そこにあったのは、深く俯き、片方の手で自分の二の腕を軽く掴んだ沙羅の姿だった。
 息を呑み、暫しその姿を茫然と眺め続けるしかできない。なんと声を掛けようか、思考が上手く働かない。何の気もない相手であれば、他愛もない言葉を以って気遣いの意を示せばいい。だが、今し方に目にしている女性はまるで宙を危うげに漂うシャボン玉そのものの様相だ。下手に触れれば最期、簡単に弾け飛んで霧散してしまう。
 結局、和馬は青信号を待って再び車を発進させることしかできなかった。自身の不甲斐なさ以上に、思慮は別の深い層へと沈み込む。いったい何が、どのような要因が彼女をあのような姿にさせるのか。深い水底は果てさえも見えず、息が保たないと判断した和馬の意識は表の世界へと急浮上する。
 車窓に映る景観の色彩が鈍色に変わり始めて来た頃、目的の場所が近づいて来ていることを悟る。背の高い白璧が軒を連ね始めた。
 「僕は」もう時間がない。そんな思いだけで沈黙の禁を破り捨てた。時には蛮勇が世界を変える。今がその時である。和馬に怯みの情はなかった。

「それでも僕は構わない。白河さんの近しい人間になりたい」

 もう、チラと横を確認することはしない。彼女がどんな表情を以って僕の言葉を受け取ったであろうとも、気にすることはない。僕は僕の素直な気持ちを伝えたに過ぎない。
 ありがとう。目的地の前で車を停める間際、そんな呟きが聞こえた気がした。



  *


 巨躯な男たちに襲われ、身動きが取れなくなった。必死に抵抗したが、腕力で敵うはずもなく簡単に組み伏せられた。口元に何かを当てがわれた感覚が最後。そこで瀬奈の記憶は途絶えていた。
 再び目を覚ますと、目の前は真っ暗だった。椅子に座っている感覚はある。が、足も手も自由が利かない。縛られていることに気付いたのは、意識の覚醒を果たした少し後のことだった。口にはさるぐつわを嵌められている。真っ暗な空間だと思っていたが、目隠しさせられていた。感覚がようやく完全に戻りつつあった。
 「目が覚めたみたいだな」男の声が告げる。靴音が幾つか響くと、人の気配を近くに感じた。

「幾つか質問したいことがあるのだが、素直に応えてくれる気はあるかな?」

 落ち着いた口調と声。記憶に残っている自身を襲った男たちのものとは到底に思えなかった。どこか知性を醸す声音に安堵している自分を自覚した途端、急速に不安が頭を駆け巡る。
 んー、んー。くぐもった自分の声が耳に返ってくる。すると、少し離れたところから男の笑う声が幾つか聞こえだす。嘲笑う声だった。

「ようやく状況を飲み込んだみたいっすね」
「お前が薬品の量を間違えてないかヒヤヒヤしたぞ」

 次いで聞こえてきた男たちの不穏な会話に、瀬奈の恐怖心は限界を越えようとしていた。身にまとっていた衣服の感触が確かめられない事に気付き、涙が滲み出す。

「ひとまず安心してもらいたいのだが、未だ君の身に危害の一切は加えてはいない。が、今後の君の態度次第ではその限りでもない」

 先よりも近くで聞こえた男の声に瀬奈は頷き、縋ることしかできない。
 結構。男がそう呟くと、気配が少しだけ遠ざかった。そのあと椅子を引く音が聞こえた。対峙する形で腰を据えたであろうことが分かる。

「最初の質問だ。君は何者で、どこの人間だ」

 んー。恐怖心に支配された瀬奈が咄嗟に男の質問に応えようとしたが、さるぐつわによってその行為は許されなかった。それが焦燥感を駆る。んー、んー、んー。
 またしても向こうの方から男たちの嘲笑が漏れ聞こえる。「すまない」再び近付いてくるひと気を感じると、さるぐつわが外される。

「殺してやる」

 周囲がしんと静まり返ったのが分かった。
 おいおい。呆れたような男の声が漏れた。ゆっくりとした足音が近付いてくると、乱暴に髪を掴まれ後ろへと引っ張られた。

「立場を弁えろや。今すぐガキ産めねえカラダにしてやってもいいんだぞ? なんなら俺のガキ孕ませてやろうか?」

 粗暴な声音が上から降り注いでくる。痛みを越え、頭皮が焼けそうな程の熱を帯びる。
 まあまあ。先までの落ち着いた声が男を制する。髪を掴まれていた力が弱まった。

「分かった通り、彼らは私ほどに人を傷付ける事に躊躇いなんて持たない。これは君の為の忠告だ。素直に応えて欲しい」

 瀬奈は考えを巡らせるまでもなく、鼻で一笑してから応えた。「ぶっ殺す」
 再び髪を思い切り後ろへと引っ張られたかと思えば、今度は腹に鋭い衝撃を覚えた。痛みより先に瀬奈を襲ったのは、耐え難い嘔吐感だった。反射的に頭を前方へと下げようとするも、髪を掴む手がそれを拒み、必然的に天を仰ぐ形になった口から吐瀉物が溢れ返った。
 「きったねえ」髪を掴む手が緩み、顔が下方へと急速に下がって行く。口に溜まっていた物が吐き出されると、むせ返りそうな臭いが鼻を埋める。咳き込んだ瞬間、再び髪を鷲掴みにされた。「吐くもんが違うだろうが」
 腹部から伝ってくる鈍い痛みの尾が引く気配を見せない。涙が滲むが、目元を覆っている布が根こそぎにそれを奪って行く。
 痛い。苦しい。瀬奈の思考を徐々に苦痛が支配し始める。恐怖心は憎しみの情で幾らでも抑えられた。が、肉体的な苦痛は予想に反して彼女の意思を捻じ曲げてくる。確かな死への感覚は、抗いきれそうになかった。
 「いや、だ」不意に漏れてしまった自分の掠れた声を聞く。しかしそれを聞いたのは瀬奈自身のみならず、髪を掴んでいる男も同じだった。
 へえ。肉体的な苦痛が有効であると悟ったかのように唸ると、再び腹部に鋭い衝撃が走る。咽び上がった嘔吐感はしかし、先に比べて些細なものだった。喉を逆流してくるのは胃液が殆ど。焼け尽きそうな熱を喉元に感じる。
 ごぼっ。喉に溜まった胃液やらが音を立てる。息が詰まり、上手く呼吸ができない。焦ろうにも、頭の向きを変える自由は許されない。
 必死にもがいている内、意識が遠退き始めた。動きが緩慢になって行くのを感じる。死を自覚しようとした時、またしても髪を放された。重力に従い、顔が下方へ向く。液体が地面を打ち付ける不快音が耳に響くと、次いで自分の咳き込む音がそれを追ってくる。

「ちったぁ話す気になったか?」

 言葉を絞り出そうとしたが、喉を這い出てきたのは胃液の残りだった。

「まだ足りねえみたいだな」

 再び髪を掴まれて引かれる。そして腹部に衝撃が走る。咽び上がってきた胃液で窒息しかける。その繰り返しは、胃から戻ってくる物がなくなるまで続いた。
 見るに耐えんな。交渉役を担っていた男の辟易とした声がそう呟いた。
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