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聖域
没世に生きし者ら
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起床と同時に白河沙羅の身を襲ったのは、全身に至る激痛だった。堪えることは容易い。慣れてもいる。曰く、いつもの事。
痩身を不器用に動かしながらベッドから降りる。冷たいフローリングの感触が妙に優しく沙羅の足を迎え入れる。覚束なさはいただけないにしろ、不自由には至らない。幾らか胸を軽快にして通る清々しさが一躍をかっていた。
慣れないな。誰に見られることもない自室で羞恥の笑みを携えたのは、久方ぶりだった。
寝室を出てすぐにキッチンに備えられた食器棚へと向かう。両開きの片方を開けて手近なコーヒーカップを手に取ってから閉め切る。白い無地の陶器だった。
帰りの際に買っておいたインスタントコーヒーの瓶を開ける。金紙の封を指で開け、乱雑に穴を広げる。中身をカップに入れられるのであればそれ以上の拘りなどは無い。それだけで充分である。
ウォーターサーバーのお湯をカップに注いで軽くカップを回しながらリビングのソファへと向かう。ガラステーブルにカップを置くと、崩れるように腰からソファへと落ちる。これには慎重を期さなかった事への後悔を覚えた。
リモンコンでテレビの電源を入れる。独り心地は嫌いでないが、無音の静寂は嫌いだった。
朝の情報番組は特に代わり映えのない内容を今朝も続けていた。どこかで起きた他人事の上っ面のみを報じ、次の瞬間には大して興味も湧かない企画へと移ろう。今日の占い。今日いち番のラッキーな星座は獅子座のあなた。
沙羅の目はいつの間にかテレビ画面の向こうを見ていた。白いフリルレースの掛かった窓の向こう。薄い灰色が徘徊する空を眺め、ぼんやりとする。コーヒーは思った以上に薄かった。
生きて行く上で人がなによりも大切にしがちなのは、当面の目標や目的を定めてしまうこと。万人に充てがうことのできる理論ではないが、沙羅は特にそれを嫌った。目標や目的を達してしまった後に訪れる空虚さを、意識することのできてしまう空虚を嫌っていた。
沙羅は自分の空っぽな中身を自覚していた。大切なモノを失い続けてきた人生。何もかもを喪っている訳でない事実が、余計にその空かし具合を克明にしていた。絵に描かれたチーズや昔ながらのスポンジのように、見た目には肉付きを残しつつも、内には確かな空白を伴っている。それが自分だった。
虚ろな目がテレビ画面を映した。指定暴力団の構成員が意識不明の重体。不意に右足の裏が疼いたのを感じた。足裏に残り続ける嫌な感触が身の毛を逆立てた。
薄味のコーヒーを口に流した直後、インターホンが来客の存在を報せた。
不恰好な歩みは玄関口へと迫るに連れてマシな様相を呈し始め、戸に手が掛かる頃にもなるとその所作は芝居がかった見栄えに変わっていた。「おはよう」
「おはようございます」黒い縁の大きな丸いレンズの眼鏡が先ず、目に付いた。隣の部屋の根室奏は初対面の際と変わらぬ朗らかな笑みを浮かべていた。「いま、少しいいですか?」
拒む理由は最初からなかった。その相手が奏であれば、尚のこと沙羅は拒もうとは思わなかった。「どうぞ」戸を開け切り、訪問者を歓迎する素振りを見せる。
「では」奏は遠慮する様子を見せることなく沙羅の横を抜けて行く。「お邪魔します」
絡みの程の酷かった心が、そっと解けた。
わあ。奏は笑顔を携えながらリビングへと進んだ。感嘆を吐くと、部屋を見渡して息を呑む。「素敵なお部屋ですね」
戸棚を開き、花柄のコーヒーカップを取り出しながら沙羅はなんの気もなしに告げる。「間取りは一緒でしょ」先よりもやや多めにインスタントコーヒーをカップに入れた。
「いやいや」ウォーターサーバーのお湯を注ぐ。「隣の芝は青く見えがちじゃないですか」なにそれ。カップを手渡しながらソファへと促す。
「おめざめテレビとか、見るんですね」奏がL字型に設置されているソファのテレビと向かい合っている方に腰を沈めたのを確認して後、沙羅は別の方へと腰を下ろす。「意外?」
はいっ。奏が輝いて見える大きな両目を向けてくる。「もっとこう、俗世間と隔たって生きてる方かと思っていました」
なにそれ。自然と笑みが溢れた。
可愛らしい子犬が画面に映し出されると、再びインターホンが鳴った。
怪訝な足取りが玄関口へと向かい、戸を開く。「どうかしたの?」
来訪者は澄ました表情を変えることなく、違わせている目を直すこともせずにただ一言、呟いた。「別に」
そう。沙羅は可笑しく思う気持ちを堪えながら扉を閉めにかかる。「あっ、ちょっと」来訪者の手が慌てて扉の縁を掴んでそれを阻止する。「入る?」
僅かな隙間から覗く来訪者の顔が分かりやすく紅潮した。「うん」
戸棚を開くと、カップに描かれた黒猫と目が合った。そっくり。沙羅は黒猫のカップに先と同じようにインスタントコーヒーを入れ、お湯を注いでリビングへと向かう。
先まで自分が座っていたソファに腰を埋め、やや俯き加減でいる清川瀬奈へカップを渡す。「どうぞ」やや躊躇を見せた瀬奈であったが、「ありがとう」と呟いてそれを受け取った。
ガラステーブルを起点に瀬奈とは向かい合う形で沙羅は毛の長い黒いカーペットの上に腰を下ろした。空かさずに聞こえてきた二人の遠慮を手で制した。「お客さんは黙ってもてなされてなさいな」
「イケ女」奏が言って、ひとりではしゃぐ。瀬奈は黙ったまま眉をひそめる。それが彼女なりの気遣いへの返事であることを、沙羅はもう承知していた。
「でも、意外ですね。いつの間にお二人は仲良しになったんです?」
テレビ画面に映し出される料理の調理工程を眺め見ていると、なんの気も感じさせない奏の声が降ってきた。
どうだろうね。沙羅は敢えてトボけたような目を瀬奈に向ける。
「仲良くなんて、ない……わけでもない、か」
珍しく歯切れの悪い返答を口にする瀬奈は救いを求めるような目でこちらを見てくる。「相棒だし」
ほう。またしても奏ははしゃぎの感嘆を漏らす。「相棒ですか」
うん。沙羅は相づちと共に瀬奈へ目配せする。「そ、そう」助け舟の存在に気付いた瀬奈は慌ててその船体へ飛び乗る。「一緒の任務に就いてるんだよ」
オリーブオイルを垂らして。テレビ画面では若手のイケメン俳優が口にした通りオリーブオイルを完成した料理の上に数滴垂らしている。色鮮やかなマリネが大映しになる。
「マリネ、美味しいですよね」
奏の興味は既に他へと移っていたようだった。
変に狼狽えてしまった事への気恥ずかしさからか、盛大に俯いて耳を真っ赤にする瀬奈の姿を、沙羅は腹を抱えて笑った。
*
樹津署の地下一階に設けられた特異犯罪対策課、通称特異課の刑事である田口光助の一日は、デスクの上に置かれた書類に目を通すところからスタートする。
変死体。死因は全身にわたる裂傷による失血死。添付してある遺体の様子が鮮明に収まる写真を目にした光助は、先ほど口にしたサンドウィッチが逆流してくる思いに苛まれる。
「よう。まだ慣れないのか? 情けない奴だな。そんなんじゃ特異課ではやってけないぞ」
先輩刑事の高藤は丸めたスポーツ紙で軽く光助の後頭部を叩きながら自身のデスクへと着く。アラフォーとは思えない若々しい外見とは裏腹に、その中身は完全な中年男性であるのがこの上司である。
「田口くんだってウチに来たのは先月ですし、無理もないですよ」
向かいのデスクからフォローを入れてくれるのはこの特異課で唯一の女性、牧瀬霖だった。二十五という年齢に反した童顔の持ち主である彼女の黒のレディスーツに身を包んだその姿は、実年齢を聞かされなければ就活生と見紛う程である。
後ろで一つに結った巻き髪が揺れたかと思うと、霖のくりっとした両目がこちらを向いた。「ねえ」
頑張ります。急に向けられてきたその目から逃れるように、光助の目は再び手元の書類へと移ろう。未だ収まる気配の見えなかった吐き気がぶり返してしまう。
「そういえばよ、あの魔術師協会の姉ちゃんは元気だったか?」
広げ見ているスポーツ紙から目を外さないまま、高藤は思い出したように声を張る。「えっ」光助が思わず訊き返すと、ようやくスポーツ紙をデスクの上に置いて高藤がこちらへ目を向けた。次いで、両手で半円を胸の前で作って見せてくる。「あの巨乳の」
最低。呟くような霖の声が漏れ聞こえる。
「元気そうでしたよ。高藤さんによろしくって言ってました」
そうか。どことなく嬉しそうな表情を浮かべると、高藤は再びスポーツ紙と睨み合う。「このグラドルよりも大きかったよな」
最低。再び漏れ聞こえてくる声に苦笑を返すと、光助は三度、書類へと目を落とす。すると、妙に気になる一文があった。『M1』による犯行の疑い大。
「高藤さん。M1ってなんですか?」
ああ。完全にスポーツ紙と化した高藤の面倒くさそうな声が応えた。「連中が指定した魔術師のことだろ」
あのね。高藤の返答がそこまでなのを感じ取った霖が笑顔でその補足をしてくれる。「指名手配犯みたいな扱いなの」そこまで告げると、デスクから身を乗り出しながら続ける。
「Mの後に続く数字は危険度のランクで、数字の値が低ければ低いほど危険とされてる。1って言うと、全国指名手配犯って感じ」
ああ。光助は敢えて大袈裟に唸ってみせた。「成る程ですね」
そこでようやく光助はある違和感を覚える。
「ここ一ヶ月の間、僕が見てきた資料にこうした表記があったのってこれが初めてですよね? 他にも魔術師絡みの事件はあった筈なのに」
「M1くらいに非常識な手法で殺されたガイシャ以外は軒並み普通の事件扱いなんだよ。何でもかんでも魔術師の連中の仕業にしてちゃ警察はお払い箱になっちまうからな」
再び光助は唸った。今度のは自然と出たものである。先に比べて小さかったのがお気に召さなかったのか、高藤の高説に熱がこもり出す。スポーツ紙が乱雑にデスクの上に投げ出されているのが何よりの証拠である。
「ウチの管轄で扱う事件の凡そ三割は魔術師絡みの事件だ。だからこそこの課が発足されたって訳だろう。だけどよ、実際の仕事は魔術師絡みの事件を連中に渡すだけの橋渡しも同然。にも関わらず、だ。俺たちには一丁前に捜査権がある。その理由が分かるか?」
今度は高藤の身がデスクに乗り上げてくる。対して霖の身は退いてみせる。「また始まった」
「上は魔術師の検挙を諦めてねえって訳だよ。お株を奪われ続けたんじゃ法治国家の名が廃るって思ってんだろう。だったらやってやろうじゃねえか。俺たちで魔術師を取っ捕まえて、司法の手によって裁いてみせようぜ。それが特異課の存在理由だっ」
光助は自分の身が震え出すのを感じる。高藤の言葉に素直に感銘を受けている自分を自覚する。熱くたぎる何かが冷めぬ内に、と書類と向き合う。
うっ。付け焼き刃の浮かされただけの決意は、早くも凄惨な裏世界の様相によって挫かれてしまった。
痩身を不器用に動かしながらベッドから降りる。冷たいフローリングの感触が妙に優しく沙羅の足を迎え入れる。覚束なさはいただけないにしろ、不自由には至らない。幾らか胸を軽快にして通る清々しさが一躍をかっていた。
慣れないな。誰に見られることもない自室で羞恥の笑みを携えたのは、久方ぶりだった。
寝室を出てすぐにキッチンに備えられた食器棚へと向かう。両開きの片方を開けて手近なコーヒーカップを手に取ってから閉め切る。白い無地の陶器だった。
帰りの際に買っておいたインスタントコーヒーの瓶を開ける。金紙の封を指で開け、乱雑に穴を広げる。中身をカップに入れられるのであればそれ以上の拘りなどは無い。それだけで充分である。
ウォーターサーバーのお湯をカップに注いで軽くカップを回しながらリビングのソファへと向かう。ガラステーブルにカップを置くと、崩れるように腰からソファへと落ちる。これには慎重を期さなかった事への後悔を覚えた。
リモンコンでテレビの電源を入れる。独り心地は嫌いでないが、無音の静寂は嫌いだった。
朝の情報番組は特に代わり映えのない内容を今朝も続けていた。どこかで起きた他人事の上っ面のみを報じ、次の瞬間には大して興味も湧かない企画へと移ろう。今日の占い。今日いち番のラッキーな星座は獅子座のあなた。
沙羅の目はいつの間にかテレビ画面の向こうを見ていた。白いフリルレースの掛かった窓の向こう。薄い灰色が徘徊する空を眺め、ぼんやりとする。コーヒーは思った以上に薄かった。
生きて行く上で人がなによりも大切にしがちなのは、当面の目標や目的を定めてしまうこと。万人に充てがうことのできる理論ではないが、沙羅は特にそれを嫌った。目標や目的を達してしまった後に訪れる空虚さを、意識することのできてしまう空虚を嫌っていた。
沙羅は自分の空っぽな中身を自覚していた。大切なモノを失い続けてきた人生。何もかもを喪っている訳でない事実が、余計にその空かし具合を克明にしていた。絵に描かれたチーズや昔ながらのスポンジのように、見た目には肉付きを残しつつも、内には確かな空白を伴っている。それが自分だった。
虚ろな目がテレビ画面を映した。指定暴力団の構成員が意識不明の重体。不意に右足の裏が疼いたのを感じた。足裏に残り続ける嫌な感触が身の毛を逆立てた。
薄味のコーヒーを口に流した直後、インターホンが来客の存在を報せた。
不恰好な歩みは玄関口へと迫るに連れてマシな様相を呈し始め、戸に手が掛かる頃にもなるとその所作は芝居がかった見栄えに変わっていた。「おはよう」
「おはようございます」黒い縁の大きな丸いレンズの眼鏡が先ず、目に付いた。隣の部屋の根室奏は初対面の際と変わらぬ朗らかな笑みを浮かべていた。「いま、少しいいですか?」
拒む理由は最初からなかった。その相手が奏であれば、尚のこと沙羅は拒もうとは思わなかった。「どうぞ」戸を開け切り、訪問者を歓迎する素振りを見せる。
「では」奏は遠慮する様子を見せることなく沙羅の横を抜けて行く。「お邪魔します」
絡みの程の酷かった心が、そっと解けた。
わあ。奏は笑顔を携えながらリビングへと進んだ。感嘆を吐くと、部屋を見渡して息を呑む。「素敵なお部屋ですね」
戸棚を開き、花柄のコーヒーカップを取り出しながら沙羅はなんの気もなしに告げる。「間取りは一緒でしょ」先よりもやや多めにインスタントコーヒーをカップに入れた。
「いやいや」ウォーターサーバーのお湯を注ぐ。「隣の芝は青く見えがちじゃないですか」なにそれ。カップを手渡しながらソファへと促す。
「おめざめテレビとか、見るんですね」奏がL字型に設置されているソファのテレビと向かい合っている方に腰を沈めたのを確認して後、沙羅は別の方へと腰を下ろす。「意外?」
はいっ。奏が輝いて見える大きな両目を向けてくる。「もっとこう、俗世間と隔たって生きてる方かと思っていました」
なにそれ。自然と笑みが溢れた。
可愛らしい子犬が画面に映し出されると、再びインターホンが鳴った。
怪訝な足取りが玄関口へと向かい、戸を開く。「どうかしたの?」
来訪者は澄ました表情を変えることなく、違わせている目を直すこともせずにただ一言、呟いた。「別に」
そう。沙羅は可笑しく思う気持ちを堪えながら扉を閉めにかかる。「あっ、ちょっと」来訪者の手が慌てて扉の縁を掴んでそれを阻止する。「入る?」
僅かな隙間から覗く来訪者の顔が分かりやすく紅潮した。「うん」
戸棚を開くと、カップに描かれた黒猫と目が合った。そっくり。沙羅は黒猫のカップに先と同じようにインスタントコーヒーを入れ、お湯を注いでリビングへと向かう。
先まで自分が座っていたソファに腰を埋め、やや俯き加減でいる清川瀬奈へカップを渡す。「どうぞ」やや躊躇を見せた瀬奈であったが、「ありがとう」と呟いてそれを受け取った。
ガラステーブルを起点に瀬奈とは向かい合う形で沙羅は毛の長い黒いカーペットの上に腰を下ろした。空かさずに聞こえてきた二人の遠慮を手で制した。「お客さんは黙ってもてなされてなさいな」
「イケ女」奏が言って、ひとりではしゃぐ。瀬奈は黙ったまま眉をひそめる。それが彼女なりの気遣いへの返事であることを、沙羅はもう承知していた。
「でも、意外ですね。いつの間にお二人は仲良しになったんです?」
テレビ画面に映し出される料理の調理工程を眺め見ていると、なんの気も感じさせない奏の声が降ってきた。
どうだろうね。沙羅は敢えてトボけたような目を瀬奈に向ける。
「仲良くなんて、ない……わけでもない、か」
珍しく歯切れの悪い返答を口にする瀬奈は救いを求めるような目でこちらを見てくる。「相棒だし」
ほう。またしても奏ははしゃぎの感嘆を漏らす。「相棒ですか」
うん。沙羅は相づちと共に瀬奈へ目配せする。「そ、そう」助け舟の存在に気付いた瀬奈は慌ててその船体へ飛び乗る。「一緒の任務に就いてるんだよ」
オリーブオイルを垂らして。テレビ画面では若手のイケメン俳優が口にした通りオリーブオイルを完成した料理の上に数滴垂らしている。色鮮やかなマリネが大映しになる。
「マリネ、美味しいですよね」
奏の興味は既に他へと移っていたようだった。
変に狼狽えてしまった事への気恥ずかしさからか、盛大に俯いて耳を真っ赤にする瀬奈の姿を、沙羅は腹を抱えて笑った。
*
樹津署の地下一階に設けられた特異犯罪対策課、通称特異課の刑事である田口光助の一日は、デスクの上に置かれた書類に目を通すところからスタートする。
変死体。死因は全身にわたる裂傷による失血死。添付してある遺体の様子が鮮明に収まる写真を目にした光助は、先ほど口にしたサンドウィッチが逆流してくる思いに苛まれる。
「よう。まだ慣れないのか? 情けない奴だな。そんなんじゃ特異課ではやってけないぞ」
先輩刑事の高藤は丸めたスポーツ紙で軽く光助の後頭部を叩きながら自身のデスクへと着く。アラフォーとは思えない若々しい外見とは裏腹に、その中身は完全な中年男性であるのがこの上司である。
「田口くんだってウチに来たのは先月ですし、無理もないですよ」
向かいのデスクからフォローを入れてくれるのはこの特異課で唯一の女性、牧瀬霖だった。二十五という年齢に反した童顔の持ち主である彼女の黒のレディスーツに身を包んだその姿は、実年齢を聞かされなければ就活生と見紛う程である。
後ろで一つに結った巻き髪が揺れたかと思うと、霖のくりっとした両目がこちらを向いた。「ねえ」
頑張ります。急に向けられてきたその目から逃れるように、光助の目は再び手元の書類へと移ろう。未だ収まる気配の見えなかった吐き気がぶり返してしまう。
「そういえばよ、あの魔術師協会の姉ちゃんは元気だったか?」
広げ見ているスポーツ紙から目を外さないまま、高藤は思い出したように声を張る。「えっ」光助が思わず訊き返すと、ようやくスポーツ紙をデスクの上に置いて高藤がこちらへ目を向けた。次いで、両手で半円を胸の前で作って見せてくる。「あの巨乳の」
最低。呟くような霖の声が漏れ聞こえる。
「元気そうでしたよ。高藤さんによろしくって言ってました」
そうか。どことなく嬉しそうな表情を浮かべると、高藤は再びスポーツ紙と睨み合う。「このグラドルよりも大きかったよな」
最低。再び漏れ聞こえてくる声に苦笑を返すと、光助は三度、書類へと目を落とす。すると、妙に気になる一文があった。『M1』による犯行の疑い大。
「高藤さん。M1ってなんですか?」
ああ。完全にスポーツ紙と化した高藤の面倒くさそうな声が応えた。「連中が指定した魔術師のことだろ」
あのね。高藤の返答がそこまでなのを感じ取った霖が笑顔でその補足をしてくれる。「指名手配犯みたいな扱いなの」そこまで告げると、デスクから身を乗り出しながら続ける。
「Mの後に続く数字は危険度のランクで、数字の値が低ければ低いほど危険とされてる。1って言うと、全国指名手配犯って感じ」
ああ。光助は敢えて大袈裟に唸ってみせた。「成る程ですね」
そこでようやく光助はある違和感を覚える。
「ここ一ヶ月の間、僕が見てきた資料にこうした表記があったのってこれが初めてですよね? 他にも魔術師絡みの事件はあった筈なのに」
「M1くらいに非常識な手法で殺されたガイシャ以外は軒並み普通の事件扱いなんだよ。何でもかんでも魔術師の連中の仕業にしてちゃ警察はお払い箱になっちまうからな」
再び光助は唸った。今度のは自然と出たものである。先に比べて小さかったのがお気に召さなかったのか、高藤の高説に熱がこもり出す。スポーツ紙が乱雑にデスクの上に投げ出されているのが何よりの証拠である。
「ウチの管轄で扱う事件の凡そ三割は魔術師絡みの事件だ。だからこそこの課が発足されたって訳だろう。だけどよ、実際の仕事は魔術師絡みの事件を連中に渡すだけの橋渡しも同然。にも関わらず、だ。俺たちには一丁前に捜査権がある。その理由が分かるか?」
今度は高藤の身がデスクに乗り上げてくる。対して霖の身は退いてみせる。「また始まった」
「上は魔術師の検挙を諦めてねえって訳だよ。お株を奪われ続けたんじゃ法治国家の名が廃るって思ってんだろう。だったらやってやろうじゃねえか。俺たちで魔術師を取っ捕まえて、司法の手によって裁いてみせようぜ。それが特異課の存在理由だっ」
光助は自分の身が震え出すのを感じる。高藤の言葉に素直に感銘を受けている自分を自覚する。熱くたぎる何かが冷めぬ内に、と書類と向き合う。
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