指導係は捕食者でした

でみず

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 翌日の仕事を終え、やはり残業らしい残業もなく、一緒に会社を出る形になった。夕闇が沈むオフィス街を出ると、獅堂さんは「ついてこい」とだけ言い、先導して歩き出す。スーツ姿で並んで歩くと、僕はやっぱり緊張し、彼の大きな背中を一歩後ろから追いかける形になる。
 少し離れて眺めてみると、彼の肩幅の広さや足取りの力強さが際立つ。僕が隣に並ぶと、どうしても気圧されてしまうのだ。どこか高級感のある居酒屋が立ち並ぶ路地を曲がり、看板の明かりが細く伸びている場所に入っていく。そこは一見して洒落たビストロのようにも見えるが、外観は落ち着いた雰囲気だった。
 ドアを開けると、やや薄暗いムーディな照明が店内を包んでおり、木の温もりが感じられる内装だった。壁にはシンプルなアートが飾られ、オレンジ色の間接照明がテーブルを照らしている。男性スタッフが笑顔で案内し、四人掛けのテーブル席へ。まばらに客がいて、小さく話し声や食器の触れ合う音がする。煩くはなく、静かすぎもしない、ほどよい空気感。僕はこんな店には滅多に来ない。よくて安いチェーン店がせいぜいだ。こんな場所で一体何を話せばいいのかと困惑する。
 彼は店員と最低限の会話を済ませ、メニューをちらりと見て、

「肉料理がうまいらしい」

 と僕に伝える。もともと食欲がない僕は、だけど相手に合わせないといけないと思い、小さくうなずく。それから、前菜やサラダ、メインのステーキなどをオーダーしてくれた。ワインやビールなど、アルコールはどうするかと尋ねられ、僕はどんな顔をして答えればいいのかわからず、結局、

「少しだけなら、いただきます……」

 とだけ言う。そうして白ワインが一杯ずつ運ばれ、軽く乾杯をする。なんともぎこちない食事の始まりだった。
 初めのうちは、会話は決して弾まなかった。仕事の話がぽつりぽつりと出るだけで、彼も口数は少ない。でも、その沈黙の時間が重苦しいかといえば、意外とそうでもなかった。お互い無理に話題を探すことをしないまま、ちびちびとワインを口に運び、やがて運ばれてくる料理を楽しむ。
 ステーキの香ばしい匂いとバター醤油のソースが食欲を刺激し、気づくと僕の胃痛は少し落ち着いてきていた。余裕が出ると、少し店内を見回すことができる。壁の色は深い緑に近く、そこにセピア色の絵画がさりげなくかかっている。キャンドルが乗せられたテーブルもある。この空間には、「大人の隠れ家」と言われるような落ち着きと静けさがあった。
 あちらこちら眺めていると、ふいに獅堂さんが、

「どうだ、美味いか」

 と尋ねてきた。口調こそ淡々としていたが、どこか普段より柔らかい。
 僕は少し戸惑いつつも、

「ええ、すごく。こういうお店にあまり来たことがなくて」

 と正直に答える。
 すると、彼は

「ああ、そうか」

 と短く返し、それ以上無理に話題を広げようとはしなかった。でも、なぜだろう、僕はその配慮にほっとしていた。無理に会話を盛り上げるためのからかいや、冷やかしもない。こちらの無口さを非難しない。静かなペースを尊重してくれる。
 次第に白ワインの酔いが回ってきたのか、いつもより心が少し軽くなる。先輩への恐れはもちろん消えないが、やや視界が柔らかい光に包まれる感じがして、僕はおずおずと口を開いた。

「……あの、ありがとうございます。こういうお店に誘ってくれて……。お肉も、美味しいですね」
「そうか。よかった」

 わずかに表情をほころばせた彼の横顔は、会社で見せる無機質な顔とは違っていた。照明の灯りを受け、輪郭が優しく見える。普段はあまり感じなかったが、彼の睫毛は案外長い。茶褐色の瞳は、鋭いながらもガラス細工のような透明感がある。どこか、その人間味に惹かれてしまう部分があるのかもしれない。怖いだけではない、きっと何か別の面があるのだろう。
 そんな静かな時間が流れ、食事はつつがなく終わった。僕の中にはまだ緊張が名残のように残っていたが、思っていたよりも気まずい時間にはならなかった。さりげなく支払いを済ませてくれた彼に、

「プライベートなんですから、自分の分は払います」

 と言いかけたら、

「こんなときくらいは、俺に格好をつけさせろ」

 と軽く遮られる。そうして、店を出たときはすでに時刻は九時を回っていたが、まだ夜風は少し生温かい初夏の気候。大通りから少し外れた、マンションとオフィスビルが混在する街灯の並ぶ道を二人で歩く。どこか緩やかな沈黙が続く中、僕は何を話せばいいかわからないまま、アスファルトに目を落としていた。

「……タクシーを呼ぶか」

 彼が言う。そこにはいつものような圧迫感はなく、自然と出た提案のように聞こえる。僕は小さく首を振った。

「大丈夫です。電車がまだあるので……」
「そうか」
「ええ、お気遣いありがとうございます……」

 それから五分ほど歩いたところで、駅へと続く大通りに出る。そこには人通りも多く、ネオンや街灯で辺りは明るい。彼と並ぶと、どうしても目立つのではと思ってしまう。人目を恐れているのは、臆病な自分の性質ゆえだろう。そう思っていた矢先、ふっと彼が足を止めた。僕もそれに合わせて止まる。

「今日はありがとうな。突然誘ってすまない」
「いえ……その、こちらこそ……」

 何を言いたいのか、よくわからない。噛み合わないまま視線を交わす。心臓がどくん、とまた高鳴る。彼は言葉を探しているように見えたが、やがて唇をうっすらと引き結び、小さな声で言った。

「こうして少しずつ、お前のいろんな面を知りたいと思ってる。無理をさせるつもりはない。今はそれだけだ」
「……あ、はい……」

 彼は軽く頭を下げ、手を振って去っていった。背中が遠ざかっていく姿を見て、僕はなぜかぼんやりとした孤独感を覚えた。怖いはずなのに、なぜだろう。胸に妙な空虚感が広がる。今夜の食事は、悪くなかった。こうして少しずつ会っていくうちに、何かが変わるのかもしれない。もっと恐ろしい方向に転がるのか。それとも……。
 ――こうして、僕と獅堂さんの“個人的な時間”は、週に一度や二度のペースで続くようになった。時には彼のリクエストでスポーツバーに行き、時には仕事終わりに喫茶店でお茶をしたり、週末に彼が運転する車で郊外のアウトレットに出かけたり。僕は終始落ち着かず、相手の好意をどう受け止めればいいかわからないまま、されるがままに誘いに応じていた。
 会社では教育係と部下という立場を守り、外では人目を憚るでもなく、ごく普通に過ごす。少なくとも、彼の方から積極的にボディタッチをしてくるようなことはなかったし、強引に迫られることもなかった。
 けれども、だ。その視線の奥には常に獲物を狙う肉食獣の鋭さを感じる。いつかきっと、僕を仕留めようとしているに違いない。でも、いまはそうして一歩引いて、僕に安心感を与えているんだろう。
 僕はそんな微妙な関係を続けながらも、だんだん彼と話すことに緊張しなくなっている自分を発見した。仕事以外にも、彼が少し不器用な言葉で雑談をしてくれたりする。たとえば学生時代の部活のことを聞かれたり、休日は何をしているかとか、最近読んだ本の話とか。
 どれもあたりさわりのない話題だけど、彼に向かって話すときの僕は、会社の中で見る“強面の先輩”だけではない別の獅堂さんを見ている。オフの日の私服は、シンプルなシャツにジャケットを羽織っていることが多く、仕事中のスーツとはまた違った印象を与えてくれる。やや襟元が開いたときに見える、鎖骨から首筋にかけてのラインが男らしく、筋肉のつき方も分厚い。そうして美しいとも言える外見に、時折ドキッとしてしまう自分がいるのを否定できなくなってきた。
 ある週末、二人で出かけた先は、郊外の植物園だった。彼が、

「外を散歩するのも悪くない。お前は都会の人混みを苦手そうにしてるから、自然の多いところに行かないか」

 と提案してくれたのだ。最初は乗り気じゃなかったけれど、行ってみると、敷地は広く、きれいに整備された花壇が並び、季節の花々が咲き誇っていた。朝のうちは雲があったが、昼近くになると青空が広がり、日差しが柔らかく降り注ぐ。散策路の脇にはベンチがあり、噴水の音が涼やかに響いている。僕は空気の美味しさに思わず深呼吸をした。日頃の会社生活とはまるで別世界だ。
 ゆっくり歩く僕の隣で、彼はいつも通り寡黙だったが、適宜木の名前や花の種類を教えてくれる。あまり知られていない蘭の品種や、葉の形が面白い珍種の話など、必要最低限の言葉ながらも興味深い説明をしてくれる。いつからそんな知識を身につけているんだろう。仕事一筋に見えるけれど、意外と多方面に興味があるのかもしれない。無口だけど、僕の体力を気遣ってペースを合わせてくれているらしいこともわかる。時折、その優しさを感じると、胸のあたりがちょっとだけ温かくなる。
 少し歩き疲れた僕たちは、園内の休憩所にあるカフェテラスで飲み物を注文した。そこはテラス席が開放的で、パラソルの下に白い椅子とテーブルが並んでいる。周囲には観光客や家族連れが数組いるだけで、静かに木々がざわめき、耳を澄ますと小鳥のさえずりも聞こえた。さっきまでは小腹が空いていたが、彼がホットコーヒーを選ぶのに合わせ、僕もそれを頼む。砂糖もミルクも入れず、そのままの香りを楽しんでみる。今までは苦手だったけれど、こうして自然の中で一息つくと、心がやわらいでいるせいか、ほんのりとした苦味も悪くないと感じた。

「いい場所です。誘ってくれて、ありがとうございます」 

 素直な気持ちが言葉になって口をついた。すると彼は少し目を細め、「ああ」と応じる。その顔は穏やかだ。まるで、会社で見せるどこか硬質な雰囲気が嘘みたいに。
 この人は、仕事の鎧を脱いだ状態だと、こういう表情を見せるのかもしれない――そう思うと、不意に胸がどきりと跳ねた。
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