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第十四章 密室の誘惑
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第十四章 密室の誘惑
第一話
放課後の保健室には、まだ夕日の色が差し込んでいた。
誰もいないはずの部屋に、ふと、ノックの音が響く。
「失礼します……」
静かに扉が開き、白鷺ユリがすべりこむように入ってくる。
制服の第一ボタンは開かれ、艶やかな鎖骨が白衣の光沢に反射する。
扉が閉まる音がやけに静かだった。
「白鷺さん、どうかしたの?」
中にいたのは、保健室の先生――花園 芙美子(はなぞの ふみこ)。
穏やかで美人なことで有名な教師だった。
控えめな口紅、品のある眼鏡、清潔感のある白衣。
「……少し、熱っぽくて。朝から、なんだかふらふらしてて……」
ユリの声は、囁くように柔らかい。
どこか熱を帯びたその声音に、花園先生は小さく首をかしげた。
「体温測ろうか。ベッドに横になって」
ユリは先生の手を取り、自分でベッドへ導く。
その手が、なぜか離されない。
「先生、手……冷たいね」
「え……ごめんなさい、ちょっとクーラーが効きすぎてるのかしら」
ユリは笑って、そっと指を絡める。
まるで、恋人に触れるように。
「……先生の指、綺麗。細くて、柔らかくて……」
不意に距離が近づいた。
ユリの顔が、花園の耳元に寄る。囁く吐息が、鼓膜をくすぐった。
「ねえ……先生は、好きになったことある? 女の子を」
一瞬で、保健室の空気が変わった。
湿った密室の熱が、まとわりつくように絡みつく。
「……え? な、にを――」
花園は咄嗟に顔を背けるが、ユリの手が首筋に添えられていた。
まるで獲物を愛でるように、柔らかく、しかし逃がさぬ強さで。
「だいじょうぶ。変じゃない。欲しいと思うのは自然なこと。先生もそう――でしょ?」
白衣の裾に触れたユリの指が、ほんのわずかにすべり上がる。
「……!」
花園の喉が小さく震えた。言葉にならない戸惑いが瞳に浮かぶ。
ユリは、耳元で甘く微笑んだ。
「わたしね、先生みたいな人が……いちばん、おいしそうに見えるの」
その瞬間、花園はぞっとして身を引いた。
だが、ユリの微笑みは崩れない。
完全に掌握している自信――あるいは、恐ろしいほど冷たい計算がその笑みに滲んでいた。
「ごめんね、ちょっとからかっちゃった。……でも、先生ってホント綺麗」
軽やかに立ち上がったユリは、何事もなかったかのように体温計を置き、保健室を出ていった。
残された花園先生は、頬に浮かんだ火照りが“羞恥”か“恐怖”か、自分でも分からなかった。
扉の外、薄暗い廊下の先で、ユリはタブレットを手に笑みを浮かべた。
画面には、花園 芙美子/AB型の文字が、血のような赤で表示されていた。
第二話
帰宅してからというもの、花園の胸はざわついていた。
台所に立ち、手際よく夕食の支度をしながらも、ふとした瞬間に思い出してしまう。——あの少女のことを。
(白鷺ユリ……)
放課後、誰もいない保健室に訪ねてきた彼女。
整った顔立ち、艶やかな髪、透き通るような白い肌。——女子生徒であることを忘れそうになるほど、彼女は"女"だった。
「先生って、肌きれいですよね。私、女の人のそういうとこ憧れちゃう」
そんな他愛のない一言すら、花園には異様に生々しく響いていた。
(どうしてあんな目で……)
思い出すだけで、喉の奥が渇く。
「ただいまー」
夫の声が玄関に響いた。
(……いけない)
慌ててエプロンで手を拭きながら「おかえり」と微笑んでみせる。けれど、自分でもわかる。どこかぎこちない。
リビングで夕飯を囲みながら、夫がちらりとこちらを見た。
「……どうした? なんか今日、様子おかしくない?」
「え? そうかな? 疲れてるだけよ」
(違う。そうじゃない。私は……)
否定しながらも、胸の奥では気づいていた。
この体の奥が、火照っている。
熱い。
奥のほうがじんじんする。
(何これ……)
花園は、これまで自分が女性に惹かれたことなど一度もなかった。
夫とも、最近はあまり肌を触れ合うこともなかったけれど、だからといって寂しさを感じたこともない。
むしろ性欲には淡泊で、夫に求められても「疲れてるから」と断ることが多かった。
でも——
(どうして……)
ユリのあの指先が、髪をかきあげた仕草が、息を落とした瞬間の唇が——
頭から離れない。
忘れられない。
「ごめん、ちょっと横になるわ」
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
言ってベッドに入ったものの、眠れなかった。
カーテンの隙間から差し込む街灯の灯りが、白い天井をぼんやりと照らしていた。
瞼を閉じても、あの瞳が浮かぶ。
手を伸ばせば、あの体温に触れてしまいそうな気さえする。
(どうしちゃったんだろう、私……)
心は混乱し、体は熱をもてあましたまま——
花園は朝を迎えることとなった。
第三話
休日の午後。
花園芙美子はいつも通り、静かな時間を一人過ごしていた。
家は閑静な住宅街の一角にあり、夫は今日も職場──高級外車のディーラー──へ出勤していた。すれ違いの生活が日常となってから、もう何年も経つ。子供はおらず、会話も少なくなった。
洗い物を終え、ふと時計を見る。
日が傾き始めたころ、玄関のチャイムが鳴った。
──ピンポーン。
インターホン越しにモニターを見ると、制服姿の少女が映っていた。
白鷺ユリ。美しく整った顔立ちと、不釣り合いなほど落ち着いた表情。
なぜか、画面越しのその目が芙美子を射抜いているように思えた。
気がつけば、芙美子は玄関を開けていた。
「お邪魔します、先生」
まるでこの家をよく知っているかのように、ユリはすっと玄関を上がり、リビングへと進む。
「……急にどうしたの?学校のことで何か?」
芙美子の声は少しだけ上ずっていた。
学校の生徒を家にあげることなど、本来はあってはならない。それでも、ユリの雰囲気に抗えなかった。どこか夢を見ているような感覚。
ユリは微笑みながら、言った。
「先生にお願いがあって来たんです」
「お願い……?」
「AB型の生徒たちを集めていただきたいんです。定期的に、私に“提供”してほしいの」
何気ない声で、まるで給食の牛乳でも頼むように言った。
「……え?」
芙美子は聞き間違えたかと思った。
「何を言って……提供って、なにを……?」
声が震えた。
「血液です。先生が呼び出してくだされば、入れ替わりの手引きが簡単になる」
ユリの言葉は、どこか機械的で、それでいて艶めいていた。
「ちょっと待って、あなた、何を……冗談よね?」
「いいえ」
ユリは机の上にあったマグカップを指先でなぞった。
その仕草一つで、芙美子の心拍は一段と早まった。
「その前に、先生には私の“僕”になってもらいます」
ユリが立ち上がり、芙美子に近づく。
身体が強張る──だが、動けない。
「なに……して……」
足がすくむ。頭が重い。けれど指先がじんじんと熱を帯び、呼吸が浅くなる。
金縛り。だが、物理的なそれではない。
ユリが顔を近づけてきた。
瞳が、異様に深い。
覗き込んではいけない──
けれど、目を逸らせない。
芙美子の脳裏に、言いようのない“快感”が滑り込んできた。
触れられていないはずなのに、指先から、肌の奥まで、何かがじわじわと入り込んでくる。
(どうして……こんな……)
心を焦がすような熱が、理性の防壁をひとつずつ崩していく。
夫にすら感じたことのない、奇妙な熱。
思考が霞み、ユリの輪郭だけがくっきりと浮かぶ。
気がつけば、ユリの唇が目前にあった。
触れることのない距離で、笑っている。
「先生は、今日から私の“鍵”ですよ」
最後に聞こえたその言葉が、どこか鋭く胸に突き刺さった。
ユリが去ったあと。
芙美子はしばらく、ソファから動けなかった。
汗ばんだシャツの感触。乾いた唇。荒くなった呼吸。
ただ“なにもしていない”はずなのに、身体は確かに反応していた。
熱い。震える。震えているのは、果たして恐怖か、陶酔か。
──その晩、芙美子は一なかなか寝付けなかった。
第四話
時計の針は午前2時を回っていた。
窓の外には風もなく、月明かりだけがやけに冴えている。
花園芙美子は眠れなかった。
あの午後の“訪問”の記憶が、頭の奥でじわじわと疼いていた。
ユリの眼差し。指先の残像。口づけの余韻。
(夢……だったのかもしれない)
何度も自分にそう言い聞かせながら、寝室の天井を見つめていた。
そのとき――。
「……コツ、コツ、コツ……」
遠く、廊下の奥から微かな音が響いてきた。
誰かの裸足の足音のようだった。
(夫?トイレにでも……)
だが、隣で寝息を立てている夫は微動だにしていない。
──また、足音。
今度は、もっと近い。
布団の上に固くなった身体が凍りつく。
「……誰かいるの……?」
そう声を出そうとしたが、喉から音が出なかった。
冷たい何かが、寝室の空気に混じっていた。
キィィ……
寝室のドアが、ほんの少しだけ開いた。
そこに立っていたのは、自分だった。
月光に照らされた“それ”は、確かに芙美子の顔をしていた。
だが、その目は真っ暗で、まるで光を吸い込む穴のようだった。
表情は無表情。口は閉じられたまま。
(声を出さない──ドッペルゲンガー……!?)
ようやく思考が追いついた頃には、“それ”はもう枕元に立っていた。
逃げる間もなく、のしかかってくる。
手には鋭い裁ちばさみ。保健室で使っていたやつにそっくりだった。
(夫を起こさなきゃ……だめ……)
手を伸ばす。声を出そうとする。だが、出ない。
そして、刃が――静かに、何度も振り下ろされた。
シーツが、夜の闇に滲むように染まっていく。
朝。
陽光が差し込む寝室。
夫・花園宏は目覚ましの音で目を覚ました。
「ふみこー、起きてるかー?」
「ええ、起きてるわよ。コーヒー淹れたから」
キッチンから声が返ってくる。
宏はベッドを抜け出し、着替えてキッチンに向かった。
「おはよう。あれ、ずいぶん早起きじゃん」
「うふふ。今日はなんだかスッキリしてるの」
エプロン姿の芙美子が笑った。
以前より少しだけ口元が固い気もしたが、宏は気に留めなかった。
「じゃあ、行ってくるよ。夜はちょっと遅くなるかも」
「ええ、気をつけてね」
そう言って、芙美子はにっこりと微笑んだ。
玄関の扉が閉まる。
宏が去ったあとの家には、しんとした静寂が戻ってくる。
ダイニングの奥、洗濯室。
そこでは、洗濯機が低い唸り声を立てて回っていた。
ガタン、ガタン――と不規則な音。
中で何か重たいものが絡まっているようだ。
その中には、深紅に染まった布団のシーツが、
白い泡の中でぐるぐると、絡まり合いながら回っていた。
乾いた血がにじみ出し、淡いピンク色の渦を描いていた。
その前で、芙美子は無表情で洗濯機を見つめていた。
目の奥――
ほんの少しだけ、闇がゆらいだ。
第一話
放課後の保健室には、まだ夕日の色が差し込んでいた。
誰もいないはずの部屋に、ふと、ノックの音が響く。
「失礼します……」
静かに扉が開き、白鷺ユリがすべりこむように入ってくる。
制服の第一ボタンは開かれ、艶やかな鎖骨が白衣の光沢に反射する。
扉が閉まる音がやけに静かだった。
「白鷺さん、どうかしたの?」
中にいたのは、保健室の先生――花園 芙美子(はなぞの ふみこ)。
穏やかで美人なことで有名な教師だった。
控えめな口紅、品のある眼鏡、清潔感のある白衣。
「……少し、熱っぽくて。朝から、なんだかふらふらしてて……」
ユリの声は、囁くように柔らかい。
どこか熱を帯びたその声音に、花園先生は小さく首をかしげた。
「体温測ろうか。ベッドに横になって」
ユリは先生の手を取り、自分でベッドへ導く。
その手が、なぜか離されない。
「先生、手……冷たいね」
「え……ごめんなさい、ちょっとクーラーが効きすぎてるのかしら」
ユリは笑って、そっと指を絡める。
まるで、恋人に触れるように。
「……先生の指、綺麗。細くて、柔らかくて……」
不意に距離が近づいた。
ユリの顔が、花園の耳元に寄る。囁く吐息が、鼓膜をくすぐった。
「ねえ……先生は、好きになったことある? 女の子を」
一瞬で、保健室の空気が変わった。
湿った密室の熱が、まとわりつくように絡みつく。
「……え? な、にを――」
花園は咄嗟に顔を背けるが、ユリの手が首筋に添えられていた。
まるで獲物を愛でるように、柔らかく、しかし逃がさぬ強さで。
「だいじょうぶ。変じゃない。欲しいと思うのは自然なこと。先生もそう――でしょ?」
白衣の裾に触れたユリの指が、ほんのわずかにすべり上がる。
「……!」
花園の喉が小さく震えた。言葉にならない戸惑いが瞳に浮かぶ。
ユリは、耳元で甘く微笑んだ。
「わたしね、先生みたいな人が……いちばん、おいしそうに見えるの」
その瞬間、花園はぞっとして身を引いた。
だが、ユリの微笑みは崩れない。
完全に掌握している自信――あるいは、恐ろしいほど冷たい計算がその笑みに滲んでいた。
「ごめんね、ちょっとからかっちゃった。……でも、先生ってホント綺麗」
軽やかに立ち上がったユリは、何事もなかったかのように体温計を置き、保健室を出ていった。
残された花園先生は、頬に浮かんだ火照りが“羞恥”か“恐怖”か、自分でも分からなかった。
扉の外、薄暗い廊下の先で、ユリはタブレットを手に笑みを浮かべた。
画面には、花園 芙美子/AB型の文字が、血のような赤で表示されていた。
第二話
帰宅してからというもの、花園の胸はざわついていた。
台所に立ち、手際よく夕食の支度をしながらも、ふとした瞬間に思い出してしまう。——あの少女のことを。
(白鷺ユリ……)
放課後、誰もいない保健室に訪ねてきた彼女。
整った顔立ち、艶やかな髪、透き通るような白い肌。——女子生徒であることを忘れそうになるほど、彼女は"女"だった。
「先生って、肌きれいですよね。私、女の人のそういうとこ憧れちゃう」
そんな他愛のない一言すら、花園には異様に生々しく響いていた。
(どうしてあんな目で……)
思い出すだけで、喉の奥が渇く。
「ただいまー」
夫の声が玄関に響いた。
(……いけない)
慌ててエプロンで手を拭きながら「おかえり」と微笑んでみせる。けれど、自分でもわかる。どこかぎこちない。
リビングで夕飯を囲みながら、夫がちらりとこちらを見た。
「……どうした? なんか今日、様子おかしくない?」
「え? そうかな? 疲れてるだけよ」
(違う。そうじゃない。私は……)
否定しながらも、胸の奥では気づいていた。
この体の奥が、火照っている。
熱い。
奥のほうがじんじんする。
(何これ……)
花園は、これまで自分が女性に惹かれたことなど一度もなかった。
夫とも、最近はあまり肌を触れ合うこともなかったけれど、だからといって寂しさを感じたこともない。
むしろ性欲には淡泊で、夫に求められても「疲れてるから」と断ることが多かった。
でも——
(どうして……)
ユリのあの指先が、髪をかきあげた仕草が、息を落とした瞬間の唇が——
頭から離れない。
忘れられない。
「ごめん、ちょっと横になるわ」
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
言ってベッドに入ったものの、眠れなかった。
カーテンの隙間から差し込む街灯の灯りが、白い天井をぼんやりと照らしていた。
瞼を閉じても、あの瞳が浮かぶ。
手を伸ばせば、あの体温に触れてしまいそうな気さえする。
(どうしちゃったんだろう、私……)
心は混乱し、体は熱をもてあましたまま——
花園は朝を迎えることとなった。
第三話
休日の午後。
花園芙美子はいつも通り、静かな時間を一人過ごしていた。
家は閑静な住宅街の一角にあり、夫は今日も職場──高級外車のディーラー──へ出勤していた。すれ違いの生活が日常となってから、もう何年も経つ。子供はおらず、会話も少なくなった。
洗い物を終え、ふと時計を見る。
日が傾き始めたころ、玄関のチャイムが鳴った。
──ピンポーン。
インターホン越しにモニターを見ると、制服姿の少女が映っていた。
白鷺ユリ。美しく整った顔立ちと、不釣り合いなほど落ち着いた表情。
なぜか、画面越しのその目が芙美子を射抜いているように思えた。
気がつけば、芙美子は玄関を開けていた。
「お邪魔します、先生」
まるでこの家をよく知っているかのように、ユリはすっと玄関を上がり、リビングへと進む。
「……急にどうしたの?学校のことで何か?」
芙美子の声は少しだけ上ずっていた。
学校の生徒を家にあげることなど、本来はあってはならない。それでも、ユリの雰囲気に抗えなかった。どこか夢を見ているような感覚。
ユリは微笑みながら、言った。
「先生にお願いがあって来たんです」
「お願い……?」
「AB型の生徒たちを集めていただきたいんです。定期的に、私に“提供”してほしいの」
何気ない声で、まるで給食の牛乳でも頼むように言った。
「……え?」
芙美子は聞き間違えたかと思った。
「何を言って……提供って、なにを……?」
声が震えた。
「血液です。先生が呼び出してくだされば、入れ替わりの手引きが簡単になる」
ユリの言葉は、どこか機械的で、それでいて艶めいていた。
「ちょっと待って、あなた、何を……冗談よね?」
「いいえ」
ユリは机の上にあったマグカップを指先でなぞった。
その仕草一つで、芙美子の心拍は一段と早まった。
「その前に、先生には私の“僕”になってもらいます」
ユリが立ち上がり、芙美子に近づく。
身体が強張る──だが、動けない。
「なに……して……」
足がすくむ。頭が重い。けれど指先がじんじんと熱を帯び、呼吸が浅くなる。
金縛り。だが、物理的なそれではない。
ユリが顔を近づけてきた。
瞳が、異様に深い。
覗き込んではいけない──
けれど、目を逸らせない。
芙美子の脳裏に、言いようのない“快感”が滑り込んできた。
触れられていないはずなのに、指先から、肌の奥まで、何かがじわじわと入り込んでくる。
(どうして……こんな……)
心を焦がすような熱が、理性の防壁をひとつずつ崩していく。
夫にすら感じたことのない、奇妙な熱。
思考が霞み、ユリの輪郭だけがくっきりと浮かぶ。
気がつけば、ユリの唇が目前にあった。
触れることのない距離で、笑っている。
「先生は、今日から私の“鍵”ですよ」
最後に聞こえたその言葉が、どこか鋭く胸に突き刺さった。
ユリが去ったあと。
芙美子はしばらく、ソファから動けなかった。
汗ばんだシャツの感触。乾いた唇。荒くなった呼吸。
ただ“なにもしていない”はずなのに、身体は確かに反応していた。
熱い。震える。震えているのは、果たして恐怖か、陶酔か。
──その晩、芙美子は一なかなか寝付けなかった。
第四話
時計の針は午前2時を回っていた。
窓の外には風もなく、月明かりだけがやけに冴えている。
花園芙美子は眠れなかった。
あの午後の“訪問”の記憶が、頭の奥でじわじわと疼いていた。
ユリの眼差し。指先の残像。口づけの余韻。
(夢……だったのかもしれない)
何度も自分にそう言い聞かせながら、寝室の天井を見つめていた。
そのとき――。
「……コツ、コツ、コツ……」
遠く、廊下の奥から微かな音が響いてきた。
誰かの裸足の足音のようだった。
(夫?トイレにでも……)
だが、隣で寝息を立てている夫は微動だにしていない。
──また、足音。
今度は、もっと近い。
布団の上に固くなった身体が凍りつく。
「……誰かいるの……?」
そう声を出そうとしたが、喉から音が出なかった。
冷たい何かが、寝室の空気に混じっていた。
キィィ……
寝室のドアが、ほんの少しだけ開いた。
そこに立っていたのは、自分だった。
月光に照らされた“それ”は、確かに芙美子の顔をしていた。
だが、その目は真っ暗で、まるで光を吸い込む穴のようだった。
表情は無表情。口は閉じられたまま。
(声を出さない──ドッペルゲンガー……!?)
ようやく思考が追いついた頃には、“それ”はもう枕元に立っていた。
逃げる間もなく、のしかかってくる。
手には鋭い裁ちばさみ。保健室で使っていたやつにそっくりだった。
(夫を起こさなきゃ……だめ……)
手を伸ばす。声を出そうとする。だが、出ない。
そして、刃が――静かに、何度も振り下ろされた。
シーツが、夜の闇に滲むように染まっていく。
朝。
陽光が差し込む寝室。
夫・花園宏は目覚ましの音で目を覚ました。
「ふみこー、起きてるかー?」
「ええ、起きてるわよ。コーヒー淹れたから」
キッチンから声が返ってくる。
宏はベッドを抜け出し、着替えてキッチンに向かった。
「おはよう。あれ、ずいぶん早起きじゃん」
「うふふ。今日はなんだかスッキリしてるの」
エプロン姿の芙美子が笑った。
以前より少しだけ口元が固い気もしたが、宏は気に留めなかった。
「じゃあ、行ってくるよ。夜はちょっと遅くなるかも」
「ええ、気をつけてね」
そう言って、芙美子はにっこりと微笑んだ。
玄関の扉が閉まる。
宏が去ったあとの家には、しんとした静寂が戻ってくる。
ダイニングの奥、洗濯室。
そこでは、洗濯機が低い唸り声を立てて回っていた。
ガタン、ガタン――と不規則な音。
中で何か重たいものが絡まっているようだ。
その中には、深紅に染まった布団のシーツが、
白い泡の中でぐるぐると、絡まり合いながら回っていた。
乾いた血がにじみ出し、淡いピンク色の渦を描いていた。
その前で、芙美子は無表情で洗濯機を見つめていた。
目の奥――
ほんの少しだけ、闇がゆらいだ。
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