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序章
枯れ草色の青年
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ジュディの足も判断も、少年の予想を上回ったらしい。
少年は廊下の先の曲がり角で、迫りくる足音に「まさか」といった顔で振り返る。そのときにはもう、ジュディの指先がその背に届いていた。
レース編みの手袋をはめたジュディの手は、見るからに仕立ての良いジャケットの背面を滑り降りて、裾を無造作にひっつかむ。
「うわっ」
「ああっ」
引っ張られた少年はつまずき、自分の青いドレスを勢いよく踏み抜いたジュディもまたバランスを崩した。
そのまま、両者ひどい転び方をする、とジュディは痛みを覚悟して息を止める。
だが、横からぐいっと腰に腕を回して掴まれたことで、床に転倒することはなかった。ジュディに掴まれたままの少年も、なんとか踏みとどまる。勢いを殺しきれずにジュディの体は引きずられかけたものの、絶対に指を離さなかった。
かなりの力がかかったはずだが、ジャケットが裂けることもなかった。
(破れなくて良かったわ。ずいぶんと丈夫ね。金属箔の糸の織り込みかしら?)
一見するとシンプルな銀灰色のジャケットだが、光の当たり方によってつややかな光沢感があり、複雑な織模様が浮かび上がって見える。かなりの値打ちものだ、と直感した。
すーっと、頭の中で仮説が組み立てられていく。
この王宮に出入りする、もしくは住んでいる少年で、こんな高級品を身にまとう者は、おそらく何人もいない。泥棒ではなく自前の持ち物だというのなら、かなりの身分のはずだ。
それこそ、王族クラス。
ジュディがその結論に至るまでに要したのは、瞬きほどのごく短い時間。
止めていた息を吐き出し、すばやく体勢を立て直しながら、横から自分を支えている相手の姿を確認した。
* * *
目に飛び込んできたのは、枯れ草色の髪だった。
あまり艶がなく、乾いた印象で、他に美しい表現も思い当たらない。深緑色のジャケットの肩に、結ばれぬまま流されている。
視線を上向けると、優美な印象の顎に、薄い唇。すらりと高く通った鼻筋には、銀のフレームの眼鏡が乗っているのが見えた。
レンズの向こうの瞳は煌めきを帯びた金色で、視線がぶつかると実に感じよく微笑まれる。
そのときになってようやく、ジュディは自分の腰をしっかりと捉えている腕の力強さに気付いた。
穏やかな面差しをしていて、いかにも宮仕えの文官といった見た目ながら、相手はれっきとした男性であった。
そのことに、自分でもびっくりするくらいのショックを受ける。世間的には「子無し」で離婚出戻り女のジュディであるが、かつての夫にもここまでの接近・接触をされたことなどほとんどないのだ。
あまりに近い。
意識した途端、体が固まって、身動きができなくなった。
相手はそれを、ジュディが自分の足でしっかり立っていて転倒の心配はもうない状態とでも受け取ったらしく、さりげなく腕を離して解放してくれた。
そして、笑みを絶やさぬままの唇を開いた。
「はじめまして。ようこそ王宮へ。お会いできてとても嬉しいです。ガウェイン・ジュールです。リンゼイ嬢ですね」
淀みのない口調で名乗られ、面識もないのに素性を正確に言い当てられる。
(この方が手紙の差出人の……!)
ジュディは苦い思いから複雑な笑みを浮かべそうになったが、すぐに気を取り直して口角をきゅっと持ち上げてみせた。
「はじめまして、ジュール侯爵。お招き頂き、ありがとうございます。わたくしのことはジュディとでも呼んでください。その、もし職務上今後私と話す機会がおありなら。リンゼイの名を持つ父も兄も、登城することもございますから」
ガウェインは凛々しい眉をわずかにひそめて、ジュディを見つめてきた。
「ジュディ嬢とお呼びしても?」
「お気遣いありがとうございます。ですが、私はお嬢さんという年齢でも経歴でもありませんのよ。とはいえ、アリンガム子爵夫人はもうお役御免になっていますし、さりとて未亡人でもなく」
ジュディは、公的な場における呼び方一つとっても、なかなか難しい存在となってしまっている。
それゆえに、面倒なことになる前に自分から呼び捨てでと申し出ることにしたのだ。本来ならそれは、かなり親しい仲とみなされかねないきわどい悪手だ。ガウェインが戸惑ったのもわかる。だが、ジュディとしてはぜひとも押し通したいところであった。
(王子の閨事の指南役だなんて。人前で家名呼びをされて変に印象に残るくらいなら、誰にとっても『なんだかそんな御婦人が出入りしていた』くらいのぼやっとした記憶に留めたいのよ。身分の不確かな者を王子のそばにおけないとして、仕事で仮名はさすがに使えないでしょうけど、それは構わないわ。職を辞してから違う名前を名乗ればいいだけですもの)
いずれここを去って別人にでもなるつもりなのだ。そのため、いまはジュディとだけ呼んで欲しいのである。
それだけの意味であったが、ガウェインの受け止め方は斜め上であった。胸に手をあて、おっとりとした口ぶりで言う。
「わかりました。では私のことは、ぜひガウェインとお呼びください」
「宰相閣下。ご冗談を。私は閣下をそのように呼ぶ間柄にはございません」
予想外とはいえ、ジュディは笑顔のままノータイムで言い返す。
(それはさすがにおかしいでしょう! あなたと親しい仲になりたいから「名前で呼んでください」と申し上げたのではなくてよ? 私まで宰相閣下と名前で呼び合っていたら、悪しき意味でのスキャンダルまっしぐらです! 私は! 皆さんの記憶に残りたくないんです!)
にこにことしたまま、心の中ではめいっぱい叫んでいた。
ガウェインはなおも何か言いたそうにしていたが、その視線がすっとジュディから逸れた。
さきほどまで、ぴんと突っ張っていたジャケットの手応えが軽い。
ジュディもそちらに視線を向ければ、まさにジャケットの袖から腕を抜いて、少年が走り去ろうとしているところだった。
「逃がさないわ!」
遠ざかりかけた背中にすぐさま体当たりをする。
勢いあまって、ジュディは相手を廊下に押し倒してその背に乗り上げてしまった。ばたばた、と少年は体の下で暴れる。抜け出されまいと、ジュディはドレスの裾がふわりと広がるのを気にすることもなく、少年に体重をかけて押し潰した。
頭上から、ガウェインの呟きが聞こえた。
殿下、と。
そこでジュディは、少年の正体を間違えようもなく知った。
少年は廊下の先の曲がり角で、迫りくる足音に「まさか」といった顔で振り返る。そのときにはもう、ジュディの指先がその背に届いていた。
レース編みの手袋をはめたジュディの手は、見るからに仕立ての良いジャケットの背面を滑り降りて、裾を無造作にひっつかむ。
「うわっ」
「ああっ」
引っ張られた少年はつまずき、自分の青いドレスを勢いよく踏み抜いたジュディもまたバランスを崩した。
そのまま、両者ひどい転び方をする、とジュディは痛みを覚悟して息を止める。
だが、横からぐいっと腰に腕を回して掴まれたことで、床に転倒することはなかった。ジュディに掴まれたままの少年も、なんとか踏みとどまる。勢いを殺しきれずにジュディの体は引きずられかけたものの、絶対に指を離さなかった。
かなりの力がかかったはずだが、ジャケットが裂けることもなかった。
(破れなくて良かったわ。ずいぶんと丈夫ね。金属箔の糸の織り込みかしら?)
一見するとシンプルな銀灰色のジャケットだが、光の当たり方によってつややかな光沢感があり、複雑な織模様が浮かび上がって見える。かなりの値打ちものだ、と直感した。
すーっと、頭の中で仮説が組み立てられていく。
この王宮に出入りする、もしくは住んでいる少年で、こんな高級品を身にまとう者は、おそらく何人もいない。泥棒ではなく自前の持ち物だというのなら、かなりの身分のはずだ。
それこそ、王族クラス。
ジュディがその結論に至るまでに要したのは、瞬きほどのごく短い時間。
止めていた息を吐き出し、すばやく体勢を立て直しながら、横から自分を支えている相手の姿を確認した。
* * *
目に飛び込んできたのは、枯れ草色の髪だった。
あまり艶がなく、乾いた印象で、他に美しい表現も思い当たらない。深緑色のジャケットの肩に、結ばれぬまま流されている。
視線を上向けると、優美な印象の顎に、薄い唇。すらりと高く通った鼻筋には、銀のフレームの眼鏡が乗っているのが見えた。
レンズの向こうの瞳は煌めきを帯びた金色で、視線がぶつかると実に感じよく微笑まれる。
そのときになってようやく、ジュディは自分の腰をしっかりと捉えている腕の力強さに気付いた。
穏やかな面差しをしていて、いかにも宮仕えの文官といった見た目ながら、相手はれっきとした男性であった。
そのことに、自分でもびっくりするくらいのショックを受ける。世間的には「子無し」で離婚出戻り女のジュディであるが、かつての夫にもここまでの接近・接触をされたことなどほとんどないのだ。
あまりに近い。
意識した途端、体が固まって、身動きができなくなった。
相手はそれを、ジュディが自分の足でしっかり立っていて転倒の心配はもうない状態とでも受け取ったらしく、さりげなく腕を離して解放してくれた。
そして、笑みを絶やさぬままの唇を開いた。
「はじめまして。ようこそ王宮へ。お会いできてとても嬉しいです。ガウェイン・ジュールです。リンゼイ嬢ですね」
淀みのない口調で名乗られ、面識もないのに素性を正確に言い当てられる。
(この方が手紙の差出人の……!)
ジュディは苦い思いから複雑な笑みを浮かべそうになったが、すぐに気を取り直して口角をきゅっと持ち上げてみせた。
「はじめまして、ジュール侯爵。お招き頂き、ありがとうございます。わたくしのことはジュディとでも呼んでください。その、もし職務上今後私と話す機会がおありなら。リンゼイの名を持つ父も兄も、登城することもございますから」
ガウェインは凛々しい眉をわずかにひそめて、ジュディを見つめてきた。
「ジュディ嬢とお呼びしても?」
「お気遣いありがとうございます。ですが、私はお嬢さんという年齢でも経歴でもありませんのよ。とはいえ、アリンガム子爵夫人はもうお役御免になっていますし、さりとて未亡人でもなく」
ジュディは、公的な場における呼び方一つとっても、なかなか難しい存在となってしまっている。
それゆえに、面倒なことになる前に自分から呼び捨てでと申し出ることにしたのだ。本来ならそれは、かなり親しい仲とみなされかねないきわどい悪手だ。ガウェインが戸惑ったのもわかる。だが、ジュディとしてはぜひとも押し通したいところであった。
(王子の閨事の指南役だなんて。人前で家名呼びをされて変に印象に残るくらいなら、誰にとっても『なんだかそんな御婦人が出入りしていた』くらいのぼやっとした記憶に留めたいのよ。身分の不確かな者を王子のそばにおけないとして、仕事で仮名はさすがに使えないでしょうけど、それは構わないわ。職を辞してから違う名前を名乗ればいいだけですもの)
いずれここを去って別人にでもなるつもりなのだ。そのため、いまはジュディとだけ呼んで欲しいのである。
それだけの意味であったが、ガウェインの受け止め方は斜め上であった。胸に手をあて、おっとりとした口ぶりで言う。
「わかりました。では私のことは、ぜひガウェインとお呼びください」
「宰相閣下。ご冗談を。私は閣下をそのように呼ぶ間柄にはございません」
予想外とはいえ、ジュディは笑顔のままノータイムで言い返す。
(それはさすがにおかしいでしょう! あなたと親しい仲になりたいから「名前で呼んでください」と申し上げたのではなくてよ? 私まで宰相閣下と名前で呼び合っていたら、悪しき意味でのスキャンダルまっしぐらです! 私は! 皆さんの記憶に残りたくないんです!)
にこにことしたまま、心の中ではめいっぱい叫んでいた。
ガウェインはなおも何か言いたそうにしていたが、その視線がすっとジュディから逸れた。
さきほどまで、ぴんと突っ張っていたジャケットの手応えが軽い。
ジュディもそちらに視線を向ければ、まさにジャケットの袖から腕を抜いて、少年が走り去ろうとしているところだった。
「逃がさないわ!」
遠ざかりかけた背中にすぐさま体当たりをする。
勢いあまって、ジュディは相手を廊下に押し倒してその背に乗り上げてしまった。ばたばた、と少年は体の下で暴れる。抜け出されまいと、ジュディはドレスの裾がふわりと広がるのを気にすることもなく、少年に体重をかけて押し潰した。
頭上から、ガウェインの呟きが聞こえた。
殿下、と。
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