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第一章
許されざるは
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男が、げらげら笑った後に、不意打ちのように殴りかかる。
フィリップスは、それを完全に見切っていた。背後にかばった少女に被害が及ばぬよう、最小限に避けながら、強烈な拳の一撃を男の首筋に見舞う。
骨のきしむような音が、鳴った。かなりキマっていた様子だが、男はうめき声すらもらさず。続く攻撃に移ろうとするように、身を引いた。
逃さぬとばかりに、フィリップスが身を乗り出す。
「止め……」
ますか。
ジュディの横でステファンが今一度尋ねてきたが、ジュディは指示を出す前に早足で客とテーブルの間を進み始めた。鋭く、叫んだ。
「暴力で解決しようとしてはなりません!」
フィリップスの視線が、ジュディに向けられる。このときジュディは男装、つまり一応の変装をしていた。だが、フィリップスの青い瞳に浮かんだ微笑みは、確実に目の前の相手が誰かを見抜いていた。
荒く束ねた金髪を背ではずませ、胸をそらしてフィリップスは高らかに答える。
「まさか、止めるつもりか? ずいぶんと、手ぬるいことを言う。暴力には暴力で応じるしかないと、わからないのか? そばを通りかかっただけの女に手を出しても良いと考えるクズ野郎に、どんな言葉が通じると?」
ド正論であった。
ジュディは眉をきつくひそめた厳しい顔のまま、口をつぐんだ。
(この男は、あらゆる面で、欲望のままに生きている者。それが悪いという発想がなく、咎められたら殴ってでも相手を黙らせれば勝ちと考えている)
タブーのない相手に対し、言葉だけで「暴力をやめさせる」のはとてもむずかしい。
実際の殴り合いを目の当たりにすれば「話し合え」と言う無力さがよくわかる。
しかし、将来この国の王となる者が、こんな若い内から暴力の有用性に重きを置いていることが、ジュディには不安でたまらない。
暴力は加速する。必要な手段だと頼るようになれば、暴力も応えるだろう。そして、暴走を始める。
割って入った男装の女が珍しいのか、辺りから好奇の目を向けられているのを肌で感じた。フィリップスと対峙していた男もまた、お手並み拝見とばかりに、にやついた顔でジュディを見ていた。
予期せぬ舞台であったが、ジュディは怯《ひる》むことなくきっぱりと告げる。
「暴力はお金がかかります。この国が過去に何度も経験した『戦争』さえなければ、この国も周辺の国も今よりももっと豊かで、発展していたはず。解決方法としての暴力を、私たちは支持してはいけません。絶対に、です」
いまや静まり返った店内できっぱりと告げ「暴力は貧乏のはじまりです!」と念押しとして続けた。
フィリップスが、目を細めてジュディをひた、と見据える。
「戦争ときたか。ずいぶんと、問題を大きく広げたな」
「行き着く先はそこですから。あなたは、暴力の有効性に溺れてはいけません。それはあなたの思考を染めていき、判断を誤らせる」
「しかし、世の平安に、適度の暴力装置は必要だ。市民を守る警察機構とて、詰まるところは暴力の有効性を追求した結果だろう? 犯罪に走る者と話し合い、許し合う余裕は、いまのこの国にはない」
輝きが立ち消え、暗い炎を宿した瞳。
冷ややかで、厳しい。対峙しているだけで、凄まじい圧迫感がある。
(やはり。「庶民のために」がその行動規範の深い部分に根ざしている殿下は、ご自身の価値観が大きく覆るような何かを、城下で目にしたのでしょうか)
彼を突き動かす動機。前回、教師と生徒として向き合ったときに掴みきれなかったその部分に、わずかに指がかかった感覚があった。だが、いまはまだ早い、とジュディは堪える。尋ねても、おそらく教えてもらえない。
彼とジュディは、出会ったばかりなのだ。
信頼など一朝一夕で結ばれるものではない。
いまは、積み重ねるときだ。
互いの意見の食い違い、齟齬。そしてわずかにでも重なり合う部分。
大きく考えが違う者同士、ここで相手を突き放してしまえば、先はない。ジュディとフィリップスは、話し合わなければならない。
「警察機構が行使する権限と、庶民が私闘・私刑をするのはまったく違います」
ジュディが厳粛な声で意見を言えば、フィリップスは嘲るように笑って答えた。
「違わない。同じ暴力だ。それが法のもとで許された暴力か、許されない暴力か、それだけだ」
「許されているか、いないのか。それがわかっているあなたならば、『同じ』ではないことも、本当は理解なさっているでしょう」
法のもとで行われる権力の行使には、抑制装置がもうけられているのだ。ジュディはそう考えていたが、まるでその拠り所を見透かしたように、嘲笑を浮かべたままのフィリップスが断言した。
「いいや。わかっているのにわかっていない振りをしているのは、お前だ。ルールを定め、『許された暴力』を作り出して行使するのは、人間だ。人間は間違えるし、権力があると勘違いすれば腐敗もする。そのとき、許された暴力は正当性を失い、個人の欲を満たすだけの横暴な権力と化す。例外などない」
ジュディの反論を許さず、フィリップスはさらに、歌い上げるような優雅さで告げた。
「この世に綺麗な暴力はない。必要な暴力はある。ゆえに俺は、腐った人間を始末するんだ。この手で」
フィリップスは、それを完全に見切っていた。背後にかばった少女に被害が及ばぬよう、最小限に避けながら、強烈な拳の一撃を男の首筋に見舞う。
骨のきしむような音が、鳴った。かなりキマっていた様子だが、男はうめき声すらもらさず。続く攻撃に移ろうとするように、身を引いた。
逃さぬとばかりに、フィリップスが身を乗り出す。
「止め……」
ますか。
ジュディの横でステファンが今一度尋ねてきたが、ジュディは指示を出す前に早足で客とテーブルの間を進み始めた。鋭く、叫んだ。
「暴力で解決しようとしてはなりません!」
フィリップスの視線が、ジュディに向けられる。このときジュディは男装、つまり一応の変装をしていた。だが、フィリップスの青い瞳に浮かんだ微笑みは、確実に目の前の相手が誰かを見抜いていた。
荒く束ねた金髪を背ではずませ、胸をそらしてフィリップスは高らかに答える。
「まさか、止めるつもりか? ずいぶんと、手ぬるいことを言う。暴力には暴力で応じるしかないと、わからないのか? そばを通りかかっただけの女に手を出しても良いと考えるクズ野郎に、どんな言葉が通じると?」
ド正論であった。
ジュディは眉をきつくひそめた厳しい顔のまま、口をつぐんだ。
(この男は、あらゆる面で、欲望のままに生きている者。それが悪いという発想がなく、咎められたら殴ってでも相手を黙らせれば勝ちと考えている)
タブーのない相手に対し、言葉だけで「暴力をやめさせる」のはとてもむずかしい。
実際の殴り合いを目の当たりにすれば「話し合え」と言う無力さがよくわかる。
しかし、将来この国の王となる者が、こんな若い内から暴力の有用性に重きを置いていることが、ジュディには不安でたまらない。
暴力は加速する。必要な手段だと頼るようになれば、暴力も応えるだろう。そして、暴走を始める。
割って入った男装の女が珍しいのか、辺りから好奇の目を向けられているのを肌で感じた。フィリップスと対峙していた男もまた、お手並み拝見とばかりに、にやついた顔でジュディを見ていた。
予期せぬ舞台であったが、ジュディは怯《ひる》むことなくきっぱりと告げる。
「暴力はお金がかかります。この国が過去に何度も経験した『戦争』さえなければ、この国も周辺の国も今よりももっと豊かで、発展していたはず。解決方法としての暴力を、私たちは支持してはいけません。絶対に、です」
いまや静まり返った店内できっぱりと告げ「暴力は貧乏のはじまりです!」と念押しとして続けた。
フィリップスが、目を細めてジュディをひた、と見据える。
「戦争ときたか。ずいぶんと、問題を大きく広げたな」
「行き着く先はそこですから。あなたは、暴力の有効性に溺れてはいけません。それはあなたの思考を染めていき、判断を誤らせる」
「しかし、世の平安に、適度の暴力装置は必要だ。市民を守る警察機構とて、詰まるところは暴力の有効性を追求した結果だろう? 犯罪に走る者と話し合い、許し合う余裕は、いまのこの国にはない」
輝きが立ち消え、暗い炎を宿した瞳。
冷ややかで、厳しい。対峙しているだけで、凄まじい圧迫感がある。
(やはり。「庶民のために」がその行動規範の深い部分に根ざしている殿下は、ご自身の価値観が大きく覆るような何かを、城下で目にしたのでしょうか)
彼を突き動かす動機。前回、教師と生徒として向き合ったときに掴みきれなかったその部分に、わずかに指がかかった感覚があった。だが、いまはまだ早い、とジュディは堪える。尋ねても、おそらく教えてもらえない。
彼とジュディは、出会ったばかりなのだ。
信頼など一朝一夕で結ばれるものではない。
いまは、積み重ねるときだ。
互いの意見の食い違い、齟齬。そしてわずかにでも重なり合う部分。
大きく考えが違う者同士、ここで相手を突き放してしまえば、先はない。ジュディとフィリップスは、話し合わなければならない。
「警察機構が行使する権限と、庶民が私闘・私刑をするのはまったく違います」
ジュディが厳粛な声で意見を言えば、フィリップスは嘲るように笑って答えた。
「違わない。同じ暴力だ。それが法のもとで許された暴力か、許されない暴力か、それだけだ」
「許されているか、いないのか。それがわかっているあなたならば、『同じ』ではないことも、本当は理解なさっているでしょう」
法のもとで行われる権力の行使には、抑制装置がもうけられているのだ。ジュディはそう考えていたが、まるでその拠り所を見透かしたように、嘲笑を浮かべたままのフィリップスが断言した。
「いいや。わかっているのにわかっていない振りをしているのは、お前だ。ルールを定め、『許された暴力』を作り出して行使するのは、人間だ。人間は間違えるし、権力があると勘違いすれば腐敗もする。そのとき、許された暴力は正当性を失い、個人の欲を満たすだけの横暴な権力と化す。例外などない」
ジュディの反論を許さず、フィリップスはさらに、歌い上げるような優雅さで告げた。
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