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第二章
貴族たるもの
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貴族は七割の親しみやすさと、三割の冷淡さで非の打ち所のない社交を行う。
(心を開いているように見えても壁があり、線を引かれていて、抜け目なく観察されている。笑顔だからといって、腹の中《うち》まではわからない。わかったつもりは、危険なの)
それがジュディの知る、貴族を前にしたときの心構えである。
そしてそれは、マクテブルク・パレスの主であるヘンリー・ラングフォード公爵閣下にも、適用されるはずだと考えている。
しかし、貴族の中の貴族であるはずのヘンリーはどこまでも気さくで陽気、三割の冷ややかさをおくびにも出さず、実に掴みにくい。
出迎え時の宣言通り、パレス内では意気揚々と先頭に立ち、ツアーのガイドに徹してくれた。
「この天井画は、隣国のマクテブルクの地で、当家のご先祖様が戦車を駆って陣頭指揮をしている姿をイメージして描かれたものと、いわれています。というか、もともとの図案の発注はそうだったらしいんですが、いつの間にか画家の頭の中で古代神話と混ざったみたいですね。四頭立ての馬車で大空を走っているなんて、ご先祖様はどこの太陽神だって。あっはっはっは」
広大なパレス内を進み、貴賓室《ステイト・ルーム》が並ぶエリアに向かう手前の広間《サルーン》で、天井画の説明を始める。
それまで不調法に口を挟むことなどなかったフィリップスだが、静まり返った一瞬をついて、真面目くさった顔をジュディに向けて尋ねてきた。
「どういうことだ。あれではただの、気の良いおっさんだ」
あれ、がラングフォード公ヘンリーを示しているのは明らかであり、ジュディは思わず「やめてよ!」という感情のままに顔をしかめてしまう。
「殿下、そういうことは口に出して言うものではないですよ」
「では、聞かれる前に察して教えろ。なんのための教育係だ」
フィリップスの硬質に澄んだ声は、開けた空間でよく響く。
案内人のヘンリーと来客三名の他、従僕が二人、三人分の荷物を手にしてついてきているだけの編成であったが、全員に聞こえたはずであった。
ジュディはにこっと笑った。そのまま、地団駄を踏みながらフィリップスの足をも踏み抜くイメージを胸に抱いた。もちろん実行に移したりはしない。腸《はらわた》は煮えくり返っている。
そのとき、面白そうに目を輝かせたヘンリーが言った。
「それは私も興味がある。先生はこういうとき、生徒をどう諭《さと》すのかな?」
豪快に難問を放り込んできた。
(「ありがたくも公爵閣下が案内してくださっているのですから、ここは画家の名前や業績を聞いて話を発展させてはいかがでしょう?」だいたい、そんなところね)
ジュディは咳払いをして喉を整え、とっておきの笑みを広げて答えようとした。
その横で、すっと息を吸ったフィリップスが一拍早く口を開く。
「『あれはただのおっさんではありません』ってところか。どうだ先生、当たっているか?」
「全然違います! 勝手に答えて、閣下のことをおっさんおっさん言うのはおやめください!」
「ん、なんだって?」
「だから、おっさん呼びはおやめくださいと!」
「聞いたか、ステファン」
フィリップスは、そのときまで黙っていたステファンを指名した。「何を」とは言わなかったが、ステファンは「はい」と答える。すぐさま、フィリップスはジュディへと視線を向けた。
「俺が二回、先生が三回。先生の方が余計に一回言った。みだりに口にすべきではない語を」
おっさんを。
これまた悪質な揚げ足取りで、ジュディは「違います!」と断固として反論したかったが、口をつぐんだ。現実問題、違わない。実際に言ってしまった後だった。
せめてこれ以上、余計なことを言わないように深呼吸をしながら、頭の中を整理する。
その間に、フィリップスが大股に壁際まで歩いて行き、そこに描かれた壁画を示してヘンリーを振り返る。
「この絵は? 何かいわれがあるのか?」
それもまた、戦場を描いた絵だった。ご先祖様らしき戦士と神話の戦女神が、作戦会議をしている図にジュディには見えた。
尋ねられたヘンリーは、答えようとするかのように口を開きかけた。そこでフィリップスは、鷹揚に手を振って遮る。その手を、絵の前に置かれた白磁に東洋風のタッチで蓮の花の絵付けのされた大壺に伸ばし、つるりと撫で上げて笑った。
「どうせ聞くなら、こっちにしておこう。これはいつの時代のもので、どのくらいの価値がある?」
すると、ヘンリーは曖昧な微笑を浮かべて「ん~」と言葉を濁してから言った。
「さて……どこかにいわれがあったはずですが、私もすべてを頭に入れているわけではないんですよ。もしどうしてもと言うなら、後で調べて誰かに伝えさせます」
「ガイドなのに、把握していなのか? 自分の城のことだろう?」
美術品の隅から隅まで知り尽くしていて、質問されれば打てば響くように答えるものではないか、と。
言い方こそ意地悪であったが、フィリップスの疑問はもっとものようにジュディにも思えた。
(知らないなんてこと、あるわけがないわ。相手は公爵閣下よ?)
何か答えたくない理由でもあるのだろうか。たとえばその壺が王家すら持ち得ない、値段のつけられないほどの一品で、接収されるのを警戒してとか? それを見抜いたフィリップスと、悟られたくないヘンリーの腹の探り合いなのだろうか?
ジュディは、目に見えぬ力関係を憶測しかけたが、ヘンリーの言葉がその疑問をあっさりと打ち消す。
「ここは美術館ではなく、普段遣いの家《ホーム》です。それなりに見せるための芸術品は揃えておりますが、当主がそのすべてのいわれや値段を把握しているのは、かえってせせこましい印象になるでしょう。『私が子どもの頃から、それはすでにそこにありました。多少の価値はあるでしょうが、百年ほど置きっぱなしのただの壺です』調度品の説明なんて、それで十分だと思いませんか」
そこで、ジュディは「あっ」と声を上げた。注目を集めてしまい、しまったとは思うものの、「先生?」とヘンリーに水を向けられたことで、腹をくくってそのとき浮かんだ考えを述べる。
「こういうときに、滔々とうんちくを語るのは、あまり高貴な仕草ではないという意味……ですね?」
そしてそんな初歩的なことを、王子もその教育係も知らないようですね、という。
ヘンリーは、はいともいいえとも言わず、にこにことした笑みを浮かべる。まぎれもなくそれは、七割の親しみやすさを彷彿とさせた。つまり、奥底に三割の冷淡さを秘めた微笑だ。
(そうよ、やっぱり公爵閣下ほどのひとが、ただものであるはずがないんだわ!)
出迎えから案内に至る気安さに惑わされかけていたが、おそらくこれがヘンリーの人となりに一番近い反応では、と確信した。
おっさんおっさん言っていたら、絶対に足をすくわれる。
胃の腑の底が冷えるような感覚があった。気を抜いている場合ではない。
フィリップスはわかっているのかいないのか、興味を失ったように表情を消し去ると、「なるほど、では先へ進んでくれ」とヘンリーに対して命じた。
穏やかな笑みを浮かべたまま、ヘンリーは「それでは、どうぞ」と先に立って歩き出した。
(心を開いているように見えても壁があり、線を引かれていて、抜け目なく観察されている。笑顔だからといって、腹の中《うち》まではわからない。わかったつもりは、危険なの)
それがジュディの知る、貴族を前にしたときの心構えである。
そしてそれは、マクテブルク・パレスの主であるヘンリー・ラングフォード公爵閣下にも、適用されるはずだと考えている。
しかし、貴族の中の貴族であるはずのヘンリーはどこまでも気さくで陽気、三割の冷ややかさをおくびにも出さず、実に掴みにくい。
出迎え時の宣言通り、パレス内では意気揚々と先頭に立ち、ツアーのガイドに徹してくれた。
「この天井画は、隣国のマクテブルクの地で、当家のご先祖様が戦車を駆って陣頭指揮をしている姿をイメージして描かれたものと、いわれています。というか、もともとの図案の発注はそうだったらしいんですが、いつの間にか画家の頭の中で古代神話と混ざったみたいですね。四頭立ての馬車で大空を走っているなんて、ご先祖様はどこの太陽神だって。あっはっはっは」
広大なパレス内を進み、貴賓室《ステイト・ルーム》が並ぶエリアに向かう手前の広間《サルーン》で、天井画の説明を始める。
それまで不調法に口を挟むことなどなかったフィリップスだが、静まり返った一瞬をついて、真面目くさった顔をジュディに向けて尋ねてきた。
「どういうことだ。あれではただの、気の良いおっさんだ」
あれ、がラングフォード公ヘンリーを示しているのは明らかであり、ジュディは思わず「やめてよ!」という感情のままに顔をしかめてしまう。
「殿下、そういうことは口に出して言うものではないですよ」
「では、聞かれる前に察して教えろ。なんのための教育係だ」
フィリップスの硬質に澄んだ声は、開けた空間でよく響く。
案内人のヘンリーと来客三名の他、従僕が二人、三人分の荷物を手にしてついてきているだけの編成であったが、全員に聞こえたはずであった。
ジュディはにこっと笑った。そのまま、地団駄を踏みながらフィリップスの足をも踏み抜くイメージを胸に抱いた。もちろん実行に移したりはしない。腸《はらわた》は煮えくり返っている。
そのとき、面白そうに目を輝かせたヘンリーが言った。
「それは私も興味がある。先生はこういうとき、生徒をどう諭《さと》すのかな?」
豪快に難問を放り込んできた。
(「ありがたくも公爵閣下が案内してくださっているのですから、ここは画家の名前や業績を聞いて話を発展させてはいかがでしょう?」だいたい、そんなところね)
ジュディは咳払いをして喉を整え、とっておきの笑みを広げて答えようとした。
その横で、すっと息を吸ったフィリップスが一拍早く口を開く。
「『あれはただのおっさんではありません』ってところか。どうだ先生、当たっているか?」
「全然違います! 勝手に答えて、閣下のことをおっさんおっさん言うのはおやめください!」
「ん、なんだって?」
「だから、おっさん呼びはおやめくださいと!」
「聞いたか、ステファン」
フィリップスは、そのときまで黙っていたステファンを指名した。「何を」とは言わなかったが、ステファンは「はい」と答える。すぐさま、フィリップスはジュディへと視線を向けた。
「俺が二回、先生が三回。先生の方が余計に一回言った。みだりに口にすべきではない語を」
おっさんを。
これまた悪質な揚げ足取りで、ジュディは「違います!」と断固として反論したかったが、口をつぐんだ。現実問題、違わない。実際に言ってしまった後だった。
せめてこれ以上、余計なことを言わないように深呼吸をしながら、頭の中を整理する。
その間に、フィリップスが大股に壁際まで歩いて行き、そこに描かれた壁画を示してヘンリーを振り返る。
「この絵は? 何かいわれがあるのか?」
それもまた、戦場を描いた絵だった。ご先祖様らしき戦士と神話の戦女神が、作戦会議をしている図にジュディには見えた。
尋ねられたヘンリーは、答えようとするかのように口を開きかけた。そこでフィリップスは、鷹揚に手を振って遮る。その手を、絵の前に置かれた白磁に東洋風のタッチで蓮の花の絵付けのされた大壺に伸ばし、つるりと撫で上げて笑った。
「どうせ聞くなら、こっちにしておこう。これはいつの時代のもので、どのくらいの価値がある?」
すると、ヘンリーは曖昧な微笑を浮かべて「ん~」と言葉を濁してから言った。
「さて……どこかにいわれがあったはずですが、私もすべてを頭に入れているわけではないんですよ。もしどうしてもと言うなら、後で調べて誰かに伝えさせます」
「ガイドなのに、把握していなのか? 自分の城のことだろう?」
美術品の隅から隅まで知り尽くしていて、質問されれば打てば響くように答えるものではないか、と。
言い方こそ意地悪であったが、フィリップスの疑問はもっとものようにジュディにも思えた。
(知らないなんてこと、あるわけがないわ。相手は公爵閣下よ?)
何か答えたくない理由でもあるのだろうか。たとえばその壺が王家すら持ち得ない、値段のつけられないほどの一品で、接収されるのを警戒してとか? それを見抜いたフィリップスと、悟られたくないヘンリーの腹の探り合いなのだろうか?
ジュディは、目に見えぬ力関係を憶測しかけたが、ヘンリーの言葉がその疑問をあっさりと打ち消す。
「ここは美術館ではなく、普段遣いの家《ホーム》です。それなりに見せるための芸術品は揃えておりますが、当主がそのすべてのいわれや値段を把握しているのは、かえってせせこましい印象になるでしょう。『私が子どもの頃から、それはすでにそこにありました。多少の価値はあるでしょうが、百年ほど置きっぱなしのただの壺です』調度品の説明なんて、それで十分だと思いませんか」
そこで、ジュディは「あっ」と声を上げた。注目を集めてしまい、しまったとは思うものの、「先生?」とヘンリーに水を向けられたことで、腹をくくってそのとき浮かんだ考えを述べる。
「こういうときに、滔々とうんちくを語るのは、あまり高貴な仕草ではないという意味……ですね?」
そしてそんな初歩的なことを、王子もその教育係も知らないようですね、という。
ヘンリーは、はいともいいえとも言わず、にこにことした笑みを浮かべる。まぎれもなくそれは、七割の親しみやすさを彷彿とさせた。つまり、奥底に三割の冷淡さを秘めた微笑だ。
(そうよ、やっぱり公爵閣下ほどのひとが、ただものであるはずがないんだわ!)
出迎えから案内に至る気安さに惑わされかけていたが、おそらくこれがヘンリーの人となりに一番近い反応では、と確信した。
おっさんおっさん言っていたら、絶対に足をすくわれる。
胃の腑の底が冷えるような感覚があった。気を抜いている場合ではない。
フィリップスはわかっているのかいないのか、興味を失ったように表情を消し去ると、「なるほど、では先へ進んでくれ」とヘンリーに対して命じた。
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