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第三章
届かぬ思い
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「殿下は私がその方の命惜しさに、暴力はいけないと口にしているとお考えなのですか」
怒りに、声が震えた。
挑発だとしたら、これほど効果的な侮辱はない。
以前、ジュディがフィリップスの行動を諌《いさ》めたのは、街場のパブでの出来事。そのときは、店員の女性に手を出そうとした相手に対し、フィリップスが拳を振り上げた。それに待ったをかけたのだ。
相手とジュディはなんのしがらみもなかった。個人的にかばう理由などひとつもなかった。それでも止めたのは「暴力で解決してはならない」という信念ゆえである。
今回も同じだった。
だが、フィリップスには何一つ伝わっていなかった。
「先生とアリンガム子爵は、仲が悪くて離婚したわけではないと誰もが口を揃えて言う。しかも先生はその後、王宮勤務だ。子爵の協力者として、王宮に入り込んできたと考えるのが自然だ。身の潔白を訴えたいようだが、自分が他人の目にどう映るのか、考えて行動してきたか?」
余裕綽々のフィリップスに尋ねられて、ジュディは強く唇を噛み締めた。
(挑発はまだ続いているの? それとも何か意図がある?)
冷静になれ、と自分に呼びかける。挑発に乗れば絶対にいらぬことを口走ってしまう。自分の発言こそが、次なる疑惑と諍《いさか》いを生んでしまう。怒りに、身を任せてはいけない。
ざわつく胸に手をあてて、ジュディはあえてゆっくりはっきりと言葉を紡ぐ。
「私が怪しく見えるという意味なら、宰相閣下にも同様の疑いを持たれていたのは事実です。殿下の憶測を邪推とまでは言い切れません。ですが、すでにその疑いは晴れています」
フィリップスは、がつんとなんの躊躇もなくヒースコートを蹴り上げた。暴力に慣れた仕草だった。
「だ、そうだが? どうなんだ?」
呻きながらヒースコートはゆっくりと顔を上げ、ジュディを見た。その目に不気味な笑みが浮かぶのを、ジュディは信じられぬ思いで見つめた。
「助けに来るのが遅いじゃないか」
話の流れを聞いて、理解したのだろう。「ジュディはヒースコートの共犯である」と、疑われていることに。その疑いを肯定したのだ、ヒースコートは。ジュディを巻き込み、フィリップスと対立させるために。
まったくのデタラメだと、一番よくわかっているくせに。だが当事者だけに、「ジュディは黒だ」とヒースコートが言えば、黒に見せることもできてしまうのだ。
「あなたは、なんて卑劣な」
怒りを抑えようにも、感情が昂ぶっていて、震えが止まらない。
(私はまたこの男に、利用されるの?)
三年と少し前、周囲にお膳立てされるがままにヒースコートと結婚した。
そのときは、わかっていなかったのだ。貴族の娘として生まれ、自分の意志とは関係なく結婚することについて、わがままを言って周囲を困らせたりしない自分は「わきまえた女」だとすら思っていた。
その、良い子でいたいという願望を後生大事にしたせいで、おかしいと思ったことにおかしいと言うことができなかった。結婚初夜に、夫になった相手から傷つけられても、騒ぎもせずに受け入れた。不当な扱いを受けていると喚《わめ》くことが、どうしてもできなかった。
けれど、そのときの振る舞いが、結果的にいまのジュディを生かしてもいる。その時点ではわからなかったこと、うまくできなかったことと向き合い、さらには「妻」に執着せずに離婚までの日々を有意義に過ごしたことで、ジュディの人生は大いに変わったはずなのだ。
それを、ここでヒースコートに邪魔にされ、手折《たお》られるなどあってはならない。
「アリンガム子爵はでたらめを言っています。私と殿下を対立させるために」
毅然として、ジュディはフィリップスに訴えかける。この男の口車に乗っている場合ではない、と。フィリップスは「なるほど」と頷き、今一度ヒースコートを蹴り上げた。ごつ、と鈍い音がするのとジュディが叫ぶのは同時だった。
「ステファンさん、止めてください!」
あまりにもフィリップスは、暴力に慣れている。自分では止められない、と助けを願った。しかし、ステファンからの返事はなかった。まだ状況を見定めるため、身を隠しているのかもしれない。それが彼の作戦であれば、自分のいまの叫びは過ちだった、と気づく。
(そうよ、ひとに頼っている場合じゃない。どうして自分で動かないの。アリンガム子爵をかばい、殿下に蹴られるのが恐ろしいから? だから他人に頼むだなんて)
王子様の教育係として、精一杯の仕事をしようと心に決めていたはずなのに、土壇場で自分は「か弱き女」に甘んじようとした。強い男は当然に、自分を守ってくれるべきだという思考の枠の中にいた。
足りなかったのだ、覚悟が。何もかもが。
ジュディは足を踏み鳴らす勢いで数歩進み、ヒースコートとフィリップスの間に割り込んだ。
「私はこの方の味方ではありませんし、悪事に手を染めているのならば裁かれるべきだと考えています。それは、ここで殿下の独断でなされることではありません。裁きの場まで、この方を引きずってでも連れて行く。私刑は見過ごせません」
痛いのは嫌だ。殴られたくない。後ろにかばっているのが最低の男だということもわかっている。
それでも、フィリップスにこれ以上の暴力を振るわせるわけにはいかない。
「……へぇ。さすが先生だ。味方でなくても、悪人だとわかっていても、かばうと? それは一体、どんな結果を生むと考えている?」
「目の前の暴力を止めたという、結果でしょうか。暴力はすべてにおいて無駄です。暴力こそ、何も生みません」
フィリップスがその気になれば、ジュディを殴ることも蹴ることも容易にできる距離だった。恐ろしい。だが引けない。一度の説得で自分の信念が伝わらなかったことを、嘆いているだけではいられない。とにかくフィリップスに自分の声を聞いてもらえるように、体を張ってでもその近くまで行かなければ。何度でも。
ジュディはその決意を持って臨んでいたが、フィリップスは笑顔のまま言った。
「先生は何か勘違いしていないか? 暴力は生産を目的とはしていない。何も生まなくて当然だ。言うならばこれは悪人の掃除だぞ。掃除は生産の分類ではないだろう?」
生産というのは、畑作や酪農のことを言うのではないか? とにこやかに付け足されて、ジュディは奥歯を噛み締めた。
「本当に、殿下はああ言えばこう言うのがお得意で……! 最高レベルで利発だというのに、私はどうしてか感動できません。もっと違う使い方をして頂きたいと」
育て方ひとつで、絶対に賢王になるはずなのに。そして自分はまさしく、その「育てる役目」を頂いているというのに、現状では明るい未来がまったく見えてこない。
(だめよ、くじけるところじゃない。ぼんくらじゃないことは喜ぶべきこと。賢い人間が上に立つことは歓迎すべき。ただし、暴力は暴君のはじまり。そこの思い違いは早急に正されるべきで)
殿下育成計画を頭の中に広げたその一瞬、ジュディは無防備だった。もっとも、警戒していても対処できたかはわからない。
背後でヒースコートが立ち上がり、がっちりとジュディの腰と首に腕を回した。
「……っ」
喉を潰されて、息が詰まる。
「人質を取ったつもりか? それとも、示し合わせた茶番か?」
この期に及んで、フィリップスは興味深そうな声で尋ねてきた。
(苦しい……!)
身動きしようとしたらさらに首を締め上げられ、ジュディの意識は数秒、空白になった。抵抗すれば殺される、と実感した。ヒースコートはこの逆転の機会を狙い、大げさに苦しんだふりをしていただけかもしれない。
ジュディの身柄を確保したヒースコートは、笑いを滲ませた声で言った。
「どちらであっても、私にとってこの女の利用価値はここまでです。要求をのんで頂けなければ、縊《くび》り殺しても惜しくない。さて殿下、この場は一度私を逃がしていただけませんか? 良い子で話を聞いてくれたら、この女はいずれどこかで解放して返して差し上げます。聞いて頂けないのであれば……」
言わずもがな、わかりますね? と含みをもたせたその言葉に対し。
フィリップスは、きっぱりと答えた。
「要求など聞かない。交渉には応じない。人質のことは好きにしろ。俺にとっても、先生の存在はそこまで重くない」
危険を知りながら、覚悟を持ってこの場まで来たとしても、向けられる言葉はこれなのだ。
苦しみ悶えながら、ジュディは心の中で叫んだ。
(ひとを育ってるのって、本当に難しい……!!)
怒りに、声が震えた。
挑発だとしたら、これほど効果的な侮辱はない。
以前、ジュディがフィリップスの行動を諌《いさ》めたのは、街場のパブでの出来事。そのときは、店員の女性に手を出そうとした相手に対し、フィリップスが拳を振り上げた。それに待ったをかけたのだ。
相手とジュディはなんのしがらみもなかった。個人的にかばう理由などひとつもなかった。それでも止めたのは「暴力で解決してはならない」という信念ゆえである。
今回も同じだった。
だが、フィリップスには何一つ伝わっていなかった。
「先生とアリンガム子爵は、仲が悪くて離婚したわけではないと誰もが口を揃えて言う。しかも先生はその後、王宮勤務だ。子爵の協力者として、王宮に入り込んできたと考えるのが自然だ。身の潔白を訴えたいようだが、自分が他人の目にどう映るのか、考えて行動してきたか?」
余裕綽々のフィリップスに尋ねられて、ジュディは強く唇を噛み締めた。
(挑発はまだ続いているの? それとも何か意図がある?)
冷静になれ、と自分に呼びかける。挑発に乗れば絶対にいらぬことを口走ってしまう。自分の発言こそが、次なる疑惑と諍《いさか》いを生んでしまう。怒りに、身を任せてはいけない。
ざわつく胸に手をあてて、ジュディはあえてゆっくりはっきりと言葉を紡ぐ。
「私が怪しく見えるという意味なら、宰相閣下にも同様の疑いを持たれていたのは事実です。殿下の憶測を邪推とまでは言い切れません。ですが、すでにその疑いは晴れています」
フィリップスは、がつんとなんの躊躇もなくヒースコートを蹴り上げた。暴力に慣れた仕草だった。
「だ、そうだが? どうなんだ?」
呻きながらヒースコートはゆっくりと顔を上げ、ジュディを見た。その目に不気味な笑みが浮かぶのを、ジュディは信じられぬ思いで見つめた。
「助けに来るのが遅いじゃないか」
話の流れを聞いて、理解したのだろう。「ジュディはヒースコートの共犯である」と、疑われていることに。その疑いを肯定したのだ、ヒースコートは。ジュディを巻き込み、フィリップスと対立させるために。
まったくのデタラメだと、一番よくわかっているくせに。だが当事者だけに、「ジュディは黒だ」とヒースコートが言えば、黒に見せることもできてしまうのだ。
「あなたは、なんて卑劣な」
怒りを抑えようにも、感情が昂ぶっていて、震えが止まらない。
(私はまたこの男に、利用されるの?)
三年と少し前、周囲にお膳立てされるがままにヒースコートと結婚した。
そのときは、わかっていなかったのだ。貴族の娘として生まれ、自分の意志とは関係なく結婚することについて、わがままを言って周囲を困らせたりしない自分は「わきまえた女」だとすら思っていた。
その、良い子でいたいという願望を後生大事にしたせいで、おかしいと思ったことにおかしいと言うことができなかった。結婚初夜に、夫になった相手から傷つけられても、騒ぎもせずに受け入れた。不当な扱いを受けていると喚《わめ》くことが、どうしてもできなかった。
けれど、そのときの振る舞いが、結果的にいまのジュディを生かしてもいる。その時点ではわからなかったこと、うまくできなかったことと向き合い、さらには「妻」に執着せずに離婚までの日々を有意義に過ごしたことで、ジュディの人生は大いに変わったはずなのだ。
それを、ここでヒースコートに邪魔にされ、手折《たお》られるなどあってはならない。
「アリンガム子爵はでたらめを言っています。私と殿下を対立させるために」
毅然として、ジュディはフィリップスに訴えかける。この男の口車に乗っている場合ではない、と。フィリップスは「なるほど」と頷き、今一度ヒースコートを蹴り上げた。ごつ、と鈍い音がするのとジュディが叫ぶのは同時だった。
「ステファンさん、止めてください!」
あまりにもフィリップスは、暴力に慣れている。自分では止められない、と助けを願った。しかし、ステファンからの返事はなかった。まだ状況を見定めるため、身を隠しているのかもしれない。それが彼の作戦であれば、自分のいまの叫びは過ちだった、と気づく。
(そうよ、ひとに頼っている場合じゃない。どうして自分で動かないの。アリンガム子爵をかばい、殿下に蹴られるのが恐ろしいから? だから他人に頼むだなんて)
王子様の教育係として、精一杯の仕事をしようと心に決めていたはずなのに、土壇場で自分は「か弱き女」に甘んじようとした。強い男は当然に、自分を守ってくれるべきだという思考の枠の中にいた。
足りなかったのだ、覚悟が。何もかもが。
ジュディは足を踏み鳴らす勢いで数歩進み、ヒースコートとフィリップスの間に割り込んだ。
「私はこの方の味方ではありませんし、悪事に手を染めているのならば裁かれるべきだと考えています。それは、ここで殿下の独断でなされることではありません。裁きの場まで、この方を引きずってでも連れて行く。私刑は見過ごせません」
痛いのは嫌だ。殴られたくない。後ろにかばっているのが最低の男だということもわかっている。
それでも、フィリップスにこれ以上の暴力を振るわせるわけにはいかない。
「……へぇ。さすが先生だ。味方でなくても、悪人だとわかっていても、かばうと? それは一体、どんな結果を生むと考えている?」
「目の前の暴力を止めたという、結果でしょうか。暴力はすべてにおいて無駄です。暴力こそ、何も生みません」
フィリップスがその気になれば、ジュディを殴ることも蹴ることも容易にできる距離だった。恐ろしい。だが引けない。一度の説得で自分の信念が伝わらなかったことを、嘆いているだけではいられない。とにかくフィリップスに自分の声を聞いてもらえるように、体を張ってでもその近くまで行かなければ。何度でも。
ジュディはその決意を持って臨んでいたが、フィリップスは笑顔のまま言った。
「先生は何か勘違いしていないか? 暴力は生産を目的とはしていない。何も生まなくて当然だ。言うならばこれは悪人の掃除だぞ。掃除は生産の分類ではないだろう?」
生産というのは、畑作や酪農のことを言うのではないか? とにこやかに付け足されて、ジュディは奥歯を噛み締めた。
「本当に、殿下はああ言えばこう言うのがお得意で……! 最高レベルで利発だというのに、私はどうしてか感動できません。もっと違う使い方をして頂きたいと」
育て方ひとつで、絶対に賢王になるはずなのに。そして自分はまさしく、その「育てる役目」を頂いているというのに、現状では明るい未来がまったく見えてこない。
(だめよ、くじけるところじゃない。ぼんくらじゃないことは喜ぶべきこと。賢い人間が上に立つことは歓迎すべき。ただし、暴力は暴君のはじまり。そこの思い違いは早急に正されるべきで)
殿下育成計画を頭の中に広げたその一瞬、ジュディは無防備だった。もっとも、警戒していても対処できたかはわからない。
背後でヒースコートが立ち上がり、がっちりとジュディの腰と首に腕を回した。
「……っ」
喉を潰されて、息が詰まる。
「人質を取ったつもりか? それとも、示し合わせた茶番か?」
この期に及んで、フィリップスは興味深そうな声で尋ねてきた。
(苦しい……!)
身動きしようとしたらさらに首を締め上げられ、ジュディの意識は数秒、空白になった。抵抗すれば殺される、と実感した。ヒースコートはこの逆転の機会を狙い、大げさに苦しんだふりをしていただけかもしれない。
ジュディの身柄を確保したヒースコートは、笑いを滲ませた声で言った。
「どちらであっても、私にとってこの女の利用価値はここまでです。要求をのんで頂けなければ、縊《くび》り殺しても惜しくない。さて殿下、この場は一度私を逃がしていただけませんか? 良い子で話を聞いてくれたら、この女はいずれどこかで解放して返して差し上げます。聞いて頂けないのであれば……」
言わずもがな、わかりますね? と含みをもたせたその言葉に対し。
フィリップスは、きっぱりと答えた。
「要求など聞かない。交渉には応じない。人質のことは好きにしろ。俺にとっても、先生の存在はそこまで重くない」
危険を知りながら、覚悟を持ってこの場まで来たとしても、向けられる言葉はこれなのだ。
苦しみ悶えながら、ジュディは心の中で叫んだ。
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