王子様の教育係、承りました! ~純情で腹黒な宰相閣下の策略から始まる溺愛、実は重い。すごく。~

有沢真尋

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第五章

愛の天使に狙われている

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 今晩は安静に、と言い残して医者が出て行く。侍従もメイドも一緒に退室し、部屋の中にはガウェインとジュディの二人だけが残された。
 すっかり夜も更けた時間帯、ところはジュール侯爵邸三階の一室。

 ガウェインの母親にあたる前侯爵夫人の使っていた部屋とのことで、現在ガウェインが使っている隣室とは廊下を通らずに室内のドアから行き来ができるという。
 説明をしてくれたガウェインに対し、気を回したジュディが「以前住んでいたお屋敷でも、夫婦の部屋は同じ造りでした」と了解の意味で告げたところ、ガウェインが目に見えてへこんだ。
 それはもう、あきらかにべしゃっと。
 眼鏡をしていない素顔が、弱りきって見えた。

 ガウェインは、壁に備え付けられたガス灯のもとへと数歩歩き、狼狽した顔を隠すように背を向けて、明かりを消す。
 残ったのは、ベッドサイドの燭台の淡い光のみ。
 天蓋付きの寝台で、クッションを背に体を起こしたジュディからは、闇に沈んだガウェインの広い背中だけが見える。
 振り返らぬまま、ガウェインが低い声で告げる。

「すみません、普段は平気なふりができるんですが。いま少しかなり心に余裕がないみたいで、顔に出ました」

 声まで、落ち込んでいる。
 ジュディは自分の至らなさに顔を歪めながら、ベッドの上で体ごと折れ曲がるように頭を下げた。

「こちらこそ、すみません。言い訳のしようもなく」

 ガウェインはいつも飄々としていて、誰を前にしても温厚な態度を崩さない。一方で、いざ戦闘ともなれば、迅速な制圧を目的として自ら敵地に飛び込むほどの大胆不敵さがある。
 ジュディからすると、計り知れないほどに多彩な顔を持った強靭な男性で、よもや自分の一言が彼の致命傷になるなどまったく思いもよらなかったのだ。
 不注意が過ぎる。

(こんなに良くして頂いて、お屋敷にまで受け入れてくださっているのだから、もうそのお心に揺らぎなどあろうはずもないのに。私が傷つけている場合では)

 攫われた場所からここまで、ジュディは自分の足で歩くことなく抱えて運ばれてきた。屋敷では至れり尽くせりで、侍女の手を借りて湯浴みや着替えを済ませて、ベッドで食事を取り、医者を呼んでもらって打撲を診てもらったところであった。
 ガウェインがほとんど離れることなくそばにいて、ジュディを大切にしている素振りを惜しげもなく見せるので、下にも置かない扱いを受けっぱなしである。
 彼の乳母だという女性に至っては、「若様がついに」と感極まって泣き出すほどだった。

「そばに行っても良いでしょうか」

 離れた位置から、ガウェインに声をかけられる。

「もちろんです。お話しましょう、お顔が見えるところまで来てください」

 ジュディは即座に答えた。
 迷いのない足取りで近づいてきたガウェインは、優美な曲線で仕上げられた安楽椅子《ベルジェール》を手にすると、ベッドの横に置く。腰を下ろして、ジュディの顔をまっすぐに見てきた。
 冴えない表情は彼らしくなく、またもや申し訳ない思いがこみ上げてきたジュディは「本当にすみません」と謝罪をした。

「気の利かない女です。閣下のおそばにいるためには、世界一気が利いて楽しいおしゃべりができて場を盛り上げるのが上手い女性を目指さねば」

「高みを目指すのは大変素晴らしいことと思います。俺も何かすごいの目指しますね」

「何かすごいの?」

「ごめんなさい。いま、語彙が死んでる」

 言うなり、ガウェインはぐったりと上半身を倒して、ベッドに突っ伏してしまった。

(弱ってらっしゃる! 疲れもありますよね。こんなときこそ、すごくお慰めしたいけれど、どうすれば)

 手を伸ばせば届く距離だ。洗いざらしで、まだ渇ききっていない彼の髪に触れてみるのはどうだろう。子どもではないのだから、さすがに嫌かもしれない。
 片手を持ち上げたまま、宙に浮かべて悩んでいたところで、ガウェインがくぐもった声で呟いた。

「あなたが髪を結い上げていない姿を初めて見ました。可愛くて目が潰れるかと思いました」

「メ、メドゥーサ」

「それは石になるんじゃなかったっけ。石でもいいや。ずっと見ていたい。でも見すぎて気持ち悪いかもしれないから顔を起こせない」

 そんな理由で突っ伏しているのかと。

(冗談? 閣下は諧謔《かいぎゃく》がお好きですものね。私を笑わせようとしているのかもしれない。ここはひとつ明るく笑って……笑って……)

 笑おうとしたのに「可愛くて」が頭の中で響き渡り、ジュディは両手で顔を覆ってしまった。
 そこまでまっすぐに言わないでくれても、良いではないかと。頬が熱い。
 ガウェインが、浅く息を吐きだしながら体勢を立て直す。

「どうして顔を隠すんですか。髪に触れて良いですか」

 はいといいえだけでは答えにくい質問を重ねられて、ジュディは口ごもりながら「はい」と答えた。
 ガウェインの気配が近づいてくる。
 体の横に手をつかれて、ベッドが少し沈み込む。
 肩に滑り落ちる金色の髪を一房、ガウェインが手のひらですくいあげた。ジュディは顔を押さえた手のひらの指の間から、そうっと窺い見る。

 柔らかい燭台の光の中で、目を閉ざしたガウェインが、髪に唇を押し当てていた。

 切なげにひそめられた眉。かすかに震えるまぶた。すっと高く通った鼻梁に、精悍で秀麗な面差し、美しいかたちの唇。
 荘厳さすら漂わせたその美貌に、ジュディは言葉を失う。
 目を開けたガウェインが、黄金色の視線を流してきた。

「俺はあなたの、ただ一人の男になりたい。願うのはそれだけです」

 心臓が貫かれる痛みに、息が止まる。

愛の天使キューピッドに射殺されそう)

 ガウェインは、硬直したジュディを前に、心配そうに目を細めた。

「ジュディ、どうして石になってる? 石化の呪いなのか?」

「そうかも、しれない、です」

 息も絶え絶えでジュディが答えると、ガウェインが椅子から立ち上がった。
 ジュディの背に片腕を回し、もう一方の手をおとがいにかけ、優しく上を向かせる。
 俺に解呪させて、という囁きが耳元で聞こえたときにはもう、唇が奪われていた。

(キスは眠り姫を呼び覚ます。解呪。祝福? それとも、新たなる呪縛)

 それほど長い時間ではなかったはずなのに、ガウェインが顔を離したときには、気が遠くなっていた。

「石化解けました? 動けそうですか?」

 冗談めかして尋ねられ、ジュディは大きく息を吐きだした。
 気が抜けたせいか、世界一気の利く女ではないジュディは、おそろしく正直な感想を口にしてしまった。

「こんなふうにキスをされたこと、初めてで、びっくりしました」
「ん?」

 椅子に座り直すのではなく、ジュディのすぐ近くに腰を落としたガウェインが、軽い調子で首を傾げた。

「どういう意味ですか。あなたの以前の結婚相手は、後継者を望むにあたり、あなたの体にしか興味を示さなかったんですか?」

「あっ、それは……、ええと、なんと言いますか」

 白い結婚でして、と喉元まで出てきていたのに、なぜか言えなかった。
 ガウェインとの距離が近すぎて、神経が張り詰めるほどに緊張していたせいである。誤解が生じぬよう説明しようとすれば、かなり根気が必要とされることが予測され、複雑な事情を話す気力を失ってしまったのだ。

 それをどう解釈したのか、ガウェインは超然として挑みかかるような目つきとなり、ジュディを見つめてきた。

「あなたが人妻であったことを、俺は最初から知っています。ある場面では、以前の男と必ず比較されるであろうことも織り込み済みです。大丈夫です、比較した上で俺の方が良いと思い知っていただきます。全部初めてだって言わせてあげますよ。俺があなたの最初で最後の男です」

 とても真面目な告白だと理解しつつ、ジュディは自分の事情をいつ打ち明けるかでそわそわして、気が気でなくなっていた。

(どうしましょう……! 閣下は比喩で「最初で最後」なんて言っているけど、実際にそうなんです! 早めに言わないと、絶対にすごい攻めをされるわ。「こんなの初めて」って泣くまで激しくされてしまったらどうしましょう。処女なのに)

 言わなければ、と意を決したところで、ガウェインがふわりと笑った。

「今日はもちろん、そんなことしませんよ。安静に過ごした方が良いと医者が言っていましたし、釘も刺されました。怪我人相手に無体なことはするなと」

「は、はい。今日は、ですよね。はい」

「あなたの心と体の準備が整うまで、待ちます。今日はこのベッドで一緒に寝ても良いですか?」

 あれ? とジュディは小首を傾げた。

(それは待っているうちに入ります? ものすごく攻め込んできていませんか?)

 危ぶむ気持ちはあったが、拒否感はなかったので、おそるおそる「はい」と答えた。
 襲われて攫われた今日の今日である。隣にガウェインがいてくれれば、何も恐れるものなどない、と素朴に信じたのだ。
 ジュディの返事を聞き、ガウェインは蕩けるように笑み崩れて、口を開く。

「ちなみに俺は寝るとき裸なんですけど、大丈夫ですか?」
「閣下は何を仰っているんですか?」

 性癖・嗜好全開過ぎませんか? とジュディが確認のため聞き返すと、ガウェインは声を上げて笑い出した。

「俺、段階を踏もうとすると、いつまでも足踏みか、踏み外すかしかなくて。もう全部すっ飛ばそうかと思いまして。俺のことを知ってください」

 裸で寝るという事実を打ち明けられるのが最初では、この後何が出てくるのだろう。
 いや、もしかしたら最初がすごすぎるだけであとは普通かもしれない、と儚い望みを抱きつつ、ジュディもまたここぞとばかりに、自分の事情をぐずぐずしないで打ち明けることにした。

「私、処女です。元夫とは肉体関係のない白い結婚でした。もともとあの方にはユーニスさんがいましたし、私とは最初から離縁したがっていたので、万が一にも子どもができてほしくなかったみたいです。なので、結婚式以来キスもしたことありませんし、男性の裸を見たこともないんです。ですから閣下も」

 そこをお含みおき裸はおやめください、と言おうとしたジュディの手を取り、角度を変えて指に何度も口づけながら、ガウェインが呻く。

「待ってください。いま胸がいっぱい過ぎて、頭が追いつかない」
「閣下が裸で寝ると知った私と同じです、それ」
「たぶん全然違うよ。ジュディは顔色も変わらなかったけど、俺はいま完全にテンションがおかしい」

 顔色が変わらなかったのは凍りついただけであり、ガウェインが浮足立っているのはひしひしと感じていたが、ジュディはまだ大切なことを言っていない。
 息を吸い込んで、最後まで告げた。

「ですので、いきなり激しくされては困ります。経験のない者として、なるべく優しくして頂けますと……」

 ガウェインがぴくりともしないほど固まってしまったことを不思議に思い、ジュディはその顔をのぞきこんだ。
 ジュディの華奢な手に額を押し付けて目を瞑っていたガウェインは「今日はだめ、今日はなし」と自分に言い聞かせていた。

 それがあまりにも真に迫っていたので、ジュディは思わずふきだしてしまいつつ、しっかりと念を押しておくことにした。

「今日はだめですよ、一緒に寝るだけです」

 それから忘れずに付け足す。裸もだめです、と。



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