年下王子と口うるさい花嫁

いとう壱

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第51話 三人の新たな関係

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「君達、覚悟はいいか」




 陽に照らされた明るい部屋とは対照的に重い空気が漂っている。夏に向かう暑さが庭園内に造られた湖から水気を運び、風通しのよいはずの白花はくかの館を湿らせていた。

 小さな水音が響いた。涼を求めた水鳥が湖面を滑る音かもしれない。

 ふと、クリストフが息を吸い込んだ。

 苦しげな音に動かされるようにクリストフの侍女であるエレナが先にペンを取り、契約書に自らの名前を書き込んでいく。その手は震えることもなく、筆致に一切の迷いはなかった。

 続いて、ローゼン公爵の侍従アルベルトの姉であり、エレナの教育係でもあるイルザがおもむろに手を動かした。

 覚悟を決めた二人の静寂は、ペンの音に乱されることはない。ローゼン公爵は二人の署名を確認したのち、書類を丁寧に丸めて隣室のローゼン公爵の部屋の鍵付きの書箱に入れた。





 改めてクリストフの部屋に戻ったローゼン公爵は、クリストフの汗を拭くための冷たい水が入ったたらいと布をエレナに用意させ、手ずからクリストフの額に浮かぶ汗を拭った。

 そして、再度エレナとイルザに向き直った。


「さて、これで君達は我が家門の一員となったわけだ。我が家門の役目や重要事項、儀礼等については殿下の体調が回復し次第、学んでもらう必要がある。しかしまずは、シュヴァル男爵令嬢の疑問に答えるべきだな」

「閣下、どうかイルザとお呼びください。閣下は私の主となられました」

「いや、正確には君の主は私ではない。このことは後ほど説明する。だが、今後はそのように呼ばせてもらおう。——それで……」


 ローゼン公爵は眼鏡を少し持ち上げた。


「王宮の侍医を呼ばずに当家の医師を呼んだ理由だが」


 視線がクリストフに向けられる。


「殿下は魔力をお持ちだ。侍医の診察を受ければ、それが周囲に明らかになってしまう」 

「えっ!?」 

「今はまだ、それは望ましいことではない」 

「王太子派と神殿派の対立が強まることになる……と……」 


 イルザの言葉にローゼン公爵は頷いた。もし、神殿派がクリストフの力を知れば、聖女の再来を謳いクリストフを担ぎ上げようとするだろう。 

 二人に視線を行き来させながら、エレナは驚きを隠せないままだ。


「で、ですが、ご出生時の魔力判定では……」 

「確かに、魔力を判定する水晶は何の光も示さず魔力なしと判定された。その理由は分からぬが、殿下は相当な魔力をお持ちであり、魔法も……王家の炎をも操ることができる」 

「ぞ、存じ上げませんでした……」 


 お側にいながら、とエレナは小さく呟いた。まだ成人に達してもいない少女の顔に浮かぶのは己に対する失望の色だった。 


「君が気に病むことではない。殿下は人前では全くそのお力を使わぬようにされていた。おそらくは……御母上のお考えでな」 

「ローナ様の……」 

「君達にも、その考えを守ってもらいたい」 

「殿下のお力を今しばらくは内密にされるということですね?」 


 イルザが改めて問う。 


「いずれは明らかにせねばならぬ。だがそれは、私との婚姻の儀が無事に行われてからだ。そして、魔道具製作でよりお名前を広めてもらうことも重要だ」

「殿下ご自身のお力で社交界や市井でのお立場を確立し、閣下とご夫婦になられれば……」 

「安易にお命を狙う輩も出るまい」


 イルザの問いを締めくくったローゼン公爵の言葉に毒針事件のことを思い出したのか、エレナが硬い表情で唇を噛んだ。 


「それに、私と婚姻を結んでしまえば殿下を王太子にと目論んでいる輩がいたとしても諦めるだろう。さすがに私が国母になるわけにもいかないだろうしな」


 ローゼン公爵は左眉を持ち上げて少し笑みを浮かべた。そしてすぐに、表情を戻す。


「両陛下にこのことをお伝えできない理由だが」


 ローゼン公爵はイルザに向き直った。


「君は、殿下の御母上が王宮を出られた件について、どのように知っている?」

「あまりよくは……。殿下をご出産されてまもなく、お一人で王宮を出られ、行方不明になられたとだけ。ですが、止むに止まれぬご事情があって出奔されたのではないかと考えています。例えば、殿下の御身に」

「そのとおりだ」


 言葉が遮られても不快な空気は流れない。これが危険をはらんだ会話だと誰もが分かっているからだ。


「殿下の御母上であるローナ様は毒を盛られた。当時は王太子妃だった王妃陛下の侍女の一人にだ」

「えっ!!」


 エレナがまた大きな声をあげた。


「その侍女については無論処分は済んでいるが、あのまま王宮に残れば、いずれは殿下の御命も狙われることとなったであろう」

「陛下の身辺に、いまだ疑わしき者が潜んでいる可能性があるということですね?」


 イルザの問いかけにローゼン公爵が頷きを返す。


「すでに陛下には進言しており、王宮で働く者の身辺調査は何度か行なっている。だが何も出ない。巧妙に隠しているのだろうな」

「両陛下はこのことについて何と」

「謝罪をいただき、調査について私に一任してくださった。君達に話すのは憚られる話だが、その侍女が犯行に至った理由が王妃陛下のお言葉だった。勘違いはしないでほしいが、いわゆるただの愚痴だ。暗殺の指示などはしていない。まぁ、夫が身籠った女を連れてくるなど、気分のいいものではあるまい。その愚痴に、いらぬ忖度をした侍女が勝手に動いたのだ」

「ですが、あまりに軽率な……」


 さすがのイルザも呆れを顔に覗かせた。


「そうだな。若く未熟であった……というにはあまりにも愚かだった。王妃陛下はその後は身を引き締めておられる」

「し、しかし! そもそもは国王陛下の浮気が」

「ハーマン子爵令嬢、それ以上は言うな」

「……だって、ローナ様がお体を壊してしまったのは、きっとその毒のせいに違いありません……」


 叱責を受けて黙り込んだエレナが、ぽつりとこぼした。


「父が言っていました。ローナ様ご自身の体調が思わしくないのに母を治療してくれたと。殿下も……」


 言葉を少し詰まらせながらエレナは続ける。


「母さんはいつもあまり具合が良くなかったって。ただの思い出話のようにこぼされたときがあって……。その裏にこんな事実があったというのに、ローナ様が害された王宮で暮らしているなんて知ったら、殿下はどう思われるか……」


 俯いたエレナに、ローゼン公爵が少し苦い顔をした。


「ローナ様のお体については私も把握していた。何とかしようとしたが、ご本人が断固として望まれなかった。王妃陛下の幸せを壊した罰を受けると言ってな」

「どうしてローナ様は国王陛下と……。人の家庭を壊すような方だとは思えません」

「……それについてはいずれは然るべき説明がなされるであろう」

「閣下は事情をご存知なんですね?」

「あぁ。だが、今、私の口から話すことではない」


 イルザの問いを断ち切って、ローゼン公爵は厳しい視線で窓の向こうに輪郭を作る王宮を見据えた。


「……とにかく、両陛下に殿下の魔力についてはお伝えできないが、お二人は殿下の身辺の安全を憂慮されており、身の回りで不審な動きがあれば教えてくださる手筈になっている。いいか、ハーマン子爵令嬢。如何な罪があろうと、殿下の最大の後ろ盾は両陛下なのだ。両陛下がいるからこそ、殿下に対するあらゆる物事に融通が利くようにもなっている。それを忘れるな」

「……はい……」

 エレナは少し憮然としていた。


「少しは表情を取り繕ったらどうだ。君は貴族令嬢として、殿下をお守りする気がないのか? 君の誓いは感情に左右されて捨てられるようなものなのか」

「ち、違います!」

「では、すました顔でもしてみせろ」


 自身で両頬を大きく叩いたエレナの横で、イルザが尋ねた。


「閣下は王宮内の不審者について、何かお心当たりが?」

「あぁ、ある。少しはな。だが、どうにも奇妙な点がいくつかあり、少々厄介な問題だ。それに、私もあまり派手には動けない」

、ですか」

「殿下との婚姻が無事済めば、すぐにでも愚か者を炙り出してみせよう」


 微かな呻き声が聞こえた。三人は速やかにクリストフのベッドに近寄り、クリストフの様子をうかがった。


 ローゼン公爵は、婚約者であるクリストフの額に白い手を伸ばし、汗を拭うように額に滑らせて、それから真っ赤になってしまっている頬を撫ぜた。しばし言葉もなくクリストフを見つめ、それから苦しみを助長しないように静かな言葉を紡ぐ。


「……私が花嫁などと、幸いの女神様のご神託に一時は疑問を感じもしたが…」 


 熱く柔らかい頬から手を離してもなお、その視線はクリストフの顔に注がれている。 


「常にお側に控え、お守りする公然の理由ができた。殿下には申し訳ないが、私はこれを存分に利用させてもらう」 


 立ち尽くす三人の間に、クリストフの苦しげな吐息が静寂をもたらした。寝苦しいのかベッドの上で小さく丸くなっている。 
 エレナとイルザは追加の氷水を用意するためにそっと部屋を離れた。 

 そして、医師が到着するまでの間、ローゼン公爵はずっとクリストフの側に付き添っていたのだった。





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