オム・ファタールと無いものねだり

狗空堂

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2.龍の髭を狙って毟れ!

兎の毛繕い

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 豪華客船は便所も豪華だった。当たり前である。便所なんて古臭い名前で呼ぶことは憚られるような、清潔でラグジュアリーな空間。

「気後れするわ~」
 かといって生理現象がなくなるわけないから、気にせずに使うんだけど。ガチガチに凝り固まった緊張をなんとか解しながら手を洗っていると、繊細な装飾が施されたドアがガチャリと開く。鏡越しに入ってきた男とバチンと目が合った。


「あ」
 甘いピンク色のウルフカットと、それに丁寧に編み込まれた白と金の花飾り。形の良い耳にはギラリと光る銀のイヤーカフが嵌められている。垂れた杏子色の目と少し分厚めのセクシーな唇。目尻にある泣き黒子は男の濡れた色香をより一層際立たせている。

 兎和だ。下の名前は…………ちょっと思い出せないけど。生徒会の会計であり、学内プレイボーイとして名を馳せるうちの一人である。ちなみに砂盃も名を馳せている。

「……お疲れ様です」
 何も言わないのもどうかと思ったので、形ばかりの挨拶と会釈をして手を拭う。が、何故か兎和は入り口から微動だにせず立ち尽くし、俺をじっと見つめていた。

「あの……?」
 広いレストルームとは言え入り口は一つだ。兎和が退いてくれなければ出る事は出来ない。
 なんだ? 一歩でも動いたら漏れそうなくらいヤバいのか? イケメンでも漏らすことってあるのか。でも確かに心なしか表情もいつもより凛々しい気がする。だがそうだとしても俺にはどうにも出来ない。どうしてやればいいのだろうか。


「すみません、何か」
「ねえ」
 鋭い視線のまま男はこちらへ歩み寄ってくる。なんだ動けるじゃねえか、なんて思う暇もなく、あっと言う間に洗面台に背中を預ける形で囲い込まれてしまう。数秒にも満たない鮮やかな手腕だった。

「え、あ」
 ぬるり、と尖った爪の先で顎の輪郭をなぞられて背筋が粟立った。逃げようにも後ろは洗面台だからどうにもならない。すらりと伸びる長身がかがんだことで自然と目を瞑った。コイツ、見境ないとは噂に聞いてたがまさかここまでとは。

 果たしてこの無法地帯の学園で警察組織は役に立つのだろうか。いや泣き寝入りは御免だ、こいつが油断した隙に殴り飛ばして――なんて思いながら目を閉じ続けるが、一向に顔面に体温が触れてくる気配が無かった。

「……?」

 何事か、と思って薄目を開ける。近い。美の暴力のような顔面が真剣な眼差しで俺を――というより、俺の身に纏うジャケットやシャツを見つめていた。男はチャラついた見た目からは想像も出来ない程繊細に、そして丁寧に、指先だけでその生地をなぞった。

「やっぱり……」
「あの、兎和先輩?」
「篤志がブランならもしかしてと思ったけど、マジじゃん。アンタがノワール? ただの従者ごときが?」
「ブラ、ノワ……?」
「だからモデルも日本人だったワケ。モデルにしては背も低かったし……。そもそもがこいつら用って事ねぇ。それにしても何のレッスンも受けてない素人が着てコレ……。流石鶯生香梅」

 切れ味の鋭い刀のような目で観察しながら、ぶつぶつと呟く兎和。彼の言葉の大半はよく分からなったが、香梅姐さんの名前だけはしっかりと聞き取れた。
 スーツを見ただけで名前が出るということは、デザイナー・鶯生香梅のファンなのだろうか。

「こ、香梅姐さんの事、ご存知で」
「ご存知ぃ? 知らない奴なんて居ないでしょ、あんな化け物みたいな天才」
 さらりと褒められて自分の事のように嬉しくなってしまう。やっぱりあの人はすごい人なんだ。

「でもやっぱ駄目。着る奴が価値を分かってないと魅力も半減してる。これじゃああんまりにも服が可哀想だ」
「か、可哀想って」
 そりゃアンタみたいな手足長男のように優美には着こなせないだろうが、殆ど初対面に近しい人間にその言いぐさは無いだろう。ムッとして言い返そうとすれば、垂れた目を細めて鼻で笑われる。


「アンタ、これにどれだけ価値があるか知らないワケ? これはね、前シーズンのパリコレで、コウメ・オウショウの代表作として着られたモンだよ」
「ぱりこれ」
「これを着て、無数の中から鶯生香梅本人に見いだされた一握りのモデルが、その人生を賭けて決死の覚悟でランウェイを歩いたの。メゾンの看板を背負って。それがどういうことか、雑種のわんちゃんでも流石に分かるよねぇ?」

 トン、とネクタイの上から心臓を押されてぶわりと全身の毛穴が開く。これと同じものを身に纏ったモデルが、パリでかの有名なランウェイを闊歩した。それを今、俺が、俺ごときが。

 半笑いの砂盃がお前の為に口を噤んでやる、と言っていたのを思い出す。アイツ、これがそんな代物だって気づいてたんだ。気づいてた上で、呑気に笑ってる俺を憐れみながら俺を想って黙ったのだ。

 ありがとう砂盃、嘘、馬鹿、早く言ってくれ。俺の心臓は今張り裂けそうなくらい速く煩く脈打ってる。このまま気絶してしまいたいくらいだ。手と舌の震えが収まらない。


「あ、あぇ、うそ」
「腹立つよねえ、お前みたいな価値も分からないド素人が、間抜けな顔でだらしない姿勢のままそれを着てるの」
「今すぐ脱ぎます!!!!」
「それこそ大馬鹿でしょぉ? 公然わいせつ罪で主の顔に泥塗るつもりぃ?」
「じゃ、じゃあ兎和先輩のと交換してくださいよ!」
「オレの足の長さじゃそんなの着れなーい」
「流れるような短足ディス……!」

 随分と手触りがいいとは思っていたが、まさかそんなに価値のある物だとは思わなかった。香梅姐さんってば、ただのお古だからって笑ってたじゃないか。ローストビーフのソース飛ばしてもいいよって篤志の頭撫で繰り回してたじゃないか!

「……それにさぁ。それ、そもそもアンタらの為に仕立てられたんでしょ。オレが着たらそれこそ服に失礼だ」
「え……」
「篤志のもそうだけどぉ。多分オーダーメイドだよ、それ。モデルが着た服をアンタらが着てるんじゃない。アンタらが着る服を、モデルが『借りて』ランウェイを歩いたんだ」

 そうなのか。これは、最初から彼女が篤志と俺の為に拵えてくれた代物なのか。ファッションに造詣が深くない自分には全く分からないが、兎和にははっきりと分かるみたいだ。

 俺と篤志をいつもただの子供として、平等に扱ってくれる優しい人。多分、ずっと旦那様のことを愛し続けている悲しくて強い人。
 そんな彼女に自分の為に服を作ってもらえる程、自分は価値のある人間なのだろうか。

 兎和は目を細めながら上から下まで嘗め回すようにスーツを見つめている。香梅姐さんへの滲み出る嫉妬と尊敬。憎々し気に、されど目を輝かせて細部まで観察するその姿は、いつもの兎和の印象とは大違いだった。
 
 鶯生香梅が好きなのか、或いはファッションという大枠が好きなのか。それはさておき、ラウンジで目が合ったのも勘違いではなかったようだ。篤志が白を身に纏っているのを見た時から、その対となる者を探していて、そして俺に辿り着いた。

 がっかりしただろうか。あの鶯生香梅が篤志と並ぶようにと選んだ男が俺みたいな平凡な男で。ファンであろう兎和になんだか申し訳なくなってしまった。

「ねえ、変なコト考えてるでしょぉ。オレが気に食わないのは、アンタがそれを着てることじゃない。アンタがそれに着られてる事」
「哲学?」
 どうやら兎和は、身分に相応しくないとかそう言うことで気に入らない訳ではないようだ。服に着られている。似合っていないということか。

「まず姿勢。もっと背筋伸ばして顎引いて。卑屈っぽい半笑いも止めて。アンタ目つきは悪いけど、今はメイクのおかげで上手く料理されてるんだから」
 腕を引かれて鏡の前に立たされる。確かに香梅姐さんのヘアメイクとスーツのおかげでいつもよりも煌びやかではある。雑種からトリミングしたての雑種くらいにはランクアップしているはずだ。

「リップも取れてる。見てて思ったけど、アンタ不安になると唇に触れる癖があるでしょ。それやめな」
「すいません……」
「ん」
「え?」
「メイクポーチ。持たされてるんでしょ? 直してあげるから渡して」
「あ、アリガトウゴザイマス」

 姐さんから持たされた、もとい押し付けられたポーチを差し出せば、兎和は真剣な表情で中身を物色する。俺からすると全部同じに見えるが、有識者からすれば素晴らしい装備たちらしい。

「船の中は暗いからラメも強くしよう。リップにもラメ乗せて……。うわデパコスばっか、猫に小判かよ。……ちょっと触るよぉ」

 色気なんて全くない無駄のない手つきで、俺の瞼や唇に触れていく兎和。その指先の動きは随分と手慣れていて、ああこの人は遊びでこれらに向き合っている訳じゃないのだ、と突きつけられた。

 ……ちょっと、勘違いしてたかも。良くないピンク色じみた噂ばかり聞くけれど、それだけがこの人の全てではないのかもしれない、と思いながら、俺はその指先に身を委ねた。


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