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3.鹿の拳は使いよう
馬鹿の一つ覚え
しおりを挟む鳥の囀る声でふ、と目が覚めた。机に突っ伏して眠っていたから、起き上がると同時に身体がバキバキと悲鳴を上げる。
空き教室の黒板の上に吊るされている時計は十六時を過ぎたあたりを指し示している。こりゃ自動的に午後の授業を丸まるサボったことになったな、と思いつつも、特に碌な罪悪感も湧かない。
サボったところで注意してくる教師なんて殆ど居ない。俺達S組の生徒は腫物扱いが常だ。
ガキのくせに背後に聳え立つ家柄がデカすぎて、誰も彼もが俺達を遠巻きに特別にする。こんなに色々なことがあからさまな学校で、『大人の汚さ』以外に一体何を学べというのだろうか。
篤志が風邪を引いた。おかげで今俺は一人部屋だ。こんなにも静かで広い部屋が寂しいと思えたのはいつぶりだろうか。
篤志が居ないだけで教室は酷く静かだ。いや、元々の教室に戻ったと言った方が正しいか。俺は元々騒がしいのは嫌いだった。嫌いだったはずだが、もう戻れなくなっている。
篤志が居ないだけで、教室は、寮の部屋は、世界は、静かだ。
そもそも、S組はあんなに騒がしい教室ではなかった。それぞれが勝手に他人を警戒して己のテリトリーを作り、各々その作り上げた城の中で誰と関わるわけでもなく生活していた。
同じ生き物だと括られて檻に入れられたとて、そこで仲良くなれる訳ではない。他人に踏み込まれて不快になった記憶が他よりもずっと多いから、全員積極的に関わることもせずに自己防衛だけに徹していた。無言の不可侵条約。それがS組だ。
そんなクラスにぶち込まれてしまったら、クラス替えも無いから目に映る面子に新鮮味も無く、ただただつまらない日常生活を繰り返すだけの日々。
そんな灰色然とした日々を、極彩色のペンキを担いで意気揚々とやって来た篤志があっという間に塗り替えたのだ。
篤志が入学してきてからというものの、俺の世界には色と音で満ち溢れている。それにすっかり慣れてしまった今、その篤志が居ないだけで以前よりももっと世界がつまらないものに見えてしまって仕方がない。
「……騒がしいな……」
せっかくの昼寝スポットを台無しにするような喧騒に、舌打ちを零しながら窓の外を見やる。
壁際まで追い詰めた一人を、三人の生徒が囲い込むようにしてニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら詰め寄っている。どう見ても四人で仲良くピクニック、なんて現場ではなさそうだ。
日当たりのよい麗らかな裏庭で、白昼堂々の集団リンチ。流石、箱庭で丁寧に飼育された選りすぐりの家畜共はやることが違う。
乾いた笑みを漏らしたところで、三人に囲まれているのが後田であると気がついた。アイツ、また面倒ごとにわざわざ首突っ込んでるな。まあ、あの落ち着いた様子だと自ら進んで買った喧嘩なんだろう。
後田は手助けされると逆に舐められてると思うようなひねくれた奴である。下手に割り入ると後が面倒くさそうだ。
ひとまず傍観の姿勢を取って、窓枠に肘をかけて喚く有象無象を見つめた。
『呼び出された理由は分かるかァ? 後田宗介』
『いえ。皆に気に入られている篤志が気に入らない、でも前野の後ろ盾は怖くて仕方がない。それならアイツの身分の低い従者をいたぶって鬱憤を晴らそう! ちょうど篤志も居ないことだし、俺たちはこいつより立場が上だから、篤志もたかだか従者ごときじゃ大事には出来ないだろうしな! なんて考えてそうなゲロカスで脳みそスカスカの皆さんのお考えなんて、とてもとても』
『一から百までよく分かってんじゃねえか』
「……くはっ……」
つらつらと息を吐くように煽り倒す後田に思わず笑ってしまう。アイツ、結構皮肉っぽく煽るよな。嫌いじゃない血の気の多さだ。
案の定、そんな後田の煽りに苛立った気の短い男たちが一斉に後田へと襲い掛かる。体格で言えば後田の方が劣勢だったが、その体格差を上手く利用して男たちを軽くいなしていく。
きちんと相手を見て対応しているし、身体の使い方も上手い。流石前野の従者、と言ったところか。
湿った土の上で見事な身のこなしを披露する後田を見下ろしながら、ぼんやりと昼休みのことを思い出していた。
『いや、ありがたいが別のとこに行くわ。席も空いてきたし、俺達そんな仲でもないだろ』
そう言って断った後田の、どこか寂しそうな、諦めきったような表情がずっと引っかかっていた。
猪狩は『アイツ結構ドライだよな~、一緒にナイトプールで遊んだ仲なのにさ』なんて口を尖らせていたが。俺はあれが自発的なドライさではないように思えた。
己に言い聞かせてわざとらしく線を引いているような。必要以上に期待しないように、何かあった時に言い訳を用意する為に。そんな風に、『己が篤志のおまけである』ということを自分自身に知覚させるための対応に見えた。
俺達と後田は、確かに純粋な友人関係ではない。篤志から伸びた縁が、遠回りをして結ばれているような状態だ。だが、あれだけの時間を一緒に過ごして、親睦会で一つの目標の為に足並み揃えて駆け抜けて。
その末に得た勝利をあんな風に分かち合って喜んだ間柄だというのに、アイツはまだ俺たちのことを他人だと称するのか。
『ッ、この……!』
じわじわと押されていく恐怖が打ち勝ったのか、三人という数の利をもってしても圧勝できないことに苛立ったのか分からないが、窓の外から憎々し気な遠吠えが聞こえた。その変に熱のこもった声が嫌な予感を擽る。
思考の海から現実へと戻りちらりと窓の外を見れば、バチン! と大きな音がして後田の身体が大げさなほどに震えた。信じられない、と言わんばかりの表情で、自分の隣に立つ男を見る。
そのままぐにゃり、と膝から崩れ落ちていくその身体は、上手く力が入っていないように見える。その後ろに立つ男がニヤニヤと下卑た笑みを浮かべているのを見て、途端に嫌悪感で吐きそうになった。
「……おいおい、冗談で済まさねえ気か」
『はっ、は、はははっ、生意気なんだよ、手こずらせやがって』
弛緩した身体を羽交い絞めにされた後田。それに荒い息で近寄る一番大柄の男。燦々と頭上で光る太陽光は、その手に収まる何かを煌めかせた。
「――駄目だろ、そりゃ」
それがナイフだと認識した瞬間の俺の行動は早かった。五センチ程度中身が残っていたペットボトルを窓から全力で投擲する。そこそこの重さを持つそれはそれなりの重量を伴って、ナイフを振り上げる男の胴体に命中した。
『がっ?!』
『な、なんだ?!』
突然崩れ落ちた仲間にぎょっとし狼狽える男たちの声を聞きながら、俺は窓枠に足をかけて雨どいを伝って飛び降りた。
俺は二階からだったからそうでもないが、リカルドはこれを屋上からやったのか。改めて考えてもあの優男の肝の座り方には驚かされる。
「なっ……お前、鹿屋?!」
二年生にも俺の悪名は轟いているらしい。乱入してきた第三勢力を見て、男たちはさっと顔を青褪めさせて後ずさった。
「楽しそうなことしてんじゃねぇか。俺も混ぜてくれよ、なァ」
未だにぐにゃりと弛緩した身体のまま、後田が揺れる目で俺を見上げる。その黒瑪瑙の奥に僅かな恐怖を垣間見て、ああやっぱり、こいつは色々と『隠す』男なのだと悟った。
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