オム・ファタールと無いものねだり

狗空堂

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4.猪も七回褒めれば人になる

籠犬檻猿 2

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「……もういい。さっさと戻る」
 不機嫌であることを隠さないのに、それでも練習に戻ろうとしてくれる。その行動原理はきっと篤志であるだろうが、それでも根っからのクソガキというわけではないのだと分かる。

 沙流川が俺の右隣に立った。睫毛がけぶる大きなアーモンドアイが俺をじっと見つめる。俺はぽかんとしてそれを見下ろした。

 あ、と思った。それは、明確な、『違い』。

「――分かった!」

 突然声を上げた俺を、沙流川は目を丸くして見上げる。眉を顰めて沙流川が不審者を見る目で見つめてくる。そんな顔をしないでくれ、色々なことが結びついた末の叫びなのだから。

 俺は沙流川の目をじっと見下ろして言った。
「お前、綺羅の方か?」
「…………は? 何言ってる?」
 いつも通りの顔で眉を顰められた。その顔色に動揺の気配は一切ない。あれ、違ったか。これは絶対結羅じゃない、ならもう片方の綺羅じゃないかと思ったのだが。

「篤志の真似事はやめろ。お前は所詮ただの従者なんだから――」
「綺羅」
 透き通るような声が名前を呼んだ。目の前の少年ははっとしたように口を噤む。ゆらり、と振り返る少年の視線を追って俺も振り返った。

「もういい、いいよ、綺羅」
「…………なんで」
 目の前の少年とそっくりの少年が立っていた。少年は痛みを堪えるような顔をしてこちらへ近寄ってくる。手には赤いハチマキを持っていた。あれはA組のクラスカラー。

「ねえ、あの人が全部じゃないんだ。きっとこういう形もあるんだ。納得できないかもしれないけど、でも、受け入れないと。僕らは初めてできた友達さえも失っちゃう」
 歩いてきた少年が、細い指先を俯く少年に絡める。二人で一つ、左右対称、誰もが見分けがつかないドッペルゲンガー。だけどこうして近くで見つめると、色んな所が少しずつ違って見える。
 何処までも同じ人間なんてどこにも居ないのだ。

「……認めない」
「綺羅」
「認めない! 主と従者は友達になんてなれない! アイツらは皆金や地位目当ての卑しい奴らで、僕らを心の底から分かってくれるはずがない! そういう生き物だ、じゃないと、じゃないと……!」
 血を吐くように沙流川が叫ぶ。その引き攣った表情が痛々しくて手を伸ばしかけた。

「ッ触るな従者風情が!」
 鋭い声で振り払われる。沙流川は――結羅のフリをしていた綺羅は、わなわなと震えた末に、耐えられないとばかりに走り出した。

「おい沙流川!」
「いいよ、お前が行っても何も出来ない。……僕が行っても、何も出来ない」
 寂しい声音の沙流川は、あっという間に小さくなっていく白い背中をじっと見つめる。俺と篤志の関係と違って、お前らは兄弟だろうに。そう思ったが、きっと二人にも複雑な事情があるのだ。外野が何か言うのはやめておいた。


「……ねえ、なんで見分けがついたの?」
 ぼんやりとした眼差しが俺を見上げてくる。ああ、この瞳だ。沙流川結羅はいつも諦めきっていて、沙流川綺羅はいつも諦めきれずにじりじりと瞳の奥を燃やしている。その精神の違いが、どことなく空気に漂っているのだろうか。

「……お前、無意識なんだろうが、誰かの隣に立つとき必ず左隣に行くんだよ。でもさっきは右隣に立った。二人で一つ、いつもそうやって並んで立ってるんだろ」
 勿論それだけじゃない。視線の動かし方や表情、運動靴の履き方、全部に少しずつだけ違和感があった。でも俺は観察眼にたけている訳ではないから、それら全ては決定打にならなかった。なったのは。

「それと……」
 これは触れてはいけない部分かもしれないと思い口を噤む。沙流川は鋭い視線で促してきた。
「何。いいから言って」

「…………お前の、旋毛付近に。薄くだけど、傷跡が見えるんだ。これくらい近くに寄ってまじまじ見ないと気づかないけど、何回も二人三脚をやってるうちに気づいた」
 俺が自分の旋毛あたりを指で引っ掻けば、沙流川の顔が少しだけ強張る。やっぱりこれは触れちゃいけない傷だったか。でも、見分ける材料になったのは本当だ。

「そう……」
 沙流川は昔を懐かしむみたいに自分の傷をなぞる。

 でもそうか、俺は大分時間がかかったが見分けることができたというわけか。入学当初は全然見分けがつかなかったというのに、今じゃそれぞれの名前も覚えてぼんやりと区別がつく。

「俺、篤志みたいに一発で見抜けるわけじゃねえけどさ。こうやってたくさんお前の事見続けて色んなことを知っていったら、ちょっとは見分けられるようになるかもしれないな」

 俺がしみじみとそう言えば、沙流川は複雑そうな顔を浮かべた後俺のふくらはぎを容赦なく蹴って来た。
「……思い上がるな」
「うんだよな、すみません」
「……戻るぞ、練習」
「だな」

 やっぱり練習には付き合ってくれるんだ、と思いニヤニヤしながらその小さな背中を追えば、また「気色悪い」と吐き捨て脇腹に肘鉄を喰らった。



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