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4.猪も七回褒めれば人になる
月を、望むな
しおりを挟むそれからのことはよく知らない。出血多量と酸欠で気を失った僕が次に目を覚ました時、日紅という女は痕跡一つ残さず家から消えていた。
お父様とお母様は酷く怒っていて――だから売女の血を引く人間なんて雇うなと言ったんだなんて騒いでいた――、僕のベッドサイドでは綺羅がずっと泣いていた。
『ごめん、ごめんね結羅。僕があんなの信じちゃったから、楽になろうとしちゃったから、心を許しちゃったから。結羅に傷をつけちゃった。もう二度としないって約束するから、お前以外誰一人信じようとしないから。だから、だから、僕を置いて行かないで……』
僕の手を握りしめた綺羅が涙で溺れながら必死で懇願している。頭に包帯を巻いたままの僕は、ぼんやりと、ああやっぱりお父様もお母様も僕に一言も大丈夫と言わないなと。綺羅だけがその美しい涙を流してくれるんだなと。
僕の味方は綺羅だけで、そしてまた、綺羅の味方も僕だけなのだと理解した。
ごめん綺羅。そんな顔をさせたいわけじゃなかったんだ。ただ僕は、綺羅が我慢しないで生きられるようにしたかっただけなの。
どうしていつも僕は要領が悪いんだろう。だからきっと処分される方なんだね。
それから。それからもうずっと、綺羅は世界全部が嫌いになっている。
同じくらいかそれ以上の家柄の相手じゃないと目を合わせることもしないようになり、今まで以上に大人を嫌い僕に同じであることを求めた。それらは全て綺羅が自分と僕を守るために身に着けた防衛手段だ。
だから綺羅は許せないんだよね。篤志と後田宗介の関係性が、そして後田宗介の在り方が。
後田宗介は心の底から篤志の為だけに尽くして愛を捧げている。そこに打算や媚びは一つもない。その決して大きくない体の中に渦巻く感情は、眩いくらいの真実だけだ。
でもそれが本当だと認めてしまったら。主人と従者という立場でも、対等に想い合って友達になれると他人に証明されてしまったら。僕らは単純に裏切られた愚か者だったということになる。
全ての人間は欲に支配されていなくて、身分が違くても恐れる事なく共に居ることは可能で、主人と従者だって同じ人間。
その方程式を完成させたくないから、綺羅は後田宗介を嫌って憎んで疎んでいる。
だって全ての低い身分の貧乏人は、浅ましくて卑しくて、自分たちを搾取しようと虎視眈々と狙っている悪人だから。
だから僕らは、綺羅は、日紅に裏切られた。仕方のないことだ。世界はそういう風に出来ていて、世の卑しい身分の奴らはみんなそうだから。それが当たり前なんだ。
そうやって慰めていた綺羅の心が壊れてしまう。篤志と笑い合うあの後田宗介の笑顔を見る度に。誰にだって平等な篤志が、唯一特別に柔らかな声音でその名前を呼ぶ度に。
世界はそんなに最低なものじゃないと、ただただ僕らが最低な人間にばかり出逢い続けて、最終的には自分も同じような最低な人間になってしまったのだということを突きつけてくる。
あれだけ畏怖し威嚇して軽蔑していた大人たちと、今じゃ僕らはすっかり同類だ。生まれと能力で人の全てを測り、自分が上であれば躾と称して嬲り服従させて玩具にし、気に入らないものは抑圧して排除する。
どこで間違えちゃったんだろうね。僕ら、ただ必死で生きてきたはずなのにね。
広いベッドの上、隣で丸まって眠る綺羅の頭を撫でながら昼間の光景を思い出す。キラキラ、チカチカ。夏の太陽が溶け始めた夕暮れの中で見る男の笑顔は弾けるようだった。
あれこそが、多分、綺羅と僕が向けられたかった真実の笑顔。
『こうやってたくさんお前の事見続けて色んなことを知っていったら、ちょっとは見分けられるようになるかもしれないな』
「……思い上がるな……」
そう、思い上がるな。期待して裏切られるのは疲れるだけ。何よりも、『自分より身分が下の人間を信用する』という行為をすることで、綺羅の中で未だ疼く古傷を抉ってしまう事になるだろう。
後田宗介は身分の低い貧乏人だ。僕たちと、そして篤志と育ってきた環境も接してきた人間も全く違う、本来交わることのない世界に居たはずの人間同士だ。アイツらは浅ましくて卑しくて、自分たちを搾取しようと虎視眈々と狙っている悪人だから。
だからあの男だってきっといつか篤志を裏切る時が来る。その時篤志はきっと心の底から傷ついて、二度と立ち直れなくなる。
そうなる前に篤志の目を覚まさせないと。僕らみたいに、泣いていた日紅みたいにならないように、お互いの為に引き剥がしてやらないと。
思い上がるな。期待するな。
アイツなら、篤志にするみたいに損得勘定なく僕らに愛を伝えてくれるんじゃないかって。
いつかの日紅みたいに僕らを難なく見分けて、柔らかな日々を与えてくれるんじゃないかって。
幼い僕らが信じたみたいに、身分なんて関係なく友達になれるんじゃないかって。
そういうものは全部、信じたら信じた分だけ傷つくんだから。
だから、思い上がるな。何度も心の中でそう呟いて、目を閉じた。
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