オム・ファタールと無いものねだり

狗空堂

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2.龍の髭を狙って毟れ!

月をねだるなと猿が笑う

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 なんとかは風邪を引かない、というやつである。一部とはいえずぶ濡れのままそれなりの時間を過ごしたというのに、俺は面白いくらいにぴんぴんしていた。

 さて、親睦会前日の放課後である。俺の目の前には『生徒会室』という豪華なプレートが下がった重厚な造りの扉が一枚。手には洗ったあの日のジャージと、ちょっとしたお礼のお菓子。俺は今、緊張で身体を強張らせながら巳上にジャージを返しに来ていた。

 ジャージは俺たちの部屋に置いておくと砂盃が燃やしかねない勢いだった為、篤志の部屋で保管しておいてもらった。購買でちょっとしたお礼の品を買って、なんてやっていたら、あっという間に二日経っていた。
 生徒会に顔の利く篤志にもついてきてもらっていたが、道中担任に呼び止められて一旦離脱していった。あの天道とかいう英語教師、何かと篤志にちょっかいかけがちじゃないか。要注意人物リストに加えておこう。

 篤志は申し訳なさそうに後で追いかけると言っていたが、それはいつになることやら。その間にパパっと行って渡してしまった方がいいだろう。そう思い緊張しながら生徒会室までやってきた所存だ。



「スー……、ハー…………」
 神経が御神木並みに太いと巷で評判の俺だが、それでも緊張するときだってある。篤志の隣に居るから感覚は鈍りつつあるが、アイツらは一応名だたる名家の坊ちゃんたちだ。一般家庭出身の従者である俺が気軽に話しかけられるような相手ではないのは分かっている。

 緊張で騒ぐ心臓を押さえつけてから軽くノックをする。そうすれば、扉の向こうから「はーい」と間延びした返事が聞こえた。巳上ではなさそうだ。


「失礼、します」
 見た目通りに重い扉を押し開けて中を覗く。あまりの広さと豪奢さに目がシパシパとした。俺が知ってる生徒会室とはまるっきり違う。デカい机が並ぶのはもちろんのこと、日差しが明るく差し込む天まで伸びる大きな窓や、みっしりと壁を埋め尽くす本棚たち、天井から吊り下げられたシャンデリア。
 生徒会室、というよりは、どこかのホテルの談話室と言われた方が納得できる。

「……なあに、お前。誰だよ」
「把握した。これ、後田宗介」
 広いソファに身を寄せ合って座っている二人の男が、こちらを見てひそひそと囁き合う。人に向かってこれとは随分失礼だな。

「あの、巳上先輩に返す物があって来たんだが、いらっしゃるか?」
 きゅるりとした二対の目が訝し気にこちらを見る。こうして真正面から見ると、本当にそっくりだな。髪の分け目を統一してアクセサリー類を全部外されたら、どっちがどっちかなんてまるっきり区別がつかない。
 これを野生の勘で当て続けている篤志の『目の良さ』には脱帽する。
 
 一年S組所属、生徒会庶務・沙流川兄弟。よく喋って人を煽る生意気な方が兄の綺羅、口数少な目でピンポイントで煽ってくる生意気な方が弟の結羅。俺はとりあえず言動で見分けている。


「みかみか先輩にお前がぁ? ありえない、どういうことだよ」
「濡れ鼠だった俺を見かねたお優しい巳上先輩が、ジャージを貸してくれたんでね。平民の俺はその慈悲に泣いて喜んで礼を言いに来たってわけだ」
「うっさんくさい物言い。あーやだやだ、何で篤志はこんなのがいいのさ」
「特別秀でているところ、無い」
「悪かったなクソガキども」
 ゲロゲロ~、と分かりやすく嫌悪を主張する双子を放っておいて周囲を見渡す。巳上どころか双子以外全員居ないようだ。

「会長たちは明日の事前打ち合わせで居ないよ。もう少しで帰ってくると思うけど」
「そうか。じゃあ少しだけ待たせてくれ」
「ハアア?! 絶対嫌だけど?!」
 兄の方が信じられないとばかりに声を荒げる。なんでだよ、別にいいだろ邪魔しないし。

「あ、の、ねえ! いい? ここは生徒会室なの。分かる? 学園を取り仕切る高貴な身分の人間が居るべき場所なワケ」
「取り仕切ってんのは学園長だろ」
「そう言う話じゃない! ともかく、お前みたいなみすぼらしくて下賤な奴が足を踏み入れて良い場所じゃない訳!」

 バン、と顔を顰めた兄がテーブルを叩いて喚く。有能なら誰だってウェルカムな鳳凰院や庶民にも気安い砂盃なんかを見てて忘れてたけど、一応この学園の大半はこいつらみたいな血筋至上主義なんだよな。

「分かった。じゃあドアの前で待ってる。篤志は後から来るだろうから、そっちは入れてやってくれ」
「篤志も来るの? …………お前が外に居たら僕らが酷い奴だって篤志に思われちゃうでしょ。視界に入らないようにそこら辺で息を殺して立ってなよ」
「注文が多いな……」
 篤志の名を出せばころりと態度が変わるものだから笑ってしまう。流石猛獣使い、その場に居なくても手綱は握っているってか。

 まあ招かれざる客であることに変わりはない。大人しく待っているか、と部屋の隅で立って待つことにした。お、すごい高そうな壺。ていうかよく見ると色々と資料が積み重なっているし、双子もなんやかんやで机の前で手を動かし続けている。生徒会はしっかり仕事をしているという砂盃の話は本当のようだ。



「……あ、」
 ぽつり、と言葉が漏れたのも仕方が無いだろう。双子が仕事をするテーブルとは別に、お茶会を繰り広げそうな丸テーブルが一つある。その上には、かの有名なパティスリー『シャムロック』のロゴが入った紙箱が置いてある。

 シャムロックは本場パリに拠点をおく超有名店であり、日本に上陸したのはつい最近のことだ。拘りぬいた素材と鍛え上げられたパティシエによって作られるケーキたちは誰もの舌を唸らせる逸品ばかり。庶民には手の届かない高級品であり、すぐに売り切れてしまう希少品でもある。
 そんなシャムロックのロゴが入った箱が、こんなにも無造作に置かれているなんて。俺からしたら、そこらへんの公園のベンチに大ぶりのダイヤモンドを転がしているような光景だ。


「……なぁに、そんなに卑しい顔して」
「え、そんなに見てたか」
「いかにも『食べてみたいです~』って顔してる。ま、当然か~! お前みたいな人間じゃ手なんて届きっこない代物だもんねえ」

 キャハハ、と甲高い声で意地悪く笑う兄の方。弟の方だって、声はあげないもののにやにやと見下すような笑みを浮かべていた。砂盃がこいつらの事変な名前で呼んでたな、なんだったっけ、確か……メスガキ? 雌じゃないだろとツッコんだ気がする。

「そんなに食べたいんだったらさぁ、篤志に土下座でもして買ってもらえば?」
「いや、別にそんなんしなくても買ってくれるだろうが……。なんか嫌だろ、そう言うの」

 篤志や旦那様、義理の両親たちは、強請れば強請る分だけ買い与えてくれるという割と厄介な性質を持っている。本当に際限なく買ってくるから、最初は嬉しがっていた俺も段々『これはヤバイんじゃないか』と察するようになり、幼いながらに気軽に何かを欲しいというのを控えるようになった。

 それが彼らなりの甘やかしだとは十分承知しているが、そうポンポンと何でもかんでも与えられるとビビってしまう。それに、物なんか与えられなくたって十分に甘やかされているのだ。


「……そういう、ところ…………」
 弟の方が心底腹立たしい、とばかりに顔を歪めた。目を細めた兄の方が軽やかにソファから立ち上がって、テーブルの上に乗せられた紙箱に手を伸ばす。
 箱の中からつやつやにコーティングされたチョコレートケーキが取り出されて、高そうな皿の上にそうっと置かれる。華やかで可愛らしい顔立ちの沙流川が持つと、海外の雑誌の表紙みたいに見えた。

「ねえ、これ食べたい?」
「え」
「食わせてやってもいいよ。お前は篤志の所有物だから、特別ね」

 ずいっと皿に載せられたケーキを差し出された。シャンデリアの光を反射して輝くつやつやのチョコレートと散らされた金箔、絞られたクリームの上に冠のように載せられた真っ赤なベリー。口に入れることが出来たら、どんなに甘美だろう。

「そ、れは」
「——あ、手が滑ったあ~」

 指先を少しだけ動かした俺を嘲笑うように、兄の方が持っていた皿を思いっきりひっくり返す。傾けたとかそんなレベルじゃない。皿の上面がまるっきり下を向く、確実に悪意のあるやり方だ。

「っ、」
 俺は咄嗟に手を伸ばす。だが、そんな行動も虚しく僅かばかりにクリームが指先を掠めて、キラキラのケーキは絨毯に衝突してぐちゃぐちゃに砕け散る。

「お前、何して」
「食べたいんでしょ? なら食べなよ。僕らはもうそんなの食べようとも思わないからさァ」
「飼い犬なら這いつくばって食え。得意だろ」

 けらけらと笑う二人が心底理解できない。こいつらは俺に食えというのか、絨毯の上に落ちたぐちゃぐちゃのケーキを。どうしてそんなことをする。俺が身分が低い人間だから? 
 

 ——ふざけるな。



 パアン、と乾いた音がした。二人の重なり合う笑い声がひたりと止まる。兄の方が、クリームの付いた左頬を——要するに、俺にぶたれた方の頬を押さえたまま固まっている。

 声を上げるよりも前に手が出てしまった。ああよくない、こうやってすぐに噛み付く悪癖は前野家の看板に泥を塗ることになるから止めなさいと、奥様にも散々言われているというのに。

 ふつふつと沸き立つ腹の奥を必死で宥めすかそうとするが、理性の戯言など全く役に立ちそうにない。暴れ回る怒りが口をついてまろび出た。


「な、に、」
「食いモンを、無駄にするな」


 呆然と俺を見る双子に、なるべく落ち着いた声で諭すように言う。だがそれは低く唸るような声で、到底優しく諭しているようには聞こえなかった。
 
 この世で嫌いなタイプの人間が三種類居る。言い訳ばかりで行動しない奴、覚悟が無いのに何かを得ようとする奴、そして——食い物を無駄にする奴だ。


「俺を侮辱したいなら好きにすればいい。だが、それに小道具を使うな。食いモンは腹を満たす為のものだ。お前らのクソくだらない自尊心を満たす為の道具じゃない」
 今落としたこのケーキ一つで、どれ程の命が救えただろう。ケーキ一つ食えない人間が居る世界で、俺達はそれを手に出来る立ち位置に居る。感謝こそすれど蔑ろにするべきではないそれを、俺を貶める為だけの道具として扱った。その事実があまりにも許容できない。

 何も金持ち全てが貧しい者の為に動くべき、なんて高尚な精神を持ち合わせている訳じゃない。そんなノブレスオブリージュを突きつけて行けば、持つ者の頂点に立つであろう前野の一族は、一生持たざる者の奴隷に成り下がる。
 持つ者にだって人生があるし、持たざる者にだって救いようのない悪人が居る。世の中にはどうにも出来ないことがある。そんなことは百も承知だ。

 ただ知るべきだ。己が何気なく過ごしている日常を享受できない人間が居るということは。そして今己が手にしているものに感謝して、大事にするべきだ。そんな当たり前のことさえ誰にも教えてもらえなかったこの兄弟には、少し同情する。


「…………なぐ、った? この僕を?」
「お前が? たかが従者の立場のお前が、綺羅を?」
「許せる?」
「許せない」
「だよねえ、許せないよねえ」

 表情をすっぽりと抜け落として、そっくりになった双子が矢継ぎ早にそう呟く。こうして見ると、本当に何から何まで同じだ。『表情は一番のメイクだ』という香梅姐さんの言葉がよく分かった。

「「教えてあげなきゃ」」

 ぞっとする程平坦な声が重なり合った瞬間、俺はふかふかの絨毯に勢いよく押さえつけられていた。


「か、はッ…………」
 受け身なんて取る瞬間が無かった。押しつぶされた肺から空気が零れだす。何が起こった。身動きが、取れない。眼球だけを動かして事態を把握しようとしていると、前髪を引き千切らんばかりの強さで捕まれ引っ張り上げられる。

「居るんだよねえ、お前みたいな身の程知らずの馬鹿犬」
「篤志も調教の爪が甘い。こういうのは、最初が肝心」
 目の前には目を三日月に歪める兄。頭上から声がして、弟の方が俺を地面に押さえつけているのだと理解した。あの一瞬で、ソファから飛び降りて俺を引き倒して押さえつけている。改めて双子の身体能力の高さにゾッとした。

 スポーツ的な面で言えば猪狩が学園で一番才能があるだろう。武道で言えば鳳凰院や龍宮、鶴永先輩。そこに体術が絡んでくればリカルド。一口に運動神経が良い生徒たちと言っても、彼らはジャンルごとに細分化されていく。

 そしてこの双子は、そのどれもの枠組みから外れた身体能力の高さを有している。軽業、アクロバット、曲芸。彼らはまるで重力を身に纏っていないように動き、壁を走り、塀を飛び越える。成程確かにこの俊敏さと身軽さは猿である。



 そんなことを考えているうちに、首にぐっと腕が回された。チョークスリーパー、裸締め。身を捩って僅かばかりの抵抗をするが、勿論拘束から逃れられるはずがない。俺は護身術をちょっと齧った程度の凡人だ。

「ぐっ、ぁッ…………」
「手も足も出ないでしょ? 分かる? それがお前の限界で立場だよ」
「僕たちとお前は身分が違う、流れてる血が違うんだよ! なあ、勘違いしちゃった? 篤志があんまりにも優しいから自分も選ばれた人間だって錯覚した?」
「己惚れんなよ。お前は、たかが、使用人」


 ぐ、とより一層首を締め上げられて、視界の端に映るぐちゃぐちゃのケーキが霞む。

 そう、そうだ、俺はただの使用人。従者。でもそんなことは分かっている、弁えている。ちゃんと理解した上で篤志の従者をやっていた。
 
 ——本当に? 立場を弁えているというのは、鶴永のような振舞のことを指すのではないか。篤志の為にとがむしゃらに走り回っているけれど、その実篤志の為になっていることが一体幾つあるのだろうか。

 俺がやらなくたって誰かがやる。むしろ、そっちの方が効率がいい事の方が多いだろう。それでも篤志は俺に守ることを許してくれる。それって、俺のみっともない自己満足に付き合ってくれてるだけじゃないか。

 肺の酸素と共に、身体に満ちていた自尊心とか決意とか、そういうものがじわじわと漏れ出て行く。どくどくと鳴り響く血の巡る音が、俺の思考をマイナスの方へと転がしていく。

 結局俺も、あの日のアイツらみたいに押しつけがましいことをしているだけの人間なのだろうか。



「ほら、早く謝れっての!」

「——すみ、ま、」




「なにしてるの」





 透明な声だ、と思った。
 同時にヤバイ、とも思った。
 顔なんて見なく立って誰の声か分かる、聞き慣れすぎて最早日常に溶け込んだ声だ。溶け込んでくれた声だ。


 だけど、この透明な声は数回しか聞いたことが無い。そいつが——篤志がこんな声を出しているのは、めちゃくちゃに怒っている時だ。





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