ご令嬢は一人だけ別ゲーだったようです

バイオベース

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「カリン、カリン!」

 ビョルンはそう愛しい人の名前を呼びながら学院中を駆けずり回っていた。
 貴人としてはまず「失格」な振舞いである。
 上に立つ者が目に見えて狼狽えれば、その恐れは下にも伝播する。

 ――貴人は走らない。
 今のビョルンはそんな当たり前の格言も忘れていた。
 通り過ぎる人々が、陰で顔を顰めて囁き合っている事にも気づけない。

 ほどなくして目当ての人物に出会えた事は幸運だったと言えよう。

「あ! どうしたの、ビョルンっ!」

 亜麻色の髪の少女が友人たちの輪からすり抜け出る。
 朗らかな笑みを湛え、呑気に友人へ手を振りながら。

 それを見て、ビョルンの中に愛おしさと苛立ちとが同時に沸き立つ。

「ダメじゃあないか。今日こそミセス・フリーダの手習いを受ける約束だろう?」
「う、ごめんなさい……」

 今日も今日とてカリンは正妃教育から抜け出していた。
 ビョルンの元へ届く彼女への苦情は、日増しに強くなるばかりだ。

「でも今日だけは見逃して、お願い!」
「……何か大事な予定があるのかい?」
「えっとね、 マルセロくんの孤児院でお手伝いをする約束で――」
「それは今、キミじゃないと出来ないことかい?」

 固い笑顔のまま、ビョルンは言葉を遮る。
 カリンははっと目を見開いた後、口元をまごつかせて俯く他無い。

 二人の間に居心地の悪い沈黙が流れ出す。
 ビョルンは表情を崩さないまま、内心で己に舌打ちをした。
 こんな仲違いの為に彼女を探しに来たわけではないのだ。

「そこまでです、若き王子よ」

 不意に二人の間に涼やかな声が降り注ぐ。
 それと同時に視界に映るのは、宙を舞う蒼い光の粒子たち。
 ビョルンはその冷たい気配の方向へ反射的に顔を向けた。

「精霊殿……」

 虚空から顕れたのは、青い文様の記されたローブに身を包んだ長髪の美丈夫。
 自然の美を集めたと言っても過言ではない一個の芸術品。
 『水の大精霊』と呼ばれる存在の現身だった。

「我らが巫女の行いを縛るおつもりですか」

 水の精霊は細い目を不快に歪め、この国の王子に向かって明確に異を唱えた。

「聖女とは精霊とある者。何者にも囚われず、あるがままに生きるべきなのです」
「自然のように過ごすべきだと」
「その通り」
「なるほど、確かにそれは道理ですね。しかし人の世で生きる以上、また違う道理にも従わなければならないのです」

 だがビョルンもそう簡単には譲らない。
 いや、今日この日まで随分と彼女の言うがままに譲って来た。
 それが今、負債となって圧し掛かっているのだ。

 しかしカリンの擁護者は一人だけでは無い。

「そんな細かい事言うなよな。お前の都合なんざ知るもんか」

 緑の粒子が弾けた後に顕れたのは『風の大精霊』。
 活発な少年の姿をしており、その言動も見た目相応に幼く直情的なものだった。

「某は彼女の自由な心に聖女の資質を見出した。それを否定しては冠履顛倒!」
「それでも文句があるって言うなら、オレ達も黙っちゃいないぜ」

 続いて『地の大精霊』『火の大精霊』までもが顕れて、口々にカリンを擁護する。
 さすがのビョルンも、これには押し黙る以外の選択肢が取れなかった。

 言い返したい事は勿論ある。
 だが精霊は人間とは異なる理で生きる存在。
 説得など端から無理な事だし、場合によっては教会から掣肘されかねない。

 そして問題はそれだけでは無い。
 ビョルンはおたおたしているカリンの背の方へと視線を向ける。
 そこでは後方でコチラのやり取りを伺っていた 『友人』たちまで、揃いも揃ってビョルンに非難の眼差しを向けていた。

 カリンのしようとしている事は一般的に善行と呼べるモノ。
 聖女のそれを邪魔する方が間違っている、という事なのだろう。
 確かにその見立ては正しいものだ。
 ビョルンの背負っているものと、彼女の野放図な振る舞いから起きる不都合を知らなければの話ではあるが。

「……分かりました。カリン、この話はまた今度にしよう」

 そうして今日もまた、ビョルンは唇を噛み締めるのを隠す様にして背を向けるのだった。



「今日も、ですか」
「ああ……」

 自室に戻るなり、ビョルンは椅子に深々と身を預けた。
 執事も慣れたもので、嫌味を言う事すら諦めてカップに用意していた茶を注ぐ。

「日程の調整を再度行います。これもまた聖女をお迎えする試練なのでしょう」

 返答の代わりに、差し出された茶を静かに味わう。
 熱く淹れた濃い色の液体は、ビョルンの喉奥の苦しみを一気に押し流してくれる。

「少しはこちらの事情も考えて欲しいものだ」

 聖女は精霊とあるもの。
 そして精霊は自然と共にあるもの。
 ある程度の齟齬が起きるのは覚悟の上だったが、こうも一方的だとはビョルンも考えてはいなかった。

「幻想に生きる精霊は、現実の政に口出しをしない。それが僕たちの間のルールじゃないか」
「さてどこまでが政なのか。それもアチラの匙加減一つなのでございましょう」
「だが王国と教会は長年そうして上手くやってきた」
「それもあくまで暗黙の了解、という事だったのでしょう。政の機微など、それに関わらぬ者には分からない事ですから」

 少し譲歩する気も無いのだろうか。
 ビョルンはそう益体も無い不満を呟やくと、すぐに思考を切り替えた。

「こうなると後宮の管理や他の公務は別の者に頼むしかないか……」
「よろしいのですか?」

 執事は声に少しの期待を込めてそう問い返してきた。

「仕方なかろう。他に妃を迎え入れる」
「御英断だと思います。さっそく陛下にも言上致します」

 ビョルンは「カリンが怒るだろう」と額を抑えた。
 だがこれも彼女の為。
 そしてどうせ怒らせるのならば、とも考えた。

「……この間聞いた話だが」
「エレノア嬢の事ですね? 村の畑は黄金色に輝き、家々に家畜を与える算段を付けるほどの余裕があるとか」
「やはり事実なのだな?」
「実際に確認出来ただけでも商人とドラン金貨十数枚の取引を行っています」

 開拓村で『反省』をさせていたエレノアは、間を開けずに王国の噂の的になった。
 不信心な『無能者』だったのが、神の恩寵を授かり強力な能力を手に入れた。
 それは人々に様々な憶測を与えるには十分なものだ。

「土地を整え、作物を実らせる。土の系統の『魔術師ソーサラー』にでも目覚めたか」
「あるいは『錬金術師アルケミスト』でしょうな。どちらにせよ、他に類を見ない有用性ですが」

 ビョルンをはじめ、王都の人間にとっては頭の痛い事だ。
 実は本当にエレノアは無実であり、憐れんだ神が力を授けたなどと言う者まで出る始末だ。

 だがまだ今ならば、如何様にも取り繕う事も出来る。

「……ある程度はコチラも恥辱を飲む事も必要か」
「と申されますと、エレノア嬢を呼び戻すおつもりで?」
「む。彼女も十分に反省をしたようだし、な」

 ビョルンは小さな咳でばつの悪さを誤魔化しながらそんな事を言った。

 今ならばまだ「エレノアが反省したから」という理由をでっち上げる事が出来る。
 それを王家と聖女が寛大な心で許したという筋書きだ。
 そうしてエレノアがビョルンの室に入るのならば、後宮をはじめとした諸々の問題が解決する。

「大変よろしい事かと。エレノアならば王宮のしきたりにも十分御詳しい」
「そうなると、父君のリッケン公爵に十分なお願いをしなければな」
「陛下にお頼みしますか?」
「いいや、さすがにまずは僕から公爵に話を通す」

 それがリッケン公爵に対する礼儀だ。
 ビョルンは噴き出す羞恥を抑えながら、理性を保ってそう告げた。

 執事はよほどそれが喜ばしかったのだろう。
 話が終わるなり足早に王宮へと向かって行った。

「カリン、怒るだろうなぁ」

 そうはっきりと態度には出さないが、カリンがエレノアを苦手としているのは容易に伺いしれる。
 その理由はビョルンにもよく分かる。

 エレノアは貴族的な女性過ぎた。
 面と向かって人に文句を言う事など無いし、礼節はしっかりと守る。
 それが却って嫌味なのだ。

 婉曲した言い回しでそれと無く忠告をする。
 また口にしなくとも何かあると冷たい視線で窘める。
 なまじ顔が整っているだけあって、一際それらが鮮烈な印象を抱かせる。

 まるで自分が矮小な存在だと言われている心持ち。
 そんな惨めな気分にさせられるのが心底嫌だった。

「……結婚か、嫌だな」

 この先それでも顔を合わせる人生になる。
 ビョルンは暗澹たる未来に思い浮かべ、勝手に一人項垂れている。
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