無双の始まりは婚約破棄から

真田奈依

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第十話 説教令嬢 その2

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 数日後の昼休み。
 セシリア・ハートウェルが中庭のベンチで静かに読書していると、クラスメイトのシドニーが気まずそうに声をかけてきた。
「ねえ、セシリア……。ちょっと言いにくいんだけど……」
「どうしたの?」
 シドニーはちらりと周囲をうかがい、小声で打ち明けた。
「エミイにね、『セシリアの行動を報告しろ』って言われたの」
「……報告?」
「そう。あなたがどんなふうに歩いてるか、授業中に居眠りしないか、どんな本を読んでいるか……そういうのを細かく報告しろって」
「まるでスパイね」
 セシリアの胸に冷たいものが走った。
 彼女の所作は丁寧で、礼儀もきちんと身についている。むしろマナーを乱しているのは、音を立てて廊下を歩き、姿勢も崩れがちなエミイのほうだ。
 それなのに――。
「……何様のつもりなのかしら」
 心の奥で、初めてそんな言葉が浮かんだ。
 エミイは「失敗させないため」と言うのかもしれない。
 だが実際には、監視され、逐一報告されることは、セシリアにとって束縛以外の何ものでもなかった。
(私の行動を逐一見張って、間違いがあれば人前で“とんでもない失敗”に仕立てあげるつもりかしら……)
 その瞬間、セシリアの心は決定的に冷めた。
 これまで「私のためを思って言ってくれている」と自分に言い聞かせてきたが、それはもう無理だった。
 ――私は、エミイが嫌いになった。
 その感情は、セシリアの胸に確かな形をもって刻まれた。

 クラスメイトから「エミイにセシリアの行動を報告するよう命じられた」と打ち明けられたあの日から、セシリアはエミイを避けるようになった。
 彼女の視界に入らないように過ごすことは、神経をすり減らす毎日だった。
 けれど――そんなある日のこと。
 学園での調合実習の最中、エミイが大きな瓶を取り落とした。
 瓶は派手な音を立てて床に砕け散り、中身がぶちまけられる。
 普段なら「まあ! 女の子ならもっと慎重に!」と延々と説教が始まるところだ。
 だが今回は、説教する側ではなく、エミイ自身が“失敗した人”だった。
 シーンと静まり返る教室。
 生徒たちの視線は一斉にエミイへと注がれた。
 ――人の失敗をあれほど厳しく責め立ててきた彼女が、自分の失敗にはどう向き合うのか。
 実習生たちが見守る中、エミイは顔を真っ赤にしながら言い放った。
「これは……セシリアのせいよ! あの子が隣で気配を消すから、あたくし気を取られてしまったの!」
 教室にざわめきが走る。
「セシリアのせい?」
 誰がどう見ても、瓶を取り落としたのはエミイ自身だった。
「えっ……」私は呆然と立ち尽くした。
 責任を押しつけられるとは思っていなかった。
 ひそひそとした声が教室中に広がっていく。
「セシリアは何もしてないのに」
「説教令嬢の大失敗だな」
「人のせいかよ」
 生徒たちの表情は冷たかった。
 エミイは必死に言い訳を続けた。


 数日後、説教令嬢――エミイ・ツイスターは、今日も絶賛説教中だった。
「女の子なら、口を大きく開けて笑うべきじゃないわ!」
「男の子なら、もっと背筋を伸ばして歩くべきよ! 猫背は見苦しいの!」
「筆記のときにインクを飛ばすなんて、信じられない! 紙はもっと丁寧に扱うものよ!」
 本人が大股で歩いて廊下に響かせているのに、人の歩き方を咎め、自分の姿勢はよく崩れるのに「背筋を伸ばせ」と命じる。
 その矛盾にうんざりした学園の生徒たちは、表面上は「はい」と従っても、内心では距離を置き始めていた。
 もちろん、セシリア・ハートウェルも同じだ。エミイの視界に入らないよう、席を離し、廊下でもそっと背を向け、必要最低限しか関わらないようにした。

 学園の実習の日。
 ひとりの男子が薬瓶を手から滑らせてしまった。
 カラン、と甲高い音が響き、中身の液体が床にぶちまけられる。
 辺りがざわつき、彼の顔は真っ青に染まった。
 その場にいた誰もが思った――またエミイの説教が始まると。
「まあ! 薬品を落とすなんて――」
 エミイが口を開きかけたその瞬間、セシリアは素早くしゃがみ込み、散らばった瓶の破片を拾い始めた。
「大丈夫。誰だって失敗するよ。ケガしてない?」
 男子は目を瞬き、安堵したように小さく頷いた。


 次の日。
 廊下でセシリアが本を抱えて歩いていると、あの男子が声をかけてきた。
「……昨日はありがとう」
 振り返ると、どこか恥ずかしそうに微笑む彼の姿。
 名をアドリアン・クロフォードといった。
 それから食堂で偶然隣り合って会話したり、実習で分からない箇所を互いに教え合ったりするうちに、自然と二人の親しさが増していった。
 彼の穏やかな笑顔を見るたびに、セシリアの心はほんのり温かくなる。

 だが――心配なことが。
 エミイが、アドリアンに目をつけたようだ。
「アドリアン様、実習で分からない所があるの、教えて下さらない?」
「アドリアン様、一緒にランチいたしましょう」
「アドリアン様……」
 遠目には親しげに見えた。
(……もしかして、パーティーに誘うのはエミイなの?)
 胸が締め付けられ、セシリアは不安を押し殺して日々を過ごした。
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