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第六話 前編 家を守ったのは私ですけど?~出戻りのお姉さまが婚約者を狙う~
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静かだった屋敷に、重く不穏な風が吹いた。
それは、姉が帰ってきた日だった。
「ただいま。相変わらず冴えない家ね」
そう言って現れた姉、イレーネは、薄いレースのドレスに身を包み、昼間から香水を強くまとっていた。足元には細工の施された革靴。場違いなほど華やかな装い。
「お姉さま……。お帰りなさいませ」
私は口角をわずかに上げ、そう返した。笑顔ではない。ただの礼儀だ。
イレーネは私の顔を見もせず、廊下をすたすたと歩く。荷物は召使いに持たせ、まるで女主人のような振る舞いだった。
「こっちは浮気者の夫に追い出されたんだから、少しくらい優しくしてくれてもいいじゃない。ねえ、セリア?」
「……お気の毒でした」
その一言に、姉の目が細くなった。
だが私は、あえて視線を逸らさない。
「公爵様、ついにあの奥方と……離縁なさったそうですよ」
「そりゃあ、あんな奥方じゃ無理もないわ」
イレーネの悪評は有名だった。
とにかく八方美人で、その場その場で調子の良いことばかり言う。けれど中身は、自分勝手で計画性も協調性もない。
公的な場に遅れて来たかと思えば、「アクセサリーが決まらなくて」と涼しい顔で笑い、場をしらけさせた。
食事会では「今日も三軒はしごしてきちゃった」と、まるで買い物の戦果を自慢するかのように笑う。
衣服や宝飾品にかける金額も尋常ではなく、お屋敷には未開封の荷物が山のように積まれていた。
浪費と失言が重なり、他家の夫人たちの間でも“腫れ物”扱いに。
しまいには、婚礼の席で他家の令嬢の衣装にケチをつけて泣かせるという騒ぎまで起こし、
「どうしてそんな些細なことで泣くのかしら?」と本気で首をかしげていた。
公爵――イレーネの元夫――は、当初こそ、大恋愛の末一緒になった年上の妻に夢中になっていたが、「内助の功どころか、恥をかかされた。妻はわたくしの体面を潰すだけだ」と零すようになった。
そうして、ある日、ついに公的な場で「本日をもって、妻とは離縁する」と正式に宣言され、イレーネは“追い出されるように”して、実家であるクラウス家へ舞い戻ってきたのだった。
“当主なんて面倒だから”と他家へ嫁いだ姉が戻ってきた。
姉が放り出したこの家を、私は必死で守ってきた。
荒れ果てた財政を立て直し、職人たちの信頼をつなぎ直し、そして――
「そういえば、あなた婚約者がいるんだったわよね。確か、リヒト……とかいう若い騎士様?」
「ええ。誠実で、頼りになる方です」
「へえ……誠実で、ね」
姉が口元を歪めた。嗤ったようにも、挑むようにも見える。
嫌な予感がした。
その晩、姉が言った。
「あたくしがこの家の跡取りなんだから、あんたは出ていってもいいのよ。家のしがらみから解放してあげるわ。おめでとう」
私は黙って、目を閉じた。
――そう来たか。
今まで家を守ってきた私に出て行けというのか。
翌朝、朝食の席には妙な緊張が走っていた。
「まあ、セリア。あたしにこんなお粗末な朝食しか用意してくれないわけ?」
そう言ってイレーネは、テーブルに並べられた温野菜やハムの皿を、あからさまに見下ろした。
だが、これらは全て地元の農家や猟師からの仕入れ品であり、質・味・価格ともに申し分ない。私が家計の再建を託された際、最初に見直した部分だった。
「来客用ではありませんから。それに、決してお粗末ではありませんよ」
私は淡々と答える。
イレーネは「ふぅん」と鼻を鳴らしながら、わざとらしくスプーンを落とした。召使いが拾おうとすると、
「いいわよ。あんたたちも、妹に染められて小さくまとまったのね」
と、冷たく言い放つ。
その瞬間、使用人たちの目が一斉に私を見た。迷い、戸惑い、そして、信頼を寄せる視線。
私は小さく首を横に振り、それだけで空気が落ち着く。
「お姉さま。今日はどのようにお過ごしになりますか?」
「視察でもしようかと思って。領民の顔くらい、覚えておかないといけないわ。だって、あたくしが当主になるんですもの」
――やはり、言った。
私は紅茶を一口すする。
イレーネの視察が、“評価される姉”を演出する茶番であることくらい、火を見るより明らかだった。
その日の午後、姉は取り巻きの侍女を連れて街に出た。無理に笑って、商人に声をかけ、菓子をばらまき、名ばかりの“慈悲深い令嬢”を演じた。
だが。
「……また来るって言ったのに、公爵様の奥様は一度も顔を見せなかったんですよ。お菓子だけ配って、あとは知らんぷりでした」
「お金も払わずに取り寄せだけ頼んで、後で取り消したこともあって……」
私が静かに耳を傾けていた商人たちの口からは、かつての“奥様”への失望が、次々とあふれ出してきた。
イレーネの“過去”は、取り繕っても消えない。
その日、私は屋敷の庭で領地の帳簿を確認していた。
夕刻、リヒトが来訪する日だ。彼は軍務の合間を縫って、定期的に屋敷を訪ねてくる。家を守る私の隣に立つ者として、常に現実を見据え、支えてくれる心強い婚約者。
「セリア、お庭にいたのですね」
リヒトの低く落ち着いた声が背後から聞こえた。
私は顔を上げ、笑みを浮かべる。
「ええ。少し静かな場所で、集中したくて」
その瞬間。
「まあまあ! あなたがリヒト様? セリアから話はいつも聞いていますわ!」
聞き覚えのある、甲高い声が芝生を踏んで駆け寄ってきた。
イレーネ。肩を出し胸を強調したドレスに、絞りすぎたコルセット。明らかに「見せるため」の装いで、厚化粧も露骨だ。
家を捨てた姉は、私の婚約披露宴も、父の葬儀にも出席を許されなかった。
「あたくし、姉のイレーネと申しますの。……お若いのに、立派なお方だと伺っておりますよ」
そう言って、イレーネはリヒトの腕にそっと触れた。
だが、リヒトの顔には一切の揺らぎがなかった。
「お初にお目にかかります。セリアの婚約者、リヒト=ヴェルツと申します。……どうか、そのようなお手はお控えください」
手を振り払うでもなく、だが決して触れさせない鋼の声。
イレーネの笑顔が一瞬引きつった。
「まあ……そんなに緊張なさらなくても。ねえ、セリアより年上の女性って、お嫌い?」
公爵も年下だったが、姉は年下のリヒトにモーションをかける。
「わたくしが愛するのは“セリア”その人です。年齢も立場も関係ありません。彼女はこの家と、領地を守ってきた才ある女性です」
きっぱりと、言い切った。その言葉は、私の胸に染み渡った。
イレーネはなおも笑顔を崩さずに言った。
「年齢は関係ないのね。じゃあ……万が一、セリアがいなくなったら? あたくしを選んでくださる可能性もあるわけね?」
沈黙が続く。
“奪う”つもりだ。
この家だけではなく、リヒトの心も。
それは、姉が帰ってきた日だった。
「ただいま。相変わらず冴えない家ね」
そう言って現れた姉、イレーネは、薄いレースのドレスに身を包み、昼間から香水を強くまとっていた。足元には細工の施された革靴。場違いなほど華やかな装い。
「お姉さま……。お帰りなさいませ」
私は口角をわずかに上げ、そう返した。笑顔ではない。ただの礼儀だ。
イレーネは私の顔を見もせず、廊下をすたすたと歩く。荷物は召使いに持たせ、まるで女主人のような振る舞いだった。
「こっちは浮気者の夫に追い出されたんだから、少しくらい優しくしてくれてもいいじゃない。ねえ、セリア?」
「……お気の毒でした」
その一言に、姉の目が細くなった。
だが私は、あえて視線を逸らさない。
「公爵様、ついにあの奥方と……離縁なさったそうですよ」
「そりゃあ、あんな奥方じゃ無理もないわ」
イレーネの悪評は有名だった。
とにかく八方美人で、その場その場で調子の良いことばかり言う。けれど中身は、自分勝手で計画性も協調性もない。
公的な場に遅れて来たかと思えば、「アクセサリーが決まらなくて」と涼しい顔で笑い、場をしらけさせた。
食事会では「今日も三軒はしごしてきちゃった」と、まるで買い物の戦果を自慢するかのように笑う。
衣服や宝飾品にかける金額も尋常ではなく、お屋敷には未開封の荷物が山のように積まれていた。
浪費と失言が重なり、他家の夫人たちの間でも“腫れ物”扱いに。
しまいには、婚礼の席で他家の令嬢の衣装にケチをつけて泣かせるという騒ぎまで起こし、
「どうしてそんな些細なことで泣くのかしら?」と本気で首をかしげていた。
公爵――イレーネの元夫――は、当初こそ、大恋愛の末一緒になった年上の妻に夢中になっていたが、「内助の功どころか、恥をかかされた。妻はわたくしの体面を潰すだけだ」と零すようになった。
そうして、ある日、ついに公的な場で「本日をもって、妻とは離縁する」と正式に宣言され、イレーネは“追い出されるように”して、実家であるクラウス家へ舞い戻ってきたのだった。
“当主なんて面倒だから”と他家へ嫁いだ姉が戻ってきた。
姉が放り出したこの家を、私は必死で守ってきた。
荒れ果てた財政を立て直し、職人たちの信頼をつなぎ直し、そして――
「そういえば、あなた婚約者がいるんだったわよね。確か、リヒト……とかいう若い騎士様?」
「ええ。誠実で、頼りになる方です」
「へえ……誠実で、ね」
姉が口元を歪めた。嗤ったようにも、挑むようにも見える。
嫌な予感がした。
その晩、姉が言った。
「あたくしがこの家の跡取りなんだから、あんたは出ていってもいいのよ。家のしがらみから解放してあげるわ。おめでとう」
私は黙って、目を閉じた。
――そう来たか。
今まで家を守ってきた私に出て行けというのか。
翌朝、朝食の席には妙な緊張が走っていた。
「まあ、セリア。あたしにこんなお粗末な朝食しか用意してくれないわけ?」
そう言ってイレーネは、テーブルに並べられた温野菜やハムの皿を、あからさまに見下ろした。
だが、これらは全て地元の農家や猟師からの仕入れ品であり、質・味・価格ともに申し分ない。私が家計の再建を託された際、最初に見直した部分だった。
「来客用ではありませんから。それに、決してお粗末ではありませんよ」
私は淡々と答える。
イレーネは「ふぅん」と鼻を鳴らしながら、わざとらしくスプーンを落とした。召使いが拾おうとすると、
「いいわよ。あんたたちも、妹に染められて小さくまとまったのね」
と、冷たく言い放つ。
その瞬間、使用人たちの目が一斉に私を見た。迷い、戸惑い、そして、信頼を寄せる視線。
私は小さく首を横に振り、それだけで空気が落ち着く。
「お姉さま。今日はどのようにお過ごしになりますか?」
「視察でもしようかと思って。領民の顔くらい、覚えておかないといけないわ。だって、あたくしが当主になるんですもの」
――やはり、言った。
私は紅茶を一口すする。
イレーネの視察が、“評価される姉”を演出する茶番であることくらい、火を見るより明らかだった。
その日の午後、姉は取り巻きの侍女を連れて街に出た。無理に笑って、商人に声をかけ、菓子をばらまき、名ばかりの“慈悲深い令嬢”を演じた。
だが。
「……また来るって言ったのに、公爵様の奥様は一度も顔を見せなかったんですよ。お菓子だけ配って、あとは知らんぷりでした」
「お金も払わずに取り寄せだけ頼んで、後で取り消したこともあって……」
私が静かに耳を傾けていた商人たちの口からは、かつての“奥様”への失望が、次々とあふれ出してきた。
イレーネの“過去”は、取り繕っても消えない。
その日、私は屋敷の庭で領地の帳簿を確認していた。
夕刻、リヒトが来訪する日だ。彼は軍務の合間を縫って、定期的に屋敷を訪ねてくる。家を守る私の隣に立つ者として、常に現実を見据え、支えてくれる心強い婚約者。
「セリア、お庭にいたのですね」
リヒトの低く落ち着いた声が背後から聞こえた。
私は顔を上げ、笑みを浮かべる。
「ええ。少し静かな場所で、集中したくて」
その瞬間。
「まあまあ! あなたがリヒト様? セリアから話はいつも聞いていますわ!」
聞き覚えのある、甲高い声が芝生を踏んで駆け寄ってきた。
イレーネ。肩を出し胸を強調したドレスに、絞りすぎたコルセット。明らかに「見せるため」の装いで、厚化粧も露骨だ。
家を捨てた姉は、私の婚約披露宴も、父の葬儀にも出席を許されなかった。
「あたくし、姉のイレーネと申しますの。……お若いのに、立派なお方だと伺っておりますよ」
そう言って、イレーネはリヒトの腕にそっと触れた。
だが、リヒトの顔には一切の揺らぎがなかった。
「お初にお目にかかります。セリアの婚約者、リヒト=ヴェルツと申します。……どうか、そのようなお手はお控えください」
手を振り払うでもなく、だが決して触れさせない鋼の声。
イレーネの笑顔が一瞬引きつった。
「まあ……そんなに緊張なさらなくても。ねえ、セリアより年上の女性って、お嫌い?」
公爵も年下だったが、姉は年下のリヒトにモーションをかける。
「わたくしが愛するのは“セリア”その人です。年齢も立場も関係ありません。彼女はこの家と、領地を守ってきた才ある女性です」
きっぱりと、言い切った。その言葉は、私の胸に染み渡った。
イレーネはなおも笑顔を崩さずに言った。
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