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秘めやかな逢瀬 2
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魔導士マントを誇らしそうにはためかせたギルは、「さあ、最後は……」とニッコリ笑った。
「いよいよ、リリアの番だね」
「そうね、……行ってくるわ」
落ち着いて返事をしたものの、リリアはうっかり右足、右腕を揃え歩きだしそうになる。
「っあ……」
「しっかり! 大丈夫よリリア。配属先を告げられるだけだから」
つまずきかけたその腕を、タスミンとザビアが、はしっと受け止めた。
「そんな、緊張することないさ。短い挨拶をすれば、すぐ終わるよ」
ぽんぽんと肩を叩いてくるザビアの声はだが、興奮気味なのかいつもよりちょっと高めである。
ーー今日は見習い最終日。
すべての研修を終えた四人は、午後一番に事務長官室前に待機していた。
最初に呼ばれたタスミンはニコニコ顔で、財務担当、それも勤め先は王城の事務棟だと意気込んでいる。ザビアは国土交通事務官、ギルはやはり魔法部隊とそれぞれ職務が正式に決まり皆大喜びだ。
残るはリリアだが、滅多に緊張などしないせいか身体が震えそうになる。
(どうか……デルタ、もしくは王城勤務になりますように)
ジェイドと一緒にいたい。できるだけそばにいられたら……
こんな不純な動機が心の中で大きく育ってしまい、通勤事情を主に考えていた頃より一層ドキドキする。
「まあまあ、こういう時はさ、体を動かせば案外落ち着くものだよ」
スマートにマントを着こなす、キリッとしたギルが何故か「ほらリリアも一緒に」とストレッチをはじめた。……効果の程は謎だったが、リリアも両手を上げ、うーんと爪先立ちで背中を伸ばしてみる。
「あ、効いたかも……」
すると意外にもナーバス感がほぐれた。
「そうだろう? このまま行ってくればいいよ」
ギルの励ましに「ありがとう」を述べ、ザビアとタスミンにも「行ってくる」と頷き、思い切って扉をノックした。
「失礼します。リリアです」
「ああ、待っていましたよリリアンヌ。こちらにおいでなさいな」
「ーーはいっ」
声が裏返ってしまったのは、この際、仕方ないと思う。なぜなら……目前の椅子に凛と座するのは、ナデール王国女王その人なのだ。ミルバとローラはその側に控えている。
「それでは、始めましょうか」
女王は立ち上がって書机を回り込み、リリアに向き合った。
リリアはとっさに膝を曲げ跪礼をして敬意を払う。その頭上で涼やかな声が響いた。
「我、ナデール王国女王クラリネス・ナデールは、汝、リリアンヌ・シャノワを、今日からナデール王国王室付きの宮廷魔道士に任命する。常に誠実であれ、堂々と振る舞い、民を守る盾となれ」
(王室付き宮廷……魔導士にーーっ?)
目を見開いたリリアの声が、感激のあまり少し震える。
「誓って、尽力を尽くして参ります、陛下」
無理だろうと半分諦めていた、宮廷魔道士に任命された!
ナデールでは、ほとんど例を見ないとされる地位を与えられたなんてーー、ほんと夢を見てるみたいだ。
「リリアンヌ、これからもナデールの平和と未来のために、あなたの活躍を期待していますよ」
「っありがとうございます」
「おめでとう、リリア! さあ、このマントを羽織ってみて」
ローラから渡された魔導士の証である立派なマント。魔導服でもあるそれは羽織ってみると、暖かくて軽くて、おまけに騎士服の真紅とお揃いだ。その上このマントには黒と金の紋章までついている。
「まあ、ほんとよく似合っているわ。リリアンヌは品があるから、とびきり映えるわね」
「誠でございますね」
女王の言葉にうんうんとローラとミルバも誇らしげだ。初めての魔導士姿への惜しげない賛辞に、リリアの頬はほんのり赤みがさした。まだ少し緊張した声でお礼を述べる。
すると女王が「あ、そうそう」と言って何かを差し出した。
「これは……、水鏡、でございますか?」
見覚えのある手鏡を受け取ったリリアはしかし、一体、何を求められているのかが分からず、不思議そうに首を傾げる。そんなリリアへ女王は「私たちからの気持ちよ、受け取って」と優しく微笑んだ。
「宮廷魔道士なんて、私の治世では初めてなのよ。聞くところによると、この鏡はリリアンヌにしか反応しないそうね。だからお祝いの品にちょうどいいと思ったの。魔導士として、これからどんな苦難に立ち向かっても、この鏡を見て初心を思い出してね」
「っ! お心遣いに、深く感謝いたしますっ」
思いがけない贈り物に、びっくりするやら胸がいっぱいになるやら。リリアは目一杯頭を下げお礼を述べた。
この水鏡は、宝物庫に大切に保管してあった品物だ。国宝級のお宝であって、おいそれと下賜されるモノではない。ミルバによると、持ち主に感応するらしく、ランダムにだが主に関わる情報を映しだすという記録が残っていた。その昔、王国へ攻め入る計画に着手しはじめた隣国のさまを映したことから、国宝となった魔導具だ。
リリアは感激のあまりうるっときて、思わずうつむいてしまった。
「一生大事にします」
胸に抱きしめて誓う。これからも、この国を守るためにできるだけのことをしよう。
こうして感涙で胸を詰まらせたまま退出したリリアは、待っていた友人たちと思いがけない朗報を喜び分かち合った。
その後は早速、四人揃って王国運営の中心を担う元老院メンバーへのお披露目だ。
次々と紹介される人々に挨拶を述べるが、さいわいすでに王国トップーー女王陛下との官職の儀という洗礼を済ませていたおかげか、それ以上緊張することもなかった。
そしてタスミン、ザビア、ギルと次々案内され広間から出ていくと、リリアはシャノワ家の姫だと改めて紹介された。王家直属となる新米の宮廷魔導士が、実は長い間欠席扱いであった侯爵家出身だと知らされた面々は、驚きはしたがすぐいっそう歓迎ムードとなった。
「……シャノワ家の姫君が戻って来られた。姫のお父上はそれは立派な方でした」
「そうですとも、あんな事件さえ起こらなければ、この元老院の重臣になられるはずの方だった」
「リリアンヌ姫、我々と共に王国の繁栄のため、女王陛下を支えてまいりましょう」
次々とかけられる励ましに涙ぐんだリリアは、凜然とした態度で礼を述べた。
「皆様、温かいお言葉をありがとうございます。私も、シャノワ家の姫としてその名に恥じぬよう、務めを果たして参ります。ですがこの通り、魔導士としては新米ですので、ここではただの魔導士リリアとして扱いいただきますよう、よろしくお願い申し上げます」
公務をしっかり果たすためには、侯爵家の姫扱いをしないでほしいとキッパリ述べたリリアに、皆さすがだと感心顔だ。それゆえ願いどおり、一人前の宮廷魔導士だと認められるまでリリアの身分は伏せておくと頷いた。
そして、そんなリリアには、さらなるサプライズが用意されていた。
「リリアンヌ、あなたの希望は研究職でしたね。宮廷魔導士であるあなたはこれから、王城内どこへでも自由に出入りを許されます。もちろん、城の薬草園にもです」
「っ……、光栄ですわ」
薬草園は、大変厳しく管理されている。正しい知識を持った者にしか入園を許されない場所だ。扱いによっては、毒にも薬にもなる薬草たちの世話をする研究者たちに大切に守られていた。
「さあ、案内するわ。こっちよ」
ミルバとローラに連れられ着いたのは、城の裏手にある王家の森だ。初めて足を踏み入れる森の入り口には、素晴らしく大きな建物が建っている。
「わあ、中はすごく広いのですね」
リリアは薬草園に入ってみて感嘆のため息を漏らした。
建物の中のはずなのに、青空が見えている天井。区切りごとに違う空気の温度。建物自体が魔導仕掛けのこの薬草園は、信じられないほど中が広く、野原のように花が咲き乱れている。
「ええ、薬草には、熱帯で育つもの、寒帯で花咲かせるものまで、多種ありますから、それぞれの環境に合わせて管理栽培されているのですよ」
ミルバとローラの後をついていきながら、好奇心からいろいろ質問してみる。
「あの、この薬草園もですが、王家の森での採集も許されるのでしょうか?」
広大な森は延々と入江の終わりまで続いている。入江は陸、海軍の軍事施設が集中配備されているので、一般には入れない。
「もちろんよ。だけど広い森だから、一人では危ないかもしれないわ」
「はい、気をつけます」
建物の奥にある大部屋では、数名の研究者がせっせと収穫した薬草を乾燥したり煮詰めたりしていた。
「今日からここが、貴女の仕事場となります。この部屋も自由にして下さい」
紹介された人たちは皆優しそうだ。これから一緒に働く職場の和やかな雰囲気に、リリアはホッとして自己紹介をした。
「「よろしくお願いします。リリアさん」」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
そうして、新しく増築したという専用部屋へと案内されたリリアは、広い部屋をぐるっと見渡すと感激でしばらく言葉が出てこなかった。
「ーーっ……」
「ここをあなたの研究室として使ってね。机なんかは用意したけど、実験器具やなんかはリストをくれたらすぐに取り寄せるわ」
「っまあ、ありがとうございますっ。ーー……そう、ですね……」
ローラの寛大な申し出に、リリアはしばし考えるようにちょっと首を傾げた。
「あの、私自身が使っていたものを持ち込んでもいいでしょうか? わざわざ新調して頂くのは嬉しいのですが、何もかもは結構な量になりますし」
その言葉に二人は少し驚いたようだったが、笑ってもちろんだと頷いた。
「堅実なのね、もちろんよ。長年使っていた道具の方が使いやすいでしょうし、愛着もあるわよね」
それならばと、明後日からの出仕に備えそこでお開きとなった。
リリアは高揚した気分のまま、窓から見える王家の森の木々を眺める。邸に帰ったら、早速モリンと準備をしなければ。
明日は久しぶりの休日だしタイミングもちょうどいい。
(……ジェイドに会って、宮廷魔道士になれたことを、報告したかったのだけれど)
今日は諦めた方が良さそうだ。これからまた毎日会えるようになるのだからと、少々残念な気持ちで資料館に寄り、書机にジェイド宛のメッセージを残して家路についた。
「モリン、ただいま! 良い知らせよ、聞いてちょうだい」
「お帰りなさいませ~」
帰り道で気を取り直したリリアは、邸に着くなり、今日あったことをキッチンから出てきたモリンにウキウキと告げる。
宮廷魔導士に任命されたと聞いて、初めは驚き、次に信じられないと目を見張ったモリンだったが、最後にフウと大きくため息をついた。
「……リリア様、本当にほんと、それでいいんですか?」
「とても嬉しいわ。モリンも言っていたわよね? 姫でも食べていかなくてはって」
「それはそうですが……、しかし姫様は、まったく予想外なことをしてくれますねぇ」
砂漠から帰ってきた日に、魔導士になるつもりだとモリンには告げていた。それに毎日城に上がるのも、見習いのためだとも。だが、連日ジェイドに送られてくる姿を期待溢れる目で見ていたモリンは、もしかしたらこのままシャノワ侯爵家の姫としての幸せを掴むのでは……と考えていたのかも知れない。
「宮廷魔導士は立派な職業よ。第一、舞踏会デビューしてもいい出会いがあるとは限らないわ。それに結婚しても父様みたいに財産を無くしてしまうかもだし。魔導士であれば結婚はもちろん、万一の時でもお給金が貰えるのよ」
今はジェイドという想い人がいるのだから、婿探しをする気などない。魔導士リリア宛の招待状も相変わらず届くが、すべて丁寧にお断りしている。けれどモリンが過大な期待を寄せないためにも、ジェイドの名はわざと出さなかった。それにそんなお誘いが次々とあることも、だ。
加えて、リリアはボム事件のことを忘れたわけではない。
(機会があれば、絶対に犯人を捕まえるわ!)
王国の魔導士であれば、いずれまた事件に関わることもできる。
「ですがジェイド様と姫様は、その……」
未練たらたら……と言った感じでモリンはこちらを伺ってくる。
今のところモリンは、ジェイドの身分に気づいていない。それ相応の貴族の子弟だと一目でわかるジェイドだから、そこまで詮索してこないのだ。
「ジェイドとのお付き合いと、魔導士になることは別の問題なの」
リリアも心の底では、ジェイドと恋人関係になれたら……と思わないわけがない。
(ーーだけどジェイドは……この王国の王子だから……)
どんなに親しくなっても、その辺は分かっているつもりだ。
一国の王子とのお付き合い、ましてや結婚となればーー。そう簡単にいかないことぐらい、いくら社交経験のないリリアでも容易に想像がつく。
ギルやザビアがたまに口にする貴族間の噂でも、ローランナ王太女やジェイディーン王子の結婚話は高い関心がもたれている。
王位継承権の問題だけでなく、政治や国の外交にも関わってくるのだから、当然といえば当然なのだが。
ローラに意中の人がいるというのは公然の秘密らしい。
そしてギルによるとーー。ジェイドは、その高貴な宝石のような容姿に加え、軍一の剣の使い手であり、さらに指導者としてもずば抜けているーーとあって、貴族の間ではカリスマ的存在なのだそうだ。厚い人望があり敬慕の念を抱かれている。
当然、女性にも非常に人気があるのだが、その毅然とした態度は時に女性の目には素っ気なく映り、遠巻きに憧れている令嬢が圧倒的だそうだ。
公務以外でも騎士たちに囲まれ、浮いた噂もない。ゆえに今年こそと気負った令嬢たちが、こぞって今度の舞踏会に参加するらしい。そう話してくれたギルは、目ぼしい令嬢が一斉に集う良い機会だから、自身も参加してパートナー探しをすると笑っていた。
この一ヶ月の見習い期間は、本当に色々な意味で勉強になった。
ーーさすがにリリアももう、ジェイドが自分に好意を向けてくれているのは分かっている。リリア自身はジェイドに好意以上のものを抱いているが、今のところそれを伝える気はない。
彼の立場を考えれば、うかつな返事はできないだろうことがよく分かるからだ。
これから長く王国に勤めることになるのだし、浅はかなことはできない。
だからこそ、二人きりで煩わしいことに惑わされず甘い時間を過ごせる夕方は、リリアにとってとても大切だった。
「まあ、姫様が、そうおっしゃるのなら……、仕方ありませんね」
いかにもガッカリ気落ちしているモリンの気を引こうと、リリアは東の森の家に置いてある研究道具を一緒に取りに行くことを提案した。するとモリンはしばし考えるような仕草をしてから、キッパリ告げてきた。
「いえ、それならばですね、私が一度あの家に戻って、すべての荷物を整理してまいりましょう。姫様はここにいてください」
「え? どうして……? 転移をして私も行けば、片付けや掃除を手伝えるわ」
「明後日から、お勤めが始まるのですよね? でしたら、ゆっくり休んでらしてください。この一ヶ月は、ほぼ休みなしでずっとお出かけだったじゃないですか。村への馬車にはまだ十分間に合いますし」
「でも、モリン一人では荷造りが大変でしょう?」
「お気遣いは嬉しいですが、仕事柄こういったことには慣れてます。私は明日の夕方までに戻って参りますから、ご心配さなさらずに。それよりも、せっかく初めてお給金が出たのですから、姫様はそれで買い物でもなさったらいかがです?」
「まあ、ありがとう、モリン」
優しい侍女の言葉に、嬉しくなってしまう。
こうして、モリンはさっさと支度を整えると「では、行って参ります。夜は戸締りをしっかりして下さい」と言い残しオリカ村へと向かった。
(買い物、かあ……、久しぶりにせっかく時間があるのだし)
節約のため無地一色にした普段着ドレスを、リリアは見下ろす。
モリンに新しく仕立ててもらったとはいえ、宮廷魔導士として王城の奥深くまで出入りをするのならば、この実用一点張りのドレスも新調した方がいいのかもしれない。
お洒落に憧れる乙女心が、華やかなドレスの誘惑に傾きはじめる。
ーーとは言え、実験ではドレスが汚れてしまうこともしばしば。それに、そうだ。できれば図鑑なども持っていきたい。仕事場で必要になる書物の整理もしておかなければ。
浮かれた気分で散財するよりはと、リリアは考え直した。初めてのお勤めで手に入れた金貨を取っておきたい気持ちもある。それに、だ。着飾らなくとも、魔導士の象徴である立派なマントを上から羽織るのだし。
こうして、久々にゆったりした午後を身の回りの整理整頓をして過ごすことにしたリリアが、休憩しようと窓を開くと、外はすでに陽が傾いていた。もう夕刻だ。
埃をかぶった書物などに没頭しているうちに、時間は飛ぶように過ぎていたらしい。
夕食前にサッパリしたくて湯浴みで埃を落とした後、書斎のソファーにちょっと一息と座りこんだ時だった。玄関から、呼び出しのノック音が聞こえる。
こんな時間に……?と扉を開けたら、そこにはジェイドが立っていた。
「ジェイド!」
「リリア、遅くなった。新人の入隊祝いで引っ張り出されてな」
入ってくるなり、ジェイドは当たり前のように抱きしめてくる。リリアの心がたちまち暖かいもので満たされた。逞しい身体に腕を回し抱きしめ返す。
「嬉しいわ。今日は会えないと思っていたから……」
仕事を終えてから、わざわざ城下の邸にまで来てくれた。そう思うと髪にちゅっとキスをされただけで、心は喜びに震える。
「一人なのか? 侍女はどうした、買い物か?」
「モリンはね、森の家の片付けに帰っているのよ」
「こんなところで話すのもなんだから、どうぞ」と扉を閉め客間に移動する。そうしてソファーに案内すると、その場でジェイドの膝の上に抱きかかえられた。
「いい匂いがする、それに髪が少し濡れているな」
ジェイドはゆっくり髪を撫でながら、魔法で乾かしてくれる。
されるがままのリリアが宮廷魔導士に任命されたことや、研究室をもらえたことを話すと、なるほどと紫の瞳が輝いた。
「がんばったな。そうだ、祝いに外に出かけないか?」
「嬉しいけど……、今ちょうど、夕食を温めていたところなの。ジェイドはお食事は済んでいるの?」
「いや、まだだ」
夕食と聞いて、ジェイドは心なし惹かれるような目をした。ふふ、と微笑んで二人分は十分ある食事をジェイドと共にした後、手を引かれるまま街へと繰り出す。
「なんだかーー、ナジールの街を思い出すわね」
提灯に照らされた屋台中心の夜の市場は、喧騒に包まれとても賑やかだ。
二人で手を繋ぎながら、若者たちやデート中のカップルで賑わう人混みを歩いていく。
「たまには、こういう逢い引きも良いものだ」
和らいだ瞳に微笑みかけると握り締めた手に、ぎゅっと力がこめられた。
夜の澄んだ空気と、南大陸よりずっと濃い緑の匂い。
休日前のデルタの夜は、星々が瞬く昏い頭上に黄色い三日月が顔を出している。
「あ、ねえ、あの店にジェイドの好きなお菓子があるわ」
カカオ焼き菓子を分け合いながら、星空の下で、高らかに響き渡る吟遊詩人の歌声と楽器の音色に耳を傾けた。切ないバラードに聴き入り温かい胸に抱かれていると、ーーいつもとは違った、だが心安らぐひと時にドキドキしてくる。
周りは恋人たちばかりで、その一角にジェイドと座っているのは、ほんの少し照れくさい……
なのに指先に感じた柔らかい感触に、うかつにも「……ぁっ」と声を出しそうになり、慌てて息を飲み込んだ。ご機嫌なジェイドは指先にキスをするついでに、焼き菓子の粒まで丁寧に舐め取っていた。
人目をまったく気にしないその堂々さに、ほんともう公衆の面前なのに……とリリアは目を伏せるが、手はそのままだ。
だがしばらくすると、酒場から出てきた若者たちで辺りが騒がしくなってきた。歌声に聞き入っていたリリアの耳に、話し声が入ってくる。
「オイ、見ろよ! あそこにおられるのって殿下じゃあ……?」
「まさかっ、殿下がこんなところにいらっしゃるわけが」
騒ぎを聞きつけた見回りの騎士たちだ。赤い姿を認めたジェイドは、顔をしかめるとリリアの手を引っ張り、こっちだと素早くその場から駆けだした。
「まったく、ゆっくりデートも楽しめんとは、厄介だな」
「……ジェイドが、目立ちすぎるのよ」
「何をいう、リリアの妖精と見まごうばかりの美しさが原因だろう」
走りながらも余裕なジェイドは、平然と褒めてくる。手を握られたままのリリアの全身が、たちまち息切れとは違う理由で真っ赤に染まった。
ーー寄り添ったジェイドとリリアの髪はそれぞれ青銀、そして蜜柑色だ。夜空の下、提灯の放つ仄かな明かりでも輝くような金と銀の色彩は、鮮やかな光沢を放つ。煌めく紫と翠の瞳も神秘的で宝石のような二人の容姿は、夜の聴衆の中でも一際目立っていた。……のだか、そんな自覚はまったくないため、どこへ行っても知らず知らず周りの注目を集めてしまう。挙句に興味津々といった騎士たちに行く先々で遭遇しそうになり、夜の警備の目を潜り抜けるうちにいつの間にか港に出てきてしまった。
「さすがにこれ以上は、進めんな」
穏やかな夜の海に三日月が浮かんでいる。波間でその影がゆらゆら揺れているのを目を細めて見ていたジェイドが、リリアの腰を抱き寄せた。
「あら、小舟からデルタを眺めるのも一興だわ。船はもちろん、ジェイドが漕いでくれるのよね?」
逞しい腕を任せたとばかりぽんぽんと叩くと、ジェイドは悪戯っぽく「リリアこそ、水魔法で航路が取れるだろう」と、甘えるように肩に頭を乗せてくる。その脇を柔らかくリリアは肘でつついた。
「ジェイドの風魔法でだって、できるわよね?」と。
そんな感じで戯れあっていると海の方から、優しい夜風が吹いてくる。靡いた髪を、ジェイドがそっと抱え込んだ。と、どちらともなくキスを交わす。やがて二人は、笑いながらシャノワ邸の玄関に帰ってきた。
「走ってばっかり、だわ……ふふ」
「しかしまあ、見過ごせんからな」
デートのはずなのに、なぜか酒場で乱闘になりかけていた酔っ払いを止めに入ったり、絡まれている女性を助けたりと、自分たちで王都の警備側に回ってしまっていた。そんな二人はまたまた騎士たちに危うく遭遇しそうになり、早々にも邸に戻る羽目となった。
そして、玄関扉の前で黙って手を繋いだままのリリアは迷っていた。
もう少し、一緒にいたい。送ってくれたジェイドを招き入れるべきだろうか?
「あの、ジェイドよかったら中に……」
「……リリア、招かれたら今夜は止まらん。いいのか?」
率直なジェイドの言葉と熱い視線に、鼓動が一気に乱れた。
二人はまだ、最後の一線は超えていない。だが、行為はかなり際どいところまできている。
つまり今ジェイドを邸に招いたら、これまでみたいな寸止めでは終わらないと警告されたのだ。
(だけど私は……)
ーージェイドと愛を交わしたい。
そんな純粋な欲求が心に溢れてくる。一歩先に踏み出さないと、何も始まらない。
リリアは覚悟を決めた。
ジェイドの花嫁になれなくてもいい。言葉にするのが難しい立場の人だからこそ、二人は確かに想いあっている……そう感じたい。
銀の髪をそっと見上げる翠の瞳が、リリアの決心を映しだす。
「どうぞ、入って……」
うなじまで真っ赤になりながら、やんわり邸の扉を開いて愛しい人を誘いかけた。
「いよいよ、リリアの番だね」
「そうね、……行ってくるわ」
落ち着いて返事をしたものの、リリアはうっかり右足、右腕を揃え歩きだしそうになる。
「っあ……」
「しっかり! 大丈夫よリリア。配属先を告げられるだけだから」
つまずきかけたその腕を、タスミンとザビアが、はしっと受け止めた。
「そんな、緊張することないさ。短い挨拶をすれば、すぐ終わるよ」
ぽんぽんと肩を叩いてくるザビアの声はだが、興奮気味なのかいつもよりちょっと高めである。
ーー今日は見習い最終日。
すべての研修を終えた四人は、午後一番に事務長官室前に待機していた。
最初に呼ばれたタスミンはニコニコ顔で、財務担当、それも勤め先は王城の事務棟だと意気込んでいる。ザビアは国土交通事務官、ギルはやはり魔法部隊とそれぞれ職務が正式に決まり皆大喜びだ。
残るはリリアだが、滅多に緊張などしないせいか身体が震えそうになる。
(どうか……デルタ、もしくは王城勤務になりますように)
ジェイドと一緒にいたい。できるだけそばにいられたら……
こんな不純な動機が心の中で大きく育ってしまい、通勤事情を主に考えていた頃より一層ドキドキする。
「まあまあ、こういう時はさ、体を動かせば案外落ち着くものだよ」
スマートにマントを着こなす、キリッとしたギルが何故か「ほらリリアも一緒に」とストレッチをはじめた。……効果の程は謎だったが、リリアも両手を上げ、うーんと爪先立ちで背中を伸ばしてみる。
「あ、効いたかも……」
すると意外にもナーバス感がほぐれた。
「そうだろう? このまま行ってくればいいよ」
ギルの励ましに「ありがとう」を述べ、ザビアとタスミンにも「行ってくる」と頷き、思い切って扉をノックした。
「失礼します。リリアです」
「ああ、待っていましたよリリアンヌ。こちらにおいでなさいな」
「ーーはいっ」
声が裏返ってしまったのは、この際、仕方ないと思う。なぜなら……目前の椅子に凛と座するのは、ナデール王国女王その人なのだ。ミルバとローラはその側に控えている。
「それでは、始めましょうか」
女王は立ち上がって書机を回り込み、リリアに向き合った。
リリアはとっさに膝を曲げ跪礼をして敬意を払う。その頭上で涼やかな声が響いた。
「我、ナデール王国女王クラリネス・ナデールは、汝、リリアンヌ・シャノワを、今日からナデール王国王室付きの宮廷魔道士に任命する。常に誠実であれ、堂々と振る舞い、民を守る盾となれ」
(王室付き宮廷……魔導士にーーっ?)
目を見開いたリリアの声が、感激のあまり少し震える。
「誓って、尽力を尽くして参ります、陛下」
無理だろうと半分諦めていた、宮廷魔道士に任命された!
ナデールでは、ほとんど例を見ないとされる地位を与えられたなんてーー、ほんと夢を見てるみたいだ。
「リリアンヌ、これからもナデールの平和と未来のために、あなたの活躍を期待していますよ」
「っありがとうございます」
「おめでとう、リリア! さあ、このマントを羽織ってみて」
ローラから渡された魔導士の証である立派なマント。魔導服でもあるそれは羽織ってみると、暖かくて軽くて、おまけに騎士服の真紅とお揃いだ。その上このマントには黒と金の紋章までついている。
「まあ、ほんとよく似合っているわ。リリアンヌは品があるから、とびきり映えるわね」
「誠でございますね」
女王の言葉にうんうんとローラとミルバも誇らしげだ。初めての魔導士姿への惜しげない賛辞に、リリアの頬はほんのり赤みがさした。まだ少し緊張した声でお礼を述べる。
すると女王が「あ、そうそう」と言って何かを差し出した。
「これは……、水鏡、でございますか?」
見覚えのある手鏡を受け取ったリリアはしかし、一体、何を求められているのかが分からず、不思議そうに首を傾げる。そんなリリアへ女王は「私たちからの気持ちよ、受け取って」と優しく微笑んだ。
「宮廷魔道士なんて、私の治世では初めてなのよ。聞くところによると、この鏡はリリアンヌにしか反応しないそうね。だからお祝いの品にちょうどいいと思ったの。魔導士として、これからどんな苦難に立ち向かっても、この鏡を見て初心を思い出してね」
「っ! お心遣いに、深く感謝いたしますっ」
思いがけない贈り物に、びっくりするやら胸がいっぱいになるやら。リリアは目一杯頭を下げお礼を述べた。
この水鏡は、宝物庫に大切に保管してあった品物だ。国宝級のお宝であって、おいそれと下賜されるモノではない。ミルバによると、持ち主に感応するらしく、ランダムにだが主に関わる情報を映しだすという記録が残っていた。その昔、王国へ攻め入る計画に着手しはじめた隣国のさまを映したことから、国宝となった魔導具だ。
リリアは感激のあまりうるっときて、思わずうつむいてしまった。
「一生大事にします」
胸に抱きしめて誓う。これからも、この国を守るためにできるだけのことをしよう。
こうして感涙で胸を詰まらせたまま退出したリリアは、待っていた友人たちと思いがけない朗報を喜び分かち合った。
その後は早速、四人揃って王国運営の中心を担う元老院メンバーへのお披露目だ。
次々と紹介される人々に挨拶を述べるが、さいわいすでに王国トップーー女王陛下との官職の儀という洗礼を済ませていたおかげか、それ以上緊張することもなかった。
そしてタスミン、ザビア、ギルと次々案内され広間から出ていくと、リリアはシャノワ家の姫だと改めて紹介された。王家直属となる新米の宮廷魔導士が、実は長い間欠席扱いであった侯爵家出身だと知らされた面々は、驚きはしたがすぐいっそう歓迎ムードとなった。
「……シャノワ家の姫君が戻って来られた。姫のお父上はそれは立派な方でした」
「そうですとも、あんな事件さえ起こらなければ、この元老院の重臣になられるはずの方だった」
「リリアンヌ姫、我々と共に王国の繁栄のため、女王陛下を支えてまいりましょう」
次々とかけられる励ましに涙ぐんだリリアは、凜然とした態度で礼を述べた。
「皆様、温かいお言葉をありがとうございます。私も、シャノワ家の姫としてその名に恥じぬよう、務めを果たして参ります。ですがこの通り、魔導士としては新米ですので、ここではただの魔導士リリアとして扱いいただきますよう、よろしくお願い申し上げます」
公務をしっかり果たすためには、侯爵家の姫扱いをしないでほしいとキッパリ述べたリリアに、皆さすがだと感心顔だ。それゆえ願いどおり、一人前の宮廷魔導士だと認められるまでリリアの身分は伏せておくと頷いた。
そして、そんなリリアには、さらなるサプライズが用意されていた。
「リリアンヌ、あなたの希望は研究職でしたね。宮廷魔導士であるあなたはこれから、王城内どこへでも自由に出入りを許されます。もちろん、城の薬草園にもです」
「っ……、光栄ですわ」
薬草園は、大変厳しく管理されている。正しい知識を持った者にしか入園を許されない場所だ。扱いによっては、毒にも薬にもなる薬草たちの世話をする研究者たちに大切に守られていた。
「さあ、案内するわ。こっちよ」
ミルバとローラに連れられ着いたのは、城の裏手にある王家の森だ。初めて足を踏み入れる森の入り口には、素晴らしく大きな建物が建っている。
「わあ、中はすごく広いのですね」
リリアは薬草園に入ってみて感嘆のため息を漏らした。
建物の中のはずなのに、青空が見えている天井。区切りごとに違う空気の温度。建物自体が魔導仕掛けのこの薬草園は、信じられないほど中が広く、野原のように花が咲き乱れている。
「ええ、薬草には、熱帯で育つもの、寒帯で花咲かせるものまで、多種ありますから、それぞれの環境に合わせて管理栽培されているのですよ」
ミルバとローラの後をついていきながら、好奇心からいろいろ質問してみる。
「あの、この薬草園もですが、王家の森での採集も許されるのでしょうか?」
広大な森は延々と入江の終わりまで続いている。入江は陸、海軍の軍事施設が集中配備されているので、一般には入れない。
「もちろんよ。だけど広い森だから、一人では危ないかもしれないわ」
「はい、気をつけます」
建物の奥にある大部屋では、数名の研究者がせっせと収穫した薬草を乾燥したり煮詰めたりしていた。
「今日からここが、貴女の仕事場となります。この部屋も自由にして下さい」
紹介された人たちは皆優しそうだ。これから一緒に働く職場の和やかな雰囲気に、リリアはホッとして自己紹介をした。
「「よろしくお願いします。リリアさん」」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
そうして、新しく増築したという専用部屋へと案内されたリリアは、広い部屋をぐるっと見渡すと感激でしばらく言葉が出てこなかった。
「ーーっ……」
「ここをあなたの研究室として使ってね。机なんかは用意したけど、実験器具やなんかはリストをくれたらすぐに取り寄せるわ」
「っまあ、ありがとうございますっ。ーー……そう、ですね……」
ローラの寛大な申し出に、リリアはしばし考えるようにちょっと首を傾げた。
「あの、私自身が使っていたものを持ち込んでもいいでしょうか? わざわざ新調して頂くのは嬉しいのですが、何もかもは結構な量になりますし」
その言葉に二人は少し驚いたようだったが、笑ってもちろんだと頷いた。
「堅実なのね、もちろんよ。長年使っていた道具の方が使いやすいでしょうし、愛着もあるわよね」
それならばと、明後日からの出仕に備えそこでお開きとなった。
リリアは高揚した気分のまま、窓から見える王家の森の木々を眺める。邸に帰ったら、早速モリンと準備をしなければ。
明日は久しぶりの休日だしタイミングもちょうどいい。
(……ジェイドに会って、宮廷魔道士になれたことを、報告したかったのだけれど)
今日は諦めた方が良さそうだ。これからまた毎日会えるようになるのだからと、少々残念な気持ちで資料館に寄り、書机にジェイド宛のメッセージを残して家路についた。
「モリン、ただいま! 良い知らせよ、聞いてちょうだい」
「お帰りなさいませ~」
帰り道で気を取り直したリリアは、邸に着くなり、今日あったことをキッチンから出てきたモリンにウキウキと告げる。
宮廷魔導士に任命されたと聞いて、初めは驚き、次に信じられないと目を見張ったモリンだったが、最後にフウと大きくため息をついた。
「……リリア様、本当にほんと、それでいいんですか?」
「とても嬉しいわ。モリンも言っていたわよね? 姫でも食べていかなくてはって」
「それはそうですが……、しかし姫様は、まったく予想外なことをしてくれますねぇ」
砂漠から帰ってきた日に、魔導士になるつもりだとモリンには告げていた。それに毎日城に上がるのも、見習いのためだとも。だが、連日ジェイドに送られてくる姿を期待溢れる目で見ていたモリンは、もしかしたらこのままシャノワ侯爵家の姫としての幸せを掴むのでは……と考えていたのかも知れない。
「宮廷魔導士は立派な職業よ。第一、舞踏会デビューしてもいい出会いがあるとは限らないわ。それに結婚しても父様みたいに財産を無くしてしまうかもだし。魔導士であれば結婚はもちろん、万一の時でもお給金が貰えるのよ」
今はジェイドという想い人がいるのだから、婿探しをする気などない。魔導士リリア宛の招待状も相変わらず届くが、すべて丁寧にお断りしている。けれどモリンが過大な期待を寄せないためにも、ジェイドの名はわざと出さなかった。それにそんなお誘いが次々とあることも、だ。
加えて、リリアはボム事件のことを忘れたわけではない。
(機会があれば、絶対に犯人を捕まえるわ!)
王国の魔導士であれば、いずれまた事件に関わることもできる。
「ですがジェイド様と姫様は、その……」
未練たらたら……と言った感じでモリンはこちらを伺ってくる。
今のところモリンは、ジェイドの身分に気づいていない。それ相応の貴族の子弟だと一目でわかるジェイドだから、そこまで詮索してこないのだ。
「ジェイドとのお付き合いと、魔導士になることは別の問題なの」
リリアも心の底では、ジェイドと恋人関係になれたら……と思わないわけがない。
(ーーだけどジェイドは……この王国の王子だから……)
どんなに親しくなっても、その辺は分かっているつもりだ。
一国の王子とのお付き合い、ましてや結婚となればーー。そう簡単にいかないことぐらい、いくら社交経験のないリリアでも容易に想像がつく。
ギルやザビアがたまに口にする貴族間の噂でも、ローランナ王太女やジェイディーン王子の結婚話は高い関心がもたれている。
王位継承権の問題だけでなく、政治や国の外交にも関わってくるのだから、当然といえば当然なのだが。
ローラに意中の人がいるというのは公然の秘密らしい。
そしてギルによるとーー。ジェイドは、その高貴な宝石のような容姿に加え、軍一の剣の使い手であり、さらに指導者としてもずば抜けているーーとあって、貴族の間ではカリスマ的存在なのだそうだ。厚い人望があり敬慕の念を抱かれている。
当然、女性にも非常に人気があるのだが、その毅然とした態度は時に女性の目には素っ気なく映り、遠巻きに憧れている令嬢が圧倒的だそうだ。
公務以外でも騎士たちに囲まれ、浮いた噂もない。ゆえに今年こそと気負った令嬢たちが、こぞって今度の舞踏会に参加するらしい。そう話してくれたギルは、目ぼしい令嬢が一斉に集う良い機会だから、自身も参加してパートナー探しをすると笑っていた。
この一ヶ月の見習い期間は、本当に色々な意味で勉強になった。
ーーさすがにリリアももう、ジェイドが自分に好意を向けてくれているのは分かっている。リリア自身はジェイドに好意以上のものを抱いているが、今のところそれを伝える気はない。
彼の立場を考えれば、うかつな返事はできないだろうことがよく分かるからだ。
これから長く王国に勤めることになるのだし、浅はかなことはできない。
だからこそ、二人きりで煩わしいことに惑わされず甘い時間を過ごせる夕方は、リリアにとってとても大切だった。
「まあ、姫様が、そうおっしゃるのなら……、仕方ありませんね」
いかにもガッカリ気落ちしているモリンの気を引こうと、リリアは東の森の家に置いてある研究道具を一緒に取りに行くことを提案した。するとモリンはしばし考えるような仕草をしてから、キッパリ告げてきた。
「いえ、それならばですね、私が一度あの家に戻って、すべての荷物を整理してまいりましょう。姫様はここにいてください」
「え? どうして……? 転移をして私も行けば、片付けや掃除を手伝えるわ」
「明後日から、お勤めが始まるのですよね? でしたら、ゆっくり休んでらしてください。この一ヶ月は、ほぼ休みなしでずっとお出かけだったじゃないですか。村への馬車にはまだ十分間に合いますし」
「でも、モリン一人では荷造りが大変でしょう?」
「お気遣いは嬉しいですが、仕事柄こういったことには慣れてます。私は明日の夕方までに戻って参りますから、ご心配さなさらずに。それよりも、せっかく初めてお給金が出たのですから、姫様はそれで買い物でもなさったらいかがです?」
「まあ、ありがとう、モリン」
優しい侍女の言葉に、嬉しくなってしまう。
こうして、モリンはさっさと支度を整えると「では、行って参ります。夜は戸締りをしっかりして下さい」と言い残しオリカ村へと向かった。
(買い物、かあ……、久しぶりにせっかく時間があるのだし)
節約のため無地一色にした普段着ドレスを、リリアは見下ろす。
モリンに新しく仕立ててもらったとはいえ、宮廷魔導士として王城の奥深くまで出入りをするのならば、この実用一点張りのドレスも新調した方がいいのかもしれない。
お洒落に憧れる乙女心が、華やかなドレスの誘惑に傾きはじめる。
ーーとは言え、実験ではドレスが汚れてしまうこともしばしば。それに、そうだ。できれば図鑑なども持っていきたい。仕事場で必要になる書物の整理もしておかなければ。
浮かれた気分で散財するよりはと、リリアは考え直した。初めてのお勤めで手に入れた金貨を取っておきたい気持ちもある。それに、だ。着飾らなくとも、魔導士の象徴である立派なマントを上から羽織るのだし。
こうして、久々にゆったりした午後を身の回りの整理整頓をして過ごすことにしたリリアが、休憩しようと窓を開くと、外はすでに陽が傾いていた。もう夕刻だ。
埃をかぶった書物などに没頭しているうちに、時間は飛ぶように過ぎていたらしい。
夕食前にサッパリしたくて湯浴みで埃を落とした後、書斎のソファーにちょっと一息と座りこんだ時だった。玄関から、呼び出しのノック音が聞こえる。
こんな時間に……?と扉を開けたら、そこにはジェイドが立っていた。
「ジェイド!」
「リリア、遅くなった。新人の入隊祝いで引っ張り出されてな」
入ってくるなり、ジェイドは当たり前のように抱きしめてくる。リリアの心がたちまち暖かいもので満たされた。逞しい身体に腕を回し抱きしめ返す。
「嬉しいわ。今日は会えないと思っていたから……」
仕事を終えてから、わざわざ城下の邸にまで来てくれた。そう思うと髪にちゅっとキスをされただけで、心は喜びに震える。
「一人なのか? 侍女はどうした、買い物か?」
「モリンはね、森の家の片付けに帰っているのよ」
「こんなところで話すのもなんだから、どうぞ」と扉を閉め客間に移動する。そうしてソファーに案内すると、その場でジェイドの膝の上に抱きかかえられた。
「いい匂いがする、それに髪が少し濡れているな」
ジェイドはゆっくり髪を撫でながら、魔法で乾かしてくれる。
されるがままのリリアが宮廷魔導士に任命されたことや、研究室をもらえたことを話すと、なるほどと紫の瞳が輝いた。
「がんばったな。そうだ、祝いに外に出かけないか?」
「嬉しいけど……、今ちょうど、夕食を温めていたところなの。ジェイドはお食事は済んでいるの?」
「いや、まだだ」
夕食と聞いて、ジェイドは心なし惹かれるような目をした。ふふ、と微笑んで二人分は十分ある食事をジェイドと共にした後、手を引かれるまま街へと繰り出す。
「なんだかーー、ナジールの街を思い出すわね」
提灯に照らされた屋台中心の夜の市場は、喧騒に包まれとても賑やかだ。
二人で手を繋ぎながら、若者たちやデート中のカップルで賑わう人混みを歩いていく。
「たまには、こういう逢い引きも良いものだ」
和らいだ瞳に微笑みかけると握り締めた手に、ぎゅっと力がこめられた。
夜の澄んだ空気と、南大陸よりずっと濃い緑の匂い。
休日前のデルタの夜は、星々が瞬く昏い頭上に黄色い三日月が顔を出している。
「あ、ねえ、あの店にジェイドの好きなお菓子があるわ」
カカオ焼き菓子を分け合いながら、星空の下で、高らかに響き渡る吟遊詩人の歌声と楽器の音色に耳を傾けた。切ないバラードに聴き入り温かい胸に抱かれていると、ーーいつもとは違った、だが心安らぐひと時にドキドキしてくる。
周りは恋人たちばかりで、その一角にジェイドと座っているのは、ほんの少し照れくさい……
なのに指先に感じた柔らかい感触に、うかつにも「……ぁっ」と声を出しそうになり、慌てて息を飲み込んだ。ご機嫌なジェイドは指先にキスをするついでに、焼き菓子の粒まで丁寧に舐め取っていた。
人目をまったく気にしないその堂々さに、ほんともう公衆の面前なのに……とリリアは目を伏せるが、手はそのままだ。
だがしばらくすると、酒場から出てきた若者たちで辺りが騒がしくなってきた。歌声に聞き入っていたリリアの耳に、話し声が入ってくる。
「オイ、見ろよ! あそこにおられるのって殿下じゃあ……?」
「まさかっ、殿下がこんなところにいらっしゃるわけが」
騒ぎを聞きつけた見回りの騎士たちだ。赤い姿を認めたジェイドは、顔をしかめるとリリアの手を引っ張り、こっちだと素早くその場から駆けだした。
「まったく、ゆっくりデートも楽しめんとは、厄介だな」
「……ジェイドが、目立ちすぎるのよ」
「何をいう、リリアの妖精と見まごうばかりの美しさが原因だろう」
走りながらも余裕なジェイドは、平然と褒めてくる。手を握られたままのリリアの全身が、たちまち息切れとは違う理由で真っ赤に染まった。
ーー寄り添ったジェイドとリリアの髪はそれぞれ青銀、そして蜜柑色だ。夜空の下、提灯の放つ仄かな明かりでも輝くような金と銀の色彩は、鮮やかな光沢を放つ。煌めく紫と翠の瞳も神秘的で宝石のような二人の容姿は、夜の聴衆の中でも一際目立っていた。……のだか、そんな自覚はまったくないため、どこへ行っても知らず知らず周りの注目を集めてしまう。挙句に興味津々といった騎士たちに行く先々で遭遇しそうになり、夜の警備の目を潜り抜けるうちにいつの間にか港に出てきてしまった。
「さすがにこれ以上は、進めんな」
穏やかな夜の海に三日月が浮かんでいる。波間でその影がゆらゆら揺れているのを目を細めて見ていたジェイドが、リリアの腰を抱き寄せた。
「あら、小舟からデルタを眺めるのも一興だわ。船はもちろん、ジェイドが漕いでくれるのよね?」
逞しい腕を任せたとばかりぽんぽんと叩くと、ジェイドは悪戯っぽく「リリアこそ、水魔法で航路が取れるだろう」と、甘えるように肩に頭を乗せてくる。その脇を柔らかくリリアは肘でつついた。
「ジェイドの風魔法でだって、できるわよね?」と。
そんな感じで戯れあっていると海の方から、優しい夜風が吹いてくる。靡いた髪を、ジェイドがそっと抱え込んだ。と、どちらともなくキスを交わす。やがて二人は、笑いながらシャノワ邸の玄関に帰ってきた。
「走ってばっかり、だわ……ふふ」
「しかしまあ、見過ごせんからな」
デートのはずなのに、なぜか酒場で乱闘になりかけていた酔っ払いを止めに入ったり、絡まれている女性を助けたりと、自分たちで王都の警備側に回ってしまっていた。そんな二人はまたまた騎士たちに危うく遭遇しそうになり、早々にも邸に戻る羽目となった。
そして、玄関扉の前で黙って手を繋いだままのリリアは迷っていた。
もう少し、一緒にいたい。送ってくれたジェイドを招き入れるべきだろうか?
「あの、ジェイドよかったら中に……」
「……リリア、招かれたら今夜は止まらん。いいのか?」
率直なジェイドの言葉と熱い視線に、鼓動が一気に乱れた。
二人はまだ、最後の一線は超えていない。だが、行為はかなり際どいところまできている。
つまり今ジェイドを邸に招いたら、これまでみたいな寸止めでは終わらないと警告されたのだ。
(だけど私は……)
ーージェイドと愛を交わしたい。
そんな純粋な欲求が心に溢れてくる。一歩先に踏み出さないと、何も始まらない。
リリアは覚悟を決めた。
ジェイドの花嫁になれなくてもいい。言葉にするのが難しい立場の人だからこそ、二人は確かに想いあっている……そう感じたい。
銀の髪をそっと見上げる翠の瞳が、リリアの決心を映しだす。
「どうぞ、入って……」
うなじまで真っ赤になりながら、やんわり邸の扉を開いて愛しい人を誘いかけた。
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