保元らぷそでぃ

戸浦 隆

文字の大きさ
10 / 12

第三章(一)讃岐

しおりを挟む
 讃岐の松山に
 松の一本(ひともと)ゆがみたる
 もぢりさの すじりさに
 猜うだるかとや
 直島の さばかんの松をだにも
 直さざるらん 
     「梁塵秘抄 四三一」

*「もぢる」も「すじる」も体をよじる、ねじること
*「猜(そね)うだる」は「そねみたる」で、苛々して不機嫌なこと
*「さばかん」は「さばかり」で、「それぐらい」の意
*「直さざるらん」は直島に掛けて「直さないのだろう」の意


    (一)讃岐

 讃岐の海は凪(な)ぎ、秋のやわらかな陽光を余すところなく吸い込んでいる。穏やかに風が渡る。足元に寄せては返す波の音は、静かな調べを絶え間なく耳に届ける。
 波打ち際に一人、旅の僧が佇(たたず)んでいた。
 汗で垢(あか)染みた柿渋の紙子(かみこ・紙で作った衣服)の襟元と陽に焼け茶に変色した黒染めの法衣が、長い旅を物語っている。痩せてはいるが、しっかりした骨格と体の内から湧き出す気精が五十の齢(よわい)を感じさせない。左手にもつ錫杖(しゃくじょう)を砂に立て、右手でほつれ掛けた檜笠(ひのきがさ)の前を傾(かし)げ上げ、沖を眺めていた。柔和だが悲しみの色の滲む眼差しの先に直島が浮かんでいる。
「新院様………」
 つぶやきが波音の狭間(はざま)にこぼれ落ちた。
 直島は人家も田畑も無い、小さな島である。そこに、かつて新院の御在所があった。御在所とは名ばかりの粗末な小屋で、外からは錠が下ろされ四六時中国衙の兵の監視下にあった。見るものは蒼天と夜の月、聞くものは松風と波の音、千鳥の声だけであったという。
 どんなに寂しい思いをされたことであろう。訊けば、新院様が数年を過ごされた御在所は、今は跡形も無いという。亡くなられて、まだ四年ほどしか経っていないというのに………。
 明るく和ませる風光だけに、虚しさが募り心ひしがれる。歌を詠み合って談笑した頃の新院の朗らかな澄んだ笑い声が、母親譲りのふくよかな面影とともに浮かんでは、また胸の底に沈んでゆく。嘆きが言葉の網にすくい取られて、引き上げられた。

松山の波に流れてこし舟の
 やがてむなしくなりにけるかな

松山の波の景色はかはらじを
 かたなく君はなりましにけり

 僧は檜笠を目深(まぶか)に下ろし、新院の讃岐入国の第一歩となった松山の津(現在の香川県坂出港近くの港)を後にした。ここから綾川を一里半ほどさかのぼる。新院最期の地となった讃岐府中鼓ヶ岡を訪ねるのである。
 鼓ヶ岡離宮「木の丸殿」は、直島でのあまりにも厳しい暮らしぶりを嘆く新院を慮(おもんぱか)って造られた。とは言うものの、国衙とは目と鼻の先にあり、厳重に監視されていたことに変わりはない。
 訪ねてみると、「木の丸殿」は荒廃を極めていた。築地が所々破れ門は朽(く)ち、廃屋と化した御在所の壁には蔓枝(つるえ)が思う存分に這っている。草が伸び放題に伸びる庭の片隅に、気付かぬほどの盛り土があった。上に石が置かれている。何かの塚なのだろう。新院の日頃使っていたものを、付き添う女房か土地の者が埋め偲んでいたと思われた。
 天皇在位十八年、院として十五年余りを宮中ですごした新院様の、これが終(つい)の住まいか。春に遊び秋に興じ、詩歌を好み新嘗祭(にいなめさい・新穀を神に捧げ食して祝う行事)の少女の舞を喜んだ新院様の、これが夢の名残か。いかに罪深くとも、遠島に流され往時を偲ぶことしか許されなかったのだ。それを思えば一体何の報いであったのか………。疼(うず)きが胸の底から突き上げて来る。耐え難い寂しさが僧の体の芯に火を点けそうになった。重くのし掛かる思いを抱え、僧は鼓ヶ岡から白峰山へ足を向けた。
 鼓ヶ岡からは一刻(約二時間)ほどで白峰山のふもとに辿り着く。綾川を下り東へ折れる。新院の残した微かな匂いなりとも嗅ぎ取ろうと、僧は綾高遠の邸に立ち寄った。ここの御堂で新院は少しの間だが時を過ごしている。
 門は固く閉ざされていた。何度か門を叩き、声を掛けた。だが、返って来る応えも人の気配も無い。諦めて立ち去り掛けた。
「御坊(ごぼう)。この邸に何か用かの」
 通りすがりの老人が訝(いぶか)しげに尋ねた。
「こちらは綾高遠殿のお邸と伺いましたが」
「そうですじゃが」
 老人は、見知らぬ旅僧をどう判別したものかと慎重な眼を向けている。
「私は新院様のご供養に参る者です。新院様ゆかりの御堂があると聞き、白峰に行く前にひと目見ておこうと思ったのですが。どなたもお出にならない」
 老人は慌てて僧の袖を引いた。
「何です」
 わけが分からないままに、僧は老人に従った。しばらく行くと、老人は歩みをゆるめた。辺りを窺いながら、ひそめた声で言った。
「滅多なことぁ言わんがええ」
「はて」
「御坊はご存知あるまいがの。この辺りじゃ、新院様のこたぁ口にしてはならん」
「どういうことです」 
「それぁ、土地のもんは新院様をお慕いしておったよ。尊いお方でござらっしゃったからの。けんど、お役人のなさりようはワシら下々(しもじも)のもんにゃ分からんで。戦に負けたからいうて、こんな讃岐くんだりまで流して来て、まるで極悪人かなんぞのように扱うて。天子様じゃったお方を、なぁ。ひどいもんじゃ。ワシの娘がお食事の世話をしよりましての、御在所の様子は薄々は知っておった。けんど、新院様のこたぁ一切口外しちゃならんと、お役人からのきついお達しじゃ。憐れでのぉ。ワシらは何とかして差し上げたい思うても非力じゃで。お役人の眼が恐ろしゅうて、御在所には近づけなんだ」
「高遠殿は新院様に何かと便宜(べんぎ)を図り、心を砕いておられたように聞きましたが」
「ご当主様ものぉ………」
「どうかなされたのですか」
「あれは、そうじゃな。新院様がお亡くなりなされて三月ばかり後のことじゃったか。ご当主様の家人が国衙の兵に捕らえられてなぁ」
 家人は横領の罪を犯したのだ、と言う。

 綾高遠は国司の藤原季能に直談判(じかだんぱん)した。
「三郎太に会わせて貰いたい」
「それは出来ぬ相談ですな」
「三郎太は実直な男だ。横領などするわけがない」
「本人は認めておる」
「だから確かめたいと言うのだ」
「詮議は済んだ。それに………」
 季能は、いかにも思わせ振りに言葉を切った。
「それに、何だ」
「国衙領は綾家の管理でしたな」
「そうだ。それがどうしたというのだ」
「讃岐は公領。院知行国ですぞ。高遠殿は開発領主として官物(年貢のこと)・雑役夫役(ぞうやくぶえき・国の命で行われる様々の雑用や労働)の任を引き受けている。国衙に納めるべき官物を横取りするというのは、院に対する大罪だということはご承知でしょうな」
 勿体ぶった言い方をする季能に、高遠は苛立った。
「今さら知れたことを」
「家人の罪は主人の罪でもある」
「だからこそ、はっきりさせようとして参ったのだ」
「それだけではない。家人一人の邪(よこしま)な思いで横領が為されたのでないとしたら、事はさらに重大」
「何が言いたい」
 季能は勝ち誇ったような笑みを口辺に浮かべた。
「白状しましたぞ」
「白状?」
「家人はな、ご領主殿の命で官物を奪ったのだと」
「嘘だ!」
 高遠は、思わず叫んだ。
「嘘? これは聞き捨てならんことを言う」
「三郎太に会わせろ!」
「出来ぬ相談だと申し上げた。それに、すでに都には報告済みだ。綾高遠が国衙領のものを掠(かす)め盗ったと、な」
 季能が手を叩いた。数人が部屋に跳び込み、高遠を取り囲む。
「今ここで捕縛してもよいのだ。だが、数日の内には指示が下る。邸で大人しく謹慎しているがよろしかろう」
「おのれ!」
 高遠は、連れ出されるように出て行った。
「後ひと押し、というところか」
 そうつぶやいて、季能は立ち上がった。
 邸に戻った高遠は、すぐさま国司横暴を訴える解文(げぶみ)を認(したた)めた。季能は数日で返答が来る、と言った。それは三郎太の自白より以前に都に報告していたことを意味する。いくら早くても、海を隔てた都との往還には二十日は掛かる。三郎太が捕らえられてまだ十日も経っていないのだ。季能が自分を罠に落とそうとしているのは明らかだった。速やかに手を打たなければ、三郎太ばかりか綾家自体がのっぴきならない事態に追い込まれる。
 高遠は解文を書き上げると、即座に使者を送り出した。間に合わないかも知れない、と思った。いや、仮に間に合ったとしても、都が再度協議を重ね季能の言い分をくつがえすとは限らない。だが、どうあっても訴えは取り上げて貰わなければならなかった。己を主張し、ぎりぎりのところで踏み留まるには確たる証(あかし)が必要だ。その鍵は三郎太が握っている。
 高遠は屈強の部下五名を呼び寄せた。そうして、夜の更けるのを待った。
 国衙は税所(さいしょ)、田所、検非違所、健児所(こんでいしょ)の諸役所から成る。税所は租税や官物の収納事務、田所は田畑に関することを取り扱う。検非違所は検察・追捕(ついぶ)・訴訟・行刑を、健児所は国府の守護及び関所の警護を担当する。
 三郎太の身柄は、恐らく検非違所に置かれているだろうと高遠は考えた。部下の二人に西の門で騒ぎを起こさせる。その隙に残りの者が検非違所に忍び込む。手間取ってはならない。人員が多いとそれだけ動きが鈍る。それに、大きな騒動に発展させたくはない。まかり間違えば、国衙と真っ向からの戦いになる。それだけは避けたかった。朝廷に逆らって生き抜くことは出来ないのだ。
 丑(うし)の刻(午前二時頃)を機に、高遠は行動を起こした。
 築地を背に立つ者の両手と肩の上に乗り、一人が国衙の中庭を窺う。静まり返った庭には動くものの気配は無い。振り向いて頷くと、勢いをつけて築地を跳び越えた。三呼吸、待つ。縄が宙を飛び、築地の外に垂れた。高遠は縄を手繰りながら部下の肩を踏み築地を越えた。残りの者も後に続く。二名はすでに西の門に向かっている。
 月明かりを雲がさえぎる。その影に隠れながら、四人は検非違所に近づいた。
 西の門で大きく叫ぶ声がする。何人かの走る音がした。検非違所からも兵が飛び出し、西の門に駆け出す。
 火を放った後で、二人は逃げた筈だ。
「行くぞ」
 高遠は、小さいが鋭い声を発した。
 検非違所の中は暗い。雲間の月が辛うじて薄闇に一つの影を浮かび上がらせている。残った衛兵だ。高遠が顎(あご)を振って合図する。部下の一人が入口の柱を刀の柄(え)でコツッと叩いた。衛兵が慎重な足取りでこちらに歩み寄る。入口の間際で立ち止まった。その瞬間、二人が跳び込んだ。一人が口を塞ぎ、喉に腕を押し付ける。もう一人が衛兵の腹に拳を叩き込む。声を上げる間もなく、衛兵はその場に崩れた。
 一番奥の牢に、三郎太は身を横たえていた。衛兵から奪った鍵で錠を開け、力の抜けた三郎太の体を二人が抱き起こす。三郎太の右手の爪は割られ、血がこびり付いていた。石を噛まされたように口内の歯は折れている。殴られた顔は倍に膨れ上がっていた。二人は三郎太の腕を肩に抱え、担ぎ出した。
 表に出る。築地へ走った。縄を括(くく)り付けていた樹の元に駆け寄った時、声がした。
「高遠殿」
 高遠は振り返った。どこから現れたのか、季能と二十人ほどの国衙の兵が半円の陣を狭めて来る。
「大それたことをする」
 高遠は答えを返さず、季能を睨み付けた。
「国衙に忍び入り、罪人を拉致(らち)するとはな。そうだ、西の門辺りでうろついていた者も高遠殿の身内であろう」
 後ろ手に縛られた部下たちが、季能の前に転がされた。行動は全て見透かされていたのだ。それにしても手際が良過ぎる。荒ごとには不慣れな筈の国司の采配とはとても思えなかった。
「国司殿。もう一人お忘れではありませんか?」
 そう言いながら、健児所の壁の陰から男が出て来た。
「これは藤五殿。そうであった」
 藤五と呼ばれた男が、ゆっくりと近づいて来る。高遠は眼を凝らした。見覚えのある体躯、身の運びだ。ほのかな月明かりに浮かぶ影が、季能の脇に立った。
「お前は………」
 伊藤五郎だった。戦専門の手練(てだ)れが季能を動かしていたのだ。
「すでに院と繋がっていたか!」
 高遠は歯ぎしりした。
 五郎の後ろから、一人の男が衛兵に縄手を引かれ半月の輪に近づいて来る。
 高遠は眼を見張った。
「高遠殿のご使者であろう。松山の津でうろついておりましたが」
 打つ手のことごとくが摘み取られてしまったのだ。高遠は、観念するしか無かった。
 季能が笑いを含んだ声で、高遠を捕らえるよう命じた。輪が一斉に縮まる。高遠が止める間もなく、刀を鞘(さや)走らせた部下が輪に斬り込んだ。気合いと叫びが入り乱れる。季能は及び腰になって後退(ずさ)りした。
 いくら屈強な部下だとはいっても、大勢では相手にならない。やがて全員が取り押さえられた。
 その騒動をじっと見詰めていた筈の五郎は、いつの間にか姿を消していた。

「詮議も吟味もあったもんかな。仕舞いには綾家は取り潰されてしもうた。ご当主様は情に厚い、曲がったことの大嫌いなお方じゃいうに」
「ひどい話だ」
「何が『まこと』で何が『うそ』やら、ワシらには分かりませんがの」
 人の世も混迷はまだまだ続いている。信じられるものを何に求めればよいのか。それが見えずに力に頼る。利に走る。そうして、親子の情理すら切り刻む。すがれば糸はふつりと切れ、もがけば淀みの淵に沈む。明日は希(ねが)うに無く、今日のここかしこに足を取られる。仏の道といえども、もはや救いとならぬのではないか………。僧の想いは、再び深く沈んだ。
 白峰の山道の入口まで、老人は送ってくれた。丁重に礼を述べ、僧は登りに掛かる。松、柏などの巨木の生い茂る鬱蒼(うっそう)とした山路は暗く、冷涼な気が肌を縫う。まるで冥府(めいふ)へ通じる洞穴を辿っているようだ。
 どこかでホトトギスが鳴いた。
 季節にはぐれた一羽であろうか。それとも、人恋しさに冥府から来るものがいるのであろうか。ホトトギスは古来、「魂迎(たまむか)え鳥」と歌に詠われているが………。
 そう思いながら、僧は稚護ヶ嶽を見上げた。頂きははるか遠く、槍先のように鋭く天を突いている。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...