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秘密のレッスン 2
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「俺もピアノを習おうかな」
「……どうした、突然」
「前から思ってたんだよ。安珠の感じている世界を、俺も体感してみたいなとね」
「……じゃあ僕が琴の奏者だったら、琴を習いたいと言い出すわけか? 不純な動機だな」
笑いながら頬ずりしてくるので、髭の剃り跡が当たって痛い。むずかる安珠の頬に宥めるような口づけを落とした鴇は琥珀の眸を覗き込んできた。
「そのとおり。不純な俺に、ピアノを教えてください。安珠先生」
「え。僕が?」
三歳から始めたピアノは幾度も人前で披露してきたが、人に教えたことは一度もない。けれど初心者の鴇に教えるくらいなら容易いのではないだろうかと気楽に考える。
「いいよ。子どもの頃の夢は、ピアノの先生だったんだ。鴇に教えたいな」
「ピアノの先生か。安珠にぴったりだね」
「そうだろう。公爵なんて、つまらないと思ってたんだ。子どもの頃は純粋だったな」
「……安珠は純粋だよ。ずっと」
瞼に優しく口づけられて、陶然とする。薄い皮膚に柔らかい唇が触れるのは、とても温かくて心地良い。このまま眠ってしまいそうになるので、安珠は体を起こした。
「簡単な曲から始めてみようか。楽譜を持ってくる」
素肌にローブを羽織り自室に赴こうとしたら、鴇も同じローブを纏って付いてくる。安珠の部屋はすぐ近くなのに相変わらず心配性だ。
相談しながら楽譜を選ぶのも良いかと思い、鴇を従えるようにして部屋に入る。近頃はすっかり鴇の部屋にばかり入り浸っている状態なので、自室は簡素に片付いたままだ。
「楽譜は読めないんだよな。鍵盤に触ったことはあるか?」
「ありませんね」
鴇はベッドを離れた途端に敬語に戻る。公私の区別を付けるという意味らしい。閨の中だけ砕けるのは特別な姿のようで、それを見られるのは自分しかいないと思うと優越感を得られた。
「じゃあ、バイエルからだな。ハノンもあるけど、大人になってから弾き始めるなら拘らなくていいと思う」
書棚から基礎教本を手にして楽譜もいくつか抜き出す。鴇は樫の書棚にずらりと並べられたピアノ関連の書籍を目で撫でていた。
「そうなんですか。バイエルやハノンとは何ですか?」
「教本の名前だけど、ピアノの習熟度を示す目安としても使われるんだ。バイエル、ブルグミュラー、そしてソナチネ、ソナタの順になる。ハノンやツェルニーといった教本を挟むこともある。まあ、バイエルの習得だけでも数年かかるから、始めは鍵盤に触ってピアノに慣れるといい」
鴇の部屋に戻り、譜面台に楽譜を広げる。安珠への誕生日の贈り物とされたピアノはどうやら、ふたりで使用することになりそうだ。鴇を中央に座らせて、安珠は隣の丸椅子に腰を下ろす。
「この鍵盤がハ長調の始まるドだ。レ、ミ、ファ、ソ。親指をドに合わせて、順番に弾いてみてくれ」
「こうでしょうか」
節くれ立った長い指が、ぎこちない動きで旋律を刻む。鴇はふと首を傾げた。
「ラ、シ、ドは全部小指を移動させて弾くんですか?」
「いいや。譜面で指定された指番号のとおりに弾くんだ。指番号というものがあって、右手の親指は一、人差し指は二、中指は三というふうに覚える。上のオクターブを弾くときは必ず指を移動することになるから、教本の楽譜には指番号が記載されてる」
「よく分からなくなってきましたね……」
「弾けば分かるよ。まずはマーチから弾いてみよう。ミ、ド、ミ、ド……三の指から」
鴇は楽譜と鍵盤を交互に見ながら懸命に弾いた。初心者らしい余裕のなさは閨での姿とは真逆だ。
鍵盤の前に並んで座っているので、時折肩が触れ合う。その接触は心地良いものだった。
「ここな。五の指」
小指にそっと触れて修正する。いつでも鴇の体温は、熱くて胸をざわめかせる。
「小指は力が入らなくて弾きにくいですね」
「誰でもそうだよ。慣れだから、練習すれば大丈夫だ」
鴇はくすりと笑みを零した。小指で弾いてみせようとした安珠の手の甲を握り込む。大きな手にすっぽりと包まれて、その熱さにどきりと鼓動が跳ねた。
「安珠に大丈夫って言われると、何だか嬉しい」
「そうか?」
言われてみれば、大丈夫という言葉はこれまでの自分の語彙にはなかった。常に鴇と共に過ごしているので、彼の言葉遣いが移ったのかもしれない。鴇に大丈夫と言われると、胸の奥深くに安寧が染み込んでいくような気がして、気持ちが落ち着くのだ。
まだ喉奥で笑っている鴇は手を放そうとしない。身を寄せられ、不埒な唇はこめかみに口づけてきた。
「あ、こら。レッスン中だぞ」
「安珠先生、先に恋のレッスンをしましょう」
腰に腕が回されて、いつものように抱き上げられてしまう。鴇の首元を掴んだ安珠は微苦笑を零しながら嘆息した。
「まったく、やる気のない生徒だな」
「安珠からは馥郁たる香りが匂い立つんです。俺に抱いてほしいとせがんでいるんでしょう?」
「そんなこと……」
否定を紡ごうとした唇は塞がれてしまう。淫らな体は熾火が燻るように熱を持って疼きだす。情事の痕跡を色濃く残し、淫靡な皺が刻まれたシーツに安珠は再び沈んだ。
「……どうした、突然」
「前から思ってたんだよ。安珠の感じている世界を、俺も体感してみたいなとね」
「……じゃあ僕が琴の奏者だったら、琴を習いたいと言い出すわけか? 不純な動機だな」
笑いながら頬ずりしてくるので、髭の剃り跡が当たって痛い。むずかる安珠の頬に宥めるような口づけを落とした鴇は琥珀の眸を覗き込んできた。
「そのとおり。不純な俺に、ピアノを教えてください。安珠先生」
「え。僕が?」
三歳から始めたピアノは幾度も人前で披露してきたが、人に教えたことは一度もない。けれど初心者の鴇に教えるくらいなら容易いのではないだろうかと気楽に考える。
「いいよ。子どもの頃の夢は、ピアノの先生だったんだ。鴇に教えたいな」
「ピアノの先生か。安珠にぴったりだね」
「そうだろう。公爵なんて、つまらないと思ってたんだ。子どもの頃は純粋だったな」
「……安珠は純粋だよ。ずっと」
瞼に優しく口づけられて、陶然とする。薄い皮膚に柔らかい唇が触れるのは、とても温かくて心地良い。このまま眠ってしまいそうになるので、安珠は体を起こした。
「簡単な曲から始めてみようか。楽譜を持ってくる」
素肌にローブを羽織り自室に赴こうとしたら、鴇も同じローブを纏って付いてくる。安珠の部屋はすぐ近くなのに相変わらず心配性だ。
相談しながら楽譜を選ぶのも良いかと思い、鴇を従えるようにして部屋に入る。近頃はすっかり鴇の部屋にばかり入り浸っている状態なので、自室は簡素に片付いたままだ。
「楽譜は読めないんだよな。鍵盤に触ったことはあるか?」
「ありませんね」
鴇はベッドを離れた途端に敬語に戻る。公私の区別を付けるという意味らしい。閨の中だけ砕けるのは特別な姿のようで、それを見られるのは自分しかいないと思うと優越感を得られた。
「じゃあ、バイエルからだな。ハノンもあるけど、大人になってから弾き始めるなら拘らなくていいと思う」
書棚から基礎教本を手にして楽譜もいくつか抜き出す。鴇は樫の書棚にずらりと並べられたピアノ関連の書籍を目で撫でていた。
「そうなんですか。バイエルやハノンとは何ですか?」
「教本の名前だけど、ピアノの習熟度を示す目安としても使われるんだ。バイエル、ブルグミュラー、そしてソナチネ、ソナタの順になる。ハノンやツェルニーといった教本を挟むこともある。まあ、バイエルの習得だけでも数年かかるから、始めは鍵盤に触ってピアノに慣れるといい」
鴇の部屋に戻り、譜面台に楽譜を広げる。安珠への誕生日の贈り物とされたピアノはどうやら、ふたりで使用することになりそうだ。鴇を中央に座らせて、安珠は隣の丸椅子に腰を下ろす。
「この鍵盤がハ長調の始まるドだ。レ、ミ、ファ、ソ。親指をドに合わせて、順番に弾いてみてくれ」
「こうでしょうか」
節くれ立った長い指が、ぎこちない動きで旋律を刻む。鴇はふと首を傾げた。
「ラ、シ、ドは全部小指を移動させて弾くんですか?」
「いいや。譜面で指定された指番号のとおりに弾くんだ。指番号というものがあって、右手の親指は一、人差し指は二、中指は三というふうに覚える。上のオクターブを弾くときは必ず指を移動することになるから、教本の楽譜には指番号が記載されてる」
「よく分からなくなってきましたね……」
「弾けば分かるよ。まずはマーチから弾いてみよう。ミ、ド、ミ、ド……三の指から」
鴇は楽譜と鍵盤を交互に見ながら懸命に弾いた。初心者らしい余裕のなさは閨での姿とは真逆だ。
鍵盤の前に並んで座っているので、時折肩が触れ合う。その接触は心地良いものだった。
「ここな。五の指」
小指にそっと触れて修正する。いつでも鴇の体温は、熱くて胸をざわめかせる。
「小指は力が入らなくて弾きにくいですね」
「誰でもそうだよ。慣れだから、練習すれば大丈夫だ」
鴇はくすりと笑みを零した。小指で弾いてみせようとした安珠の手の甲を握り込む。大きな手にすっぽりと包まれて、その熱さにどきりと鼓動が跳ねた。
「安珠に大丈夫って言われると、何だか嬉しい」
「そうか?」
言われてみれば、大丈夫という言葉はこれまでの自分の語彙にはなかった。常に鴇と共に過ごしているので、彼の言葉遣いが移ったのかもしれない。鴇に大丈夫と言われると、胸の奥深くに安寧が染み込んでいくような気がして、気持ちが落ち着くのだ。
まだ喉奥で笑っている鴇は手を放そうとしない。身を寄せられ、不埒な唇はこめかみに口づけてきた。
「あ、こら。レッスン中だぞ」
「安珠先生、先に恋のレッスンをしましょう」
腰に腕が回されて、いつものように抱き上げられてしまう。鴇の首元を掴んだ安珠は微苦笑を零しながら嘆息した。
「まったく、やる気のない生徒だな」
「安珠からは馥郁たる香りが匂い立つんです。俺に抱いてほしいとせがんでいるんでしょう?」
「そんなこと……」
否定を紡ごうとした唇は塞がれてしまう。淫らな体は熾火が燻るように熱を持って疼きだす。情事の痕跡を色濃く残し、淫靡な皺が刻まれたシーツに安珠は再び沈んだ。
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