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第三十三話:麒麟と硬水の話 (3/3)
しおりを挟む静寂が、店を支配していた。
麒麟が、その黄金色の一杯を、唇に運ぶ。俺は、ただ固唾をのんで、その瞬間を見守った。
一口、また一口と、麒麟は、その身を満たす、清らかな流れに、ただ静かに身を委ねていた。
甘さと酸っぱさが完璧に調和した液体が、彼の喉を通り過ぎ、体の芯へと、じんわりと染み渡っていく。
《…なんと…清らかな…》
それは、まるで、穢れを知らない山の雪解け水が、乾いた大地を潤していくようだった。体の内側を、冷たく澄み切った光の川が、洗い流していく。
リンゴと酢の「酸」が、彼の体の中で、優しく、しかし確実に、その力を発揮し始める。長い年月をかけて、彼の魂に蓄積されてしまった、**余分なミネラルという名の澱(おり)**。こびりついていた不純物が、光の奔流によって、一枚、また一枚と、薄紙を剥がすように溶かされ、洗い流されていく。
(…軽い…。我が体が、魂が、こんなにも、軽かったとは…!)
それは、まさしく**「引き算」の癒やし**だった。
奇跡は、静かに、しかし、あまりにも美しく、訪れた。
彼が、最後の一滴を飲み干し、ふぅ、と、穏やかな息をついた、その瞬間。
彼の、すりガラスのように白く濁っていた角。
その中心に、まるで、夜明けの空に、**一番星が灯るかのように、小さな、小さな光点**が、ぽつりと生まれたのだ。
それはまだ、か細く、儚い光だった。
だが、その光は、店の中のランプの光を受け、壁に、**七色の、小さな虹の光を映し出した**。
麒麟は、言葉もなく、その壁に映った、自分の魂から生まれた虹の欠片を、ただ、呆然と見つめていた。
《…我が角に…光が…》
その声は、歓喜に、震えていた。
彼は、ゆっくりと、俺の方に向き直ると、その気高い頭を、深く、深く、垂れた。
聖獣が示す、最上級の敬意。その、あまりにも荘厳な仕草に、俺は、ただ立ち尽くすしかなかった。
やがて、顔を上げた麒麟は、自らの首筋から、一枚、真珠のように輝く**鱗**を、そっと剥がした。
そして、それを、俺の前に、恭しく差し出した。
《料理人よ、そして、森の仲間たちよ…。このご恩は忘れん。せめてもの礼に、わしの、**浄化の鱗**を、一枚、おぬしに授けよう。これを店の入り口に飾るがよい。あらゆる穢れと、悪意あるものを、この場所から遠ざけるであろう》
俺は、その、神々しい輝きを放つ鱗を、おそるおそる受け取った。
「やれやれ。飯を食わせただけなんだが、なんだか、とんでもねえことになっちまったな」
俺が、照れ隠しに頭を掻くと、麒麟は、その瞳に、初めて、穏やかな笑みを浮かべた。
そして、静かに一礼すると、音もなく、店を出て、聖なる森の静寂の中へと、その姿を消していった。
その日、一頭の気高き聖獣は、世界の理の外にある、ささやかで、しかし、偉大な知恵を知った。そしてぶっさんもまた、自らの「当たり前」の知識が、この世界で、時に、神の御業にも等しい奇跡を起こすのだということを、改めてその魂に刻んだのだった。
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