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しおりを挟む「……あっ、うう――っぐ、はっ、ハァ……」
ネフィーテは部屋の隅でうずくまり、苦しげに呻いていた。赤い瞳は鋭く輝き、二本の牙を剥き出しにしている。これらの症状は、吸血衝動が現れたときに見られるものだ。吸血衝動には、壮絶な肉体的苦痛が伴う。
ノエだったころ、吸血衝動に苦しむ彼を見たのは、一度だけ――出会った日だった。
『お兄さん。もしかして、吸血鬼なの?』
『ええ、そうですよ。早く……私から逃げなさい。私が理性を失う、前に……』
『とっても苦しいんだね。かわいそう。僕の血を分けてあげる』
戦争中で血を摂取するのが遅れ、ネフィーテは建物の陰で血を求める本能と戦いながら苦しんでいた。そんな彼に、孤児だったノエは血を分け与えたのだった。
「ネフィーテ様、大丈夫ですか!?」
「!」
オーガスタの姿を視界に捉えたネフィーテは目を見開き、もともと白かった顔がさらに蒼白になった。
「来ては……だめです……」
「吸血衝動が起きているのでしょう? 血を飲まなければ苦痛は治まりません。血を飲んでいらっしゃらないのですか?」
「間違えて、動物の血が……混ざっていたよう……です」
ネフィーテの視線の先にはテーブルがあり、グラスに赤い血が注がれている。
彼は吸血鬼の伝説に反して、人間に噛み付いて直接血を吸うことを嫌う。しかし、血を飲まなければ、こうした発作が起きてしまうので、病院などからひそかに提供された血を摂取していたのだ。
そこにどうやら、動物の血が混じってしまったらしい。吸血鬼は人間の血でないと、渇きを癒すことができない。
(動物の血? どうしてそんなことが……)
そのとき、ネフィーテはオーガスタの右手から血が滴り落ちているのに気づいた。血を見た瞬間、彼が生唾を飲み込む音がした。
ネフィーテはおもむろにオーガスタの手を取ると、まるで吸い寄せられるかのように顔を近づけ、傷口に唇を押し当てた。彼の中に渦巻く血の渇きが蘇り、恍惚とした顔で呟く。
「欲しい……」
「…………ネフィーテ、様」
求められているのはオーガスタではなく、人間の血だと分かっていても、彼の瞳に浮かんだ熱に、ぞくりと全身が痺れる。
手のひらに触れる、肌と粘膜とも違う暖かな感触。触れられている場所が異様に熱く感じた。
彼は舌で傷口を舐め、血を飲み込んだ。その度に、彼の喉仏が妖しく上下するのを見たオーガスタの心臓は加速し、思考が白く霞んだ。
「私なんかの血でいいなら、いくらでも差し上げますから」
その言葉が、ネフィーテの欲望を突き動かす。
ネフィーテは牙を立て、今にもオーガスタの手に噛みつこうとした。しかし、牙が皮膚に触れる寸前、彼ははっと我に返って、オーガスタのことを突き飛ばした。
「わっ――!?」
オーガスタは尻餅をつく。一方のネフィーテは、苦しそうに声を上げた。
「早く出て行きなさい。私は誰も、傷つけたくない……っ!」
それは彼の悲痛な心の叫びだった。ネフィーテばずっと、誰ひとり傷つけまいと、自分の心を傷つけながら、吸血鬼としての自分と戦い続けてきたのだ。
そのとき、オーガスタの後ろから靴音がして、聞き慣れた父の声が降り注いだ。
「信じられない。吸血衝動に抗っているのか……? 彼は……」
「はい。自分の弱さと戦う彼が、怪物に見えますか?」
「…………」
ダクラスは何も答えなかった。代わりに、彼はテーブルの前まで歩み寄り、空のグラスを用意した。そして、オーガスタに問う。
「人の血を飲めば、まともに会話ができるんだね?」
「はい。あの症状は、人間の血をしばらく飲んでいないと起こるものなので。あの……一体何をするつもりですか?」
すると彼は、腰に差していた剣をするりと引き抜き、グラスの上に手をかざして、剣で自らの手の甲を刺す。グラスの中に赤い液体が静かに注がれていくのを、オーガスタは呆然と眺める。
ダクラスは自分の血が入ったグラスを、ネフィーテの口元に押し当てた。
「飲んでください。もし拒めば、無理矢理にでも飲み込ませますよ」
「…………」
そう言って、彼はグラスを少し傾ける。ダクラスに促され、ネフィーテは閉じていた唇を開き、血を飲んだ。
次第に目の光が収まり、伸びていた牙も縮んでいく。
吸血衝動が治まったあと、ネフィーテは申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「おふたりとも、お騒がせして申し訳ありません。もう、平気です。いけません、血が出ていますね。早く手当てをしなくては」
ネフィーテはダクラスの手の傷を見て、心配そうに手を伸ばす。しかし、ダクラスは手を背中に隠し、ネフィーテの心遣いを拒絶した。
「構いません。すぐに治りますから」
「そうはいきません。ちょっと待っていてください」
ネフィーテは立ち上がり、別の部屋から救急箱を取り出してきた。そして、きわめて丁寧な手つきでダクラスの手を治療し、包帯を巻いていく。父の治療が終わると、オーガスタを呼んだ。
「お嬢さんもこっちに来てください。菌が入ると大変ですよ」
「は、はい」
オーガスタは言われるがままに椅子に座り、手当てをしてもらう。清潔な水で傷口を清め、軟膏を塗り、包帯を巻いてくれた。手当ての合間、ネフィーテは言った。
「君は私の正体を、知っていたんですね」
2,013
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