【完結】婚約者様、王女様を優先するならお好きにどうぞ

曽根原ツタ

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 ローテーブルの上に置かれたカップに、こぽこぽと紅茶が注がれていく。その様子を見つめながら恐縮していると、ネフィーテが言った。

「そう遠慮せず、ここでは気楽に過ごしてください。幸い、人の目もありませんから、君の勤務態度を誰も咎めたりしないですよ。はい、紅茶です。砂糖は要りますか?」
「ふ、ふたつ」
「分かりました」

 彼の気遣いに甘えて、「砂糖は自分で入れられます」という言葉は喉元で留めた。
 ちゃぽん……と水面に沈んでいく角砂糖を眺めていると、彼が言った。

「本当に君が私の元に来てくれるとは、驚きました。剣がお上手なんですね」
「そ、そんな……。全然、大したことないです」

 ネフィーテに褒められると、つい舞い上がってしまいそうになる。緩みかけた口角を抑えながら、顔を横に振って否定した。

「どうか、暇人の話し相手になったと思って、気楽に過ごしてください」
「で、でも私は、ネフィーテ様の騎士です。ここには仕事をしに来ているので……」
「どうせ、私を守るのではなく、監視するように命じられているのでしょう。ただ眺めているだけでは退屈でしょうから。さ、どうぞ」
「…………」

 図星を突かれて、言葉を返すことができなかった。ネフィーテは、オーガスタが何か言うまでもなく、自分の立場をよく理解しているようだった。

 しかし、オーガスタがここにいるのは、彼を守るためでも見張るためでもない。そもそもネフィーテは、オーガスタを含む人間をはるかに上回る強靭な肉体を持っており、護衛など必要としていない。そして彼は、監視が必要なほど凶暴な性格でもない。

 ふとオーガスタは、この人生で初めて目にしたネフィーテの姿を思い浮かべる。

 人前ではこうしてにこにこと人好きのする笑顔を浮かべているが、ひとりきりで星を見ていた彼の姿には、壮絶な孤独感が漂っていた。

(私はただ、この人の孤独を癒して差し上げたい)

 何かしてあげたいと思うのはおこがましいのかもしれないが、切実な願いだった。
 オーガスタは、ネフィーテが淹れてくれた紅茶を飲みながら言った。

「分かりました。ではネフィーテ様も、どうか私に気楽に接してください」
「そうさせてもらえます。紅茶、熱くないですか?」
「はい。大丈夫。ん……美味しい」

 美味しいのはもちろん、懐かしくて、安心する味がした。

「よかった。ああ、そうだ。このあと私の住まいを君に案内するので、自由に使ってください」
「……ありがとうございます」



 ◇◇◇



 紅茶を飲んだあと、ネフィーテは塔の中の部屋をひとつひとつ丁寧に紹介してくれた。ネフィーテは仮にも王族でありながら、塔には使用人がひとりも仕えていない。だが、綺麗好きなネフィーテが頻繁に掃除をするため、隅々まで清潔に保たれている。

「私には時間だけはたっぷりあるので、毎日色んなことをして過ごしています。料理、掃除といった家事から、読書、音楽、絵画まで。オーガスタは絵を描くのは好きですか?」
「いいえ。絵とか芸術は、あんまり興味がなくて」
「ふ。そうですか」

 図書室や音楽室、浴室などを案内されたあと、最後に連れて行かれたのは――画室だった。画材道具が大量に置かれ、キャンパスが無数に積み重なっている。絵だけではなく、様々な彫刻も置いてあった。
 どれも、プロなのではないかと思うほど素晴らしくて、オーガスタの目を惹いた。

 ネフィーテは、森の中の花畑が描かれたキャンパスを手で撫でながら言う。

「人があらゆるものを失っても、想像力だけは最後まで残るのだと思います。私には多くの制約がありますが、唯一、想像することだけは許されてきました」
「花が……お好きなんですね」
「はい。こんなに美しい花畑がどこかに存在していたら、ぜひ見に行ってみたいですね」

 ネフィーテの絵には、花畑が描かれていることが多い。彼の想像の中にある花畑は、明るい色彩で彩られていて、暖かみがある。断崖絶壁の上にあったり、湖畔に広がっていたり、人里の近くにあったり、場所は様々だ。
 ノエがここに住んでいたときも、ネフィーテはよく空想上の花畑を絵に描いていた。

 ふと、広い画室の中で、布がかけられた大きな膨らみを見つけた。

(あれは……なんだろう)

 その周りには膨らみがいくつかあり、何かが隠されているようだった。清潔な部屋にそぐわず、その部分だけ埃を被っている。まるで、意図的に放置しているかのようだ。

 気づくと、足がそちらに向いていた。

「あの、これは……」
「――触らないで」

 伸ばしかけたオーガスタの腕を掴み、ネフィーテが怒気を含んだ口で言った。しかしすぐに、はっと我に返った様子で、オーガスタの手を離した。

「すみません。これは、私が見たくないものなんです。見ると辛かった記憶まで蘇ってしまいそうで」

 灰色の布の下には何が隠されているのか、オーガスタには分からなかった。
 しかし、ネフィーテの声に、いつなく寂しさが馴染んでいるのは伝わってきたのだった。
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