【完結】婚約者様、王女様を優先するならお好きにどうぞ

曽根原ツタ

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 オーガスタがネフィーテの近衛騎士になってから、三ヶ月が経とうとしていた。近衛騎士といっても名ばかりで、ネフィーテとたわいもない話をして日々を過ごしていた。それはまるで、貴族令嬢ではなく元孤児だった少女ノエに戻ったような、穏やかな毎日……。

 しかし、毎日絵を描き、ピアノを弾き、本を読み、ずっと同じことの繰り返しだ。オーガスタにとって、ネフィーテと一緒にいられること以上に嬉しいことはないが、彼が退屈ではないかと時々思う。

 ネフィーテは吸血鬼らしく夜型の生活をしている。だが、日光が苦手とはいえ、日差しの対策さえすれば、日中に外に出かけることができる。
 ネフィーテが好きな花だって、いくらでも見ることができる。
 けれど彼は、王宮の敷地から一歩も出ず、塔の中で暮らし続けている。

 塔の中にはお互い以外に話す相手がいないため、三ヶ月という短くも濃密な時間で、信頼関係を築いていた。

 日が暮れたころが、オーガスタの出勤時間だ。いつものように扉の外鍵を開けて、ノックをするが、返事が返ってこない。

(まだ眠っていらっしゃるのかも)

 ネフィーテが寝ている可能性を考えて、そっと扉を開く。
 すると彼は、出窓に腰掛けて、窓から星を眺めながらグラスを傾けていた。

 美男子が酒を飲んでいるだけなら絵になるが、彼は吸血鬼であり、飲んでいるのは――人間の血だ。改めて、ネフィーテは人とは違う存在なのだと知らしめられる。神秘的で、艶やかで……近寄りがたい。

 扉が閉まる音に気づいて、ネフィーテがこちらを振り向いた。

「オーガスタ……」
「あ、あの……お邪魔します」

 ネフィーテは出窓から降り、血が注がれたグラスを背に隠す。他方、オーガスタも見てはいけないものを見てしまったような気分になって、目を逸らした。

「見苦しいものを見せてしまいましたね」
「気にしないでください。わ、私は画室の掃除でもしてきますので。その……ごゆっくり!」

 ネフィーテは吸血鬼にそぐわず、人間に直接牙を立てて吸血することを嫌う。だから、各地の病院で特別に採取した健康な人の血を、新鮮な状態のまま王宮に輸送してきてもらっているのだ。
 彼は人の血を飲む姿を、頑なにオーガスタに見せようとしなかった。いつもこうして、オーガスタの勤務時間外にひっそりと飲んでいたのだろう。

 人が水を飲むのと同じように、吸血鬼は人の血を求める。彼にとっては自然なことであり、そして後ろめたいことでもあるのだ。



 ◇◇◇



 オーガスタはネフィーテを置いてリビングを出て、画室に移動した。ネフィーテがいつも清潔な状態を保つように管理しているため、新たに掃除するような箇所は見つからない。一点、布が被っている場所を除いて。

 何もしない訳にはいかないので、とりあえず、ほうきを引っ張り出してきて床を掃除することにした。

 イーゼルの足元を掃きながら、キャンパスを眺める。
 ネフィーテはまた新しく花畑の絵を描いていた。風車付きの民家の近くに広がる――紫色の花の絨毯。オーガスタに花を愛でる趣味はないが、ネフィーテが描く綺麗な景色は好きだ。ネフィーテはこの紫色の花を描いている。

「綺麗……」

 思わず感嘆の息を漏らし、ほうきを動かしていた手を止める。

 そして、前世でオーガスタがノエだったときのことを思い出した。

『先生みたいに、全然上手く描けない……』
『ノエの絵だって上手ですよ』
『嘘ばっかり。僕は先生みたいな才能がないんです。どうせ練習したってだめなんだ』

 ノエはネフィーテに憧れて絵の練習をしていた。けれど、筆をまともに取ったことがないノエでは、持ち方すらおぼつかず、到底ネフィーテのようには描けなかった。ネフィーテは絵を描くこと以外もなんでもできた。公用語の発音も綺麗で、文字も綺麗。歴史や政治のこと、色んなことに詳しくて、ピアノや料理もできる。ノエにとってネフィーテは憧れの的だった。彼に少しでも追いつきたくて、努力していた。けれど少しも彼に近づけている実感はなくて。

 紫色の拙い一輪の花の絵を見ながら、しゅんと肩を落とす。

『誰だって、最初から上手くはいかないものですよ。私もそうでした』
『先生も?』
『はい。何事も、根気よく続けてみることが大事です。才能というものも、努力を重ねて成果を出した人に対してついてくる言葉なんじゃないでしょうか。でも――』

 ネフィーテは幼いノエの頭をぽんと撫で、『私はノエの絵、好きですよ』と優しく囁いた。ノエは幼いながら、彼の囁きに胸を高鳴らせたのだった。

 懐かしい記憶を思い出しながら、ネフィーテが描いた花畑を指先でなぞる。

 そして今度は、イーゼルの奥にある布がかかった場所が目に止まった。

(ネフィーテ様を見たくないものだって言ってたけど……あの布の下、何があるんだろう)

 勝手に覗くという野暮なことをする気はもちろんないが、気になる気持ちはある。すると、そんなオーガスタの心を見抜いたような声が、すぐ後ろからした。

「気になりますか?」
「うわっ!? ネ、ネフィーテ様!?」

 急に声をかけられたオーガスタはびっくりして肩を跳ねさせ、振り向いた。
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